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「日共の血腥い過去を忘れるな」 菊地謙治

●中国共産党の「提灯持ち」

 平成10年7月の参院選で日本共産党は予想外の得票を獲得して悦に入っている。投票率が高いと自民党に有利、と言われてきた欲設が覆され、58・85%という高投票率(はっきり言って、どこが高投票率か?国民の40%は、選挙に参加していない事を言っている。そして、その前の年の衆議院選の過去最低の投票率から少し上がっただけの意味である。今の自民党の政策は、日本共産党の政策と全く同じ政策になっている事を忘れている。本来の自民党の政策は、「憲法改正」が基本政策であり、教育勅語復活であり、国軍復活が本来の日本伝統の保守政策を守る政党であるのに、それを忘却して、共産党に擦り寄った政策を行っているから投票に行かない保守勢力が多いのである!忍)の結果、その自民党が惨敗したのである。
 共産党の得票は、過去最高の875万票以上(得票率15.7%で、これも最高)で、平成7年の431万票(10.4%)、同4年の481万票(10.6%)を遥かに上回って22議席を獲得(8席増)した。
 更に、3月の時点で共産党の地方議員は4075人に達していたし、共産党の自信が大きく膨らむのも当然だった。既に共産党は日米安保条約の扱いを凍結して暫定政権を樹立する構想を提唱、政権参加の足懸りを模索している。最も、この構想提唱は初めてではなく、これまで他政党が見向きもしなかっただけの事だが。
 続いて9月11日、不破委員長は「象徴天皇制」の容認の考えを発表した。実際の問題として「今の憲法を守る限り、天皇の存在と役割を否定はしない」という説明だが、共産党の綱領は、戦前、共産党が「天皇制の専制支配」と戦った事を強調しているし、現行憲法も「天皇条項等の反動的なものを残している」と規定しているから、不破発言が一時的な方便である事は明白である。
 又、平成10年5月に訪中した共産党の代表団は昭和41年以来、31年ぶりに中国共産党と会談して和解している。この時、不破委員長は日中友好には二つの逆流があるとして、

1、日本の政権には侵略戦争への反省が不明確(所謂歴史認識)
2、二つの中国を巡る問題の根源は米国にある(台湾問題)

と、日米両国を非難した上で、日中友好の五原則(歴史認識他)を提示した。
 この会談が江沢民総書記はじめ中国共産党首脳を満足させるものだった事は、言うまでもない。江沢民総書記は「歴史認識」、「一つの中国(台湾問題)」を改めて強調、特に後者に就て「日米防衛協力の為の方針(ガイドライン)の適用範囲に台湾を入れるな」と言明、日米安保条約については「冷戦時代に出来たもので、その後も残されている」と不快感を表明している。
 これは、露骨な内政干渉であり、日本共産党は俗な言葉で言えば中国共産党の「提灯持ち」を演じたのだが、実は日共が戦後の日本でソ連共産党・中国共産党の指令に従って血腥い暴力工作を展開した実績があるのである

 

●日・ソ・中各共産党連携で革命工作

 昭和20年8月15日の敗戦と同時に、日本はGHQ(連合軍最高指令部)の支配下に置かれた政治、経済、社会、教育等のあらゆる面で容赦のない改革を強制された。
 こうした情勢下で昭和21年2月、日共は第5回党大会で占領下における「平和革命論(野坂理論)」を採択、その背景下で24年1月の総選挙では一挙に298万票を獲得、35議席を確保するという大躍進を遂げた。だが、この時点での党員は僅か数十万人に過ぎなかった。
 しかし25年1月、日共はコミンフォルム(国際共産党情報局)に、その平和革命路線を批判されて大混乱に陥り、党内は分裂したが結局、批判を受け入れて武力革命路線に転じている。ここに、外圧に脆い日共の体質が露呈されている。
 その具体的事例の一つが、ソ連の指令による「日本革命計画」への服従である。指令は昭和24(1949)年12月16日付で「革命闘争指令1号」として日共政治局員、革命オルグに指示されている。指令によると日本を関東、東北、関西、九州、四国、北海道の6地区に分け、それぞれに設けられた革命機関が一斉に蜂起するよう指示されていた。
 この事実に関する記録は米・メリーランド州の国立公文書館に保管されており、当時GHQ民生局でパージ(追放)を担当していた日系U世のM・ウチヤマ氏(日本名・内山幹雄・帰国後カリフォルニア州地裁判事)が、昭和25年4月24日付で提出した報告書に詳しい。
 日本革命計画は不発に終ったが、日本共産党の主流は武力革命路線に傾いており、これを察知したGHQは昭和25年5月3日、日共は侵略の手先である、と非難を声明、続いて6月6日、日共中央委員24名の追放を指令した。所謂レッド・パージである(この背景に、アメリカのレッド・パージについても述べなければならない。日本の共産批判は、共産主義の悪全体を批判しているのではなく、一部を批判して主犯を逃しているのである。一般的保守系論者は日本共産党は、ユダや共産主義の前衛部隊であるという認識はないのである!忍)。
 しかし、日共の幹部達は逸早く地下に潜行して海上の秘密路線を作り、中国へ脱出すべく人民艦隊の編成に着手していた。傘下の艦隊は15隻、主な出入港基地は関東から西の三崎、舞鶴、焼津、長崎等が使用されており、上海ルート、香港ルート、北朝鮮及びソ連ルートで、目的地は何れも中国であった。
 この艦隊の1隻、第三高浜丸は中国から日共トラック部隊長・大村栄之助を連れ帰っている。トラック部隊とは、共産党が火炎瓶闘争を展開していた頃、乗っ取り同様の悪どいやり方でめぼしい中小会社を収奪、破産させ、日共の裏の財政活動をしていた秘密組織の事だ。何の事はない、市民の味方を装って、実は市民の敵だった日共の姿を如実に表している例である。
 又、大村トラック部隊長は昭和26年頃、駐日ソ連代表部のシバエフMVD(ソ連内務省)大佐らから、日共の活動資金を受取っていた暗号名「ロン」と呼ばれる人物だったのである。この様に日本、ソ連、中国の各共産党は緊密な連携作戦の下、日本の共産革命を狙っていたのである。
 さて、昭和25年6月25日、北朝鮮軍の侵攻で朝鮮戦争が勃発、共産軍が破竹の勢いで米韓軍を釜山橋頭堡に追い詰めた時期、党員達は本気で革命近しと信じ「もう直ぐ、中国解放軍が日本解放の為朝鮮海峡を渡ってくる」「北海道にソ連軍の降下部隊が降りてくる」といった話が呟かれていた。

●火炎瓶闘争に狂う日共

 以上のような客観的情勢下の昭和26年10月、日共は第5回全国協議会で「日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成し得ると考えるのは間違いである」との「51年綱領」を採択、軍事闘争路線に基づく各組織を着々と整備してゆく。
 まず党中央に、一般党組織と別個の「中央軍事委員会」が設けられ関東、北海道、東北、中部、西日本、九州の6ブロックに、それぞれ地方軍事委員会が置かれた。その直接軍事行動の中心は「中核自衛隊」で、レッド・パージで職場を追われた若い労働者、尖鋭な学生党員、在日朝鮮人党員等で編成され、一般細胞の党員とは別個に厳秘に付されて組織された。
 更に、ゲリラ戦の根拠地設定の任務を指令された「山村工作隊」「農村工作隊」が、職業党員や学生党員で組織されて奥多摩や富士山麓等の山岳地帯、或いは農村に展開していった。直、中核自衛隊は昭和27初め頃、約8千名といわれた。
 又、武器として時限爆弾、ラムネ弾、火炎手榴弾(キューリー爆弾)、タイヤーパンク器等の製造法を詳述した指令書は「球根栽培法」「栄養分析表」という秘密パンフによって流された。年輩の方には、この奇妙な名称を記憶しておられるだろう。
 この様な秘密軍事論文で、中核自衛隊が「武器は敵から奪い取る」として直接行動を開始したのは昭和26年の暮頃からであり、新聞等で報道された一連の事件を挙げると、次の通りである。

 東京・柴又日共軍事スパイ事件(昭和26・12・2)
 練馬署警官惨殺事件(昭和26・12・27)
 札幌白鳥警部射殺事件(昭和27・1・21)
 蒲田署警官襲撃事件(昭和27・2・21)
 荒川署警官襲撃事件(昭和27・2・28)
 鶴見川崎両税務署火炎瓶事件(昭和27・3・16)
 小河内村山村工作隊事件(昭和27・3・29)
 武蔵野署火炎瓶事件(昭和27・4・6)
 池上署矢口交番襲撃事件(昭和27・4・20)
 東大内巡査暴行事件(昭和27・4・20)
 血のメーデー事件(昭和27・5・1)
 早大構内巡査吊し上げ事件(昭和27・5・8)
 5・30新宿流血事件(昭和27・5・30)
 板橋岩之坂交番襲撃事件(昭和27・5・30)
 大阪吹田警官襲撃事件(昭和27・6・24)
 新宿交番火炎瓶事件(昭和27・6・25)
 東芝府中工場火炎瓶事件(昭和27・6・28)
 名古屋大須警官襲撃事件(昭和27・7・16)
 山梨曙村山林地主襲撃事件(昭和27・7・30)
 埼玉県横川代議士宅襲撃事件(昭和27・8・7)

 以上の他、同じ暴力事件が続発しているが、この中で昭和27年5月の血のメーデー事件は参加約50万人、混入していた数千人の中核自衛隊員に煽動されて警官隊と凄惨な乱闘となり、死傷者は約1千人に昇った。

●50年前と変わらぬ衣の下の鎧

 この血塗れの日本共産党の体に、うすい衣を着せたのが昭和36年7月の第8回党大会で決定された綱領(現在の綱領)であり、上田耕一郎(不破・現委員長の実兄)と不破現委員長が主となって書き上げたものである。
 綱領は冒頭で述べた共産党の「作り笑い」の本質をよく表し、民主主義革命、社会主義革命の二段階革命路線を、はっきり示している。そして「闘争の経過は我々の意図だけに関わるものでなく、敵の出方による・・・」と述べているが、これは「敵の出方」によってはいつでも「暴力革命」路線に転換する、と言う事を示すものえある。
 つまり、日本共産党は衣の下に鎧を隠したつもりでいるが、その鎧は見えていて50年前と少しも変わっていないのが日本共産党の実態なのである。
 

 

宮本議長の出獄と復権をめぐる重大な疑惑

●崩壊した”虚構の論理”を繰り返す日共の詭弁

 往来の共産党のこの問題に対する主張は次のようなものであった。
 ーー”リンチ査問事件”は戦前の特高警察のデッチ上げであり、小畑達夫の死因は「
特異体質によるショック死」である。このことは「法医学界の権威」である古畑種基博
士の鑑定でも明らかにされ、戦前の「天皇制権力の下での暗黒裁判」でさえも宮本議長
らに、殺人罪、殺人未遂罪を適用出来なかった。戦後、宮本議長等に「将来ニ向テ其ノ
刑ノ言渡ヲ受ケザリシモノト看做ス」との勅令第730号が適用されたが、これは、戦
前の判決が全くデッチ上げであった事を当局自らが認めた事であるーー。
 共産党の主張は長い”論文”となってあらわれるのが常であるから、この問題につい
ても様々なことを述べていたが、その骨子は上記の様なものであった。
 しかし、前半の小畑達夫の死因は古畑博士によって「特異体質によるショック死」と
鑑定されたという主張に対しては、雑誌「全貌」昭和47年5月号がはじめて、古畑博
士の鑑定書は「特異体質によるショック死」ではなく「外傷性ショック死」となってい
る事を明らかにし、又『文藝春秋』51年1月号で古畑鑑定書そのものが公表され、共
産党の主張のウソがはっきりした。
 後半の「刑ノ言渡ヲ受ケザリシモノト看做ス」は判決がデッチ上げである事を意味す
るという共産党の主張も、国会の場で法務省当局によって完全に否定された。これは、
51年1月30日の衆院予算委員会で公明党矢野絢哉書記長(当時)を質問し、それに
対する答弁で明確になった。この質問と答弁の要旨は次のようなものであった。

 矢野氏 宮本氏の判決文尾にある『将来に向って刑の言渡を受けざりしもの
 とみなす』についての法律的解釈に食い違いがある。これは判決の誤りであ
 って(リンチ査問の)事実がなかったとの解釈になるのか、或いは事実は事
 実として否定するものではないと解釈すべきなものか。
 吉田法制局長官 勅令730号は、人の資格を論ずるにあたって、『刑の言
 い渡しを受けなかったものとみなす』という意味であって、判決文等の事実
 を消滅するものではない。
 稲葉法相 資格回復という事は判決は有効だったと云う事であり、犯罪事実
 がなくなったわけではない。ましてやデッチ上げという事を認めたわけでは
 ない。

 この政府答弁は、勅令730号が「人ノ資格ニ関スル法令ノ適用ニ付テハ将来ニ向テ
其ノ刑ノ言渡ヲ受ケザリシモノト看做ス」としており、勅令の目的が「人ノ資格ニ関ス
ル法令ノ適用」に限定している事からみても極めて妥当なものであり、当り前の事を述
べたものである。
 こうして、共産党のいわば”虚構の論理”は次々と崩れ去っているのに、今回の浜田
委員長の発言巡って、あいも変らず同じ論理を蒸返したのである。
 しかし、この事件は、リンチの事実の有無だけが問題ではない。戦後の宮本議長、袴
田元副委員長(除名)らの出獄と復権を巡っても幾つかの疑惑が残っている。

●宮本・袴田の出獄と復権を巡る疑惑の数々

 無期懲役の判決を受けた宮本議長、懲役13年の判決を受けた袴田が、出獄し、復権さ
れるまでの動きを日付順に追ってみよう。

◇昭和20年10月4日 GHQは日本政府に対して「政治的民事的及宗教的自由ニ対ス
ル制限ノ撤廃ニ関スル覚書」を発し、治安維持法等の撤廃、政治犯などを10月10日迄
に全て釈放せよと命じる。

◇20年10月5日 司法省はGHQ覚書により「刑事局長号外通牒」を出し「検事ノ指
揮ニ因ル執行停止ノ方法ニ依リ」政治犯の釈放を指示。

◇20年10月9日 宮本議長「病気による刑の執行停止」と云う事で、網走刑務所から
出獄(共産党中央委員会の『日本共産党の50年』は宮本議長の出獄を10月16日とし
ているがこれは間違い)。

◇20年10月10日 府中刑務所から徳田球一、志賀義雄ら大挙して出獄。

◇20年10月17日 勅令579号及び勅令580号公布。579号は「大赦令」で治
安維持法違反等政治犯のみの罪に問われた者には適用されない。政治犯のみのものはこれ
で「大赦」され復権する。勅令580号は「減刑令」で宮本議長は無期懲役が20年に、
袴田は「2年3ヶ月24日」(袴田『獄中日記』)分減刑される。

◇20年10月19日 袴田、服役していた宮城刑務所の所長から「全責任は私個人が負
うから・・今日すぐ出ていってくれ」といわれ出獄(袴田『党とともに歩んで』)

◇21年1月8日 この日付の『赤旗』に宮本議長、袴田の連名で「我等は抗議すーー天
皇制権力の復権拒否にたいしてー」を発表。

◇22年5月18日 法務省、「刑事局長特別通牒」で宮本議長らの復権に勅令730号
を適用する事によって処理するよう指示。

◇22年5月29日 宮本議長、袴田に復権証明書を交付。

 こういう経過を辿って、宮本議長と袴田は復権したのであるが、この経過を詳細に検討
してみれば幾つかの問題点が浮かび上がってくる。次に列挙してみよう。

@ 宮本議長が「病気による刑の執行停止」という形で出獄したこと
A 袴田の出獄の裏付となる法的根拠がはっきりしない事。
B 宮本議長、袴田は治安維持法違反を対象とした「大赦令」(勅令579号)が適用さ
 れず、刑事犯を対象にした「減刑令」(勅令580号)が適用されている事。
C 刑事犯との併合罪の者に対する適用を除外した勅令730号が、公布されてから1年
 半もたった後に刑事局長の「特別通牒」によって宮本議長等に適用された事。

 共産党は、これらの問題は、宮本議長、袴田が非転向で通した為に、当時の政府がその
復権を遅らせ、さぼろうとした為だという理屈を新しく持ち出してきた。

 「他の人々が、天皇制権力の弾圧に屈して、節を曲げ、転向したのに対して、
 両氏が非転向であった為、反動勢力が意識的にその復権措置をさぼり続けた事
 に他なりません」(『赤旗』)

 と云う論理である。
 しかし、それならば、なぜやはり非転向であった徳田球一や志賀義雄が直ぐに復権され
たのか。徳田や志賀が非転向であった事は共産党の作った党史である『日本共産党の50
年』にも明記されている。共産党の”新しい理屈”は全くスジが通らない。
 事実ははっきりしているのである。宮本議長、袴田には治安維持法違反の他に、傷害致
死、不法監禁致死、死体遺棄、銃砲火薬類併合罪であったからである。勅令579号にし
ても730号にしても全て、これら併合罪を含むものは適用から除外する事を明記してあ
ったのである。

●宮本議長は「病状次第ニ重症ニ」の虚偽の診断書で出獄

 宮本議長が「虚偽の診断」によって「病気による刑の執行停止」という形で昭和20年
10月9日に網走刑務所を出獄した事は、かって民社党春日委員長(当時)が集めた資料
等によって明らかになってきた。
 宮本議長自身も『網走の覚書』の中でこの事を裏付けている。

 「所長室に連れられて行くと、所長が言った。『君について命令がきた。健康
 の点もあるし、執行停止する事になった』」

 通常、「病気による刑の執行停止」とは、このまま服役させておけば命が危ない、と云
う状況になって行われる。宮本議長がこの当時、ジャガイモの一杯入った味噌汁を食べて、
体重が60キロに増え、健康を回復した、と云う事は、宮本議長自身が幾つかの対談の中
で語っている。このままでは命が危ないという状況では決してなかった。
 その証拠に宮本議長は出獄すると直ぐに党活動を始めている。
 ところが、宮本議長の「肺浸潤」が悪化しつつあると云う診断書が作られた。春日委員
長が明らかにした刑務医官の書いた文書にはこうである。

 「本受刑者ハ前項視察ノ通リ治療中ノ処病状次第ニ重症ニ向ヒツツアルモノト
 認メラレ候ニ付刑執行停止ノ御詮議相成度候也 昭和二十年十月九日 刑務医
 務官(印)」

 つまり、刑務当局は、宮本議長をとにかく出獄させる為に明らかに「虚偽の診断書」を
作ったわけである。
 ここで司法当局は、二重の間違いを犯している。一つは「虚偽の診断書」を作った事で
ある。もう一つは刑務所長が宮本議長に言った「君について命令がきた」の「命令」であ
る。この「命令」は十月五日の司法省の「刑事局長号外通牒」の事ではない。
 何故ならば、この通牒は「一般刑法及ビ経済統制法ニ該当スル事件ヲ除ク」と規定して
いた。宮本議長は刑法事件との併合罪となっていた為、この通牒で出獄する事は出来ない
筈である。
 そこで別の「命令」で釈放したのであるが、この「命令」がどういうもので、どういう
根拠に基づいたものか、はっきりしないのである。実情は、一応は政治犯なのだから、と
にかく釈放しなければと云う事で「病気による刑の執行停止」にしたのであろう。終戦直
後の混乱とGHQ毎令の威光の前に、司法当局が止むを得ずとった措置である。
 この刑務所当局の間違いを最初に指摘したのは皮肉にも袴田里見である。袴田は、その
著書『党と共に歩んで』の中でこう書いている。

 「網走で宮本顕治同志が釈放されたというのは、これは網走刑務所長の間違い
 だったか、或は司法省から行った書類の不備だったのでしょう。その間違いが
 あった事が非常に助けになったわけです」

 伝えられるところによると、網走刑務所では、元気一杯の宮本議長を「病気による刑の
執行停止」という形で出獄させた為、その辻褄を合わせる為に過去に遡って偽の「病状経
過報告書」まで作られていたと云う。
 この様に宮本議長の出獄には不明瞭な点があり、法の適用の筋道からは、外れたもので
あったようである。

●文字通りの「ドサクサ出獄」であった袴田の心境

 一方、その後除名を受けた袴田の出獄はどうであったか。これもその法的根拠は極めて
不明瞭である。袴田は、昭和二十年一月一日から獄中記付けた。
 以前それが一冊の本になって公刊されたので、終戦から出獄に至る一喜一憂が手に取る
ようにわかる。出獄直前の袴田の行動と心境をこの日記から追ってみるとーー。
 袴田は十月五日、前日に出されたGHQの命令を知る。治安維持法の撤廃、政治犯の釈
放命令が出たことを知ったので、十月六日、刑務所当局と釈放時に於ける旅費や衣類の調
達を交渉するが「その際、所長の言明によって併合罪のものは本省より釈放命令が出てお
らぬと云う事を初めて聞かされ」る。
 「しかし自分の交渉によって多数の出所者が多くの利益を得たらば、自ら慰むるものあ
り」という心境であった。其の後十日迄に出獄後の方針等について話し合う。十日に竹中
等の政治犯は出獄する。
 十一日になると、刑務所が政治犯に対して

 「入所以来加えてきた弾圧の一つ一つの事実について、徹底的に刑務当局を
 糾弾すべく」

 戒護課長と面談する。これは十三日も続けられる。十五日には、アメリカ憲兵隊の将校
二名の訊問に答える。
 十七日、減刑令(勅令五百八十号)によって、「二年三ヶ月二十四日減刑される」こと
を知る。「些か噴飯に堪えず」というのがその感想であった。
 十八日になって、面会者から、宮本議長が九日に釈放された事を知らされる(この問題
は、共産党の中で重大犯である「宮本顕治」の釈放によって全ての共産党員を日本国内に
釈放させる目的で行われた。そして敗戦ドサクサに共産革命を起そうとする目的であった
のである。この戦法が”敗北主義”戦法である。これは尾崎秀美によって分ったことであ
る。当時のGHQの中に隠れ共産党が多くいたからである!忍)。袴田はこの事実を知る
と、それまでの、自分は併合罪があるから、釈放されないのは止む得ないという心境(「
日記」の行間から感じられる)を翻して突然強気になり、釈放を要求してハンストを行う。

 「宮本と自分とは罪名は全く同一である故に、自分を釈放しないのは明らか
 に当刑務所長の不当な処置である事が明瞭であるから、本日の昼食よりハン
 ストを以て当刑務所長及び司法当局者を相手に闘争する事を決意せり」

 これによって刑務所当局はかなり慌てたようである。”獄中日記”は18日付で終って
いるが、袴田は翌19日に釈放される。

 「次の日、夜が明けると、早々と所長が出て来て、『全責任は私個人が負う
 から、本省から未だ何の返事もないけれども、あんた、今日直ぐ出ていって
 くれないか』と云う話なんです。所長も大変慌てたでしょう」
 「宮本同志が釈放されたと云う事は新聞にも出たし、明瞭な事だった。所長
 もそれを知っている。それで、自分の責任で出したって所長個人の責任では
 ない、自分の手落ちと云う事はないだろうと思い私を出したと思います」
 (『党と共に歩んで』)

 袴田の出獄には何の法的根拠もない。宮本議長が出獄した事を知って、「宮本と自分と
は罪名は全く同一だ」と釈放を要求してハンストを行い、又「私は一晩中寝ないで」「所
長の罪状を書くのだ」と看守に言っておいた(『党と共に歩んで』)為、所長が慌てて出
したのである。
 これは、当に”ドサクサ出獄”である。

●法律を無視した共産党の反論

 このように、いわば”ドサクサ出獄”した宮本議長等は当然復権しなかった。勅令57
9号で「大赦」されず勅令730号も直ぐに適用されなかった。「病気による刑の執行停
止」であれば、病気が治ったら再び収監すると云うのが法律的な筋であったはずである。
 ところが、勅令730号が公布されてから1年半もたって、突然これが適用される。最
も当人達にとっては突然ではなく、抗議や要請を繰返した結果であろう。しかし、これが
どの様な経過を辿って、どのような法的根拠に基づいて適用されたのかは皆目わかってい
ない。このところで、当時絶対的な権限を持っていたGHQと仲の良かった共産党の立場
と関連づけられて疑惑がもたれているのである。此の点は、法務省当局が国会で、事実を
調査して報告するとしているから、やがて明かになる時が来るかも知れない。共産党は、
宮本委員長の「病気による刑の執行停止」と勅令730号が適用されたことについて共産
党はこう言っている。

 「宮本氏等だけが『釈放』でなく、『刑の執行停止』で出たとしていますが
 刑の執行中だった人は殆ど全てとりあえず『刑の執行停止』と云う形で日本
 政府は釈放したのです。宮本氏らだけが『刑の執行停止』などというのは、
 宮本氏らの『刑期が残っている』などという為の虚構に過ぎません」

 といった理屈をこね回して、判決そのものを否定する形で決着がつけられた、と主張し
ている。
 この共産党の主張は正しくない。
 宮本議長ら以外の刑の執行中の政治犯がとりあえず「刑の執行停止」で出獄したのは事
実である。しかし、それは10月5日の「刑事局長号外通牒」の「検事ノ指揮ニ因ル執行
停止」であって「病気による執行停止」ではない。宮本議長は併合罪があった為に「号外
通牒」に基づく「検事ノ指揮ニ因る執行停止」の措置がとれなかった為に「病気による執
行停止」となったのである。

●出獄後に「減刑」されたという事実の意味するものはなにか

 更に、一般政治犯には「大赦令」が適用されたが、宮本議長等に適用されたのはこれで
はなく「減刑令」の方である。
 ここで恩赦法について述べると、恩赦には「大赦」「特赦」「減刑」「刑の執行の免除」
「復権」の5種類がある。このうち「大赦」とは「有罪の判決を受けた者については、そ
の言渡は、効力を失う」というものであり、「減刑」は「刑を減軽し、又は刑の執行を減
軽する」というものである。更に「復権」とは「有罪の言渡を受けた為法の定めるところ
により資格を喪失し、又は停止された者に対して」「資格を回復する」というものである。
 このように「大赦」と「減刑」は全くその効力が違う。「検事ノ指揮ニ因る執行停止」
で出獄した大半の政治犯は、有罪の言渡は効力を失う、という「大赦」が適用されたので
あるが、宮本議長らは、刑事犯にも適用された途端に「刑を減軽」する「減刑令」が適用
されたに過ぎないのである。出獄後に減軽されるとはどういうことか。これは、その時点
で刑の執行が終っていなかった事を意味する。これも併合罪があったからである事は云う
までもない事であろう。
 このように、宮本議長らと一般政治犯の違いは併合罪があったか、なかったかで厳密に
区別して法の適用を受けていたのである。
 司法当局は、当初この様に厳密な法の適用を一貫していたのであるが、宮本議長等の抗
議によって、その態度をいつのまにか変えたのである。かっての国会に於ける稲葉法相の
答弁ではないが誠に「奇妙キテレツ」である(何故なら、共産党の本部は、国際銀行家で
あるから難しいのである!忍)。
 勅令730号は「但シ左ニ掲グル場合ニ於テハ此ノ限ニ在ラズ」として、刑法第二編の
罪など14項目を上げ、それとの併合罪の場合は除外している。そして宮本議長の治安維
持法以外の罪は全てこの除外規定に当てはまるのである。
 更に恩赦法によれば、復権は「刑の執行を終らない者又は執行の免除を得ないものに対
しては、これを行わない」としている。宮本議長の刑が終っていない事は明らかだし「執
行の免除」を受けたわけでもない。それにも関わらず、なぜ勅令730号が適用されたの
か。大きな疑問である。
 共産党は『赤旗』等を通じて「判決そのものを明確に否定する」と述べているが、これ
は仮にこの適用が正しかったとしても間違っている。勅令730号は明確に「人ノ資格ニ
関スル法令ノ適用ニ付テハ」と限定しているし、51年1月30日の衆院予算委員会に於
ける公明党矢野書記長の質問に対する政府答弁でも、この点ははっきりしている。
 まして、不破書記長(当時)が、宮本議長の判決原本に、勅令730号により「将来ニ
向テ其ノ刑ノ言渡ヲ受ケズリシモノト看做ス」を明記されている事は「刑の言渡しそのも
のがなかったとされたわけだ」(51年1月27日記者会見)等と述べるのは法律に無知
であることも甚だしい。判決原本にこの様に附記されることは特別のことではなく恩赦が
適用されれば附記することになっているのである。むしろ、判決原本に十月五日の「大赦」
が附記されていないことこそ問題なのである。
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 この”リンチ査問事件”は徐々に真相が明らかにされつつある。しかし、共産党にはま
だまだ謎の部分が多い。
 火炎瓶闘争に突っ込んだ時代の山村工作隊等・・・。
 これらが明らかにされない限り、まだまだこわい共産党のイメージは消えない。


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