●1948年以降、パレスチナ人村落の3/4が破壊された

 パレスチナ人達はその土地を所有していたが、長い間、それに対して何もしなかった。彼等は殆ど土地を開拓せず、只僅な見窄ぼらしい農場があるだけだった。今日イスラエルで見る事の出来るあらゆる物、例えば、村や町、都市、農場等、此等は全てユダヤ人が、専ら1948年以降に造上げたものである云々。
 此は真実を全く転倒している。勇気を持って発言するイスラエル人なら、ユダヤ人が引継ぐずっと以前から、パレスチナは時代とこの地域の文化に合わせて開発されて来た、と事実を挙げて証明するだろう。イスラエル人がした事がパレスチナを強奪する前には、勤勉なパレスチナ・アラブ人の共同体が、国中に散在する開発された町や村で生活していた。
 強制収容所の生き残りであり、人権と公民権の為のイスラエル連盟を組織したイスラエル・シャハク博士は、1973年の報告書『イスラエルで破壊されたアラブの村』の中で、我々に請う語っている。

  1948年以前の、イスラエル国家内のアラブ人居住区に関する真
 実は、イスラエル人の生活の中で最も固く守られている秘密の1つで
 ある。本であれパンフレットであれ、どんな出版物も、その数なり位
 置等を知らせてはくれない。此は意図があっての事で、そうすれば公
 的に受け入られている神話、即ち、ユダヤ人達は誰もいない土地に入
 植したのだ、と云う作話を学校で教えられるし、訪問者にも語る事が
 出来るからだ。

 1948年以前、パレスチナの15の地区に475の村があった(これにはかなりの数の移動するアラブ部族の居住地区は含まれていない。それは村とは見なされなかった)。
 1948年以降、385を下回らない村、詰り、元有った村の3/4が、イスラエル当局によって完全に破壊された。僅か90の村が残っただけである。
 次の表はシャハク報告からの物で有るが、例えば、31の村が有ったラムレー地区の様に、多くの地区では、只ヤッファ市だけが残った。破壊された385の村の殆ど全ては、墓地や墓石まで含めて文字通り、ブルドーザーで根掘そぎにされてしまった。通り掛りの訪問者達は「其処は全くの砂漠だった」と聞かされる。
 エルサレムはイスラエル拡張主義の特別な犠牲となった。1967年の戦争に続いて、イスラエル政府は「東エルサレムをシホン化する」計画を発足させた。この目的に沿ってユダヤ人街を復興し開発する為の会社が設立され、土地摂取令が出された。その会社は既存のビルを引取って建直し、アラブ人の所有権は無視してユダヤ人に売付けた。勿論、その狙いは何百というアラブ人家族を即座に立ち退かせる為であった。住民達には代償として1500米?相当が支払われたが、此は其に替る家を購入するのには十分な額とは決して云えなかった。
 1975年3月5日付の『クリスチャン・サイエンス・モニター』は斯う記した。

  1967年以来、何千と云うアラブ住民が、イスラエルが始めた再
 開発計画の為に家を失った。イスラエルに併合されたエルサレムの土
 地開発業者達は、旧市街のアラブ住民達に絶えず圧力掛けて、「住み
 替え」や「近代化」を迫っている。立ち退かされたアラブ人家族は、
 彼等の取壊された家の瓦礫から、箱の様な新しいイスラエル人の住宅
 が立上がるのを眺めている。

 エルサレムではシオニストの拡張主義は徹底的な破壊と強奪と云う形を取り、其から全面的なイスラエルへの併合へと進んだ。「ユダヤ人達がエルサレムを手に入れた以上、ユダヤ魂を失わない限り、彼等は其を手放す訳にはいかない」と市長のテディ・コレックは言った。その立場を擁護してコレックは主張する。

 「エルサレムのアラブ人達は既に公民としての独立を勝得ている。彼
 等はアラブ諸国の市民達よりも遥かに多く、身体の安全、繁栄、表現
 の自由を楽しんでいる。彼等は自分達の学校もある。アラブの大学に
 も通える。彼等には運動の自由もある」

 市長と会見した『タイムズ』特派員は其に付加えて言った。

 「実際、彼等は何でも持っている。自らの主人になると云う権利を除いては」。個人主義的で、独立心に富んだアラブ人にとっては、この権利こそ第一にして最後の事であり、全てに優先する。
 

 地区名    1948年以前の     現在の             破壊された
              村の数            村の数               村の数
 エルサレム          33         4                    29
 ベツレヘム      7                  0                      7
 ヘプロン      16                  0                    16
 ヤッファ            23                  0                    23
 ラムレー            31                  0                    31
 リダ                28                  0                    28
 イエニン              8                  4                      4
 ツルーカレム        33                12                    21
 ハイファ            43                  8                    35
 アコ                52                32                    20
 ナザレ              26                20                      6
 サファド            75                  7                    68
 チベリアス          26                  3                    23
 ペイザン            28                  0                    28
 ガザ                46                  0                    46
   計            475                90                  385
 
 
 
 

●ジュネーブ協定に反するイスラエルの占領地住民抑圧

 1974年、ヨルダン川西岸(ウェスト・バンク)を旅行中に、私はヨルダン川西岸最大の都市ナブルスの市長代理、アデル・アメド・シャカールに会った。彼の市長補佐役の一人で技師のハムディ・カサス氏は、私の本を読んだ事があると言って、最近のイスラエル人達による相継ぐパレスチナ人達への攻撃について話し始めた。過去数ヶ月の間に100以上の家屋が破壊されたが、これは殆どの場合、家主がパレスチナ人組織「ファタハ」と協力しているのではないかと云う只其れだけの疑いで破壊されたのである。アメリカの新聞は、占領者達と非占領者達との間の所謂「良い関係」を大袈裟に報道しているが、事実に拘る観察者に取っては、現実に明らかに正反対である。情容赦の無い統制がパレスチナ人達に行われている事は余りにも明白である。
 ナブルス東南約9.7?の所にある小さなパレスチナの村、アクラバで、4000人の農民達が自分達の土地を売る事を拒絶した時、イスラエル人達は凄じい行動を起した。『ル・ヌーベル・オプセルヴァトル』と『クリスチャン・サイエンス・モニター』の記事に拠れば、

  4月28日、1機のイスラエルのパイパー機がアクラバ上空を飛
 行し、村の小麦畑に枯葉剤を撒き散らした。一夜にして全ての小麦
 (200㌶乃至は494エーカー)は色が変ってしまった。小麦の
 緑は化学薬品に焼かれて茶色になった。・・・イスラエル人達は此
 等の事実を否定していない。彼等は小麦畑に枯葉剤を撒き散らした
 事を認めたが、其れは只「イスラエル軍が立入るなと云った土地で
 頑固に農耕を続けている村民達に教訓を与える」為だと言った。

 この驚嘆すべきな行動は、アラブ人達のみならず、彼等に同情するユダヤ人達の怒りをも駆立てた。イスラエル議会の前で開かれた新左翼[イスラエルが左翼(ユダヤ・マルクス共産主義)の本拠地である。ユダヤ・マルクス主義の原点は、悪魔ダビデの思想であり、そしてユダヤ教の悪魔法典であるバビロニア・タルモードから出来た思想なのです。 だから、ここで良心的な言葉は、「左翼」でなく「ユダヤ人の良心」の言葉の方が正しいと考えられる!忍]の集会では、五人の怒れる若者達が小冊子(パンフレッド)を配った。其処には明白に斯う記されていた。

 「我々は我々の国民と国家に忠実である。しかし我々は、アラブ人
 の土地を没収したり、彼等の穀物を破壊したり、彼等を立ち退かせ
 てユダヤ人部落にしたりする事を受入れる訳にはいかない」

 ヨルダン川西岸(ウェスト・バンク)のアラブ人達に対する逮捕や裁判、国外追放等が増加した。イスラエルは1973年10月の戦争で捕虜になったイスラエル兵の扱いに付いて、又捕虜の交換に中々応じたがらないシリア、エジプトの態度について、其れはジュネーブ協定に違反するとして猛烈に抗議しながら、一方で、ジュネーブ協定に拠って禁じられている占領地の住民に対する抑圧を続け、協定を無視してきた。
 イスラエル政府の裁判なしの国外追放政策が始まった丁度其の時、『ニュー・ルック』(テル・アヴィヴ)に一つの批判的な記事が出た。

  我々自身が知り得たところによると、国外追放された人物の何人
 かは、少なくともサボタージュやテロとは関係なく、只与えられた
 条件の下で、ウェスト・バンクをイスラエルが支配する事に反対の
 意見を述べただけである。もしそうした反対意見の表明が国外追放
 に値する犯罪なら、やがて何千人と云う人間が同様の扱いを受けな
 ければならない日が遠からずやって来るに違いない。

 この雑誌記事の予測が現実となる日間もなくやって来た。国外追放は決して止まなかった。寧ろ、其れはもっと厚かましくなった.1973年12月10日、其の日は皮肉にもイスラエルの最も野蛮なやり方でヨルダンに追放された。8人は夜逮捕され、家から連れ出された。本人も家族にも何の罪でこういう目に遭うのか一切説明は無かった。父親が追放された各家には、一人の警備員が残された。家族の者が外部の者と緊急に連絡を取るのを防ぐ為だった。弁護士にさえ連絡を取る事は許されなかった。
 逮捕された一行には、逮捕の正確な理由は知らされないままだった。其の中の一人、ワリド・カムハウィ博士は、後日詳細を語った。

  一人の将校が我々を護送している車輌の中に乗り込んで来て、手
 に持っていた書類を読み上げた。其処で我々は、イスラエル占領当
 局者が故国から我々を追放する事を命令した事を知った。其の理由
 は「イスラエルの安全を脅かす」というものだった。其れは全く滑
 稽な話だった。「安全な国境」を持ち、「無敵のイスラエル」と云
 う超モダンな戦争機構を備えているにも関わらず、生涯ピストル一
 丁さえ携えた事のない我々8人――医者、市長、組合活動家、二人
 の弁護士、3人の教師――が彼等の安全への脅威だと云うのだから。
 我々の中の誰に対しても、裁判、審理、更には告訴さえr行われな
 かった。

 彼等はアラバ峡谷の砂漠地帯に連れて行かれ、力ずくでヨルダンに向かわされた。エル・ビレー市長のアブド・アルージャワド・サレーは、国境線を越えた事を拒否した為、イスラエル兵士の銃剣で負傷させられた。ヨルダン領土にもっと進ませる為に、彼等の進行方向に向かって銃が発射された。2,3週間後、サレー市長の父親が亡くなったが、其の息子はほんの暫くの間、国境を超えて父親の葬儀へ参列する事も許されなかった。
 

●パレスチナ人民族主義者を占領地から追放する目論見

 イスラエル政府は、国外追放と云う手段で、パレスチナ人民族主義者を占領地から一掃しようとしている。追放者の中にはエルサレムやラムレーの市長達、新聞『シャアブ』の編集長、前国会議員、医者や弁護士達が居る。ビル・ツァイト大学学長、ハナ・ナシール博士は1974年11月21日、ラムレーの自宅から追立てられた。博士はパレスチナの名門の出で、父親のムサ・ナシールはヨルダンの外務大臣を務め、従兄弟のカマルは暗殺されたPLOの代弁者(スポークスマン)で詩人だった。博士と他の4人は何の予告も無しに叩き起され、身柄をヨルダン川西岸から移された。嫌疑は最近起きたデモを唆し、「敵対的組織」の団員であると云う物だった。しかし『ニューヨーク・タイムズ』のテレンス・スミス特派員恥、11月22日の記事の中で、ナシールは自分の大学の学生達とイスラエル兵達の衝突を避ける為にあらゆる努力をした、と書いた。
 こんな事が世界の何処か別の場所で起きていたら、アメリカのリベラリスト達(自由主義国のリベラリスト達!忍)はイの一番に反対するのに、このイスラエルの占領に反対するのに、如何なる合法的な手段も無いと云う事実に、強い反対が無かった。平和的なデモ、抗議、同盟罷業(ストライキ)、散し(ビラ)の配付等全てが法に拠って厳しく罰せられているのだ。何千人と云うパレスチナ人達が、現在、斯うした抵抗の形を取ったと云うので投獄されているのである。
 『私自身の目で』と云う本の中で、ユダヤ人弁護士フェリシア・ランガーは、投獄者達の取扱いに付いて詳述し、シン・ベト(イスラエルの治安機関)の隊員に依る尋問の間中、被疑者達は暴力、殴打、拷問を受けると述べている。殆どの審理で、その記録に被告達が殴打、拷問の苦しみに付いて証言していない物はない。そして其の証拠はランガーの様に此等の囚人達に近付ける人々に取っては余りにも明白である。イスラエルは事実上、1891年に文化的シオニズムの指導者、アハド・ハーアムが指摘したのと同じ振舞いを続けている。

 「彼等はアラブ人達を憎々しく残酷に扱い、アラブ人達の権利を奪い、
 理由も無くアラブ人達を攻撃し、剰え此等の振舞いを誇ったりする。な
 のに我々の中の誰も此等の嫌悪すべき傾向について反対しない」

 アメリカ国民にイスラエルや占領地域に於ける本当の生活を氏って貰う為に、シャハク博士は1974年アメリカを訪れ、各地で講演をしたり、新聞社を訪れた。彼の話は何人かの人間を吃驚させた。彼がJNF(ユダヤ国内基金)がイスラエル(ハイファ、テル・アヴィブ、エルサレムを除く)で住宅用地を買収する際にどんな処置をするかを詳細に述べた時には、特にそうで有った。土地購入に際して不自由な契約条項が付されている為、アラブ人は決して借りたり、買ったり出来ない様に為っているのだ。そして驚くべき事に、イスラエルの裁判所は、この契約に違反した者には罰金を課しているのである。
 イスラエル・シャハク博士は、下院の国際・外交分科委員会で証言した。彼は委員達に語った。

 「私は之までの生涯で、イスラエルの破壊部隊がヨルダン川西岸の占領
 地域で、アラブ人の家屋を爆破するのを目撃した時程の、驚嘆した体験
 をした事は有りません」

 博士は更に続けて、

 「ヨルダン川西岸やガザ地区に於いて、彼等が望ましく無いと見なすア
 ラブ人達を逮捕して国外に追放し、然る後、彼等の家を破壊する、之が
 1967年の戦争以来、一貫してイスラエル当局者が実践している行動
 なのです」

 と証言した。シャハク博士は彼の証言を取っている八人の委員達に対して

 「若し私の証言が正しいかどうか御知りに為りたいのであれば、御自分
 でこの地域へ出向かれて実際に様子を見てから、御自分の御意見を述べ
 られたらいいでしょう」

と言い切った。下院議員のジョナサン・B・ビングハム(プロンクス選出)とレスター・L・ウォルフ(ロングアイランド選出)は二人共頑固なシオニストであったから、博士に対して、そんな時間が有ったら、アラブ人のイスラエル人に対する虐待を調査した方がましだ、と言返した。
 
 

●パレスチナ人政治犯に対する恐るべき拷問

 パレスチナの政治犯、特にイスラエルによって無期限に行政拘留されている者については、以前に国際機関や欧州の報道機関が幾らか明らかした事がある。国際赤十字の報告(1968年12月5日)は斯う述べている。

  我々が訪れた時は一人の看守人も居なかったが、1つの獄房に81人
 の囚人達が押込まれていた。囚人達は皆、トイレや洗面所を使う時でさ
 え、獄房を離れる事を許して貰えないと申立てた。彼等は床からたった
 15?の所に有る獄房の蛇口を使わねばならなかった。

 1970年4月12日付のアムネスティ・インターナショナルの報告『イスラエルの拷問法』は、イスラエルがパレスチナ人囚人に対して行っている拷問法を暴露した。

 (a)後手に手錠を掛けられた囚人に警察犬を放つ。警察犬は囚人を地
 面に倒すように訓練されている。
 (b)開かれた扉の端に指を置き、それから扉をビシャッと閉める。
 (c)ペンチで指の爪を剥す。
 (d)囚人に胡椒液を注射する。
 (e)囚人は即座に気が狂うと云う溶液を知らされた上で注射される。
 そして若し自供した場合のみ解毒剤を与えると知らされる。
 (f)大きな金属製の容器を頭や首にあてがう。引張ると締まる様に
 成っている。外側からその容器を棒で叩く。初めはゆっくり、次第に早
 くなる。叩けば叩くほど、容器は脱げなく為ってしまう。
 (g)マッチ棒を男根に差込む。時にはマッチに火が付いている。
 (h)存る種の化学物質(恐らく神経刺激物)を固く握り締めた囚人の
 手の中に差入れる。この物質は電気ショック反応を起す。

 1977年6月19日付のロンドン『サンデー・タイムズ』は、4頁に亙って、パレスチナ人に対するイスラエル当局の虐待や拷問に関する詳しい報告書を載せた。取材に当ったポール・エディとピーター・ギルソンは、ヨルダン川西岸で、イスラエル治安警察に逮捕され、自供させる為に拷問を受けた44人のパレスチナ人達に会見した。その内の22名は、まだイスラエル占領下に住んでいるにも拘らず、自分達の名前を公表しても良いと同意した。残りは名を伏せる事を望んだ。
 同紙は、「此等の拷問は極めて組織的に行われているので、単に一握の跳上がり者が遣っているのだと見逃す事は出来ず、治安当局の全てが関与している」と述べた。六つの主要な結論は斯うである。

 (1)イスラエル治安・諜報機関は、拘留中のアラブ人達を虐待して
 いる。
 (2)虐待の幾つかは単に原始的な物で、例えば、長時間に亙る打擲。
 しかし、もっと洗練された遣り方も使われている。電気ショックに依
 る拷問、特別に作られた毒房に閉込める方法等。
 (3)拷問は4つの主な占領都市、ヨルダン川西岸のナブルス、ラム
 レー、ヘブロン及び南のガザにある刑務所、ロシア人居留構内として
 知られるエルサレムのキャンプ及びサラファンドの巨大な軍事施設内
 の計六つのセンターで行われている。
 (4)シン・ベト等イスラエルの治安機関全てが関与している。
 (5)拷問は整然と組織化されている。それはある水準の意図的な政
 策として認可されている様に思われる。
 (6)拷問は3つの目的に利用されている様に見える。第1は、情報
 を引出す為である。第2は、イスラエルの「安全」を損ねたという自
 白を引出す為である。自白は法廷での証拠として使われる。第3は、
 占領地区のアラブ人達に対して、大人しくしていれば痛い目に遭わな
 いで済むと教える為である。

 1975年9月、スイス人権連盟は、イスラエルに依るパレスチナ人の権利侵害の代表的な例を確認し、次の様に報告した。

  ヨルダン川西岸のイスラエルに依る占領は、人権に関する国際宣言
 条項を繰返し侵害する事態を招いている。例えば、無数の勝手気まま
 な逮捕、長期拘禁及び国外追放(宣言第3条違反)。強制定住、国境
 を越える事に対する厳しい制限と帰還の禁止(移動の自由と移住の自
 由選択を保証した宣言第13条違反)。勝手気ままな土地収容、建物
 の建造と取壊しの禁止(「何人も勝手気ままに自分の財産を奪われる
 事はない」と明記された宣言第17条違反)。一般的且つ組織的な拷
 問の実践(宣言第5条違反)。ヨルダン川西岸に於けるユダヤ人とア
 ラブ人の間の、目に余る不平等(宣言第2節第2条違反)等。

 1978年2月14日、国連の人権委員会は、占領地区に於けるイスラエルの残虐行為を非難した。32ヵ国の内、只アメリカとカナダだけが不賛成に回った。7ヵ国が棄権した。そして、フリーダム・ハウスの1978年版『自由の比較調査』は、イスラエルを、外国の行政権下にある地域の政治的権利及び市民的自由の評価値で最低と評価した。僅かチリと南アフリカがイスラエル以下だった(この評価はおかしい。当時はもっと残酷な支配を置かれた共産主義国の虐殺と強制収容所の人権問題を一言も入れていない。イスラエルの支配と南アフリカの支配を比較しても、南アフリカの支配の方がマシに感じる。当時の南アフリカの支配を悪口を云って、更に残酷な支配を考えられるマンデラ氏を正当化している所がおかしい。そもそも共産主義思想そのものが、ユダヤ・タルムードから出来た思想であるから、イスラエルと兄弟の関係である!忍)。
 イスラエル占領地区やイスラエル本土のパレスチナ・アラブ人に起きている、この残酷な事実の暴露を最も良く要約してくれる1つの論評がある。1947年11月、国連がパレスチナ分割案に賛成投票したその日、イスラエル初代大統領を予定されていたワイツマン博士は、次の様に述べた。

 「私は、我々がアラブ人達をどう扱うかによって、世界はユダヤ人国
 家イスラエルを判断するであろうと、確信している」。
 
 

●パレスチナ「占領」ではなく、「解放」だとする強弁

 1967年の戦争直後から、イスラエル政府は、「アラブ人を追出して、ユダヤ人を連れて来る」計画の一部として、占領地区全体に亙って新しい入植地造りを推進した。これは、イスラエルも著名国の1つであった第4回ジュネーブ会議で採択された第49条に対する挑戦であった。第49条は

 「占領国はそれが占領している地域に自国の市民を追放したり、移し
 たりしては為らない」

 と定めている。しかし、占領地へのユダヤ人入植は、イスラエルの鷹派に依って歓迎された。彼等は、6日戦争で占領したアラブ領土から撤退しようとするイスラエル政府の如何なる動きをも封じ込める1つの状況を作出したいと望んでいた。
 シオニストに依る土地強奪は、イスラエル建国に先立つ彼等のパレスチナ植民史の当然の帰結であった。そして「亡命」の地から何十万と云うディアスポラのユダヤ人を連れ戻す事を意図した帰還法に必然的に伴う事態でもあった。此等の新しい入植地は、イスラエルが既に自らの領土の一部と見なす地に設けられたが、一方で彼等が追出した人間から予想されえる反撃に対する防壁として設立された事も、やがて明らかになった。1971年、メイア首相はゴラン高原に入植したソ連からの移民グループに対し、

 「国境線はユダヤ人が住んでいる所に有り、地図の上に引かれた線
 では無い」

と語った。外務大臣アバ・エバンでさえ、1972年10月の国連総会で

 「我々は最終的に平和的国境線を見出していないし、最終的な地図
 も描いていない」

と語っていた。
 イスラエルの拡張主義者達は、グーシュ・エムニーム(文字通りには「忠実な信者達のブロック」の意)に率いられていた。それは、選ばれた民として、又聖書の掲示を通して、ユダヤ人はパレスチナ全土に対する権利を有し、シナイの一部を除いて、イスラエルは全占領地を保持しなければならない、と主張する。
疑似神秘主義的な超排外主義運動である。リクード党の極右分子から生れた団体で、1930年代の戦闘的なシオニスト、ジャボチンスキーの率いた運動及び1940年代のメナヘム・ベギンのイルグン・ツヴァイ・レウミの後継者達である。
 クネセト(イスラエル国会)でのグーシュ・エムニームの指導者はゲウラ・コーヘン夫人で、彼女は国連の調停委員フォルケ・ベルナドッテ伯や多くの英国人将校殺害に一役買ったスターン団の一員だった事を誇らしく語った事がある。1976年6月、コーヘン夫人は一人のアメリカ人訪問者に、グーシュ・エムニームは、彼等が住み着いた地域を「占領した」のではなく、「解放した」のだと語った。その地は我々に属する、何故なら『聖書』がそうだ、と云っているのだから。1967年、我々が6日戦争に勝った当にその日に、我々は全ての此等の領土を真に併合すべきだった(1976年6月14日『ニューヨーク・マガジン』)。そして、パレスチナ人問題はどうするのかと聞かれた時、この超愛国主義者は斯う答えた。

 「パレスチナ人て誰の事です?我々がパレスチナ人であって、アラ
 ブ人じゃありませんよ!」。

 イスラエル人達は、時々、良く事情に通じた偏見に囚われない人が彼等のパレスチナ人達への酷い仕打を非難すると、決って同じみの神話に訴える。詰りパレスチナ人達は1つの国民として、或いは1つの文化として殆ど存在していないし、精々の所、不完全なばらばらの農民の集りに過ぎない、と。斯うして、イスラエル人達が家や村を破壊し、土地を奪っても、それは殆ど大した事ではないのだ。神話の赴く所、パレスチナ人達は殆ど人間ではない、ましてや文化的人間ではない、そして彼等の事を1つの近代的な社会として、或いは文明的な国民として考える等、時間の浪費以外の何物でもない。これがシオニスト・イスラエルの考え方なのである[この中の意識は、自分達ユダヤ人が宗王であるという意識があるからである。がしかし、だからと云ってタルモード的な選民意識(自分達の民族以外は、自分の食料の家畜であると云う考え)は、思い上がりにも甚しい。まず、自分達が生きているのは誰のお陰であるかと云う意識が全く無いのである。恩という感情が全く無いのである。そう云う所から、互いに相手を尊敬し、家族社会を作ると云う意識を持つ事が出来ないのである!忍]。
 事実を次に掲げる。
 総パレスチナ人口は推定で330万人。その内半分は国連の援助と難民キャンプに依存している難民として公式に分類されている。ヨルダンに95万人、ヨルダン川西岸に69万3千人、ガザに39万人、イスラエルに57万4千人。残りはレバノン、シリア、クウェート、エジプト、イラク、湾岸諸国、リビア、サウジアラビア等アラブ諸国に散在している。推定7千人がアメリカに、5千人がラテン・アメリカに、約15万人が欧州に居る。国連難民帰還の報告に拠れば、1977年6月30日の時点で同機関から援助と住いを受取っている人々は170万6486名である。
 多くのパレスチナ人が国連の保護の下にある一方、大多数はアラブ世界や海外に散らばって生き、有益な生活(勿論中には困難な生活)を送っている。ディアスボラの中にあって、彼等はアラブ世界の教師、技師、建築業者、商業の責任者に就いている。専門職の比率が高い。多くの大学にパレスチナ人の医師や技術者が居る。パレスチナ人技術者や建築家達が道路や橋を造っている。取分け、彼等の離散が高等教育へ彼等を駆立て、イスラエルをも含めて、中等の国民で最も教育程度の高いのがパレスチナ人である(逆に云えば、それだけ高等教育が行われているならば、悲惨さは少く感じるのです。それよりも共産主義国内の教育や自由主義国内で高等教育を受ける事が出来ない人を考えるべきではなかろうか。自由主義国内のリベラル教育と公立学校の中の勉強させないような環境作りの方が脅威を感じるのです。アラブ諸国もそれを気付いて欲しいのです。共産主義国内の悲惨な生活状態を考えるべきではなかろうか。この著者も共産主義国内の人権侵害について何も考えていないのです。だからと云って、イスラエルに依るパレスチナ人の残酷な拷問は人権侵害として考えるべき問題でしょう!忍)。