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◎イスラエルはパレスチナで何をしたか◎

●「パレスチナ人等存在しなかった」

 元イスラエル首相、レヴィ・エシュコルは、1969年、ダヴァールでの会見でこう述べた。

  パレスチナ人とは何か? 私が此へ来た時、僅25万人の非ユダヤ
 人、それも主にアラブ人とベドウィン(遊牧民)しかいなかった。こ
 の地は、十分開発されていないと云うより、砂漠と云ったほうが良か
 った。何も無かった。
  連中が我々からこの地を取上げる事に興味を持出したのは、只、我
 々がこの砂漠に花を開かせ、植民する様になってからである。

 つい最近まで、世界の大部分の人恥、少しも疑問を抱かず、ゴルダ・メイア首相の次の様な発言
を受入れて来た。

  どうして我々は、自分達の占領した土地を返還出来ようか?それを
 返還するにも、受取る人間が誰も居ないではないか。
  パレスチナ人等と云う者は居なかった。パレスチナに恰も自らをパ
 レスチナ国民と見做すパレスチナ人が居て、我々が遣って来て彼等を
 放り出し、彼等から国を取上げた、と云う事ではなかった。そもそも、
 パレスチナ人等と云う者は存在しなかったのだ。

 今日、パレスチナ人の運命が、あいも変らず中東紛争の核心を為しているにも拘らず、多くの理由
によって、彼等が本当の問題の本当の焦点になる事は勿論、此等の人々の存在そのものが無視され
て来た。客観的な観察者達も横道に反されてしまった。と云うのは、多くのユダヤ避難民達がヒト
ラーの地獄を逃れてパレスチナに安住の地を求めに遣って来た事情を少しでも知ったりすると、彼
等は大いに心を動かさずには射られなかったからである。新国家形成に見せたユダヤ人達の大きな
成果は、当然な事に大変な賞賛を博した。しかし、ヨーロッパのユダヤ人達の苦境は其れとして、
生残りの犠牲者達の国家が恰も真空状態の中に作られたかの様に見なすべきでは無かった。不幸に
して、この誤った考えが、殆どのアメリカのユダヤ達に依って靠れている。そして同じ様に、アメ
リカのキリスト教徒の自由主義者達も、最近まで、聖地パレスチナにアラブ人がいると云う事を、
殆ど完全に見過して来た。彼等の反応は、初期のシオニスト・ユダヤ達が「土地を持たない国民に
国民を持たぬ土地を」と望んでいた時、実際はそこに人々が住んでいる事を認めた時の反応と殆ど
そっくりである。
 パレスチナには他の移住者達ーーその93%は土着の人々ーーも住んでいると云う発見は、初期
のユダヤ人入植者達には酷い精神的打撃(ショック)として迎えられた。シオニズムの父、テオド
ール・ヘルツルの親密な仲間だったマクス・ノルダウ(*)は、1897年の或日、泣きながらヘ
ルツルの所へ遣って来て言った。

 「しかし、パレスチナにはアラブ人達が居る。私はそんな事を知らなかった!」

 *プダペスト生れ。医者。1897年の第一回シオニスト・ユダヤ会議でバーゼル綱領を起草。

 エイモス・エロンはその著『イスラエル人/建国者達と息子達』の中で、シオニストの入植者
達の非現実性を次の様に指摘している。

  復古主義の運動程、自己中心な物はない。何十年もの間、シオニス
 ト指導者達は、アラブ人達を見ていながら同時に見ないと云う、奇妙
 な薄命の世界へ足を踏み入れて来た。彼等の態度は盲目と幼稚さの、
 希望的観測と押し付けがましい善意との一体と為ったものであり、又、
 しばしば国際的な出来事の一要因であり、時にはその理由でもあるあ
 の無知そのものであった。この無知と云う物が無かったら、殆どのシ
 オニスト指導者達は、初めから彼等の事業に敢て取り掛ろうとはしな
 かったであろう。

 偉大な国家建設者ディヴィッド・ベングリオン[初代イスラエル首相]もパレスチナにアラ
ブ人が居ると云う事実に怯んだ、もう一人のシオニスト運動の先駆者で有った。当初、彼と彼の
もっと自由主義的な仲間は、計画中のユダヤ人国家に於いて、パレスチナ人自身が国家を持つ事
には断固として反対したが、アラブ少数派の発言も或程度は許すと云う、少くとも話し合う意志
は持っていた。
 アラブ・パレスチナ人は全体として、ヨーロッパ・ユダヤ人達の移民を脅威だとは認め無かっ
た(後にそれに気がついたのだが)。彼等は過去の歴史に照して、ユダヤ人達は、イスラムの支
配者達の特別な庇護の下で、その地に繁栄している小さな、大人しい少数派に過ぎないと思って
いた。

●民族共存を排する狭量なユダヤ・シオニスト

 伝統的にパレスチナと呼ばれるこの土地の歴史は、シオニスト達が遣って来るまで、殆ど全面的
にアラブ的な性格を帯びていた。パレスチナ(Palestine)と云う名称はフィリスティア
(Philistia)と云う言葉に由来する。これは聖書に登場するフィリスティン人或いは海
の民と呼ばれる人々で、紀元前12世紀に南海岸一帯を占拠していた。
 この地域の人類学的調査に基づいて、学者達は、既に5万年前荷、パレスチナ人達は様々な人種
が混ざり合って形成されたグループである事を発見した。紀元前4千年から900年迄の間、この
地で優秀だった人種範疇グループはカナン人である。ジェリコ、メギド、ベトーシヤンと云った町
は、青銅器時代初期のパレスチナ文明の中心であった。この時代の中期にはパレスチナ人とフェニ
キア人との間の結び付きが発展した。
 その長い歴史を通じて、パレスチナは相次ぐ侵入者達の標的となり、絶えず支配勢力が替った。
 ヘブライ人ー>イスラエル人ー>ジュデアン人ー>[現代の]ユダヤ人(この順序で称される)
と続く社会は、9世紀に亙る二つの王国とそれが1つになった国の時出すら、完全な優位を占める
と云う事は無かった。ジュリアン・モーゲンスターン博士が指摘する様に、

 「僅かに二つの短い、同時に存在した王国があったが、それも50年
 以上と続かなかった。そこには国家の力や栄光を示唆するどんな物も
 見られなかった」(正しい解釈ではない。今日本が南ユダ王国として
 受継いでいる。しかし、当時もそうだけど神「ヤーベ」を否定するユ
 ダヤ人が多く、その為に国家が崩壊するのである。現在の日本もその
 最中の渦に居る。北イスラエルと南ユダ王国とは全く無関係である事
 を指摘する。北イスラエル王国を作った悪魔ダビデの戦略に日本は踊
 らされているのである!忍)。

 神話の作者達は、かってパレスチナは国民無き未開拓地であり、シオニズムの奇蹟に因って現
代の技術を備えた1つの国家が作出され、「砂漠が緑の丘に変えられた」と主張して来た。
 彼等がこの地に最初に入った紀元前1000年頃から現代まで引続いてパレスチナに住着いてい
るユダヤ人がいる一方、『バルフォア宣言』が出された1917年当時のパレスチナに於けるユダ
ヤ人口は、総人口70万の内、僅か7%似過ぎなかった。残りはアラブ人のイスラム教徒57万人、
キリスト教徒7万人であった。
 エルサレムは7世紀から現代になって西欧人の流入が始る19世紀の終り迄、圧倒的にアラブ
の物であった。ウルシャリマは「シャレムの創建」を意味し、シャレムはアッシリア王「シャルマ
ネセル」として登場する同じセム系の神名である。
 しかし、シオニスト達は、彼等が「先祖の地」と呼ぶ場所を自分達だけが所有したいと云う欲望と、
この地に権利をもっているのは自分達だけだと云う誤った信条から、パレスチナ人の存在を無視
し、自分達の考えをロマンチックな物語で飾り立てている。
 イスラエルの内部では、ほんの僅かの人々が、ユダヤ人の良心を燃え立たせようと試みた。其
の中の一人が、ヘブライ大学初代学長のユダ・マグネス博士[1877〜1946]である。博士はア
ラブ人とユダヤ人の友好を目指すイフド運動の実現に協力した。イスラエル建国に先立つ激しい
対立の間、アラブ・ユダヤの両民族の共存を大胆に支持して、彼はこう述べた。

「我々は唯一の事、即ちアラブ人達の事を除いて、全ての事を考慮して
来たように思う。……しかし、ユダヤ人達が、自分達の直面する最も重
要な問題として、アラブ人問題を念頭に入れるべき時がやってきた。も
し我々がこの生活圏に住む事を望むのであれば、我々はアラブ人と一
緒に住まなければならない」

 しかしながら、安全に対する過剰な関心、即ちマサダ・コンプレックス(安全保障に対する過度の
関心。マサダは古代ユダヤの城塞の名前(死海峡谷)。対ローマ戦争に於いて、ユダヤ民族派(恐
心党)が立て篭もり徹底抗戦した)の痕跡と、増大するアラブ・パレスチナ人社会への自覚から生ま
れる(恐怖と一体となった)罪の意識が結び付いて、一つの新しいイスラエル人のトラウマ(精神的
外傷)が生じた。排他主義は狭量なシオニスト達の典型的なドグマとなり、其処には両民族共存と
云う複数主義の入る余地等殆ど無かった。同じ様にアメリカのシオニスト・メンバーや其のシンパ達
も、この排外主義を拾い上げ、様々に飾り立てた。

 1948年の中東戦争やイスラエルの計画的なテロに因ってパレスチナ難民が逃亡し始めると、
イスラエル政府は執拗な偽宣伝を開始した。即ち、パレスチナ人達は、勝者として故国へ帰還する
希望を反して自発的に逃げ出したのである。他のアラブ諸国がこれらの避難民達の面倒を見るべ
きである。彼等は、3000年以上も前にユダヤ人に与えた其の土地を、真に所有していたのでは
なく、只、不法占拠していただけである云々。
 6日戦争の後ダヴァールで、何度も繰り返されたこの意図的宣伝は、あらゆる手段、方法を用い
てアラブ人を根こそぎし、追い出すと云う、政治的シオニズムの父、テオドール・ヘルツルの当初の
計画の背景にあった哲学の最新版である。
 最初のシオニスト会議(1897年)では、アラブ人についての言及は何もなかった。ユダヤ・ナショ
ナリズムの指導者達の態度は、ヘルツルとウラジーミル・ジャボチンスキーの見解を反映していた。
後者は大イスラエル運動を主張する拡大主義者・修正論者のリーダーで、若きメナヘム・ベギンの
アイドルだった。ある初期の秘密会議で、ジャボチンスキーはパレスチナ人の事を「けばけばしい
野蛮なボロ服をまとって、叫び狂っている野次馬」と呼んだ。
 一方、アメリカのユダヤ人達の方は、自分達は、イスラエルに住む同じ宗教を信じている信徒達
の存在そのものを安全に守っているのだ、と誠実に信じていた。彼等は自分達の寄付金や政治的
支援や倫理的援助が、専らシオニストの排外主義の為に使われている事や、そうした行為が自ら
の国、即ちアメリカへの一元的な忠誠心を裏切っている事など、夢想だにしなかった。
 ユダヤ人達は、自分達の主張は側に置いて、パレスチナ人のこの地への権利は、その可能性
すらも断固として拒否して来た。この確信は、ヒトラーと彼の行ったホロコースト(疑問もたれている!
)によって無限に強化された。
 大きな悲劇は、倫理的な普遍主義に促されて、パレスチナにおける両民族共存を呼び掛けるユ
ダヤ人側からの数少ない声に対して、アラブ側からの反応が殆どなかった事だ。シオニスト達の
政策に対するアラブ側の感情的な最初の返答は、アラブ人とユダヤ人が仲良く土地を共有すると
云う、如何なる可能性をも排したものだった。アラブ人達は1947年、国連のレイク・サクセスでの
協議において出された少数派グループの報告を全く公的に支持しなかった時、単一政府を持った
パレスチナ人国家への絶好の機会を逃してしまった。報告は委任領地分割案の他に、連邦制の
もとでの単一国家案を示唆していたのである(ユダヤ・プロトコール、又はユダヤタルモード等を真
剣に神の教えだと信じている人の言葉を信用しろと云うのが土台的に無理である。第一に共存を
謳った「バルフォア宣言」を裏切ったのはユダヤ人であり、国際連合そのものもシオニストで出来
た国際機関だと信じているアラブ人が信用しろいうのは、土台的に無理である。そして、アラブ人
も基本的にアブラハムの子孫であって、イスラム教と云う、正統なるユダヤの神ヤーベの教えを
信じている正統なるユダヤ人である事も忘れてはならない。本当の言葉を言えば、正統なるユダ
ヤ国家パレスチナに賊人が入って、虐殺等のテロ行っている「ユダヤの名」を語る賊人、詐欺師
であると、直ちに領土を返還して、このイスラエル国家建設の首謀者は軍事裁判を受けて刑を受
けるべきでしょう!愛)。
 其れでも、これらのパレスチナ人達は威厳と誇りを持って、彼等の歴史を指摘出来る。長い歴
史を通じてパレスチナ人と他のアラブ人達は、基督教ヨーロッパでの迫害(これも分からない。正
統なるユダヤ教である基督教徒を迫害した自称ユダヤ人達(正式名悪魔ダビデ教徒)からの防
衛であり、「迫害」とは不謹慎の言葉である!愛)、トルコの圧政逃れてやって来た基督教のアル
メニア人達、そして迫害を受けた其の他の人達に対して、絶えず暖かい保護の手を差し伸べて
来た。殆どのパレスチナ人達は、アラブ人とユダヤ人が一人一票制の民主主義社会に共に生活
出来る一つの複数民族国家を誠実に信じ続けた。
 
  

●イスラエル建国により封印されたパレスチナ人の運命

 1947年、国連の保護の下にパレスチナ分割が行われた。そして1948年5月、イスラエル
国家の一方的な独立宣言が出されるに及んで、此等のパレスチナ人達の運命は封印された。パレス
チナのシオニスト達が、指導権を握った。彼等は特殊的にはアメリカの、一般的には世界世論の支
援を受けて、自分達のパレスチナ支配を容赦無く拡大して行った。こうした行為の全く不公正さは、
当時のユダヤ人の人工比(総人口の33%)からも、土地の所有比(全国土の7%)からも、自ら
明らかである。之は記録の問題であり、この国連の統計数字が論議の対象になった事は一度もない。
今日のイスラエルは、この数字を誰もわざわざ省みはしないと云う事実の上に成立っているのであ
り、之がシオニストに数多くの神話を作上げる機会を与えた。その神話は、統計数字が暴露された
時ですら、依然として有効なのである。
 そうしたイスラエル人達の神話の1つが、パレスチナ人達は自分達の意志で家と土地を捨てて逃
亡したのであり、彼等は近隣アラブ諸国で兵を募り、アラブ凱施軍の旗の下に帰還するつもりだっ
たのだ、という物だ。しかし、パレスチナ難民問題の責任は、ハッキリとシオニスト達の軍事力の
所為で有る。特に、ベギンに率いられたイルグン・ツヴァイ・レウミ、即ち「自由の戦士達」の所
為で有る。この集団はスターン団と並ぶ代表的なユダヤ・テロリスト組織であった。イルグン・ツ
ヴァイ・レウミは数多くの暴力・テロ活動を行った。
 「ダヴィデ王」ホテル事件では、95名の英国人とアラブ人が殺された。ナタニヤ事件では二人
の英国人軍曹が私的制裁(リンチ)に逢い、首を吊された。しかし、此等より遥かに悪質だったの
が、デイア・ヤシイン村事件である。1948年4月9日、デイア・ヤシインの小さい村が襲われ、
254名の婦女子と老人が殺され、死体は井戸に投込まれた。この村はエルサレムの西の岩だらけ
の岬に位置し、それまで、エルサレム近郊の争いや暴動に巻込まれない様に努めていた。デイア・
ヤシインはユダヤ人の攻撃を挑発する様な事は何もしなかったし、周りのユダヤ人達とは一種の協
定を結んで平和に暮していた。村民達は時にユダヤ機関にも協力しており、ユダヤ人の新聞に拠れ
ば、村民達は村からアラブ人の戦士を追出した事も有ったのだ。イルグンとスターン団が合同でこ
の村を襲った日は、イスラムの安息日に当っていた。
 攻撃に対するデイア・ヤシインの男達の最初の抵抗が止むと、住民の全てが広場に集められた。
そして壁に向って並ばされ、射殺された。ラリー・コリンズとドミニク・ラピエールの『おお!エ
ルサレム』に拠れば、この村の有力者の娘は「一人の男が、9ヵ月の身重だった私の姉の首に弾を
打込みました。それから、その男は肉切りナイフで姉の腹を切裂きました」と証言した。
 生存者達の話に依ると、此等の二つのテロリスト集団の女性団員達も、男達に劣らず野蛮な仕打
を行った。殺し屋達は人を殺し、物を略奪し、最後に女達を強姦した。
 英国当局がこの事件の調査を拒否した時、エルサレムのアラブ人達は国際赤十字を説得して事実
を調べさせた。スイス赤十字代表、ジャック・ドレニエは最初の現地調査団を率いて現場に赴き、
150の死体が水溜に放り込まれ、他の4、50体がその側にあるのを認めた。総計254人が殺
され、その内145名が女性、更にその中の35名が身重であった。
 ドーレニエはその日誌の中で、彼が到着した時、テロリスト達は彼等の仕事を未だ完了してい無
かったと指摘している。その夜、彼が村に入った時の様子。

  最初に私は、人々が至る所で走回り、家に押入ったり出たりする
 のを見た。彼等はステン銃やライフル、ピストル、長い飾りナイフ
 等を身に付けていた。彼等は半分、気が狂っている様に見えた。私
 は一人の美しい娘が、未だ血の滴っている短剣を手にぶら下げてい
 るのを見た。私は叫び声を聞いた。イルグンの独逸人団員は説明し
 た。「我々は未だ奴等を掃討中だ」。私が考え得た事を云えば、こ
 れは私が嘗てアテネで見たナチス親衛隊(SS)とそっくりだ、と
 云う事だった。

更にドーレニエは恐怖の思いで記している。「私はその若い女が、小屋の入口の階段に恐怖のあ
まり身を竦ませている一人の老人と女性を刺殺すのを見た」。
 

更に続けて
イスラエル建国時の残虐性(2)

参考HP