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 獣をいけにえとして捧げ、火で焼くという
ユダヤ教の儀式を「ホロコースト」と言った。
これが転じて、「ナチスのユダヤ人虐殺」を
意味するようになったのは、ナチスドイツが
アウシュヴィッツなどの強制収容所にガス室
を作り、毒ガスを使って計画的に虐殺、さら
にそれを焼いた――という恐ろしい話とイメ
ージが重なったからだ。
 ところが、このホロコーストが作り話だっ
たという説が、今、欧米で野火のように広が
りはじめている。
 戦後五十年近くもの間、語られてきたこの
「毒ガス虐殺」が作り話だといわれて、驚か
ない人はいないだろう。私自身、この話を六
年前に英文で読んだ時には、驚天動地の思い
をしたものである。
 私は一医師にすぎないが、ふとした機会
に、この論争を知り、欧米での各種の文献を
読み漁るようになった。そして、今では次の
ような確信に達している。

まず、日本の新聞やテレビが言っ
ていることは全部忘れてほしい。
それから『シンドラーのリスト』
も一旦忘れてほしい。

 「ホロコースト」は、作り話だった。アウシ
ュヴィッツにも他のどの収容所にも処刑用ガ
ス室などは存在しなかった。現在、ポーラン
ドのアウシュヴィッツ収容所跡で公開されて
いる「ガス室」なるものは、戦後ポーランドの
共産主義政権か、または同国を支配し続けた
ソ連が捏造した物である。アウシュヴィッツ
でもどこでも、第二次大戦中のドイツ占領地
域で、「ガス室」による「ユダヤ人大量虐
殺」などは一度も行なわれていなかったのだ。
 こう断言する理由は後述するが、その前に
二つのことを言っておきたい。まず、第一に
私は、第二次世界大戦中にドイツが採ったユ
ダヤ人政策を弁護するつもりは全くないとい
うことである。たとえ「ガス室による大量虐
殺」が行なわれていなかったとしても、ドイ
ツが罪のないユダヤ人を苦しめたことは明白
な歴史的事実である。私はその事実を否定す
る者ではないことをここで明白にしておく。
 第二は、近年、アメリカやヨーロッパで、
「ホロコースト」の内容に疑問を抱く人々が
急速に増えつつあるのに、日本の新聞、テレ
ビが、そのことを報道せず、結果的にはその
ことを日本人の目から隠しているという事実
である。最近は、論争を断片的に伝える報道
もでてきたが、そうした報道は、「ホロコー
スト」に疑問を投げかける者は皆「ネオナ
チ」か「極右」であるかのような「解説」を
加えている。事実は全く違う。「ホロコース
ト」に疑問を投げかける人々の中には政治的
には明白に反ナチスの立場を取る知識人やユ
ダヤ人さえ多数含まれているのだ。
 例えば、プリンストン大学のアーノ・メー
ヤー教授は子供の頃ナチスの迫害を受けアメ
リカにわたったユダヤ人の一人で、日本でも
有名なきわめて権威ある歴史家である。彼は
「ガス室」の存在そのものまでは否定しない
「穏健な」論者だが、それでもユダヤ人の大
多数は「ガス室」で殺されたのではないとい
う「驚くべき」主張をしている。このことは
一九八九年六月十五日号のニューズウィーク
日本版でも取り上げられている。
 また、同じくユダヤ系アメリカ人のもっと
若い世代に属するデイヴィッド・コウルとい
うビデオ作家がいる。彼は、ユダヤ人である
にもかかわらず、「ガス室によるユダヤ人虐
殺」は作り話だと、はっきり主張しているの
である。「ネオナチ」の中にも「ホロコース
ト幻説」を取り上げる人間はいるだろうが、
ユダヤ人の中にも「ホロコースト」はなかっ
たと主張する人間が現われていることは注目
に値する。
 とにかく、まず、日本の新聞やテレビが言
っていることは全部忘れてほしい。それから、
『シンドラーのリスト』も一旦忘れて頂きた
い。映画は、歴史ではないのだから。
 そこで皆さんにまず、何が真実であったの
かを先に言ってしまおう。欧米の幾多の研究
を一口に要約し結論を述べ、証拠はあとから
示そう。そうした方が、皆さんにとって後の
話が理解しやすくなると思うからである。
1.ナチスがその政策においてユダヤ人に不
当な差別を加え、様々な圧迫を加えたことは
紛れもない事実である。そして、アメリカと
の戦争に突入した後、ドイツ本国及びドイツ
の支配下に置かれたヨーロッパ諸国ではユダ
ヤ人に対する圧迫が強まり、ユダヤ人を強制
収容所に収容する政策が全ヨーロッパ的規模
で開始された。この点について、従来の説明
は大筋で正しい。
2.しかし、ヒトラー及びナチスの指導部は、
収用したユダヤ人達の「絶滅」を計画したこ
となど一度もなかった。ナチス指導部が計画
したことは、強制収容所に収容したユダヤ人
達を戦後、ソ連領内などの「東方地域」に
強制移住させることであった。彼らはこのユ
ダヤ人強制移住計画をユダヤ人問題の「最終
的解決(Endlo"ung)」と名付け、東部戦線で
ソ連を打倒した後、実行するつもりでいた。
3.ナチスドイツが、アウシュヴィッツなど、
ポーランド領内に建設した強制収容所は、戦
後ドイツがソ連を打倒、占領した後に実行す
る「最終的解決」のためのユダヤ人強制移住
計画の準備施設であった。すなわち、ナチス
ドイツは、アウシュヴィッツをはじめとする
ポーランド領内の収容所に収容したユダヤ人
達を戦争中は労働力として利用し、戦後、ド
イツがソ連に勝利した暁には、ソ連領内ほか
の「東方地域」に強制移住させる計画であっ

 

た。従って、この計画とは両立し得ない「ユ
ダヤ人絶滅」などをドイツ政府が計画、実行
したことは、一度もなかった。
4.ところが、ソ連戦線でドイツが敗退した
結果、「ユダヤ人強制移住計画」は頓挫する。
そして、戦争末期の混乱の結果、ユダヤ人達
がいた収容所の衛生状態が悪化し、チフス等
の疾病の爆発的発生が起きた。その結果、多く
の罪のないユダヤ人達が収容所内で死亡した。
5.戦後、それらの収容所で病死したユダヤ
人らの死体を撮影した連合軍は、そうした病
死者達の死体を「ガス室」の犠牲者であるか
のように発表した。
 読者の多くは、こんな話をすぐには信じら
れないに違いない。当然である。すぐに信じ
られる方がどうかしている。私も最初は信じ
ることが出来なかった。読者と同様、私も物
心ついてから、あの恐ろしい「アウシュヴィ
ッツのガス室」についてくりかえし教えられ、
聞かされてきた者の一人であって、あるきっ
かけから真実を知るまでは、「ガス室による
大量虐殺」を疑ったことなど、ただの一度も
なかったのである。
 しかし、ある機会から「ホロコースト」に
ついて実は論争が存在することを知った私は、
この論争に関する文献を買いまくり、読みま
くった後、「ホロコースト」が作り話である
という確信に至ったのである。
「ホロコースト」に疑問を投じる人々は、自分
達のことを「ホロコースト・リビジョニスト
(Holocaust revisionist)」、すなわち「ホロコー
スト見直し論者」と呼んでいる筆者は、一医
師であり歴史学を専攻したわけでは全くない
が、六年前(一九八九年)に、ふとした機会
に彼らの存在と研究を知り、その後、複数の
大学教授に手紙などを書いて意見を求めてみ
た。その結果、有名な国立大学教授を含めた
日本の学者たちがそれらホロコースト・リビ
ジョニストたちの主張を全く論破出来ないこ
とを知り、日本のアカデミズムのあり方に疑
問を抱かずにはいられなくなったのである。
 また、英字紙マイニチ・デイリー・ニュー
スの投書欄で一九九三年五月に大論争をやっ
たことがあるが、その時もリビジョニズムの
正しさを確信する経験をしている。
 気の早い読者は、「ホロコースト・リビジ
ョニスト」達は、「ネオナチ」かそれに似た
人間だと思うかもしれない。実際、「ネオナ
チ」の中にも「ホロコースト」の虚構を強調
するグループはいる。だが、「ホロコースト
・リビジョニスト」の中には、明らかに反ナ
 このラッシニエという学者は、元は地理学
者で、左翼思想の持ち主だったため、反ナチ
スのレジスタンス運動に参加したのであるが、
そのレジスタンス活動の故に、ナチス占領下
のフランスでゲシュタポに捕らえられ、強制
収容所に入れられたという人物なのである。
ラッシニエは、ドイツ西部の収容所に収容さ
れ、戦争末期には、そこでチフスにかかると
いう苦難まで味わっている。
 そのラッシニエが、「ホロコースト・リビ
ジョニズム(見直し論)」の「開祖」となっ
た理由は、単純である。ラッシニエは、戦争
中、反ナチス活動の故にドイツ西部の複数の
容所を実際に目撃した人物であったにもかか
わらず、彼を非難し、その証言を無視した。
ラッシニエは、その後もこのことについて語
り続け、さらには学者として、ナチスの収容
所政策全体を調査、研究し続けるが、その主
張を無視されたまま、一九六七年に死去して
いる。しかし、彼に触発されたフランスの知
識人の間から、もちろん「ネオナチ」等とは
全く無関係に、「ガス室はあったのか?」と
いう疑問が上がり始めるのである。
 このように、学術研究としての「ホロコー
スト否定論(または見直し論)」は、第二次
大戦後、ドイツではなくフランスで誕生した
ものなのだが、「ガス室による大量虐殺」に
疑問を投げかけた最初の歴史家が、いわゆる
「ネオナチ」などではなく、フランスの左翼
知識人で、戦争中レジスタンスに参加してナ
チの弾圧まで受けた人物であったという事実
は重要である。
 そして興味深いことには、この最初の「ホ
ロコースト否定論者」ラッシニエの個人的体
験の中に、後年、「ホロコースト」論争の焦
点となるいくつかの問題が、集約されていた
のである。
 そのひとつは、ラッシニエが収容されたの
が、アウシュヴィッツやマイダネックなどの
ポーランド領内のナチス強制収容所ではなく、
ドイツ国内に作られた強制収容所であったと
いう点である。これは、極めて重要なことで
あった。
 どういうことかというと、ナチスドイツが
大戦中ヨーロッパに建設した強制収容所のう
ち、ドイツ本国に作られた強制収容所につい
ては、戦後十五年経った一九六〇年に、「公
式見解」に驚くべき変更が加えられているの
である。これは少しややこしい話なので、じ
っくり説明しよう。
 今日、「ホロコースト」に関するいわゆる

チスの立場を取る個人やユダヤ人も多数含ま
れているのであって、「ホロコースト・リビ
ジョニスト」を「ネオナチ」や「反ユダヤ」
などという枠でくくることは余りに事実と懸
け離れている。
 その反証として最も明らかなものは、最初
の「ホロコースト・リビジョニスト」とも呼
べる歴史家が、フランスのポール・ラッシニ
エ(Paul Rassinier)という大学教授で、彼が、
戦争中、フランスのレジスタンス運動に参加
して、戦後、そのレジスタンス活動の故にフ
ランス政府から勲章まで授与された人物だっ
たという事実ではないだろうか?
強制収容所に入れられていたのであるが、彼
は、それらの収容所の何処でも「ガス室」な
ど見たことはなかったのである。
 ところが、戦後、ニュールンベルク裁判や
欧米のマスメディアが、戦争中ラッシニエが
収容されていたドイツ国内の収容所に「ガス
室」が存在し、多くの人々が殺されたと言い
始めたためにラッシニエは驚き、彼自身の左
翼という政治的立場とは別に、「ドイツの強
制収容所にガス室などなかった」と、声を大
にして主張し始めたのであった。
 しかし、フランスのマスコミは、ラッシニ
エがレジスタンス活動家として、ドイツの収


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