『歴史読本』平成3年 9月号臨時増刊 No554
ロシア革命を演出した男達ークーン=ローブ商会と外交問題評議会(CFR)

第一次革命の失敗でロシアを追われたレーニンやトロツキーは何故、復活したのか?
革命の背後に蠢く陰のの主人公達の正体とは?

●ロシア革命の始まり

 口々に要求を叫ぶ炭坑労働者の姿が映し出された。彼等の顔は一様に、黒く煤け汚れている。しかし…彼等の瞳は輝き、声も大きかった。映像が切り換わる。TVカメラはゴルバチョフ大統領の顔を拡大し捉えた。ゴルバチョフの表情には、くっきりと苦悩の色が浮かんでいる。
 ー衛星を経由して送られて来る映像を視ながら、僕は

 「曾ってロシア革命はこんなふうにして始まったのだろうか」

 等と考えたりしていた。
 日露戦争の配色が濃くなっていった時期に、ザカフカス地方の需要都市バクーで、石油労働者に依るストが発生した。バクーは露西亜有数の産業・文化の中心地の一つで、古くから石油の採取で知られ、1901年には全世界の産油量の過半数を占める国際的石油都市と成っていた。そして多数の民族から成る石油労働者達がロシア革命に於いて突出した役割を演じる事に為ったのである。だから…油田では無く、炭田と云う違いはあったにせよ、炭坑労働者のストを報じる映像を視た時に、「ロシア革命の始まり」を其処に重ね合わせたりしたのだった。
 彼の<ベルリンの壁>が崩壊した平成元(1989)年は、今世紀末の最も重要な分水嶺として記憶される事に為るだろうが(ならない。共産主義の主犯が捕まっていないから。たまたま自由主義国が、共産主義者の人権問題を厳しく追求したから、元々ソ連の国は国際金融財閥で出来た国であるから、世論を交わす為に身内を切っただけの話である!忍)、同じ年にソ連の各地で発生した炭田ストこそは、其の象徴的事態であった。ゴルバチョフの提唱したペレストロイカが炭田ストに代表される民主化運動を生み、そしてソ連に於けるあらゆる水準の民主化運動が東欧に波及して東欧革命を惹き起こしたーーと言えるだろう。其れ程迄に、例えばカザフ共和国カラガンダ炭田のスト等は、ロシア革命の始まりを幻視させる者だった。
 バクーの石油労働者のストを契機とする1905年の第一次革命に続き、プチーロフ工場での同盟罷業(ストライキ)、<血の日曜日>事件、戦艦ボチョムキン号の水兵反乱…を経て、ロシアは更成る混沌状況に突入して行く。モスクワの武装蜂起、再びバクー石油労働者のゼネスト、そして王朝を陰から操っていたラスプーチンが暗殺され、ロシアはいよいよ第二次革命へと向かって行く事になる。第二次革命は<2月革命>と<10月革命>から為るが、一連の革命運動の後背では巨大で不気味な黒い影が蠢いていた。
 第一次革命が屈折した結末を迎え、レーニンとトロツキーがロシアを追放されたのは良く知られた事実だ。では、其の二人は第二次革命が動き出すまで、何処に居て何をしていたのだろうか。レーニンはスイスを拠点として、戦時下の欧州を掛け巡っていた。そしてトロツキーは、米国合衆国のニューヨークに居た。1917年3月にトロツキーは275人の同士と共にクリスチャニア号でニューヨークを離れるが、最初の寄港地でカナダ政府の手に依って逮捕されてしまう。此の時、トロツキーを自由にすべく動いた一握りの男達がおり、其の男達を追うとロシア革命の背後に横たわる巨大な影の一部が垣間見えて来る。

●陰の国の男達

 英国の男達がウィリアム・ワイズマン卿を通じて又米国の男達がハウス大佐を通じて、各々カナダ政府にトロツキーの釈放を要求した。ワイズマン卿は第一次大戦に米国を参戦させるべく英国が送り込んだ人物であり、ハウス大佐はテキサスで歴代知事の助言者として暗躍した政治家だった。
 ハウスは1912年にウッドロウ・ウィルソンの大統領当選を助け、以後ウィルソンの最も信任厚い助言者と為り、ウィルソンに「もう一人の私」と迄呼ばれるまでになる。第一次大戦に際して大統領特使として渡欧、和平工作を切り回し、合衆国参戦後は講話計画の立案や休戦交渉で主導権(イニシアティブ)を握ったのもハウスだった。
 ところで合衆国第28代大統領ウィルソンは、<新しい自由>を標語に掲げ、関税引き下げ、連邦準備法に依る銀行制度改革、クレートン法と連邦取引委員会に依る独占規制…等を行った。敬虔な長老派の牧師の家に生まれた彼は、同時にメキシコの反革命を工作したりしている。此のメキシコ工作で暗躍したのデュポン財閥で、デュポンは第一次大戦の兵器輸出・融資、大戦後の欧州融資に就いても、ウィルソンから託されていた。
 さて、そんなウィルソンから「第二の私」と迄呼ばれたエドワード・マンデル・ハウスは1858年、米国南部に生まれた。英国の金融資本と深い繋がりを持つ家系で、彼は英国で教育を受けている。ハウスが後に米国に於ける英国の権益代表者の如き顔を有する様に為るのは、そもそも生まれた時から用意されていた事なのかもしれない。
 ハウスは軍隊経験が無いにも関わらず”大佐”と呼ばれて、又そう呼ばれる事を好んでいた。英国で教育を受けていた時代に一体何があったかは深い覆い(ヴェール)に包まれているが、米国に戻ったハウスはテキサスの石油マフィアと欧州の金融資本とのを連絡(パイプ)役を担う様に為って行く。
 ハウスの周辺を捜査して行くと、幾つもの不思議な顔にぶつかる事に為る。其の一人がパウル・モーリッツ・ワールブルクである。1798年に設立されて独逸の大銀行は発展したワールブルク家の血を引く彼は、1868年にハンブルクで生まれた。兄のアビイ・ワールブルクはイタリア・ルネサンス精神史の研究家として名高く、『薔薇十字の覚醒』等優れた著書を残しルネサンス史を書き換えたフランシス・イェイツ女史は、ロンドンに設立されたワールブルク研究所で活動していた人物である(明らかに、神の系列を否定した歴史書である。。
 さてパウル・モーリッツは兄と違い、美術研究では無く経済をーー其れも生々しく時に醜悪でさえある国際銀行経済を、自分の進む道に選んだ。1894年から数年間、ワールブルク商会の社員と為る。此のクーン=ローブ商会は1867年、エイブラハム・クーンとソロモン・ローブの義兄弟に依ってニューヨークに設立された銀行だ。パウル・モーリッツはローブの娘ニーナと結婚し、所謂東部金融資本の世界と親密な関係を築く事になる。

●クーン=ローブ商会の謎

 19世紀末から20世紀前半に掛けて、投資銀行であるクーン=ローブ商会を中心にクーン=ローブ財閥が形成され、モルガン財閥と並ぶ程の勢いを誇った。同商会は専ら鉄道債権を扱う事を生業としていたが、ユニオン・パシフィック鉄道の支配権を巡ってはモルガン商会と熾烈な闘いを展開した事で知られる。
 此のクーン=ローブ商会の経営陣を眺めてゆくと、ヤコブ・ヘンリィ・シッフと云う人物にぶつかる。シッフは1847年、独逸のフランクフルトに生まれている。18歳の時に米国に渡り、1865年にニューヨークでシッフ・アンド・カンパニー社を設立した。 クーン=ローブ商会はシッフ社と合併してから急速な成長を遂げるのだが、シッフがクーン=ローブ商会の経営陣を手に入れる時の資金は、ロスチャイルド家から提供されたものだったと言われている。其れ程シッフとロスチャイルド・ファミリーとは深い関係にあった。因みにシッフはローブの女婿であり、パウル・モーリッツの弟フェリックスは、シッフの娘フリーダと結婚している。
 連邦準備制度はアメリカ合衆国独特の中央銀行制度だが、此はパウル=モーリッツとシッフーー即ちクーン=ローブ商会の幹部の手になる”名作”である。米国の金融政策を決定したとされる連邦準備制度は、実は一握りの銀行家達に依って支配されていた。クーン=ローブ、モルガン、ロックフェラー……がパウル・モーリッツの天才的頭脳に其の後の運命の一部を委ねた結果なのである。
 扨、事ほど左様にアメリカ合衆国の暗部に於いて重要な位置を占めたクーン=ローブ商会は、ロシア革命に於いても極めて特異な地位を占める事になる。クーン=ローブ商会の経営者の一人であるヤコブ・シッフは敬虔なユダヤ教徒(此の認識が大きな過ちなのです。敬虔なユダヤ教徒は、外国では敬虔な基督教徒を指しているのです。中央亜細亜ではイスラム教徒を指しているのです。日本では、正しく行っている日本神道を指しているのです。其れは伊勢神宮崇拝者を指しているのではなく、徳島県の剣山の劔神社を大事にしている人達を指している。そしてイスラエル国家を建設した人々は敬虔なユダヤ教徒と云う表現は過ちで、悪魔ダビデ教徒なのです。だから、ロシア革命の時に6千万人を虐殺する事が出来たのです!忍)で、ロシアのユダヤ人迫害[此の表現も可笑しくて、ロシアは悪魔ダビデの戦略悪魔の法タルムード)から自己防衛の為に行動を取っただけの話なのです。但し、日本の立場から考えると、ロシアのイワン皇帝の政治は、ローマ帝国ネル皇帝又は秦の始皇帝の支配と同じで非人間的支配の悪魔王国の一つである!忍]を声高に弾劾し、ロシアへの憎悪から日露戦争の時には対日借款を実現させる為に努力している。そんな彼がロシア革命に資金援助を行ったのは、至極当然な事だったのかもしれない。”伝説”に依ればシッフは、クーン=ローブ商会から2千万ドルもの巨費をロシア革命に提供したばかりか、革命後のーースターリンに依る第一次5ヶ年計画も支援していたと云う。
 大恐慌以後はクーン=ローブ財閥も支配力を次第に失い、現在は同じ独逸・ユダヤ系の投資銀行レーマン・ブラザーズ社と合併している。

●英国側の人物

 トロツキーを救出すべく動いたハウスはパウル・モーリッツと親しく関係にあり、当然クーン=ローブ財閥とも親しい関係にあった。第一次大戦後のパリ講話会議のテーブルに就いたのはハウス、パウル・モーリッツ、そしてアルフレッド・ミルナー卿だった。ミルナーも又ハウスと盟友関係を結んでいた人物で、彼は英国の奥の院に棲んでいた。彼はロシア革命の最中にペテルブルグに居て、ペテルブルグの銀行家達の間を往復して”会計主任”として働いていた。此の時ミルナーはロシア革命の為に2千百万ドルを調達したと云われている。
 ロスチャイルド・ファミリーの”執事”とも指摘されるミルナーは、ロシア革命が成功すると今度は同家の世界に於ける権益を保証する為に、秘密円卓(サークル)の創設に取り掛かる……一説には<円卓>創設が先で、ロシア革命は此のサークルに依って立案され実現化されたとも言われる。
 此の円卓(サークル)は、ロスチャイルド家と深い関係にあったセシル・ローズの意志を継ぐものでもあった。帝国主義者・植民地主義者として知られ、南アフリカ鉱山の支配者であったローズは、1853年に英国のハートフォードシャーに生まれた。1870年になるとダイヤモンド・ラッシュに沸く南アフリカに、兄を頼って赴き、鉱山会社をつくって成功を収めた。ローデシアと云う地名は、彼のファミリー・ネームに因んで付けられたものである。
 ローズは南アフリカに渡ってから死ぬ迄に7通の遺言書を書いたが、其の第一遺言書は<秘密結社遺言書>として知られ、其処に彼は次の様に記している

 ーー全世界に大英帝国の支配を広める事…其の後、一切の戦争を不
 可能にする様な巨大な権力を創設し、そして人道上利益となる事を
 促進する事。

 植民地主義者が「人道」を云々するのは御笑いだが、彼の遺志が<円卓>を生む。ローズが夢想した権力組織とは、フリーメーソンとイルミナティを合体させた様なものだった。組織創設はロスチャイルドはミルナーに具体化を任せたのである。
 王立国際問題研究所と云うシンクタンクが<円卓>の前線基地であるのは暗黙の事実であり、同様に大英帝国の亡者達が合衆国の外交政策に影響力を行使する為の経路(チャネル)が外交問題評議会である。

●ロシア革命と云う始まり

 モルガン財閥及びロックフェラー財閥と深い関係にある外交問題評議会(CFR)は、1919年創設された。曾って外交問題評議会の一人は

 「CFRの公式的創設の首席代理人はハウスであり、彼はウォルター・
 リップマン、ジョン・フォスター・ダレス、アレン・ダレス、クリスチ
 ャン・ハーター様な”使用人”に依って支援されていた」

と語っている。再びハウスが顔を覗かせる。1919年5月、パリで<円卓>会議が開催され、其処でCFR創設が決定されたのであるが、此の会議の主催者(ホスト)を務めたのがミルナーとハウスであった。
 外交問題評議会(CFR)の創設議員には、次の様な名前が並んでいる。

ヤコブ・シッフ
パウル・ワールブルク
ウィリアム・ハリマン・・・後に駐ソ大使や国務次官を務める
ネルソン・アルドリッチ……連邦準備制度の創設に関与
J・P・モルガン
J・D・ロックフェラー

 斯うして眺めて来ると、外交問題評議会(CFR)や其の背後に横たわる<円卓>と云う秘密仲間(サークル)に連なる者達が、パリ講話会議を牛耳り、米国の金融・外交を支配し、更にロシア革命を支えていた事が仄見えてくる。
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 其のソ連と云う巨象が斃れている今、秘密仲間に連なる者達は何を考え、どう蠢いているのだろうか。何れにせよ20世紀末の演出者は、やはり彼等ーー陰の国の住人達なのだ(其の結果、20世紀で共産主義革命に依ってどれぐらい人が虐殺され、家族離散が行われ、家と土地を奪われたのか。其れを真剣に考えれば、許す事は出来ないのです。日本人は、逆に此の共産主義者と協力して、悪の道を荷担している現在の状況なのです!忍)。

参考HP