孝明帝の崩御については、毒殺説が広く流布されているが、私は、それがどのような根拠によっているものであるか、詳しくは知らない。だが、私は偶然の事情によって、それが毒殺ではなく、刺殺ではなかったろうかと憶測するものである。
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私の母方の祖父土肥一十郎と号し、幕末の頃、京都松原に医業を開いていた。医は春耕一代の業ではなく、遠く十数代前からの家業であり、多く堂上の衆を患家としたらしい。春耕の時代には、閑院宮家の侍医であった。
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その春耕の書き残した日記の残片を、私は中学時代に見つけ出し、読めなくて、父に読んでもらったのであるが、孝明帝の条に至って父が顔色を変じ、
「これは大変な事だ。誰にもこんな事を話してはいけないよ」
と念を押し、判読を中絶してしまったのである。
そして、その後再び読み返す暇もなく祝融の災(火災)(この火災の原因は何であろうか。霊現象か又は人災か。オーム真理教の事件を思い出して欲しい。テロ・サリン事件の発覚後、オーム真理教と深い関係のあるロシアのある大学が火災になった事を思い出して欲しい。つまり証拠隠滅の為である!愛)に遭って、その手記は灰燼に帰してしまった。
それによれば慶応2年(1866)12月某日夜半過ぎ(この年月は父の誕生と同年同月であり、その手記を読みながら、父はそう言ったので、その時の父の口調まで記憶にある)祖父春耕は突然、激しい門戸を叩く音に夢を破られた。家人が出てみると、閑院宮家からの急使で直ちに伺候せよの事である。
何らかの椿事によって負傷者の生じたものと考えた春耕は、所要の器具を用意し、慌しく迎えの駕籠に乗った。ところが、意外にも駕籠の行く方向が、いつもと違っているようなので、小さな覗き口の垂れを上げて外を見ようとすると、外部からしっかりと閉めつけられている。駕籠際について小走りについてくる者に不審を尋ねても何の返事もない。
幕末擾々たる折である。不安の念にかられながらも自分の職業を考え、何人かが秘密の治療を必要として宮家の名を騙ったのであろうと判断した。
駕籠はやがてどこかの門内に入ると見えて地下に下ろされると、思いの他城代な玄関である。そこに待ち受けていたのが、宮家において数回顔を合わせた事のある公卿の一人であったので、春耕はホッと一安心した。
しかし、その公卿は春耕に一言の質問も許さず、手をとる如くにして長い廊下を導いていった。幾度か廊下を曲がるうち、それが明らかに御所である事を知って愕然とした時、春耕は広い座敷の奥の小屋に導き入れられた。見ると座敷の中が5寸程高くなっており、そこに寝具が敷かれ、40には未だ若干足りないと思われる総髪の貴人が横臥していた。その周りに5,6人の人が、心も空に立ち騒いでおり、傍らに、熟知の同業者が顔面蒼白となって座している。
医師としての職業本能から物問う間もなく、横臥する人の傍らににじり寄ってみると、白羽二重の寝衣や、敷布団は勿論の事、半ば跳ね除けられた掛布団に至るまで、赤黒い血汐にべっとり染まっている。横臥している人は脇腹を鋭い刃物で深く刺され、もはや手の下し様も無い程、甚だしい出血に衰弱しきって、只最後の呻きを力弱く続けているに過ぎない。
春耕は仔細に調べた上、絶望の合図をした。絶対に口外を禁止された上、再び駕籠に厳しく閉じ込められて自宅へ戻された、春耕が手記を認めたのはその直後であるらしい。甚だしく興奮した筆到で、はっきりと上記貴人を「お上」と断定している。彼の連れて行かれた所が、まことに御所であるとすれば、周囲の人々の態度から見て、それ以外ではあり得ないと見たのであろう。
又、かの傷は恐らく鋭い槍尖で斜下方から突き上げられたものと断定している。と同時に、自ら疑問を提出して、当今いかに乱世の時代とはいえ、天子が御所内においてそのような目に遭う事があり得ようか、もしあり得べくんば、後架(便所)に上った後、縁側で手を清めている時、縁下に潜む刺客が下から突き刺したものであろうか。到底思議すべからざる椿事、畏るべし畏るべしと結んでいた。
孝明天皇は毒殺ではなく「刺殺」だという説もある。閑院宮家の侍医に、菅修次郎と云う中国人の医者(本名・菅之修)がいる。法制史学の大家・瀧川政次郎氏によれば、この菅が、何者かに急に呼び出されて、御所とおぼしき場所で瀕死の男を診察した。瀕死の男が何者かは一切告げられなかったが、菅が診た時点で、男は「脇腹を鋭い刃物で深く刺され、最早絶望状態」だったと日記に書いているというのである。
もう一つ、菅と同職の閑院宮家の侍医の話がある。土肥一十郎(春耕)と云う、作家・南条範夫氏の母方の祖父で、この春耕も急遽呼び出されて瀕死の男も診察した。その屋敷には、「熟知の同業者が顔面蒼白となって座して」いたというから、或いは先の菅修次郎だったのかもしれない。春耕が横たわっている男ににじりよって見ると、「白羽二重の寝衣や敷布団は勿論の事、半ば跳ね除けられた掛布団に至る迄、赤黒い血潮にべっとり染まっている。横臥している人は脇腹を鋭い刃物で深く刺され、最早手の下しようもない」状態だった。そうした記述が、今は失われた春耕の手記に記されていたと、南条氏は書いているのである。
又、幕府御小姓番頭だった蜷川相模守の子孫の蜷川新氏も、驚くべき証言を残している。
「元来は実業家ではあるが、後に維新史料編纂委員をしていた植村澄三郎と云う人がいた。その人が私に『それ(孝明暗殺)は本当だよ、岩倉がやったのだ、岩倉は二度試みている』といった事がある。岩倉は自分の妹(義妹の堀河紀子)を宮中に入れ、女官にしておいて、天皇を風呂場で殺したと云う。更にその妹はその直後に薩藩の浪人によって殺されたと云う事である。岩倉は死ぬ時、『俺の家は女で祟るぞ』といったと云う話があるが、この事を指すのであろう。
又植村氏は若い頃、京都のある未亡人の家に行った所、菊の紋章に付いた置物等を持っているので、その理由を問うた所、『自分の亡夫は医者であり、孝明天皇が亡くなられる際、その傷付いた体を診察した為、記念として頂戴したものだ』と語ったと云う事実を私に語った事がある。」
作家の村雨退二郎氏は、元御所の医師の山本正文の孫から、こんな秘話を聞かされた。
「毒殺と云うのは誤りで、本当は天皇が厠から出て手を洗っておられる時に下から手槍で突き上げた者があり、天皇は急所を刺されて其処に倒れ、其れから縁側を這って居間に帰られた。縁側は血だらけになっていた。自分(山本正文)が呼ばれて駆けつけた時、次の間に二十五、六の女官らしい女が、襖の蔭から天皇の御様子を伺っていたが、自分の方を見てニヤリと笑ったと思うと、其の後どこかへ行ってしまった」
サトウは、事柄の性質上、孝明天皇の「毒殺」を教えてくれた「ある日本人」の名前を記録していないし、サトウがそれを聞いたのは、天皇崩御の「当時」ではなく、「数年後」、即ち倒幕勢力が政権を獲得したあとである、明治年間の事である。因みに、サトウの日記は、この「毒殺」云々について、一言もふれていない。
「慶喜登場 遠い崖ーアーネストサトウ日記妙4」朝日新聞社 萩原著から
アーネス・サトウは、「孝明天皇陛下が刺殺された」事実を隠す為に、毒殺の偽情報を流し、フリーメーソンの本部である英国が、伊藤博文を使っての刺殺の事実を隠す為に行ったでしょう。