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アウシュヴィッツのガス室および死体焼却炉の後ろにまわりこんで撮った写真。焼却炉とつながっていないこの煙突は明らかに見せるためのものである。

「定説」は、以下のようになる。
〈ナチスドイツは戦争中、ドイツ本国及び、
占領したポーランドなどに大小多くの収容所
を建設し、ユダヤ人や政治犯、ジプシーなど
を収容した。それらの収容所には二種類があ
った。一つは、ユダヤ人などを単に収容し、労
働を行なわせただけの収容所であったが、も
う一種類は「絶滅収容所」で、そこにはあの
恐ろしい「ガス室」があって、人々は強制労
働をさせられただけでなく、「ガス室」によ
って計画的に殺されていた。アウシュヴィッ
ツ収容所は、この後者の代表である。ナチス
が、自国ドイツの領土内に作ったのは、前者
の「ガス室」のない収容所だけで、「ガス
室」を持った「絶滅収容所」は、占領したポ
ーランド領内だけに作られ、そこで六百万人
のユダヤ人が、計画的に殺された……〉

読者に知って頂きたいことは、
戦時中から戦争直後にかけて、
アメリカやイギリスが報道操作を
行なっていたという事実である。

 ところが、この「定説」は、戦争直後に連
合軍が発表した話とは違うのである。
 戦争直後、ドイツを占領した連合軍は、ア
ウシュヴィッツをはじめとするポーランド領
内の収容所ばかりか、ドイツ本国の収容所に
も「ガス室」があったと主張していた。
 つまり、戦争直後には、今の「定説」とは
違うことを主張していたわけで、「定説」の
内容は、変わっているのである。
 例えば、ミュンヘン郊外にダッハウ(Dac
hau)収容所という収容所があった。戦争末
期にこの収容所を解放したアメリカ軍は、こ
こで大量殺人用の「ガス室」を発見したと発
表して、一枚の写真を公開した。それは、黒
い鉄の扉の前に一人のアメリカ兵が立って、
その扉を見つめている写真である。その扉の
上には、ドイツ語で、Vorsicht! Gas! Lebe-
nsgefahr! Nicht o"ffnen!(注意! ガス!
生命の危険! 開けるな!)という警告が書
かれ、白いドクロのマークも描かれている。
 その写真にアメリカ軍が加えた説明(キャ
プション)がどんなものだったか。
「死体焼却炉の側という便利な場所に作られ
たガス室が、アメリカ第七軍の兵士によって
調べられているところ。これらの部屋は、忌
まわしいダッハウ収容所で、被収容者を殺す
ためにナチの衛兵たちが使っていたもの」
 ドクロのマークが描かれた鉄の扉に Gas!
という文字が見える写真を見せられ、その写
真にこんな「解説」を付けられたのでは、ダ
ッハウには大量殺人用の「ガス室」があった
という発表が「真実」として受けとめられた
のは当然である。実際、アメリカが発表した
この写真や生存者の「目撃証言」により、戦
争直後には、世界中がダッハウに「ガス室」
があり、その「ガス室」で戦争中多くのユダ
ヤ人が殺されたと信じていた時があったので
ある。
 ところが、後から明らかになったことは、
その写真の黒い扉は、確かに「ガス室」の扉
ではあったが、人間を殺すためのガス室など
ではなく、シラミなどで汚染された衣服を消
毒するためのガス室だったという人を食った
ような事実であった。すなわち、戦争末期の
ドイツ強制収容所では、衛生状態が著しく悪
化し、発疹チフスなどの発生が大問題となっ
ていた。その対策として、DDTを持たない
当時のドイツ軍当局は、サイクロンB(Zyklon









B)という青酸系殺虫剤を使って、ユダヤ人
をはじめとする被収容者達の衣服の消毒を行
なっていたのである〔このことについては、
Arthur Butz著 "THE HOAX OF THE 20TH
CENTURY"(published by the Institute
for Historical Review,1976)など、幾つか
の本が書かれている〕。
 ドイツでサイクロンBという青酸系殺虫剤
が生産、販売され、殺虫作業などに広く使用さ
れていたことは、秘密でも何でもないが、ドイ
ツがこのサイクロンBを大量殺人目的に転用、
六百万人ものユダヤ人を殺したというのが、
「定説」の主張するところなのである。
 サイクロンBを使って、人間を大量に殺す
ことが到底不可能であることは後から説明す
るが、ここで読者に知って頂きたいことは、
戦時中から戦争直後にかけて、アメリカやイ
ギリスがこのような報道操作を行なっていた
という、あまり知られていない事実である。
読者は、湾岸戦争中にイラクの原油放出のせ
いだといって世界中に放映された、あの油ま
みれの水鳥を記憶しているだろうか? あの
水鳥は「イラクの原油放出」などとは関係が
なく、何者かが、プロパガンダの目的でウソ
の注釈(キャプション)を加えて流した「ヤ
ラセ映像」であったことが明らかになってい

 

 

るのだが、この種の報道操作は、湾岸戦争の
水鳥が最初ではなかったのである(木村愛二
著『湾岸報道に偽りあり』汐文社刊、一九九
二年、参照)。第二次世界大戦中、メディア
に対して厳重な検閲を実施していたのは、日
本やドイツだけではなかった。アメリカも、
新聞、雑誌、ラジオ、そして映画などに厳重
な検閲を行なっていた。ダッハウで撮影され
たこのトリック写真は、そのような検閲があ
ればこそ可能だったのである。
「ダッハウのガス室」だけではない。ドイツ
を西から攻略したアメリカ、イギリス連合軍
は、ドイツ西部で強制収容所を解放した際、
いくつもの「ガス室」を「発見」した筈だっ
たのである。彼らは、そう発表し、戦後しば
らくは、そう語っていたのである。それなの
にそれを彼ら自身が今日全く語らなくなった
のは一体何故なのだろうか?
 それは、一九六〇年八月二十六日のことで
ある。当時、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)
政府の第二次世界大戦や「ホロコースト」に
関するスポークスマン的地位にあった歴史学
者、マーティン・ブロサット博士(Dr.Martin
Broszat)が、突如として、ナチが大戦中「ガ
ス室」を作ったのはドイツ軍に占領されたポ
ーランドだけで、ドイツ本国に「ガス室」は
なかったという意味の声明を発表したのであ
る(Die Zeit, 1960.8.26)。
 ブロサット博士は、ミュンヘンの現代史研
究所という西ドイツ政府の機関で所長の立場
にあった人物だが、この研究所は、これまで
「ガス室」の存在を「証明」するために実に
多くの発表を行なっており、西ドイツ政府の
歴史に関する見解を代弁する団体とみなされ
ている。その現代史研究所の所長、ブロサッ
が「公認」されたのであるが、これは、考え
てみればドイツ本国に関する限り、ラッシニ
エの主張をそのまま認めたものに他ならない。
 ブロサット博士が、この声明を出した後、
ナチの「ガス室」は、ポーランドのみに作られ
う彼らの主張を取り下げたのだろうか? 答
えは、一つしかない。
 彼らが発表した「証拠」や「証言」の中に本物
は一つもなかったのである。恐ろしいが、こ
れが真実なのである。
 注目して頂きたいのは、この書き変え以降
も、「ガス室があった」とされる収容所はす
べて東側、つまり共産圏に存在し、ジャーナ
リストの自由な調査が不可能な地域であった
という事実だ。
「ダッハウのガス室」だけではない。例えば、
ある作家は、アウシュヴィッツ及びブーヒェ
ンヴァルトの強制収容所に入れられていたと
いう体験の持ち主であるが、その著作の中で、
自分がアウシュヴィッツで目撃したという情
景を書いている。彼は、その中で何を見たと
書いていただろうか?
 驚かないで頂きたい。その作家は、「ガス
室」のことなど一言も書いていないのである。
かわりに子供や赤ん坊が炎の中に投げ込まれ
るのを見たと書いていたのである。一九五八
年の著作の中で、「火炎による大量殺人」の
光景をありありと描写していたのである。い
うまでもなく、今日、アウシュヴィッツで火
あぶりが行なわれていたと主張する歴史家は
いない。とすると、この作家が「目撃」した
光景は、一体何だったのだろうか?
 アウシュヴィッツで、人間が生きたまま火
に投げ込まれるのを見たと書いていたこの作
家は、一九八六年にノーベル平和賞を授与さ

ト博士が、突然、昨日までは「真実」とされ
ていたダッハウやブーヒェンヴァルトなど、
ドイツ本国の収容所における「ガス室」の存
在を否定したのである。
 その日を境として、「ホロコースト」に関
する「真実」は「改訂」され、昨日まで「存
在した」と主張されていた「ダッハウのガス
室」や「ブーヒェンヴァルトのガス室」は、
実は存在しなかった、という話に変更された。
 しかも、ブロサット博士は、その声明の中
で、このような「真実の変更」がなされた理
由を一言も説明していないのである。
 こうして、今日我々に教えられる「定説」
た、という「定説」が世界で定着し、一九七五
年には、「ナチ・ハンター」として有名なユダ
ヤ系活動家、サイモン・ヴィーゼンタール氏
までが、ドイツ本国に限っては、「ガス室」が
なかったことを認める発言をしている。
 戦争直後には、「ブーヒェンヴァルトのガ
ス室」を目撃したという「証言」があった。
「ダッハウのガス室」を目撃したという「証
言」もあった。これらの「証言」は、ニュー
ルンベルク裁判にも提出されていたのだが、
こうした「証言」が本当であったなら、「定
説」を支持する人々は、何故、ダッハウやブ
ーヒェンヴァルトに「ガス室」があったとい


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