"つくられた"共産国家ソ連ーー

教科書には出てこない、歴史の作られ方

(12)演出された冷戦構造

●冷戦構造は”つくりもの”に過ぎなかった

 1980年代の終わりから90年代初頭に掛けて、世界は大変化した。即ち、8
9年11月9日にベルリンの壁が崩壊、東欧諸国では其れを待っていたかの様に共
産党政府が倒れ、91年12月25日には、なんとソ連(ソビエト社会主義共和国
連邦)まで消滅してしまった。
 これで第二次世界大戦後、50年近くに亙って続いて来た東西(米ソ)対決の冷
戦構造も終った、とされた。歴史の一大ターニングポイントである。
 但し、冷戦構造が本当に終ったのかというと、私は異を唱えたい。冷戦構造が今
尚続いている、と云う意味ではない。そもそも冷戦構造というものが、本質的に存
在していたのかどうか、と云う疑問があるからである。米ソ対決の中で生まれ、今
世紀最大の謎を残したとまで云われた大韓航空機撃墜事件の”真犯人”捜しを、私
はそうした目で見ざるを得なかったのである。
 というと、先ずは「冷戦構造がなかった、と云うのはどういう事か」ーーそんな
疑問を、多くの人が持つ事だろう。しかし、冷戦体制が続いているとされていた時
にも既に、私と同じ様に冷戦体制に疑問を抱いていた人達がいた。

 「ソヴィエト連邦が武器販売を含む全財源からの外貨収入の年間
 総計が320億ドルほどしかないのに世界的帝国の地位を保って
 いる事を、多くの西側の政策決定者は何故奇異に思わないのだろ
 うか。……
  西側に於けるソヴィエト所有の大銀行には、北ヨーロッパ商業
 商業銀行即ちパリのユーロ銀行、ロンドンのモスクワ人民銀行、
 フランクフルトの東西商業銀行、及びルクセンブルク、チューリ
 ッヒ、ウィーンにあるその他の銀行が含まれる。こうしたソヴィ
 エト所有の銀行に預け入れられた西側の預金総額は凡そ50億ド
 ルに達する」(ウォールストリート・ジャーナル紙1986年3
 月10日号)

 例えばマリンズは、この記事を著書に引用し、共産主義と対決する民主主義の構
図は、実は”つくりもの”に過ぎないと、疑問視して来た1人である。つまり、ソ
連はボルシェビキ革命(1917年)以来、今日まで幻の帝国に過ぎず、現実には
存在しない空想の土地、つまり「ネヴァー・ネヴァーランド(現実には存在しない
空想上の土地)に過ぎなかった」と
 其れは、一体どういう事か。
 解り易い例でいうと、管理職向けの組織活性化のノウハウを説いた本に必ず出て
来る手法に、「ライバル同士を競わせる」と云うものがある。例えば、川上監督時
代の読売ジャイアンツは、王・長嶋と云う二人の名選手がライバル同士として火花
を散らしていたからこそ、チーム全体にも活気が出て、V9と云う偉業も達成出来
たと云う。所謂”トロイカ方式”と云うあれである。
 これを逆に云えば、部下を上手く統括するには、能力の高い部下の間にライバル
(競合)関係を作り出し、お互いに競わせればいい、と云う事になる。双方が頑張
れば、上は労せずして組織の目標を達成したり、利益を上げる事が出来る。しかも、
部下達が手を組み合ったら、上を引き摺り落とす危険が生じかねないが、部下同士
が争っている限り、上は安泰である……。
 このように”分割して統治する”、つまり敵対関係を作り出して双方から利益を
得る手法は、もともとユダヤ賢人達の伝統的で戦略的な智恵(闘争管理方式)なの
である(昔のヨーロッパの植民地支配方式がこの方式である。だから、主犯を捕ま
えないと、仲間割れをして肝心な主犯が取り逃がしてしまう!愛)。この手法が用
いられたのが、実は冷戦構造だという訳だ。しかし、管理する者の力が確固たる者
になり、態々一つを二つに分けて管理する必要もなくなった。ここらで分けて来た
二つを一つに一本化しようーーそうした”意思”つまり匙加減によって作られて来
た”冷戦構造”も、再びその匙加減によって終わりを告げた。こういう観点に立て
ばこそ、現在、世界で起っている事、或いは日本が置かれた状況等が”見えて”く
る(単純に、其れだけではない。勿論、西側諸国から操った関係者も東側の人間だ
と考えれば、この構想にはならない。この著者の考えは、共産主義を考えている方
向が悪である認識が少ない。これだと、冷戦構造と普通の経営管理の違いが見えて
こない。共産主義は正しいだと考えてしまう。だから、共産主義者を取り締まる事
が出てこない。共産主義思想の悪は、反道徳的な法律を作る事を目的にした思想で
あるから、其れに対して危険視する事は間違いはない。
実際に共産主義革命を考え、
実行した犯人の主犯を取り締まらないで、”下っ端”だけ取り締まって、其れで
”冷戦構造”が終ったと言っている所に問題があるのです!愛)。

●”ソ連悪玉論”の作られ方


 冷戦構造なる構図を人々が意識させられるようになったのは、第二次世界大戦終
了から間もない頃かもしれない。1946年、イギリスのチャーチルはアメリカの
フルトンでの演説の中で、「バルト海のステッテンからアドリア海のトリエステま
で、大陸を横切って鉄のカーテンが下りた」と述べている(その前にチャーチルは、
ヤルタ会談でソ連支配を認めたし、その前に第二次世界大戦前にロシア革命が起き
てその悲惨さとドイツの悲劇を知っていながら、ドイツに対して同盟して第二次世
界大戦で戦った事自体が、共産主義による残虐な支配に加担していたのである。民
主化とは関係がない。しかしこの事はアメリカ人の一部が行なったに過ぎない!愛)。
 更には、1947年に発表された「対ソ封じ込め計画」と題する一つの論文もあ
る。その論文に曰く、

 「ソ連に対する合衆国の政策は何れも、ソ連の拡張主義的傾向に対し、長い目で
 見て忍耐強く、しかし断固として警戒を怠らないように封じ込めるべし」
 
 この論文を書いたのは、ソ連通のアメリカ外交官で歴史家のジョージ・ケナンで
ある。其の論文が発表されたのは、CFR(外交問題評議会)の機関紙『フォーリ
ン・アフェアーズ』の誌上でである。
 ケナンは叔父(ジョージ・ケナン)の名前を受け継いだのだが、この叔父はスパ
イ工作員だった。ロスチャイルドに肩を並べる金融家ジェイコブ・シフ(クーン・
ロェブ商会の創業主)の命令で、ボルシェビキ革命以前から、ロシアでマルクス主
義者に資金を流して革命工作に奔走後、ロシア皇帝に国外追放された人物である。
 血縁絡みでややこしいのだが、敬愛する叔父の仇を取る為に甥のケナンが”ソ連
封じ込め論”を書いた、という訳ではまるでない。ケナン論文は飽くまでもCFR
がソ連を、あの用済みになったヒトラー・ドイツに代わる次の”敵国”に見立てて
おく必要から、アメリカ外交の方向を其方へ向けさせる世論操作用の一遍だったの
である。
 論文が更にCFRメンバーに連なるマスコミ機関に転載されて、アメリカ国民や
同盟国の大衆の中に”悪玉ソ連像”が浸透して行く(実際に悪い事もしたから否定
する事は出来ない)。『タイム』『フォーチュン』『ライフ』『スポーツ・イラス
トレーテッド』等が其処に含まれる。
 無論ニューヨーク・タイムズ紙、ワシントン・ポスト紙、ニューズ・ウィーク誌
他の名の知られたアメリカの新聞、雑誌が更にケナン論文を取り上げる。そして、
対立意見をも堂々と、巧妙に取り入れた議論の後、ケナンの提唱はCFRを含む組
織中央が予定した通りに、1947年以降のアメリカの対ソ公式政策として政府議
会で決定され、1991年のソ連崩壊まで、その外交設定が続けられたのである。

(13)ソ連を作ったスポンサー達

●ロシアの革命家トロツキーのスポンサーは、ロックフェラーだった

 資本主義を否定した社会主義国である筈のソビエトが、そもそも建国時点から、
実は国際金融ビジネスマン達と深い関係を持って来た事実を挙げれば際限が無い。
 その一端を、アメリカで最も有名な二つの家族の一つと言われるロックフェラー・
グループに見てみよう。尚前章で述べたように、ベクテル社を、ヘンリー・シュロ
ーダー社と共同で支援したもう一社のエヴェリー・ロックフェラー・グループは、
このロックフェラー家に連なるエヴェリーとその企業グループである。
 例えば、19世紀後半、アメリカの全鉄道の95%はJ・P・モルガンとクーン・
ロェブ商会が支配していた。石油を全米に販売していた石油王ジョン・D・ロック
フェラーは、石油の鉄道運賃を格安に抑える為に、自社が株式支配する会社サウス・
インプルーブメント社を通じて、石油運賃の特別割り戻しを先の2社から受け、そ
の商法で石油価格を下げる事によって、ライバル石油会社を潰してしまうのである。
このジョン・ロックフェラーのスタンダード石油を背後から資金支援したのが、ク
リーブランド・ナショナル・シティ・バンクであり、その銀行を支配していたのが、
ロスチャイルド・インターコンチネンタル・バンクである。そういう図式が背後に
あった。
 金融問題で揺れる日本でもその名前が知られるようになったアメリカの企業格付
け会社ムディーズの創設主、ジョン・ムーディーは、1911年に、

 「スタンダード石油会社は、実際は最も巨大な銀行である。
 云うならば、企業内銀行である。……他の大銀行が行なって
 いるのと全く同様に、必要な借り手に多額の金を貸している。
 ……社名も”スタンダード銀行”と言う方が良い。ロックフ
 ェラー自身は銀行家でもなんでもない。この事から、この
 ”スタンダード銀行”はプロの銀行家達の指令を受けて動い
 ていた事が分る」

 と述べている。ムーディーの言う”プロの銀行家”とは、詰まりJ・P・モルガ
ンの事であり、クーン・ロェブ商会なのである。
 ロックフェラー家の姻戚に当たるエヴェリー事ジャネット・ポムロイ・エヴェリー
の結婚相手が、ウォール街の法律顧問を独占、パリ講和会議に臨み、後にアメリカ
銀行連合の法律顧問としてクルト・フォン・シュローダー卿と一緒にドイツに(ヒ
トラーとの会見の為)乗り込んだ、あのジョン・フォスター・ダレスである。彼は
妻を通じてロックフェラー家の一員に連なっていたのである。
 この、ウォール街の弁護士ジョン・フォスター・ダレスの1920年代の顧問先
銀行は、J・P・モルガン商会、ナショナル・シティ社、クーン・ロェブ商会、デ
イロン・リード、ギャランティ・トラスト、リー・ヒギンソン、ブラウン・ブラザ
ース・ハリマン等であった。
 さて、ジョン・D・ロックフェラーは、1917年に、ボルチェビキの権力奪取
を支援させる目的で、ニューヨークにいたレオン・トロツキーに1万ドルの旅費と
パスポートを与えてレーニンの元へと駆けつけさせた。レーニンとトロツキーに手
を組ませてボルシェビキに隆起を呼び掛けてケレンスキー政府を倒し、”世界初の
社会主義革命”を成功させたのが、1917年11月である(その前のフランス革
命も清教徒革命も同じ様なものである!愛)。其の11月8日には、新政府として
人民委員会議が誕生し、議長にはレーニン、外務人民委員にトロツキー、民族人民
委員にスターリンが就いた。
 しかし、その後、1924年にレーニンが死ぬと、トロツキーとスターリンの間
に権力闘争が起る。この闘争に負けたトロツキーは、1925年に軍人人民委員の
地位を解任される。1926年10月になって、そのトロツキーを切り捨て、スタ
ーリン支援に乗り換えた人物が、ジョン・D・ロックフェラーなのである。その翌
27年には、トロツキーは共産党から追放される。ジョンは、彼の経営指南役であ
り石油、鉄道の大株主の銀行クーン・ロェブ商会の設立者ジェイコブ・シフと共に、
ロシア革命を推進するスポンサーであったのだ。シフは、ジョージ・ケナン(あの
ケナン論文の主の叔父に当たる)をシフの個人代理人に仕立てて武器や2000万
ドルの資金をボルシェビキ革命派に贈っている。
 読者はここで奇妙な因縁の矛盾に駆られるかもしれない。何故なら、ロシア革命
支援についたのがジョージ・ケナン(叔父)なら、その逆にソ連封じ込めに走った
のもジョージ・ケナン(甥)だからだ。が、彼等は、前に述べたように、ケナン家
の偶々同姓同名の姻戚者として、国際金融資本家達の方針に従ったに過ぎない。

●日露戦争で、日本が大国ロシアに勝てた本当の理由

 叔父のケナンは、実は日本政府から従軍記章と瑞宝章を授与されている。その理
由は、ケナンが日本の為に日露戦争(1904〜05年)の戦費調達(債権償還)
に一肌脱いだからとされている。言うまでもなくその資金は、ケナンの背後にいた
ジェイコブ・シフ(=クーン・ロェブ商会)から出ていたのである。
 シフが日本に金を出したのは、他でもない、ロマノフ王朝の足を引っ張り、社会
主義革命を1日も早く成功させる事、そして、もう一つ、ロシア軍のドイツ攻撃を
防ぐ事にあった。其処で、日本に戦費を与えてロシア軍と戦わせれば、東西に戦力
を分断されたロシア軍はドイツと戦う余裕が無くなると言う訳である。
 ロシアとドイツの確執は1880年代から始まっていた。ドイツがトルコに経済
進出し、黒海と地中海を結ぶ要衝ボスポラス海峡を抑える事によって、ロシアの黒
海からの穀物輸出の脅威となった事、又ドイツがバルカン半島からトルコに掛けて
鉄道を計画し、これが又バルカン半島進出を狙うロシアと打つかった事などがある。
このロシアとドイツの正面衝突を避ける、と云う理由で、シフ等の国際金融家達が
日英同盟や資金の提供と云う形で日本を”支援”したに過ぎないのである。
 これが、一つのものを二つに分けて敵対させる事で支配する、と云う管理哲学と
いうか商法なのである。こうした”支援パターン”は、その後のソビエト革命政権
への支援、ナチス・ヒトラーへの支援と、何度も繰り返される(これは、違う。国
際金融が行なったドイツの酷い支配とソ連の共産主義革命に反省した国際金融家が
親・兄弟に対抗して、ヒトラーに資金援助をしたのである。勘違いをしないで欲し
い。これは、基本的に神と悪魔との間の戦いであった事を認識して欲しい!愛)。
 尚、ここでは、3章で触れた事をもう一度思い出して欲しい。ベクテル社を応援
したJ・ヘンリー・シュローダー社の創立者、ブルーノ・フォン・シュローダー男
爵が、ロスチャイルド、ロイズ銀行等と組んで、バグダード鉄道を買収しているが、
この取引きは、第一次大戦後、ドイツがトルコに持っていた利権の処理に絡んでい
た事を、である。国際金融ビジネスマン達は、さすがにやる事が大きいというか、
大儲けするチャンスを作り出すのが上手いのである。

●ロシア革命を経済的支援したのはアメリカの企業だった

 革命派支援団はジョン・D・ロックフェラーやシフ達ばかりではない。例えば、
・ファースト・ナショナル・バンクの創立者ジョージ・ベーカー
・ロスチャイルド家の代理人オーガスト・ベルモント
・ユニオン・パシフィック鉄道の創立者E・H・ハリマン
・元副大統領でUSスチール・ユニオン・パシフィック鉄道の役員レヴィ・モート

・同じくユニオン・パシフィック鉄道の役員で、スタンダード石油のジョン・D・
ロックフェラーの共同経営者ヘンリー・ロジャーズ
 これらの人達は、ニューヨークのギャランティ・トラスト(現モルガン・ギャラ
ンティ・トラスト)の役員(1903年時)だが、このギャランティ・トラストは
革命派支援と深く関っている。
 ジョン・ムーディーは、『マクルーアズ・マガジン』誌1911年8月号で、
『7人の男』と題して次のように述べた。

 「ウォール街の7人の男達が、合衆国の基幹的な産業及び至言
 の大部分を支配している。その7人の男の内3人、つまりJ・
 P・モルガン、ジェームズ・J・ヒル、そしてニューヨーク・
 ファースト・ナショナル・バンク頭取のジョージ・F・ベーカ
 ーは、所謂モルガン・グループに属する。
  残りの4人、つまりジョン・D・ロックフェラー、ウィリア
 ム・ロクフェラー、ナショナル・シティ・バンク頭取のジェー
 ムズ・スティルマン、個人銀行クーン・ロェブ商会のジェイコ
 ブ・H・シフは、スタンダード石油=ナショナル・シティ・バ
 ンク・グループに属する。……
  資本の中央機構はその支配を合衆国に広げている、その支配
 過程は経済的に必要であるばかりか、今や実務面でも自動化さ
 れているのである」

 このアメリカ合衆国を支配する男達が、ボルシェビキ・ロシア革命を熱心に応援
していたのである。1915年から1933年のピーク時まで、アメリカの銀行と
その傘下の大企業グループは、ロシア革命とその後のソ連経済支援に向けた金融支
援に拍車を掛ける。1915年には支援会社も設立された。アメリカン・インター
ナショナル。コーポレーション(略称AIC)である。会社設立は、それまで金融
家達がロシア革命派に私的立場でバラバラに行なって来た財政支援を調整する目的
もあった。
 AICのメンバーをあげておこう。
・ピエール・ヂュポン
・クーン・ロェブ商会のオットー・カーン
・第41代大統領ジョージ・H・ブッシュの祖父に当たるジョージ・ハーバード・
ウォーカー
・ニューヨーク連邦準備銀行理事ウィリアム・ウッドワード
・ハリマン=クーン・ロェブ系のユニオン・パシフィック鉄道役員ロバート・S・
ロベット
・ナショナル・シティ・バンク創立者の一員ジェームズ・スティルマンの息子J・
A・スティルマン等々である。

●革命政府支援は、”おいしい”ビジネス

 ボルシェビキ政権の将来を保証するアメリカの支援活動の根拠には、一体何があ
ったのか。
 次に引用するのは、銀行家達の支援で合衆国大統領の座を得たウッドロー・ウィ
ルソンが、第一次世界大戦後のパリ講和会議(1919年)の場で、共産主義国を
支援する銀行家を前にした演説の一部である。

 「我々の態度と目的ははっきりさせよと要求する一つの声があ
 ります。私にはその声が、混乱した世界情勢の中で発せられて
 いるどんな感動的な声にもまして、大きく我々を突き動かす力
 を持っている様に思えるのです。其れはロシア民衆の声であり
 ます。我が合衆国にも、ボルシェビキ思想に共感している非常
 に素晴らしい気質を持った人達がいます。彼等には、ボルシェ
 ビキ思想こそ、自分達の目標、即ち個人のチャンスを与える体
 制を提供するものだと見えるのです」(セガーズとカーン共著
 『ロシアに敵対する大謀略』より)

 このウィルソン演説にある”素晴らしい気質”の意味を、マリンズは次のように
解釈している。それは、レーニンが革命で意図する5項目、即ち「銀行の国有化、
企業連合の国有化、商業秘密の廃止、保険業の国有化、全住民の消費組合への強制
的組織化」は、つまりは私的財産を廃止して国家の支配下に置く、という考え方そ
のものであり、ロスチャイルドやシフ達の国際金融家達が既に18世紀以来進めて
来た”闘争管理方式”、つまり彼等による世界支配に沿った考え方(気質)なので
ある、と(これは、上辺の言葉である事を忘れてはならない。真の狙いは、1 君
主制と全ての秩序ある政府の廃止、2 私有財産の廃止、3 相続の廃止、4 愛
国心の廃止、5 家族制度の廃止[即ち、結婚とあらゆる道徳及び子供の公共教育
制度の廃止]、6 全ての宗教の廃止[これが主な目的で神を否定する事を先決して
いる。共産主義の基本的な原点は唯物論であり、『宗教は阿片だ』と言って反宗教
活動を手段として行なっている事を忘れてはならない。真の目的は、『殺人は善で
ある』と云う法律を作る事を考えている集団である])。
 資本主義者が共産主義体制を誕生させようと支援した!−−「ネバー・ネバーラ
ンド」たる所以を解り易く云えばこういう事なのである。これでも未だ、ソ連を
”帝国”だと信じる読者には事例が乏しいと感じるかもしれないから、更に歴史的
事実を列挙しておこう。実際の所、アメリカ政府議会と民間金融団のロシア革命へ
の支援は凄まじかった。
 アメリカ議会のロシア債券公聴会記録HJ8714U5、並びにウィルソン大統
領の秘書であるジョゼフ・テューマルティの証言を記録した連邦議会議事録(19
19年9月2日)には、アメリカ政府がボルシェビキ支援金2000万ドルを特別
戦時資金から支出した事実を示している。現金を持参してロシアに向ったのは、ク
ーン・ロェブ商会の弁護士で前国務長官のエリフ・ルートであった。
 又、商務長官のハーバード・フーバーは、7800万ドルの経費(2000万ド
ルは政府予算、4000万ドルは募金)を投入、700万トンの食料その他の物資
(陸軍から提供された800万ドル相当の医療品を含む)をモスクワに提供した。
尚、フーバーは後に米大統領に就任、何と反共派の大統領として一般には知らされ
ている。又、大統領に就任した1929年の年頭に”アメリカ資本主義の永遠の繁
栄”を予言しておきながら、同年10月24日の”暗黙の木曜日”にニューヨーク
株式取引所で株式を大暴落させ、世界大恐慌を起こしている。
 さて、ボルシェビキ革命政府支援に立ち上がったビジネスマン達は、高潔なる志
だけでこうした支援を行なった訳ではない(言葉の表現は悪い。何処が高潔なる志
か。悪魔主義に支援する内容は高潔である訳ではない。下品の内容を「高潔」と言
うな。元々下心ある内容しかない。共産主義思想は、神を否定した思想であるのに
どうして「高潔」という言葉が出て来るのか
『共産主義思想が何故悪いのか』!愛)
。彼等は、ちゃんと見返りを得ていた。
 例えば、ロシア人達は800万ドル相当の医薬品の代金を、ニコライ皇帝から奪
った金塊で支払った。
 又、ソ連邦の地下に眠る石油も、支援の見返りになった。1927年、ニュージ
ャージー・スタンダード石油は、コーカサスの石油生産量の半分を引き取る契約で、
現地に石油精製工場を建てた。ロックフェラーのヴァキューム石油は、ロシアで産
出する石油のヨーロッパ販売契約をソ連の石油シンジケートとの間で締結する見返
りに、7500万ドルをソ連に融資した。
 金融会社J・P・モルガンと、ロシア皇帝の金塊を保管したギャランティ・トラ
ストは、アメリカ国内でソ連政府の金融代理業務を引き受けると同時に、商務長官
ハーバート・フーバーに代行させて、新設のモスクワ国立銀行(ルスコム銀行)と
業務提携許可の決議案を米国議会で通過させた。
 こうした支援を受けて、レーニンの革命政府は維持されたのだが、その代価は何
としても支払われねばならなかった。


 「人民委員会は金に対する国家独占令を発した。教会、博物館
 を始めとする各公共機関は、所有する金製品を国家の手に委ね
 るよう求められた。個人所有の金製品も国家に提出されなけれ
 ばならない。密告者は金製品の価値の1/3の報酬を受け取る
 事になる」(ペトログラード発のニューヨーク・タイムズ紙1
 918年1月30日付の記事)

●”利益を生む”慈善活動に、赤十字も利用された

 アメリカ国務省のお墨付きの下でソ連支援活動の慈善活動に励むアメリカの使節
団なるものの活動ぶりは、次のようなものだった。

 「国際金融業者達は、…… (テロリストの)ボルシェヴィキを
 『世界中に兄弟愛と博愛を広めることのみを願う理想主義者、献
 身的人道主義者、キリストの現代の使徒』として売り込んだので
 ある。『愛の使徒』達が、何百万人もの女・子供を虐殺する度に、
 ロシアで絶え間なく鳴り続けるマシンガンのうなりを背景にして、
 場違いな讃美歌のメロディが響き渡った。だが、合衆国にいるボ
 ルシェヴィキ崇拝者達の耳には、其の音程が狂っているとは聞こ
 えなかった」

 マリンズのこのような表現は、取り立てて偏見に歪められたものとはいえない。
というのも、私自身が、かってスペイン内戦で暴れまくった友人、ベラスコ(口述)
から、こうしたロシアの実態と同じ例を飽きる程聞かされて来たからだ。
 革命政府は、”敵対者”を、独裁者の皇帝以上に厳しく弾圧した。産声を上げた
ばかりの脆弱な革命政府を守る為に止むを得なかった、と云えば聞こえはいいが、
革命政府の施政に不満を表明したというだけで、多くの労働者や農民、そしてその
家族達が殺されていったのは周知の事実である。
 そうした”血にまみれた”革命政府であるにも関らず、アメリカからの支援金の
額は桁外れに上昇するばかり。その為には、赤十字も利用された。例えば、第一次
大戦の最中、赤十字ロシア使節団の団長レイモンド・ロビンズは、赤十字活動費の
現金3億7000万ドルの内から数百万ドルをロシア人テロリスト、つまりマリン
ズの云う”愛の使徒”達の手に渡していた。
 又、1918年2月2日付のワシントン・ポスト紙は次のような記事を載せてい
る。「昨年11月まで」ペトログラードに滞在していたウィリアム・ポスト・トン
プソンは、ドイツとオーストリアにボルシェビキの教義を広める為に個人で100
万ドル寄付した」
 トンプソンは、ウォール街の大手金融業者や弁護士達によるボルシェビキ政権救
済使節団の団長で、トンプソンが寄付した100万ドルは、J・P・モルガンがナ
ショナル・シティ・バンクのペトログラード支店経由の電報為替で送金したものだ
った。
 公的な慈善活動と私的ビジネスは、コインの両面をなした。先のレイモンド・ロ
ビンズの赤十字使節団の団員としてロシアを訪れたハロイド・H・スフィフト大佐
は、義兄エドワード・モリスの会社の為に1000万ドルの食肉の注文をロシアか
ら取って来た。更に1920年1月にもソ連はモリス社に5000万ドル相当の食
肉を追加注文した。
 新生ソビエト政府並びに対ソ貿易をアメリカ政府に承認させ、両国のビジネス交
流窓口としてアメリカーロシア商工会議所の設立(1922年)に奔走したチェー
ス・ナショナル・バンクは、その見返りにソ連への信用貸し、例えば軍需物資貸与
契約で動く莫大な資金を扱った。

●ソ連人民は、ロックフェラーが大好き

 こうして資本主義国アメリカの国際金融家達が前面に立って蒔いたボルシェビキ
革命と云う名の種は、ロシア社会に隈なく施された豊富な肥料を吸収して社会主義
国ソビエト・ロシアとして育ち、1933年には”予定通り”アメリカ合衆国政府
に承認された。
 要するに、18世紀後半から英国で資本家としての根を下ろしたロスチャイルド
やシフ等の民間金融業者が、アメリカ合衆国を金融面から支配したそのやり方で、
今度はアメリカのモルガンやロックフェラーを使ってソ連支配を完了したのである。
 分割して統治する、つまり敵対関係を作り出して双方から利益を得る、と云うユ
ダヤ賢人達の伝統的で戦略的な智恵(闘争管理方式)が、資本主義国アメリカと対
決するソビエト・ロシア社会主義国と云う構図を確定させたのである。
 このような社会主義国ソビエトの成り立ちを伺わせる、近年のエピソードがある。
其処には、誰がソビエト・ロシアの本当の主人公なのかが、はしもなく顔を覗かせ
ている。
 アメリカのフランク・チャーチ上院議員は、キエフのダートマス会議にディビッ
ド・ロックフェラーと共に出席した。1971年のその時の場面をチャーチはこう
語った。

 「ディヴィッド・ロックフェラーは、我が国では王室の人間を
 もてなすのと同じ様な待遇を(ソ連側から)受けていた。ロシ
 アの人々は、自分達がどれ程ロックフェラーを崇めているかを
 証明しようとするかのようだ。こちらが困惑する程物凄い。デ
 ィヴィッド・ロックフェラーの飛行機が着陸すると、空港には
 群衆が出迎えにずらりと並ぶ。彼のリムジンが通り過ぎる時、
 モスクワの通りには群衆が並んで、歓呼の叫びを挙げる」

 チャーチの目に映った、ロックフェラーを熱狂的に崇拝するロシア人のみならず、
スターリン自身にさえ、革命成就の時からロックフェラーを特別扱いした解り易い
エピソードがある。1935年、スターリンは強引にソ連領土内の外国投下資本を
接収したが、ロックフェラーのスタンダード石油とその関連資産には手を付けなか
った。ヴァキューム石油、インターナショナル・ハーヴェスター、ギャランティ・
トラスト、ニューヨーク生命等、モルガン、ロックフェラー達の財閥の傘下にある
関連会社は接収を免れたのである。
 こうしたスターリンの手加減、其の30数年後のソ連邦市民のロックフェラーへ
の熱狂的な歓迎、それらはアメリカ合衆国(からの援助)無しには立ち行かないソ
連の真実を吐露した、赤い国の人々のパフォーマンスなのだ。
 この様にして、アメリカ資本、つまり国際ビジネスマン達によって育てられたソ
ビエトは、表向き”世界の悪役”を70年間も演じ続けて来たのである。

『★ロックフェラーと共産主義の関係』

(14)ソ連支配に不可欠だったKGB

●大量虐殺でようやく成り立っていた革命政府

 人類の歴史の中で始めて誕生した社会主義国ソ連にあって、レーニンの死後の後
継者争いで勝利した人物は、ご存知の様にスターリンだった。彼の最大のライバル
であるトロツキーは、前にも述べた様に、大スポンサーのロックフェラー達に見限
られた事で脱落した。しかしスターリンは、ソ連共産党中央委員会を牛耳るように
なったものの、1930年からの3,4年間は、足下もおぼつかない期間として過
ごす。
 スターリンは経済に弱い(誰がこの国を実質支配したかを想像すれば、経済オン
チのスターリンは当に適役であったが)。しかしその反面では、レーニンが言う
「狼と共に暮らす時には、狼のように吠えろ」の喩えを借りて云えば、スターリン
は只管吠えて噛み付くだけの獰猛なリーダーとしては最適役だったようだ。
 国民を鷲掴みにして強引に引きずり回す役回りに長けたスターリンは、(スポン
サー等が)意図していた集団農場の国営化に踏み込む。が、私有農場を国家管理さ
せまいとして武器を手に猛反発する500万人以上の農民(全農民の半数)を敵に
廻す事になり、ソビエト国内は泥沼状態になる。
 内戦の恐れを憂いたスターリンは、反対運動を押え込む対策を、ユダヤ系ポーラ
ンド人のヒヤチェフラフ・ルドルフォビッチ・メンジンスキーに託した。メンジン
スキーが、テロ対策担当のOGPU(合同国家政治保安部)の元長官ジェルジンス
キーの覚え(が)めでたかったその実績をスターリンは買ったのである。
 ジェルジンスキーは、レーニン死後のスターリン、トロツキーの後継者争いの際
にスターリン派に付いた人物で、後のKGB(国家保安委員会)の原形を完成させ
たソ連秘密情報機関の元祖と呼ばれる。読者には御記憶もあろう、1990年のソ
連崩壊時に、ルビヤンカのKGB本部前に立つジェルジンスキーの巨大な銅像が大
衆の手でクレーンに吊るされ、倒される場面を。テレビでも報道され、ソ連の恐怖
政治を、特にジェルジンスキーが象徴したその恐怖を世界に強く印象付けたあの場
面を、である。
 メンジンスキー率いるOGPUに話を戻すと、銃や斧、ナイフで抵抗する農業財
産国有化反対の未組織農民達も、OGPUの容赦ない過酷な取締り、所謂恐怖の
「赤色テロル」で破滅してしまう。農場からは穀物、家畜、酪乳がOGPUによっ
て強制搬出され、推定550万人以上の農民が、飢餓、疫病、強制収容所送り、或
いは射殺されて死んだと云われる。OGPUは報告書の死者数を削りに削ってスタ
ーリンに提出、そこには死者数350万人と記されていたと云う。

●ソビエト経済を支えた強制労働収容所

 烏は白くなれない。スターリンは、薬剤師のゲンリヒ・グリゴーリエビッチ・ヤ
コーダを、OGPU長官メンジンスキーの後釜に据える。其のヤコーダは人間抹殺
の生体実験を好み、毒薬研究に傾けたその情熱の矛先をメンジスキーに向け、薬殺
する。”大量虐殺者”メンジスキーは、後任にその責任を取らされたのである。メ
ンジンスキーを毒薬で殺させ、ヤゴーダを長官に任命したのは、無論狼男スターリ
ンである。
 ヤゴーダは、世界的な作家ゴーリキーも毒殺した。ルビヤンカ監獄の地下室でそ
の”儀式”は、いつもの様に実行された。
 そして1936年6月、そのヤコーダも又、生体実験施設が設けられたモスクワの
ルビヤンカ監獄の地下室で、スターリンの命令で銃殺される。
 スターリンは、ソビエト・ロシアのリーダーに就いてから数年間で、控えめに見
ても1000万人の自国民を葬ったと云われる。粛清、抹殺、監禁、強制労働、そ
して恐怖……。これらの言葉の頭には、全て大と云う形容詞が似合う。
 しかし、これらの”暴力”は、ソビエトと云う新たに作られた国家を維持して行
く上では不可欠だった。「人権」とか「民主主義」を謳っていたのでは立ち行かな
い。収容所を用意して、唯同然の”労働力”を”合法的”に入手して地下資源の発
掘現場に送り込み、高い利潤を追求する、そうした言わば工場大陸化が国際金融達
のソ連支援目的だから、当然なのである。
 アメリカのような自由主義と云うソフトな形で国民を従わせていくか、或いはソ
連の様に、一党独裁の下に、暴力と云う直接的・ハードな形で国民を従わせていく
か。どちらがが効率のいいやり方なのか、これは、恐らく”支配者”には大変興味
の湧く問題であろう。其れを、実験して確かめてみたい、と考える者がいたとして
も不思議ではない。”大虐殺”が行われているその国に、前節で見たように、国際
金融業者達はせっせと金をつぎ込んでいたのである。
 と云う訳で、一党独裁の下でのソビエト体制の維持に、強制労働収容所とKGB
が象徴する”恐怖”で国民を縛り上げる経営理念と、其の工夫が施されたのである。

●遂にソ連の顔となったKGB

 ソ連の国家保安組織が現在のKGB(国家保安委員会)になったのは、1953年
のスターリンの死を受けた1954年の事である。このKGBを「史上最大の秘密情
報機関」と呼ぶ向きもあるが、フリーマントルは其の著書『KGB』で、「KGBは
其れ以上」であり、「KGBそのものこそソビエトなのである」と述べている。
 例えば、「66552Kmに及ぶ領海沿岸と国境を警備しているのは、KGBの武
装車である。又密告者や関係官庁から係官を通じて、学校やアカデミー、大学、更に
公認された全芸術分野の教育をモニターしている。……警察や軍部までが支配下にあ
る。……何処の市町村であれ、例え片田舎の寒村だろうと、密告者(インフォーマン
ト)のネットワークが張り巡らされ、人口26880万人の行動様式や言動を内偵し
ている」と云った具合だ(フリーマントル著『KGB』新潮社、43頁)。
 1954年から1982年11月にブレジネフ書記長が死去するまでのほぼ30年
間で、5人のKGB議長が交代するが、67年4月にKGB議長に就いたウラジミー
ル・アンドロポフは、1956年にソ連支配から逃れようとしたハンガリー政府の意
図を挫き、68年には、自由化政策を推し進めるチェコスロバキアで、KGB仕込み
のプラハの秘密警察を存分に活用、反体制派を一網打尽にする等、動乱を押え込んだ
大物である。その実績を買われたアンドロポフは、ブレジネフの死後、保安組織関係
者(フリーマントルの言葉を借りれば”秘密警察長官”)としてはソ連初の党書記長
に大抜擢されるのである。
 最高首脳部は、英語をこなし、芸術にも造詣の深いアンドロポフを起用する事で、
ポスト・ブレジネフの新生ソ連を世界に印象付ける、詰まりイメージアップを狙った
訳だ。アンドロポフも又、党の若手書記局員ミハイル・ゴルバチョフを後押しして、
後に世界の桧舞台に登場させる。
 暗いソ連、隠し事の天才国ソ連、そうしたイメージを払拭する路線が始ったばかり
のアンドロポフ書記長時代に、あの大韓航空機007便撃墜事件が起ったのである。
 この推移の中で起きた軍部による大韓航空機007便の撃墜は兎も角、生存者を残
した事(アンドロポフ書記長は、何故生存者を残したのか。愚問か。生存者の命に
関る問題である!愛)はソ連詰まりKGBを大いに動揺させる事件(アクシデント)だ
ったに違いない。そもそもの誕生時から、”暴力”と”恐怖”を支配原理として来たソ
連の政治家には珍しくソフトな印象を振りまいていたゴルバチョフにとって、シフリン・
レポートの出現は、開いた口が塞がらないショッキングな事件だったに違いない。

●新生ロシアも又、KGBの国

 KGBがこの国を支配する体制は、新生ロシアになってからも変わらない。例えば、
1999年8月1日、エリツィン大統領はステパーシン首相を解任している。読売新
聞によれば「治安畑を歩んで来たタカ派」と云われるステパーシン首相代行に指名さ
れた99年5月12日から、僅か2ヵ月半後の事である。ステパーシンの後任にはプ
ーチン連邦保安局長を指名した。
 この17ヵ月で4人の首相を解任すると云う、実に目まぐるしいエリツィン人事だけ
に、次期大統領候補と云われるプーチンがどうなるかは分らないが、解任されたステ
パーシンにしろ、今度のプーチンにしろ、その前職から分る様に、れっきとしたKG
Bの人間である。勿論エリツィンもKGBとは無関係ではない。彼も若い頃、情報機
関での訓練を受けているのだ。
 こうした事実を見ても、ソ連・ロシアがKGBによって支配されて来た事、そして
最早其の事実を隠す事さえしなくなった、と云う事がお分り頂けよう。
 その国が、実は「敵対させて支配する」と云う哲学のもと、国際ビジネスマン達の
意を受けたアメリカの資本によって作られたものであると云う事実ーーその嘘の歴史
を引っぱがしかねなかったのが、007便事件だったのである(プーチン大統領が行う
事は、大韓航空機の乗組員と乗客全てを解放する事である!愛)。