初代宮内庁長官の田島道治、同庁次官と戦後枢密顧問官をつとめた関屋貞三郎、外交官と侍従長をつとめた三谷隆信、近衛内閣の頭脳役で昭和研究会主宰の後藤隆之助、戦後初の文部大臣前田多門、文部大臣と最高裁長官の田中耕太郎、東大総長の矢内原忠雄、南原繁、東大教授で英文学の斉藤勇、東大教授でアメリカ史の高木八尺、東大教授で皇太子のフランス語教師で多門の長男の前田陽一、一橋大学名誉教授の上田辰之助、津田塾大教授で多門の長女の神谷美恵子、恵泉学園創立者の河井道子、日本赤十字社長の川西実三・・・そして国際ジャーナリストで国際文化会館理事長の松本重治、元公明選挙連盟理事の田辺定義・・・
「国際的視野を持ち、頂点を極めた教養に滋れ、個人の自由闊達な精神を旨とし、皇室への真摯な姿勢を崩すことなく、社会大衆に愛情で接して人道を説く・・・・」、これらを一身に備えたとしか見えない立派な人々である。
つまり、小日向会の信用力と社会各層に与えた影響力は、当時ははかり知れないものがあっただろう。加えて小日向会の構成会員らの最大の特徴は、人格の面で紛れもない善行の人々だったろうことだ。
野口氏が指摘する他の一点は、前田の天皇への傾倒ぶりだ。ジュネーブから帰国後の前田は天皇の前に立つことになる。それを計らった人物は、東大時代の同窓生(後輩)田島道治だろうと野口氏は推察する。
前田が天皇陛下との拙著句に人並み以上の感慨を抱いていたとみた野口氏は、前田の学友田島の宮内庁長官就任問題の背後に前田が存在したと解釈している。西欧何するものぞ、と近代国家日本をつくろうとする激しい意欲が、明治人の前田と新渡戸らの絆だったのだろう、とばかりに野口氏は前田らの関係に理解を示しながら、他方では新渡戸と前田の皇室接近意欲を異様に感じている。
三年前のジュネーブ滞在後、大正15年に帰国した前田は、のちに記した自伝(『道草の跡』羽田書店)の一節で「帰朝と共に改元、早春には、宮内省の計らひで、赤坂離宮に参内して、天皇陛下に、国際労働機関に就いて御進講申し上げる光栄を担った。」としているくだりを野口氏は取り上げている。
帰国後の前田は、二年浪人したあと、昭和3年から東京朝日新聞論説委員を昭和13年まで勤める。その間に大正12年の1月以来、三田の普連土学園の後援会長をしていた。朝日新聞論説委員時代は、暇な時間をクェーカー関係者に当てていた。
長男陽一によれば、多門を恩師と仰ぐ新渡戸稲造らとの関係もあって、来日米国人らとの間の懇親機会は多かったという。それらの米国人には、普連土学園開校時の宣教師ボールズ一家、ヴァイニング夫人のフィラデルフィア時代の友人ローズ女史、ライシャワー一家、それに戦時中米国務省で天皇制を温存させる対日占領政策に関わっていたとされるヒュー・ボートンなどがいた。
このように、クェーカー派の日本進出は、新渡戸稲造の手引きで果たされた。新渡戸に私淑する前田多門は家族ぐるみでクェーカー派の日本人教育をはじめる。新渡戸は前田の人脈と地位を活用して、クェーカー派のいわば国家指導者層に近い別組織、小日向会を受け皿に、当時各界で活躍する著名人を集める。そして天皇との道をつけながら、英米両国人の本格的な国際交流世界を築く。
以下は、山本五十六の謎を考える上で一つの重要点になるかもしれない。野口レポートの原文の一部をそのまま揚げておこう。
昭和十三年、日本文化会館を設立するために、前田一家はニューヨークに赴く。もっとも、
前田の外国人人脈は、クェーカーのみに限らない。
IPR(太平洋問題調査会)の会議を通じてジョン・ロックフェラー三世や、知日派の国際
政治学者でボートンと同じように米国務省で影響力のあったG・H・ブレークスリーなどとも
知り合っていた。太平洋問題調査会というのは、日米の財界人・学者などがつくった民間の国
際機関で、カナダ、朝鮮、中国の代表者まで参加して、国際会議を開き相互理解と緊張緩和を
図ろうとした機関である。
日本側でこの機関をきりもりしたのは、東大でヘボン講座を受け持っていた高木八尺[高木
は小日向会会員]。ヘボン講座というのは、ローマ字のヘボンとも関係がある米国の銀行家が
基金を出して東大に開設された米国講座である。高木は一高・東大での前田の後輩にあたるが、
同じ新渡戸門下生で、前田とも極めて親しい。前田が館長のニューヨーク日本文化会館にいた
こともある。
是の日本文化会館は、中国大陸における日本の行動を起因する反日感情の高まりを、何とか
鎮めようとして設立されたものだった。前田に頼まれて、文化会館の設営準備をした田辺定義
氏によると、なかなか運営が難しかったそうである。
「金は外務省情報局から出た。だけど、そもそもは樺山愛輔さんの国際文化振興会が作ったと
いう形で始めたし、会計なんかは出先の総領事館に報告しなきゃならん。要するに、三箇所に
小姑みたいなのがいっぱいいて、前田さんに圧力をかけたり批判したりする」
前田は政治的な動きはしない事を条件に引き受けていたが、せっぱ詰まってくると、日本の
立場を説明しろの、情報を取れのと、あちこちからクレームがついたそうだ。
「前田さんは、それをやると言い訳になるし、却って信用を失って逆効果だと政治に関係する
事は一切やらなかった」という。
それが功を奏したのか、「コロンビア大学やハーバード大学、はてはロックフェラー財団な
どの幹部とも、打ち融けて協力し得るやうになった」(前掲『道草の跡』)のである。
ところで、此の部分を原文のまま本書の読者に紹介したのは、IPR(太平洋問題調査会)、ロックフェラー財団なる組織に対して著者の野口氏が言及していない状況(あるいは野口氏がIPRの実態を知りながらワザと詳細を省いたのか)、つまりIPRが世間からどの程度関心をもたれていないか(関心を寄せ付けないように図られているか)を読者に知って貰うためにである。
註
(ゾルゲに資金を提供したフィリィプ・ジェサッフの太平洋問題調査会(IPR)
フィリップ・C・ジェサップは共産党の偽装団体と幾重にも繋がっていて、1951年10月の合衆国国連代表にジェサップの名前を取り下げる事を頑として拒んだものの、結局は代表[代理]として派遣した。ジェサップはハーグの国際司法裁判所でエリフ・ルートの補佐官を務めた。国連救済復興機関(UNPRA)では、ハーバード・リーマン事務局長の次官補だった。リーマンの次官はローレンス・ダガンで、後に窓から身を投げた人物である。ジェサップはかってブレトンウッズ会議で合衆国代表となり、国連創設サンフラシスコ会議ではヒスの司法機関担当補佐官を務めた。
ジェサップは太平洋問題調査会(IPR)太平洋会議の議長を務めた。この調査会は共産主義者による謀略と諜報活動の温底となった。ソ連のスパイだったりリヒャルト・ゾルゲが日本で自分の諜報網を作ったとき、太平洋問題調査会がゾルゲに資金を出していたのである。IPRの会合では、ローレンス・ロックフェラーが事務局長を務めた。
マッカラン委員会は太平洋問題調査会について次のように報告している。
太平洋問題調査会はアメリカ共産党及びソ連政府高官によって共産主義の政策・煽動・
軍事諜報活動の為の道具と見なされてきた
1945年6月、FBIはIPRのアメラシア誌の事務局を襲撃し、1800点に及ぶ盗まれた政府機密書類を没収して、共産主義者スパイを数名逮捕した。その翌年、ロックフェラー財団は23万3千ドルをIPRに寄付した。ジェサップはJ・P・モルガン商会の共同経営者である裕福なストーツベリー家の一員だった。兄弟のジョン・ジェサップは大金持ちの銀行家で、エクイタブル・トラストの会長であり、コカコーラとダイヤモンド・ステート電話会社の役員だった!忍)
昭和16年(1941年)、ニューヨークで日米開戦の日を迎えた前田多門はその二年後の抑留者交換船で帰国する。その船で、恵泉学園からフィラデルフィア近郊の学生寮に住みウエスタンメリーランド・カレッジに留学していた高橋たねも帰国した。
前田の長男陽一もパリで日米開戦を迎えて帰国できず、パリの日本大使館にいわば避難勤務した。当時の大使は三谷隆信で内村鑑三の無教会派のクリスチャン。三谷の兄、隆正は前田らの聖書研究会に入っており、同じ仲間の田島の薦めで後年に三谷隆信は宮内庁侍従長になる。前田多門は帰国後の昭和18年に新潟県知事になる。当時の前田を軽井沢の別荘に訪ねた井深大(元ソニー名誉会長、前田の元女婿)は、前田の別荘に「近衛さんがよく顔を見せていました。どうやって、戦争をやめるかとか、まあアメリカの事を聞きにきていたんでしょう」と語っている。
野口は更に終戦直前に交わされた前田と田島の間の「興味深い会話」を前田の自伝から披露している。
前田は近衛の推薦で戦後初の文部大臣を拝命するのだが、終戦直前に田島が前田に文部大臣の話があったら引き受けろとけしかけていたという。結果的にはそうなるのだが、田島にいわれた時、前田は次のように田島に言い返している。「[田島は]突拍子もない事をいふものだが、文相といふなら適任者が別にある。安部能成君か、小泉信三かだといって、元来が、根もない話だから、そのまま他の雑談に移った」・・・
前田と三辺金蔵(慶大教授・会計学)や松本丞治(幣原内閣・国務大臣)とは姻戚関係。田中耕太郎(前述)は松本の娘、小泉の姪と婚姻関係にあるから前田と小泉は遠縁になる。松本の孫(小泉の姉の孫)の千世は聖心時代からの美智子皇后の友人。
戦後初の文部大臣に就任した前田は省内人事を改める。科学教育局長に山崎匡輔東大教授、学校教育局長に田中耕太郎、社会教育局長に朝日新聞社の関口秦を迎える。全てリベラリストの仲間だ。前田の娘、神谷美恵子は父と安倍の両文部大臣の秘書を務める。「占領軍に日本の教育を壊されたくない」美恵子は達者な英語でGHQと交渉した。昭和20年9月15日にヘンダーソン少佐なる人物が現れる。この男はGHQの民間情報教育局(CIE)の教育主任として来日した。俳句研究家でもあるヘンダーソンは前田がニューヨークの日本文化会館館長時代の知人で、日本に赴任してボナー・フェラーズ准将が上司。フェラーズはマッカーサーの副官で日本通のクェーカー教徒。フェラーズは新渡戸稲造の愛弟子、河井道子(前述)の協力者、一色由利子の娘で恵泉女学園理事の一色義子は、「厚木に降り立ったマッカーサー元帥と同行してきたフェラーズは河井と一色を捜して迎えの車を出すから会いたい、といった」という。
一色義子の話から野口氏は、フェラーズがマッカーサーにあてた覚書を別資料から紹介する。その覚書でフェラーズが、天皇陛下に戦争責任はなくて東条にある、従って天皇制の存続はリベラルな政府の邪魔にはならないとする天皇擁護の覚書だった事を紹介している。
一色達クェーカー仲間の天皇観を日本通のフェラーズが理解してマッカーサーに懇願したというわけだ。ここで野口氏は、フェラーズ覚書にある東条戦犯論の根拠を探っている。覚書がいう東条悪者論は信頼すべきソースによるとしていることから、野口氏はその「信頼すべきソース」とは誰の事か疑問を抱く。野口氏はその「ソース」を特定出来なかったが、としながら、前田の仲間(東大のヘボン講座、小日向会、太平洋問題調査会(IPR))の高木八尺のいわば回顧録から疑わしい輪郭を掴んでいる。つまり、彼等そのものが疑いの対象つまり(ソース)という読み方である。
ベアリング兄弟はフィラデルフィア・クェーカー教団を支配し同市の不動産の半分を所有す
る、と私が見た報告書や記録には述べてあったが、ベアリング兄弟が中国アヘン貿易で蓄積し
ていた財産の故に、全てはありうることだった。・・・
ベアリング家は南部大農場への大投資家であったし、中国の港と合衆国東部沿岸の重要な港
全てとの間を航行した合衆国のクリッパー船への大投資家でもあった。今日[1992年現在]
ベアリング家は合衆国で非常に堅実な金融事業を数多く手がけている。・・・
ここでいう合衆国のクリッパー船とは、中国のアヘン貿易に従事した船足の早い帆船の事。このベアリング家と同様に中国アヘン貿易で財をなしたのが米国東部エスタブリッシュメントのアスター家。
ジョン・ジェイコブ・アスターの息子ウォルドーフ・アスター[ニューヨークにその名を冠
したホテルがある]は王立国際問題研究所(RIIA)の会員に任命されて、更なる名誉を与
えられた。此の機構を通して300人委員会は合衆国の私達の生活のありとあらゆる側面を支
配している。アスター一族はオーウェン・ラティモアを選んでアヘン貿易との関連を維持させ
たと信じられている。ラティモアはローラ・スペルマンが資金を提供した太平洋問題調査会[
IPR、野口レポートにある]を通じてその仕事を果たした。
中国が単なる供給業者としてではなく平等のパートナーとしてアヘン貿易に参入する事を予
見したのは太平洋問題調査会であった。そして、日本を真珠湾攻撃(パールハーバー)に至る
道へと誘導したのが太平洋問題調査会だった。だが、日本人をアヘン常用者にする試みは惨憺
た失敗に終わった。
更に、1905年に中国政府はアヘン常用者數の増加を阻止する世界会議を開催したが、英国は会議の議定書に印鑑(サイン)をしながらアヘン事業を阻止せず、逆に中国政府にもアヘン事業に参加させる案を持ち出した。1907年のハーグ万国平和会議の参加国は、英国に前回合意して印鑑した議定書を遵守するよう促したが、英国は拒否した。1909年、英国による日本へのアヘン密輸出を懸念した日本政府が、1905年時点以上に増加したアヘン輸出の統計資料を会議に提出した。英国政府代表部はその資料に反論して、アヘン取引を公然化することで「ブラック・マーケット」の一掃が可能だと主張した。その際英国代表は、アヘン取引は大英帝国に代わって日本がアヘン取引の独占と完全支配権を確立するだろうと註釈した(何を考えているのか。それで、今も麻薬が無くならないのである。麻薬は、精神作用が激しく作用して依存症を起こす。そして最後に廃人になる。脳機能が正常に作用しない!忍)。
ベアリング家やアスター家の為に英国政府は「外交活動」をしてきた。英国王室と政府は今日も麻薬取引で揚がる莫大な資金を収受し運用している。
カナダは英国国王直属の枢密院会員の一人ゴートンが支配した。ゴートンはカナダ国際問題研究所経由で太平洋問題調査会(IPR)に資金を提供した。元蔵相ゴートンは、会計士、弁護士を銀行に送り込み不正麻薬資金の洗浄(ロンダリング)をした。ノヴァスコシア銀行、カナダ帝国銀行、トロント自治領銀行が洗浄銀行。
16、7世紀頃から始まって20世紀初めにはほぼ完全に世界経済支配を終えた国際資本家の大組織の中枢に英国王室が座っている。王室にからまる諸組織の一つにフリーメーソン組織があるーー。
デンマーク国王フレデリック九世、ノルウェーのハーコン国王、英国王ジョージ6世、オ
ランダのウィルヘルミナ女王、ルクセンブルグのシャルロッテ大公妃が、昭和天皇(エンペ
ラー・ヒロヒト(昭和天皇)を戦争犯罪人として逮捕し、又は裁判にかけないよう要請した
という興味深い事実がある。しかし、昭和天皇を戦争犯罪人として処刑されるべき運命から
救ったのは、ガーター結社の力であった。エリザベス二世女王は、故昭和天皇と親密な関係
を保持していた。そして今日なお、彼(昭和天皇)の家族と親しくしている。この事を別と
すれば、300人委員会は日本の事態に対し、さしたる影響は与えていないように見える。
ところで昭和天皇を戦犯の立場から救ったとされるガーター結社(オーダー・オブ・ガーター)について、コールマン博士は次のように説明している。
ガーター結社とは、英国王室が作ったカネで買われた少数独裁の団体で、エルサレムの崇
高なる聖ヨハネ団が支持しているものを真似たものである。・・・・
その例としては、英国国教会信徒を装う無神論者ピーター・キャリントン卿がいる。彼は
オシリス教団、その他の国内の諸派の会員であった。その中には、黒い貴族のゲルフ家で英
国国教会の長でもある女王エリザベス2世陛下によってウィンザー城の聖ジョージ礼拝堂ガ
ーター騎士として任命されたフリーメーソンも含まれている。彼女は国教会を完全に見下し
ていた。
祖国愛を自負する英国人で熱心なキリスト教徒のコールマン博士は、英国について手厳しい調査結果を敢えて突きつけながら、人々に英国王室に対して疑いの目をもっと開くよう警鐘を鳴らしている。
我々は今までにすっかり洗脳されてしまった為に、英国王室が素敵な、害のない、多彩な
制度であると信じ込んでいる。そして英国君主制というこの制度が如何に腐敗し、それ故い
かに危険かと云う事に気がついていない。ガーター結社の騎士とは、その国家と国民が寄せ
る信頼を完全に裏切ってきた最も腐敗した公の為に働く人々の最深部の集団である。ガータ
ー結社は300人委員会の中枢であり、女王エリザベス2世の信頼が最も厚い「枢密院」で
ある。
博士は、オックスフォードの権威者に実際に会い、ガーター騎士について調べている。英国内部の聖所で女王の最も由緒あるエルサレムの聖ヨハネ騎士団のエリート中のエリートだ、面談相手の英国の伝統専門家にその場で聞かされる。が、実は聞かされたその説明が真っ赤な嘘である事を、その説明者自身が知らない(あるいは知っていても知らないフリをしている)事に博士は気付く。
博士は、オークスフォードで説明を受けてから、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館へと足をのばす。そこで中国のアヘン王朝の設立者の一人パーマストン卿の文書を入手する。パーマストン卿はフリーメーソンでグノーシス主義の崇拝者でもある事をそこで知る。
つまり「現在の『王室』のように、パーマストンはキリスト教徒のようなフリをしているが、実は悪魔の僕」だったことを知る。「多くの悪魔主義者達は英国貴族階級の指導者になった。そして中国のアヘン貿易から莫大な利益を得た」とコールマンは結論付けている。
更にその博物館で博士は、誰がどんな理由でプロテスタントの最も由緒あるエルサレムの結社を作り上げたかをも知る。ヴィクトリア女王が、本来の聖ヨハネ団の設立者、キリスト教戦士ピーター・ジェラルドとカトリック教会との関係を断つ為に、1885年にエルサレムの聖ヨハネ団の名前を変えた事実を知ったのだ。
博士は、オックスフォードの英国伝統問題の権威者でさえ「間違った歴史」を元英国情報部将校だった自分に堂々と語ったことに衝撃を受け呆れている。
『超スパイベラスコーー今世紀最大の”生証人”が歴史の常識を覆す』 高橋五郎 徳間書店から