●孝明天皇陛下の遺志(真面目にこの遺志を受け継いでいる人は、今、現在いるだろうか)

 嘉永六年(1853)六月、アメリカ東印度艦隊司令長官ペリーの率いる四隻の黒船が、対日戦争をも辞さずとの恫喝的言辞を以て幕府に開国要求を付き付けた其の瞬間から、西欧列強による「植民地化のコースの最後に取り残された」鎖国日本の運命は、大きく転回することになった。これを起点として、全国に澎湃(ほうはい)として沸き起った攘夷論の渦は、国家の存立を根底から揺るがしたこの未曾有の国難に対して、断固独立を堅持しようとした、民衆の抵抗運動に他ならなかった。
 けれども、幕末の攘夷運動の果したこの歴史的意義は今日不当に閑却され、頑迷固陋の徒によるいたづらな排外運動とばかり、往々にして喧伝され、誤解をされてゐたのであり、ただ国民の士気を鼓舞し、十分力を蓄へてから開国に転ずる策に出たまでの事であった(梅田義彦『皇政復古の源流』、村松剛『醒めた炎』)。村松氏によって、「白人を一途に感覚的に嫌いぬいていた」(同上)と形容された孝明天皇のやうな方とても、その旨としたところは然く単純に「感覚的」なものではない。
 孝明天皇陛下の攘夷論は、遠く印度の運命に想いを馳せながら、欧米による日本植民地化の回避といふ一点の工夫に発し、又其処に尽きてゐたのであって、西洋人への生理的な「毛嫌い」といふやうな浅薄な次元のものでは決してなかった事を、天皇陛下の時局御軫念の勅書(所謂「御述懐一帖」、文久二年五月十一日付)は、或いは若き将軍徳川家茂に下された勅書(元治元年正月二十一日付)は、明示して余りあるからである。

 …惟に因循姑息、旧套[旧来のやり方]に從ひて改めず、海内[国内]疲弊の極[結果]、
 卒(つひ)には戎虜(じゅうりょ)[外国人]の術中に陥り、坐しながら膝を犬羊[西洋人]に
 屈し、殷鑑遠からず、印度の覆轍[二の舞]を踏まば、朕實に何を以てか先皇在天の神
 靈に謝せんや。若し幕府十年を限りて、朕が命に従ひ、膺懲の師[懲らしめの軍隊]を作
 (おこ)さずんば、朕實に斷然として神武天皇神功皇后の遺蹤(いしょう)[前例]に則り、
 公卿百官と、天下の牧伯[諸侯]を師(ひき)ゐて親征せんとす。卿等其(それ)斯(この)
 意を體(たい)して以て報ぜん事を
  …然りと雖も無謀の征夷は、實に朕が好む所に非ず。然る所以の策略を議して、以て
 朕に奏せよ。朕其(その)可否を論ずる詳悉、以て一定不抜の國是を定むべし。(中略)
 嗚呼、朕汝と與(とも)に誓て哀運を挽回し、上は先皇の霊に報じ、下は萬民の急を救は
 んと欲す。若し怠惰にして、成功なくんば、殊に是朕と汝の罪なり。(徳川家茂に賜はれる
 勅書、同上)

 公武合体(註1)とは、この孝明天皇の身命を擲(なげう)った驚くべき御覚悟に打たれた将軍家茂が、雄藩各藩主が、各藩士が、そして志士が、幕府といふ其れまでのパラダイム(旧枠)を乗り越えて、次々に天皇と直結していった、日本国の精神的統合の全過程をば、指して謂う言葉なのである。
 文久二年(1862)12月、将軍家茂は書を天皇に奉り、二百数十年来の幕府専断の誤りを公式に謝罪し、超えて三年三月には、實に二百三十年ぶりに上洛(入京)の上、君臣の名分を正して天皇に帰順した。又、これに先んずる文久二年十月から十二月に掛けて、雄藩各藩主が(長州藩・土佐藩・筑前藩・因幡藩・宇和島藩・安芸藩・津軽藩・肥前藩・阿波藩・岡藩・肥後藩・備前藩・津和野藩)、天皇の内勅を奉じて続々京に至り、やはり天皇に忠誠を誓ってゐる様を見るのは壮観である(『孝明天皇紀』)。謂はば大政奉還の5年も前に、既に事実上の天皇政府が形勢されつつあったのであり、この事は。もっともっと注目されて然るべき事と考へる。
 将軍・藩主のレベルに止まらぬ。文久二年十二月、天皇は薩摩・肥後・筑前・安芸・長門・肥前・因幡・備前・津・阿波・土佐・久留米十二藩士を学習院に召し、京都内外の守備を策問し、或いは超えて文久三年二月、草莽微賤の者とても、学習院に詣(いた)りて時事を建言することを許可された。「非蔵人日記」には次のやうにある(書き下し文に改めた)。

 …先年來有志の輩、誠忠報國の純忠を以て周旋致し候儀、叡感[天皇の思召]斜めなら
 ず[一方(ひとかた)でなく]候、之に依って猶(なほ)又言路[意見具陳の方途]を洞開し
 [新たに開き]、草莽微賤の言と雖も叡聞に達し[天皇のお耳に入れ]、忠告至當の論は
 淪没壅塞(りんぼつようそく)せざる様[埋没して表に出ないことのないやう]との深重の思
 召に候間[ので]、各韜[包み隠さず]忠言は學習院へ參上(参上)し、御用掛の人々へ揚
 言[言上]すべく仰せ出され候間、亂雑[混乱]の儀これ無き様相心得、申し出され候べき
 事。(『孝明天皇紀』第四巻)

 全国の草莽志士が、これによって如何に感奮したか、思ひ半ばに過ぐるものがあろう。……
 かやうして孝明天皇は、驚くべき指導力を発揮され、上は将軍から下は民間志士に至るまで、その心を御自から摑ませ給ひ、挙げてこの國を攘夷の線で纏め上げ、外国勢力浸透阻止の第一線に立たせ給ふたのであった。
…………
 もし幕末日本に天皇の在さずして、国論の四分五裂もものかは、独断でアメリカの開国要求に屈し、反対派を武力弾圧した幕府にこの国が引きづられるままだったとしたら、反幕勢力の存在は欧米列強による分裂離間策の、容易に乗ずるところとなったであらう。その結果は、これまでに見たインドや支那同様、植民地化への転落の道を辿ることは必至であった。 
…………
 こうした国家の分断と征服の危機回避のため、幕末政局の中心にあって一意専心、肝胆これ砕かれた孝明天皇の御事績を、今日、多くの維新史が全く見落してゐるのは不可解といふ他はない(明治維新は、基本的に孝明天皇陛下暗殺によって出来た革命政府だから、当然抹殺するだろう。だから、国家の破壊の元を作っている明治節の復興は断固して反対する。其れよりも孝明天皇節の復興でしょう!愛)。
…………
 あさゆふに民やすかれと思ふ身のこころにかかる異國のふね(孝明天皇御製・安政元年)
 澄ましえぬ水にわが身は沈むともにごしはせじなよろづ國民(くにたみ)(同上・御詠年不祥)

『祖國と青年』 平成7年11月号 「抹殺された「大東亜戦争」(11)」から

註1
原文では「明治維新」と書いているけれど、これは「公武合体」の内容である。上の勅語の内容を読むと理解出来ると思うが、無謀な攘夷運動は、孝明天皇陛下自体が反対していた事を忘れないで欲しい。長州の態度は基本的に孝明天皇陛下は嫌っていた事も忘れないで欲しい。10年を目途に軍隊を作ろうと考えていたのである。上の内容を良く読めば分かると思うが、神の霊に従って軍隊を作ろうとのであるが、この意味がどういう意味か理解していない藩が多かった事を忘れないで欲しい。要するに今の日本もそうだけど、神の霊の存在を否定する無神論を信じ、日本の守護神を無視して行動を取る輩の上司が多かった事を云う。そして、神の霊を否定して、孝明天皇陛下に対して謀反を考え、南朝の天皇だと信じて立てようと密かに悪巧みを考え、天に対して反乱する愚か者がいて、その愚か者が、主君の徳川家茂と孝明天皇陛下を暗殺して革命を起こしたのが明治維新である。前、千乃先生が、明治維新が革命であると云われたが、最初は理解出来なかったが、孝明天皇陛下と徳川家茂が暗殺されたならば、革命でしょう。大東亜戦争の時に「神風」を吹かなかったのは、今の朝廷が、革命を起こし神を否定した賊人の朝廷であるから、神が無視したかもしれない。当時、天上界の天皇陛下の守護神(正統な皇室の陽成天皇陛下の子孫の血族の千乃先生の一族)は加賀藩にいたからである。伊勢神宮のお札の奇蹟から発した「ええじゃないか」運動は、もしかしたら悪魔ダビデの悪霊の扇動かもしれない。明治維新を起こした賊者の後ろには阿片戦争を起こして財を築いたジャーディン・マセソン商会の長崎代理人でかつ英国の悪魔教団のフリーメーソン所属のトーマス・ブレイク・グラバーが中心になって行動を起こしたのである。阿片戦争の賊人によって引率された薩長軍団の存在は、天上の霊や孝明天皇陛下が許すと思うか。だから暗殺されたのである。日本にとっては、孝明天皇陛下は悲劇の存在である事を忘れないで欲しい。万世一系の天皇陛下の存在を信じている日本の伝統保守系の人々は、明治維新については目を覚ます必要があるでしょう

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