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ポリショイ・ソロヴェスキー島の収容所の中身

◎第2章 群島は海から浮び上がる

 半年も白夜の続く白海でポリショイ・ソロヴェスキー島は水の中から幾つかの白堊の教会を持ち上げている。其れ等の教会の周りには岩の城壁が巡らせており、其の城壁には地衣が付いて錆びた赤色をしている。そして灰色のソロフキの鴎達が常に城砦(クレムリン)の上空を飛び掛かい、鳴き声を上げている。

 「此の様な明るい雰囲気の中には罪等存在しないかの様に思われた……
 此の様な自然の中では未だ罪も生まれていなかったかの様だった」

と、プリーシヴィンはソロヴェツキー諸島から受けた印象に付いて述べている(註、ソロフキ諸島では修道士達だけが、彼には罪深い存在の様に見えた。其れは1908年の時だったから、当時の自由な考えでは僧侶の事を悪く言う事は出来なかった。しかし、《群島》を通って来た我々には此等の修道士達は天使に見えたかもしれない。何時でも『腹一杯』食べられたにも関わらず、彼等はゴルゴフスコ=ラスピャトスキー隠遁所で精進食である魚でさえも大祭日にしか口にしなかった。眠り放題出来たにも関わらず、彼等は夜間眠らずにいて、そして(同じ隠遁所で)昼夜を通して、一年を通して、絶えず詩篇を読んでは生者も死者も区別無く全露西亜正教徒の為に追善したのだった。)。
 此等の島は吾々と無関係に海から飛び上がり、吾々と無関係に二百もの魚の豊富な湖が出来、吾々と無関係に蝦夷雷鳥や兎や鹿が住み着いたが、狐や狼その他の猛獣達は最初からいなかったのだ。
 氷河が来ては去り、湖の周囲には花崗岩の岩の山が出来た。ソロフキの冬の夜には湖が凍り、風で海は荒れ狂い、流氷で覆われながら所々で凍り付いたりした。空半分には北極光(オーロラ)が燃え上がっていた。そして又明るくなり、又暖かくなり樅の木は成長して太くなり、野鳥が囀ったり、若い鹿が鳴いたりした。地球は世界史を編みながら回転を続け、国々は崩壊したり勃興したりした。しかしながら、此処は依然として猛獣もいなければ、人間もいなかった。
 時偶ノヴゴロドの住民が上陸して此の諸島をオボネジスカヤ行政区域に組み入れたりした。此処にはカレリア人も住んだ事がある。クリコヴォの戦いから50年経た頃、国家保安部(ゲー・ベー・ウー)出現の500年前に、二人の修道士サワチーとゲルマンが小舟で真珠母色の海を渡って、猛獣の全然いない此の島を神聖なものと考えた。彼等は其処にソロヴェツキー修道院を建立した。其れ以来ウスペンスキーとプレオブラジェンスキーの両大寺院が出来、セキルナヤ丘にはウセクノヴェニエ教会が建ち、其の他更に20位の教会が建てられ、更に又20許りの小礼拝堂が出来、ゴルゴフスキー隠遁所、トロイツキー隠遁所、サワチェフスキー隠遁所、ムクサルムスキー隠遁所が建てられ、更に離れた遠い場所に離れ離れに世捨人達とスヒマ僧達の草庵が出来た。此の地には大量の人間の労働が注ぎ込まれた。最初は修道士達自身の労働、後には修道院専属の農民の労働だった。湖は何十と云う運河で結ばれた。木製パイプで湖の水が修道院迄引かれた。そして最も驚くべき事は(19世紀に)、とても持ち上げられない様な大石を何らかの方法で浅瀬沿いに置いて、ムクサルマ迄のダムが建設された。ボリシャヤ・ムクサルマとマーラヤ・ムクサルマでは肥満した家畜の群れが放し飼いにされていた。修道士達は飼い慣らされたものも野生のものも区別無く好んで動物の面倒を見た。ソロヴェツキー諸島の土地は神聖なだけで無く、豊かでもあって、何千と云う人間と動物を養う為の十分な力を持っていた(註、技術史の専門家達の話によると、フィリップ・コルイチョフ(イワン雷帝に対して声を荒立てた)が、16世紀にソロフキ諸島の農業に導入した技術と機械は、3世紀経ても尚何処で見せても恥ずかしくない程優れていたと云う)。畑では硬くて白い、そして甘いキャベツが栽培された(其の硬い芯は《ソロヴェツキー諸島のりんご》だった)。全ての野菜は現地産で、其れも良質の物許りだった。花栽培用の温室もあって、薔薇迄栽培されていた。漁業も発達したーー海釣りと海の一部を囲んで造った《府主教の生簀》での養魚であった。何百年何十年と生活している内に自分で取った穀物を挽く為の製粉所が出来、製材所も、自分達の陶器を造る為の陶器製造所も、鋳物工場も、鍛冶場も、製本所も、製革所も、馬車製造所も、発電所さえも出来た。複雑な特殊形煉瓦も、自分達の海用の小舟も、全て自分の手で造ったのである。
 しかし、軍事的配慮と牢獄的配慮を伴わない民主的発達は、何時の時代にも何処にも無かったし、現に無いし、又将来とも無いのでは無かろうか。
 軍事的配慮。否、何処の馬の骨とも分からない無分別な修道士達(是の意味も理解出来ない。修道士は基本的には神の良心を伝える人達であるから、信頼する人でもあるのです。此の言葉は無神論者の言葉しか言えない言葉です。一般の政治家は神の正義を現す為の軍隊の仕事でなければならないのです。真面目に修道士としての修行を行っているならば、神を信じている人ならば信頼出来るでしょう。神の法は、全宇宙、全世界に通じる法なのです。「何処の馬の骨とも分からない無分別」と云う言葉の意味が理解出来ない!忍)に、只単に単なる島に住む事を許す訳に行くまい。何しろ、此の島は大帝国の国境地帯にあるのだ。従って、スウェーデン人(北方海賊国家!忍)と、デンマーク人と、イギリス人(悪魔ダビデがいるフリーメーソンの本拠地!忍)と戦わなければならない。其の為に、城壁の厚さが8米もある要塞を築き、8つの望楼を建てて、小さな銃眼を造らなければならない。大寺院の鐘楼には見通しの効く監視所を設けなければならないのだ(註、詰まる所、修道院は1808年と1854年にイギリス人と戦う羽目に陥り、戦い抜いたのだった。1667年にニコン派の連中と戦った時は、修道士フェオクチストが裏切り、秘密の道を開けて城砦(クレムリン)を皇帝(ピョートル大帝で、ロシアのツァリズムの開始の皇帝!忍)側近の大貴族に明け渡してしまった)。
 牢獄的配慮。外界から全く孤立している島、しかも頑丈な石の壁があるーー何と素晴らしい事ではないか! 重要な犯罪人を閉じ込める場所もあるし、警備してくれる人もいるではないか。心の救済は妨げないが、囚人だけは警備してもらうぞ(註、基督教の修道院が牢獄を兼ねる事に因って、人類の一体何の位の信仰を粉砕してしまったのだろうか?)、と云う寸法だ。
 否、それにしても、修道士サワチーが此の神聖な島に上陸した時、果たしてそんな事を考えただろうか……。
 此処には宗教的異端者が打ち込まれた。政治的異端者も同様に打ち込まれた。此処にはアヴラミー・パリーツィンが打ち込まれた(死んだのも此処だった)。プーシキンの叔父P・ガンニバルも12月党員(デカブリスト)達に同情した廉で此処に打ち込まれた。既に老境に達していた最後のザポロジエ・コサック兵団長コリニシェフスキー(ペトリューラの遠い先駆者に当たる?)も此処に打ち込まれて、長い刑期を務め上げて解放された時には100歳を越えていた(註、ソロフキ諸島には国立監獄が1718年から存在していた。19世紀の80年代にサンクト・ペテルブルグ軍管区の司令長官ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ大公は、ソロフキ諸島を訪ねた時其処に居た軍事部隊は全く不必要であると認めて、ソロフキ諸島から兵士達を本土に呼び戻したのだった。1903年にソロフキ監獄は廃止された[A・S・プルガーヴィン著『修道院に設けられた監獄』ーー『ポスレドニク』出版所 78、81頁])。
 最も、既にソビエト時代になってから、詰まり、ソロフキ諸島が収容所と化した時代に成ってから、ソロフキ修道院監獄の古代史に流行の神話の影が落とされたのだ。其の影によって案内書や歴史的記録の作成者達はすっかり騙されてしまった。其の結果、我々は何冊かの書物に次の様な記述を見る事になった。即ち、ソロフキ監獄は拷問に掛ける為の物だった。此処には吊刑台の折れ釘があり、鞭も、火炙りもあった、と。しかし、其れ等は全てエリザヴェータ女帝(英国の国王!忍)以前の取調べ監獄或いは西欧の宗教裁判の道具であった。其れ等は露西亜の修道院監獄にとっては全く異質のものであり、不真面目で事情に疎い研究者達の勝手な妄想の産物に過ぎないのだ。
 ソロフキの古参囚人達は能く彼の事を憶えている。其れは《反宗教的バチルス》と云う綽名(あだな)で収容所で通っていた皮肉屋のイワーノフだった。曾って彼はノヴロドの大主教の下で使丁だったが、スウェーデン人に教会の財宝を売り渡した為に逮捕された。ソロフキ諸島へは1925年頃に送られて、直ぐ一般作業と死から解放される為にどうすればいいか、と懸命に考えた。考え抜いた末に、彼は囚人達の間で反宗教的煽動を専門に遣る事に決め、当然の事ながらISch(情報審理部、何一つ粉飾せず其の儘の名称だ)の手先にもなった。其処で彼を頭とした発掘委員会が設置された。此の委員会は何ヵ月も何ヵ月も発掘を続けたが、残念な事に修道士達は《反宗教的バチルス》の心理的期待に応え無かった。詰まり、彼等はソロフキ諸島に宝物を埋めたりはしなかったのだ。其処で体裁を繕う為に、イワーノフは家政用、倉庫用或いは防衛の為に使われていた幾つかの地下室を、事もあろうに、牢獄用とか拷問用とか説明し始めた。勿論、拷問が行われたと云う証拠は何世紀も過ぎた今と為っては残っている筈が無かった。しかし、折れ釘(肉を掛ける為のもの)は疑いも無く吊刑台のあった事を裏付けていた。ところが、どうして19世紀に行われた虐待の痕跡は無いのかと云う事の説明はなかなか旨く行かなかった。其処で次の結論が引き出された。即ち、

 「前世紀からソロフキ監獄の規律は相当緩和されたのである」。

《反宗教的バチルス》の《発見》は、当時の時勢にぴったりと合っていた。絶望した収容所当局の慰めにも為り、雑誌『ソロヴェツキー諸島』に載った。後にはソロフキの印刷所で単行本になり、滔々歴史的真実を其の煙で覆い隠す事に成功した(繁盛していたソロフキ修道院が革命直前迄に全露西亜の民に尊敬され、名誉あるものとして大いに持て栄やされただけに、其の企画は汚名を被せるのに時宣を得ていた)。
 しかし、政権が勤労者の手に渡った時、此の悪意に満ちた寄生虫的修道士達はどう処分すべきだったのか。其処へは政治部員(コミサール)達、即ち、社会的試練を経た指導者達が送り込まれて、修道院は国営農場と宣告された。修道士達は祈りを少なくして、労働者や農民の為に多く働く様に命ぜられた。修道士達は働いた。多量に取れる場所と時を良く心得ていて、彼等が網を投げ入れて取っていた味の絶妙な鰊は、モスクワのクレムリンの食卓へ送られたのだった。
 しかし、修道院、特に聖器所に集められてあった財宝の豊富な事は、其処へ遣って来た指導者達や教師達の或る者の注意を惹かずにはおかなかった。何故なら、其れ等財宝は労働者の(詰まり、彼等の)手へ渡る代りに、死んだ宗教的荷物になっていたからである。其処で、刑法とは些か矛盾したものの、非勤労者の財産没収の一般的精神にしか乗っ取って、修道院は放火された(1923年5月25日)。建物は損傷され、聖器所からは多量の財宝が消えてしまった。そして最も大事な事だが、全ての財宝登録帳が焼けてしまい、何が何れ程消えたかも調べる事が出来なかった(註、昔の天井の低い独房や拷問の道具がなかなか見つからない理由を説明した時に、《反宗教的バチルス》は此の火事の所為にした事もある)。
 審理等全く行わなくとも、革命的正義感(直感)は一体何を教えてくれるのか? 即ち、修道院の資産に火を付けたのは、他ならぬ腹黒い修道士の集団を於て他にあるだろうか、と云う訳だ。となれば、連中を大陸へ押っ放り出し、其の代りソロヴェツキー諸島には北方特別収容所を集中させよ! 80歳、否、百歳の年齢に達していた修道士達は膝ずいて、此の《神聖な土地》で死なしてくれと懇願した。だが、プロレタリアートの剛直さを持って修道士達は其処から全員叩き出された。残されたのは最も必要な人達だけだった。漁夫の組合(註、彼等は1930年頃になって漸くソロフキ諸島から追い出された。そして不思議な事に、其の頃から鰊の漁獲はぴたりと途絶えてしまったーー鰊は完全に蒸発したかの様に、もう誰も其れを見つけて取る者はいなくなった。)、ムクサルマでの家畜の専門家達、キャベツの塩漬けを担当していたメフォディー神父、鋳工のサムソン神父と他の同様に有益な神父達だけが残された(彼等には収容所とは別の城砦(クレムリン)の一画が割り当てられ、其処には彼等だけの通用門、鰊の門があった。彼等は労働コンミューンと呼ばれた。しかし、彼等の完全な意識混濁に鑑みて、祈祷用に墓地のオヌフリエフスカヤ教会が残された)。
 こうして囚人達が常時繰り返していたお気に入りの諺の一つが実現したのだった。「神聖な場所は決して空っぽにならない」鐘の響きは止み、懸灯と蝋燭柱が消え、もう礼拝式と終夜祈祷式の音は聞こえ無くなり、詩篇も一日中囁かれ無くなり、聖壇前の帷(とばり)は壊されてしまった(プレオブラジェンスキー大寺院では残されたけれど)。其れに代って勇敢なチェキスト達が踵迄ある裾長外套を着て、ソロフキ特有の黒い袖口の折返しとボタン穴と星の無い黒い鉢巻付きの制帽を被って1923年6月に遣って来て、厳格の模範としての収容所、詰まり、労農共和国の誇りとなるべき収容所を造り始めたのだった。
 指令書では未だ特別のと云う意味が規定されておらず、十分に練られていなかった。しかし、ソロフキ収容所長のエイフマンスは当然の事ながらルビャンカで其の説明を口頭で受けた。島に到着した彼は今度其れを自分の側近に説明して遣ったのだ。。
 

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 今になっては元囚人達、否、60年代の人々でさえもソロフキ諸島の話を聞いても決して驚くまい。しかし、読者は自分をチェーホフ後の時代の人間として、若しくは我が文化の銀世紀と言われていた1910年代の人間として想像して観るが良い。其の時代に育った貴方は例え内戦で激しいショックを受けたとしても、其れでも矢張り人間の食べている食事にも、普通の衣類にも、お互いの言葉に依る交流にも慣れている存在である。そんな貴方がソロフキ諸島の門を潜ったなら、即ち、ケンペルプンクトへ遣って来たとしたら、どうだろう。其れはケミへの中継監獄である寂しいポポフ島にあり、其処には木一本も無ければ、潅木一つも生えていない。大陸とは僅かにダムで繋がっている島である。先ず最初に是の殺風景な汚れた家畜置場の様な所で貴方の目に映る物は……袋を着たーーごく普通の袋を着た検疫中隊である!(当時は囚人達を《中隊》に纒めていて、《班》は未だ発見されていなかった)下は足がスカートの下からの様に伸びていて、頭と腕の為に穴が空いているのだ(想像に絶する事だ。しかし、露西亜人の思い付き精神に、勝る物があろうか)。新入りは自分自身の衣類を持っている限り、此の袋を見分ける前に彼の目に飛び込んで来るものは、伝説的人物となった騎兵大尉クリルコの姿である。
 クリルコ(或いは彼の代わりにベロボロードフ)が護送囚人達の前に矢張り長いチェキスト用の外套を着て進み出る。其の威嚇的な黒い袖の折返しは、古いロシア兵外套の布地の上に不気味に突き出して、まるで死の前兆の様に見える。彼は樽や其の辺にある適当な台の上に飛び乗って、行き成り新米の囚人達に甲高い声で狂暴な言葉を持って襲い掛かる。

 「おい! よく聴け! 此処はソビエト共和国では無くて、ソロフキ共
 和国なんだぞ! わかったな! 此のソロフキの土地には検事なぞ降り
 立った事は無い。否、将来とも降り立つ事は無いだろう! お前等は矯
 正の為に此処へ送り込まれたのでは無いのだ! 馬鹿は死ぬ他直る道は
 無いんだ! 此処の制度は、いいか、俺が『立て!』と言えば、立つん
 だ。俺が『横になれ!』と言えば、横になるんだ! 家の者への手紙に
 はこう書くんだ。元気でいる。全てに満足している、と。いいな、分か
 ったな!……」

 驚愕の余り只唖然としている崇高な貴族達、都会の知識人達、僧侶達、回教僧達、色黒の中央亜細亜人達は、只々もう大人しく聞いているばかりだ(此の様に、ソ連の革命分子は、道義を勉強している人程、矯正収容所に入れられ、虐めたり、虐殺されたりしていた。要するに道義を無くそうとの戦略である!忍)ーーこんな事は一度も聞いた事も無ければ、見た事も無い。否、読んだ事もありはしないのだ(此れは余りにもぼっちゃん的育ちをしている。凡そ人が持っている残忍性を学び無くす努力をした形跡が無い様な言葉である。普通宗教者は、善悪の観念を学んでいる筈なのに。只、当時のロシア貴族は基本的に神の忌み嫌う男女関係の姦婬を奨励していた事実がある。聖職者の中には真面目な人物はいたのでは無かろうか!忍)。ところが、内戦ではまるっきり名声も挙げていないクリルコが、今や此の様な歴史的な方法で自分の名を全露西亜の年代記へ書き込みながら、次々に旨い叫びや文句を吐き出しては益々調子に乗って行くのだ。調子に乗れば乗る程、其の様な旨い叫びや文句が一人でに口を付いて飛び出して来るのだ。
 我ながら自分に惚れ惚れとしたクリルコは、更に調子付きながら(心の中では他人の不幸を喜びながらーー我々がボリチェヴィキと戦った時にお前等屑は何処に隠れていたのだ。安全な所で身を護るつもりだったのか。ざまぁみろ、今度此処へ引っ張り出されたのだ!其のくだらない中立の為に此処でくたばるが好い! 我々はボリチェヴィキと仲良くするのだ(此の時点で神を裏切っている。当然、此の霊体が現れたならば、消滅するのである!忍)! 我々は商売上手なのだ!)教練を始めるのだった。

 「第一検疫中隊、整列終わりっ! 駄目だ。もう一度だ! 第一検疫中
 隊、整列終わりっ!……否、駄目だ!”……お前等が『整列終わりっ!』
 と叫べば、ソロフキで、海峡の向う側で聞える程で無くてはならんのだ!
 2百人が一斉に叫べば、壁が吹っ飛ばなければならんのだ!!!……遣
 り直しだ! 第一検疫中隊、整列終わりっ!」

 皆が力一杯叫んで、其の為に疲労困憊して倒れるのを見届けると、クリルコは次の教練に取り掛かる。今度は柱の周りを走らせるのだ。

 「足を高く上げろ!……足を高く上げろ!……」

 此れは彼自身にとっても決して楽な事では無い。彼自身も既に第5幕の最後の殺しの場面に来た悲劇俳優の様にへとへとに成っている。彼は倒れそうな者や既に倒れている者に向かって、半時間の教練の末、最後の力を振り絞って、ソロフキの本質を告白する様に、嗄(しわが)れた声で約束するのだった!

 「死人の鼻汁を嘗めさせて遣るからな!」

(此れで全てを語っている。憎しみの感情で教練を行っている。此れは今の自衛隊、昔の軍隊の下仕官教育も此れに当たる節が見える。そして戦前もそうであるけれど、一部の軍人の愛のある道義教育が行われていなくて、正義の為の戦いの概念を教育されないのである。此の点で米国は、基地内に、牧師がいて、聖書教育を行っている事を見習う必要があるでしょう。日本の場合は、「法華経」が国教である事は間違いない。正しい意味での親孝行を考える場所は作る必要がある!忍)
 此れは新米の囚人達を屈服させる為の未だ最初の訓練に過ぎないのだ。黒い木造のバラックでは此れから《肋骨の上に寝る》様に命じられるのだ。だが、其れは未だ良い方だ。何しろ、其れは賄賂のお陰で分隊長達が板寝床(ナールイ)に入れてくれる人々だけなのだから。残りの全員は夜通し板寝床の間に立っているのだ(罰せられた者は用便桶(パラーシャ)と壁の間に立たされる)。
 此れは未だ祝福された、転換期以前の、個人崇拝時代以前の、歪曲される以前の、あの《1923年》、《1925年》……だったのである(1927年からは補足がある。即ち、板寝床は盗賊(ウルカ)達が占領して、自分の身体から取った蝨を側に立っている知識人達を目掛けて投げつけた(如何に悪人は、残虐性の性格を持ち、ソ連は其れを優待させたのかの事も此処の逸話から読み取れる。悪人天国の象徴でもある!忍)。
 汽船『グレープ・ボーキー』号を待っている間、彼等はケンペルプンクトで働かされる。又彼等の内の何人かは柱の周りを走りながら次の様に休みなく叫ぶ様に命じられる。

 「私は怠け者だ! 私は働きたくない! 他人の仕事の邪魔をするのだ!」

 用便桶を担いで転び、我が身に糞尿を浴びた技師は、バラックへ入る事を禁じられて、戸外に倣って置かれ、汚水の中で凍えてしまう。其の後護送兵達は警告する。

 「護送団には遅れる者はいないのだ! 護送兵は警告抜きで射殺する!
 速足進め!」

 そして銃の遊底をガチャガチャ鳴らしながら「怒らせる気か!」冬は凍結していない所を渡る為の小舟を引摺って、氷の上を徒歩で駆り立てられる。海が凍結していない時は、船倉に放り込まれる。囚人達はぎゅうぎゅう鮨詰めにされる。ソロフキ諸島に到着する前に、必ず何人かの者は、茶褐色の城壁に囲まれた雪の様に白い修道院を終に見ない儘、窒息してしまうのである(死を意味している!忍)。
 ソロフキ諸島の地に降り立った新入りは、ひょっとすると、最初の数時間の内に、ソロフキ独特の受入れ風呂の徒らを身に持って体験するかもしれないーー彼が衣服を脱ぐと、最初の入浴係がモップを緑の石鹸の入っている樽に浸して、其のモップで新入りの体を擦る。二人目の入浴係は相手を足蹴にして突き落す。突き落された新入りは、斜めの板や階段を伝って、何処か下の方へ落ちて行く。下では未だ呆然としている彼に、三人目の入浴係がバケツからお湯を浴びせ掛ける。すると4人目の入浴係が直ぐ様彼を脱衣場へ押し出す。其処には既に彼の褸屑が上から無造作に落とされているのだ(此の徒らの中に《収容所(グラーグ)》全体を予感出来る! 其の調子(テンポ)と、人間の値打ちと云う事で)。
 こうして新入りはソロフキの精神に触れるのだ! 其の精神は我が国では未だ知られていないが、其れはソロフキ諸島で形成されている《群島》の将来の精神である。
 此処でも新入りは袋を着ている人々を見掛ける。普通の《娑婆の》服を着ている者もいる。或る者は新しい服、或る者は既に褸褸に成った服を纏っている。外套用布地から出来たソロフキ特有の水兵用半外套(ブシラート)を身に付けて(此れは特権だ。此れは其の主が高い地位にある証拠だ。収容所当局の者がそんな身なりをしているのだ)、同じ布地から作られた帽子《ソロフチェンカ》を被っている者もいる。おや、囚人達の中に……燕尾服を着ている人がいるぞ! だが、誰一人驚く人はいないし、振り返りも、笑いもしない(一人びとりが自分の物を着ているのだから。此の気の毒な人はレストラン《メトロポーリ》(モスクワの有名なレストラン)で逮捕されたので、其の儘燕尾服を着て刑期を勤めているのだ)。
 「多くの囚人達の夢は」、雑誌『ソロヴェツキー諸島』によると、標準的タイプの衣服を貰う事だった(註、時が経つに連れて価値観はかわるものだ。1920年代の特別収容所で官給品の衣服を着る事が特権と見做されたのに対して、40年代の特殊収容所ではそんな物は避けた物だ。我々の時代には官給品を身に着けないで自分の物を身に着ける事が特権とされた。其れは経済的原因だけで無く、時代の趨勢によるのだ。前者が《一般》に近付く事を理想としたが、後者は其れから離れようとしたのである)。孤児収容所に収容されている者だけが完全な衣類給付を受けている。だが、例えば女性には肌着も、靴下も頭布(プラトーク)も何も与えない。年配の婦人が夏のワンピースで北極圏の冬を過せ、と云う訳である。其の為に多くの囚人が肌着一枚で中隊のバラックに閉じ込もって、作業にも駆り出されない始末である。
 官給品の衣服が余りにも高価な為に、ソロフキ諸島ではこんな光景は珍しくも野蛮にも思われないーー冬の真っ最中に囚人が城砦(クレムリン)の側で衣服と靴を脱いで、裸になってから大事そうに其れ等を返して200m離れている別の人だかりの所へ走って行き、其処で別の衣服を纏う。此れは次の事を意味している。即ち、彼は城砦管理局からフィリモノフスカヤ鉄道線管理局へ手渡されるのだ。だが、彼を衣服を着た儘手渡してしまうと、受け手側は其の衣服を返さないか、取り変えたり、騙したりする恐れがあるからである。
 次は別の冬の光景だーー同じ遣り方だが、原因は違うのだ。衛生部の医務室が非衛生的と認められて、急遽、蒸気を掛けて熱湯で消毒する様に命ぜられた。ところで、病人はどうすれば良いのか。城砦内の部屋と云う部屋は全て過密状態であり、ソロフキ群島の人口密度はベルギーを上回っている(ソロフキ城砦内の人口密度は一体何の位なのか)。其処で病人全員を毛布にくるんで運び出して、雪の上に3時間も寝かしたのである。医務室を洗い終わると、又運び入れたのだ。
 我が新入りが銀世紀に育った人間である事は覚えていますね? 彼は未だ第二次世界大戦とか、ブヘンワルドとかは全く知らないでいるのだ! 彼が見ていると、部隊長連中は外套用布地の上着を着て軍人顔負けな動作で、相互に或いは中隊長達と軍人式の挨拶を交わしている。又他ならぬ彼等が自分の労働者を長い棒ーードルインで駆り立てている(是の単語から最早皆に御馴染みの動詞、ドルイノワチ(長い棒で駆り立てる)が出来ている)。彼が見ていると、橇(そり)と馬車は馬で無くて、人間が曵(引)いている(一つの橇や馬車を数人の人間が曵いているのだ)。否、此れに相当する単語もある。其れはVRIDLO(馬の職務を臨時に代行するもの)である。
 新入りは他のソロフキ先住民から自分の目に映る光景よりも遥かに恐ろしい話を聞かされる。彼の耳には《セキルカ》と云う死の言葉が入って来る。其れはセキルナヤ丘の事である。其処の二階建ての大寺院には懲罰監房がある。懲罰監房はこんな具合である。即ち、壁から反対側の壁まで太さ腕ほどの棒が幾つか固定してあって、罰せられた囚人達は其の棒に坐る様に命ぜられる(夜間は床の上で寝るが、超過密の為に折り重なる様にして寝なければならない)。棒の高さは、其れに坐ると足が床迄届かない具合に成っている。棒の上で均衛状態を保つのは大変で、囚人は一日中棒から落ちない様に努めるのが精一杯だ。棒から落ちれば、看守達が飛び込んで来て殴り始めるのだ。でなければ、365の険しい段のある外の階段へ連れ出す(大寺院から湖迄通じているが、此れは修道士達が築いた物だ)。囚人に重量を付ける為に丸太(バラン)に縛り付けてから、其の儘突き落すのである(是の階段は踊り場が一つも無く、段が険しいだけに、人間を縛り付けた丸太は止まる事無く、下迄滑り落ちて行く)。
 しかし、棒の事なら態々セキルカ迄行かなくとも、城砦(クレムリン)内の常時超過密の懲罰監房にもあるのだ。時には縁の鋭い大石の上に立たせる事がある。是の石の上に立っているのもなかなか大変な事だ。夏は《切株》の上に立たせる。其れは囚人を裸にして蚊責めに合わせる事だ。しかし、こうすれば、囚人を監視しなければならない。ところが、囚人を裸で木に縛り付ければ、後は蚊が全て遣ってくれる。其の他、過失の為に中隊毎雪の上に横たわせたりする。又は、人間を湖の近くの沼沢地に首迄漬からせて、其の儘の状態で倣って置いたりする。又、こんな方法もあるーー馬に何も付けていない《轅(ながえ)》を取り付けて、其の《轅》に罰せられた囚人の足を縛り付ける。馬に警備兵が跨って、背後に叫び声と喚き声が止む迄伐採地に馬を駆り立てるのである。
 ソロフキでの生活を、無限とも思える自分の3年の刑期を勤め始める前から、新入りは最早精神的に圧し潰されてしまうのだ。だが、此れこそ開発された絶滅システムだ! これこそ死の収容所だ! と急いで結論を出した現代の読者がいれば、彼は間違っている。否、其れはそう簡単ではないのだ! 是の最初の実験場では、其の後の他の実験場と同様、是の最大の実験場では、公然と事が進められたのでは無く、段階的に、あらゆる事を混ぜ合せながら、事が進められたのである。だからこそ是の様な成功を収めて、是の様に長く続く事が出来たのであった。
 突然、城砦(クレムリン)の門から山羊に乗った威勢の好い男が入って来る。彼は鹿爪らしい格好をしているが、誰一人として彼の事を嘲笑する者はいない。彼は一体何者か? どうして山羊に乗っているのか。デグチャリョーフだ。昔はカウボーイだったから、自分に馬をくれる様に要求したが、ソロフキ諸島には馬が少ない為に山羊を与えられたのだ。何の為にそんな名誉が与えられたのか。カウボーイだったからか。否、違う。彼は植物園の支配人なのだ。彼等は其処でエキゾティックな樹木を栽培しているのだ。此処で、ソロフキ諸島でである。
 こうして是の山羊乗りからソロフキ諸島の幻想が始まるのだ。修道士達の簡単で合理的な野菜栽培場がメチャクチャにされて、野菜も払底する状態だと云うのに、是のソロフキ諸島にエキゾティックな樹木が一体何の為に必要なのか。北極圏でエキゾティックな樹木が必要なのは、ソロフキ諸島も、ソビエト共和国全体と同様、是の世界を変えて、新しい生活を打ち立てるからである。だが、其れにしても一体何処から種子と金を入手したのか。其処が問題だーー植物圏の種子の為なら金があるが、森林伐採で働く労働者達を養う為の金だけはないのだ(食事はもうノルマ遂行を基準にして与えられるのでは無く、其の資金次第で調達されている)。
 是の考古学発掘はどうだろう? そうだ、此処には発掘委員会もあるのだ。我々には過去を知るのが重要だと云う訳である。
 収容所の管理事務所の前には花壇がある。其の花壇には愛嬌の良い象が描いてあり、其の被いには《U》と云う字がある。是のUはU=SLON(ソロフキ特別収容所管理局)と云う意味なのである(SLONは露西亜語で象を意味する)。此れと同じ図案が、是の北国で金の代りに出回っている手形にもある。いやはや、此れは何と快い手造りの仮装舞踏会だろう! 此処では何もかも楽しいのだ。冗談好きのクリルコは只我々を脅かしていたのではないのか。ほら、此処には自分達の雑誌もある。題名は同じく『SLON』だ(1924年に創刊され、最初はタイプライターだったが、9号からは修道院の印刷所で印刷される様になった)。1925年からは雑誌『ソロヴェツキー諸島』が刊行され始めた。部数は2百。其れに付録迄ついたーー新聞『新しいソロフキ』(忌々(いまいま)しい修道士達の過去を振り捨てよ! と云う訳だ)(要するに、神の考えを捨てて悪魔に従えよと云っている。ソルジェニーツィンの話では、過去の修道院の行動と云われている残虐性の足跡は残っていなかったの話であり、妄想であるとの話である!忍)。1926年からは全国で其の購買予約が募集され、出版部数も増大し、大成功を収めた(そして直ぐ廃止になったーー待遇問題もあって、其処迄手が回らなかった訳だ。1929年には、ソロヴェツキー諸島に大事件が有った後に、そして全収容所で再教育への一般的方針の転換がなされた後に、雑誌は又復刊となり、1932年迄刊行されていた)! 雑誌の検閲は好い加減なものだーー囚人達(グルボコフスキー)は国家保安部のトロイカについて諷刺詩を書いているのだが、ちゃんと通過しているのだ! そして、視察に遣って来たグレープ・ボーキー本人に向かってソロフキ劇場の舞台で其の諷刺詩を歌う始末だった。

 我等に贈り物の山を約束した
 ボーキー、フェリドマン、ワシーリェフ、ヴーリ……

 此れは御偉い方に気に入った! (兎に角光栄な事だから! 大学を出ていないのに、歴史に名前が残るのだから)更に歌詩は続く。

 我等にソロフキを恵んでくれた全ての人々を
 我等は喜んで招待します
 此処で3年か5年も御過し頂ければ
 きっと、よい思い出が出来るでしょう!

 連中は大声で笑っている! 気に入ったのだ!(此の科白には予言が隠されていると誰が気付いたであろう?……)
 其の時銃殺された将軍の息子であるシェプチンスキーは更に図々しくなり、通用門の上に次の様なスローガンを掲げた。

 《ソロフキはーー労働者と農民達の為に!》

 (否、此れ又予言ではないか! だが、此れは気に入らず、直ぐ様其れに気付いて、取り外されてしまった)
 劇団の俳優達は教会の祭服から縫った衣装を身に着けている。『鉄道は音を立てている』の上演だ。舞台では一組の男女が身にくねらせてフォックストロットを踊っている(此れこそ死に瀕している西欧だ)。そして背景には勝利を収めた赤い鍛冶場が描かれている(其れが我々なのだ)。
 全く、此処は幻想的な世界だ! 否、意地の悪いクリルコは冗談を言っていたのだ!……
 是の他、ソロフキ地誌学協会もあって、研究報告を出版している。16世紀のユニークな建築様式やソロヴェツキー諸島の動物について極めて科学的に、事細かく細やかな愛情を持って記述しているのを見ると、其の筆者達がルビャンカを経てセキルナヤ丘に遣って来て蚊責めにあったり、馬の轅に縛り付けられたりして常に震えている囚人達では無く、科学的情熱に駆り立てられて是の島へ遣って来た変り種の学者達であるかの様な錯覚に駆られてしまう。是の御人好しの地誌学者達に調子を合わせるかの様に、ソロヴェツキー諸島の動物や野鳥共も絶滅しておらず、打ち殺されておらず、放逐されておらず、否、恐れさえ知らないのだ。1928年になっても、兎達は人を憚る事無く生れたての仔兎の群れを引き連れて、道路の脇迄出て来ては、アンゼルへ囚人達を連れて行くのを好奇心に駆られて見つめている有様だったのだ。
 一体どうして又兎達は打ち殺されていなかったのか。新入りの囚人には次の様な説明がある。ーー動物や野鳥どもが人間を恐れないのは国家保安部の次の様な命令があるからだーー

 「実砲は大事に使う事! 囚人以外のものを目掛けては一発だに発射し
 てはならぬ!」

 結局、全ては杞憂に過ぎなかったのだ! だが、待てよ、「散れ! 散れ!」と、真っ昼間に、ネフスキー通りの様に雑踏の激しい城砦の内庭に叫び声がするではないか。三人の軽薄な気取り屋の若者が麻酔剤中毒患者の様な顔つきをして(前の者はドルインででは無く、ステッキで群がっている囚人達を追い散らしている)肌着しか身に着けていない手足のだらりと垂れ下がった痩せこけた男を、両脇に抱えて迅速に引摺っている。其の男の液体の様にぶよぶよと流れる様な顔つきを見るのも気味が悪い! 鐘楼の下へ引摺っているのだ(ほら、其処のアーチの下へ、其の背丈の低い扉のある所へ。扉は鐘楼の土台にあるのだ(写真5))。彼を是の小さな扉の中へ押し込めてから、後頭部へ一発射ち込むのだーー扉の奥には険しい階段が下へ伸びているから、男は下へ落ちて行く。是の様にして其の中へ7人及至8人を押し込む事が出来る。其の後は死体を引っ張り出す為に人々を出し、階段を洗い清める為に女性達(コンスタンチノープル)へ逃げた人々の母親達と妻達である。信心深い彼女達は信仰を捨てずに、自分の子供達を奪われまいと頑張って来たのだ)を派遣するだけだ(註、今では、男達を引摺っていた其の石の上で、ソロヴェツキー諸島を吹き抜ける風から守られた其の内庭の其の場所で、悪名高い島を見学しに遣って来た喜色に満ちた旅行者達が何時間もバレーボールを楽しんでいる。彼等は知らないのだ。若し知っていたならば? 同様にバレーボールを楽しんだであろうか)。
 其れにしても、夜間に、誰にも知れない様に遣れなかったのか。誰にも知られない様になんて、そんな必要があろうか。そうすれば弾丸も無駄使いになるのだ。昼間の雑踏の中でこそ弾丸は教育的意義を持つのだ。一度にまるで10人も殺す様な効果を上げる訳だ。
 銃殺は別な方法でも行われたーー女性用バラック(元は女性の聖地巡礼者を収容する養老院だった)の裏手にあったオヌフリエフスキー墓地で直接銃殺したのだ。そして女性用バラックの側を通る道路は、銃殺道路と名付けられていた。次の様な光景をよく目撃する事があったーー冬に雪の上を素足の人間を肌着一枚で(其れは拷問の為では無い! 其れは靴と被服給付を無駄にしない為だ!)後ろ手を針金で縛って連行して行くのだ(註、ソロフキ諸島の方法が不思議な事に、カティンの森で銃殺された死体[ポーランドのカティンの森の虐殺事件]に繰り返されている。誰かが伝統を思い出したのか? 其れとも個人的な体験に基づくものだろうか?)。ところが、ピンと胸を張って、手を使わずに唇だけで今生の名残りの煙草を喫っている(其の様な態度で将校は直ぐに識別出来る。此処には7年間前線で過した人々が収容されているのだ。歴史学者V・A・ポットの息子で18歳の少年は作業手配係に職業を聞かれると、肩を竦めて答えた。「機関銃手さ」年が若い為に、そして内戦が激烈だった為に彼は別な職業を身に就ける暇が無かったのだ)。
 当に幻想的な世界だ。時には是の様な組合せもあるのだ。歴史の中では多くの物が繰り返されるが、全く繰り返されない組合せもある。時間的に短期的なものと、其の場所柄もバラバラな組合せがそうだ。此の様な物は我国の新経済政策(レーニンのネップ政策)であり、初期のソロフキ諸島も其の類いである。
 数千、数万人の囚人を押え付ける為に此処へは極僅かな数のチェキスト達(ひょっとすると、半ば懲罰を受けて左遷された者かもしれない)、20及至40人しか遣って来なかったのだ(最初は少なく見積っていたが、モスクワでどんどん囚人を送り込んで来た。最初の半年の間だけで、1923年の12月には既に2千人以上の囚人が集結される有様だった。1928年には第13中隊[一般作業の中隊]だけでも勘定の際に隊列の最後の人が答えたものだ。「376番目! 隊列は10人ずつ!」と云う事は、合計で3760人だ。同じ様に人数の多かったのは第13中隊だった。城砦(クレムリン)の他にも既に出張所が出来ていたーーサワチェヴォ、フィリモノヴォ、ムクサルマ、トロイツカヤ、《兎達》[うさぎ諸島]等の出張所。1928年頃には6万人位の囚人が収容されていた)。彼等の中に何人の《機関銃手達》がいただろうか。何人の生れながらの歴戦の勇士達が居ただろうか。1926年からはあらゆる種類の其の道の達人と云う刑事犯罪人共がごっそり送り込まれて来た。此等の囚人共が反乱を引き起こさない様にする為にはどう押え付ければいいのか。
 方法は一つーー恐怖によるだけだ! セキルカだけだ! 懲罰監房の棒だけだ! 蚊責めだけだ! 切株だらけの場所で引摺る事だけだ! 昼間の銃殺だけだ! モスクワは現地の力量を考慮に入れないで、次から次へと囚人護送団を送り出す。其の見返りとして、モスクワは自分のチェキスト達が何を遣らそうと如何なる制限も加えなかったーー秩序維持の為なら、どんな事でも良い。其の結果、実際には一人の検事と雖もソロヴェツキー諸島の土地には降り立つ事が無かったのだ。
 更に第二には、ビーズ付きのガス織りのヴェールだーー万人平等の時代に相応しく《新しいソロフキ諸島》の訪れだ! 囚人自身に依る自己警備! 自己監視! 自己統制である! 中隊長も、小隊長も、各隊長は皆同じ囚人仲間から選ばれる。独自に素人演芸会も遣れば、気晴らしもする!
 恐怖に戦(おのの)きながら、ビーズ付きのヴェールの下にいる人々は、一体どんな人々だろう。誰だろう。其れは太古からの貴族達だ。職業軍人達だ。哲学者達だ。学者達だ。芸術家達だ。俳優達だ。学習院(リツエイ)の卒業生達だ(註、此れは生き残った人々の記憶に留まった極少数のソロフキ諸島の囚人達であるーーシリンスカヤ=シャフマートワ、シェレメチェワ、シャホーフスカヤ、フィッツム、I・S・デリヴィグ、バグラトゥーニ、アッソツィアニ=エリーソフ、ゴシェロン・デ・ラ・フォッス、G・M・オソルギン、クロット、N・N・バウルーシン、アクサーコフ、コマロフスキー、P・M・ヴォエイコフ、ヴァドボリスキー、ヴォンリャルリャルスキー、V・レワショーフ、O・V・ヴォルコフ、V・S・ムーロムツェフ、元の立憲民主党のリーダーのネクラーソフ(果たして彼だろうか)、金融学者オーゼロフ教授、法律学者A・B・ボロジン教授、心理学者A・P・スハーノフ教授、哲学者達ーーA・A・メイエル教授、S・A・アスコーリドフ教授、E・N・ダンザス、神知学者ミョーブス、歴史学者達N・P・アンツィフェーロフ、M・D・プリセフコウ、G・O・ゴルドン、A・I・ザオゼルスキー、P・G・ワシェンコ、文学者達D・C・リハチョーフ、ツェイトリン、言語学者I・E・アニチコフ、東洋学者N・V・ピグレーフスカヤ、鳥類学者G・ポリャコフ、芸術家達プラース、P・F・スモトリツキー、俳優達I・D・カルーギン(アレクサンドリースキー劇場)、B・グルボコフスキー、V・YU・コロレンコ(作家の甥)。30年代に、既にソロフキ諸島の終わり頃パーヴェル・A・フロレンスキー神父もいた事がある)。其の受けた教育に因り、又伝統に依って彼等は余りにもプライドが高いので、自分の意気銷(消)沈した様と恐怖感を他人には見せないし、喚き立てもしない。否、自分の親友にさえ同情を求めようとはしない。品行方正である為には、何を遣るにしても常に微笑を忘れてはならないのだ。例え其れが銃殺に連行されている時であっても、此の海の荒れ狂う北極圏の監獄がまるでピクニックで起きた一寸した誤解ででもあるかの様に、振舞わなければならないのだ。軽口を飛ばす事、獄吏を嘲笑する事だ。
 だからこそ《象》が紙幣にも花壇にも有る訳だ。だからこそ馬の代りに山羊があるのだ。だからこそ第七中隊が俳優から構成されていたら、其の中隊長はクンスト(独逸語でkunstは<芸術>の意味)と云う訳だ。もしベッリ・ヤーゴダ(露西亜語でyagodaは<草木の実>と云う意味)と云う男がいたら、草木の実の乾燥所の所長と云う訳だ。だからこそ雑誌の間抜けな検閲を嘲笑うのだ(何も解っていない。此の収容所の在り方こそ共産主義の真の方針であると云う事です。「間抜けな検閲」と云う言葉自体が或る種の善の期待感を持っているのです。共産主義は悪魔主義であり、恐怖感を与える事が至上の命令であるのです。「愛」の空洞を与える事を至上の命令であるのです。だから「間抜けな検閲」では無く、之が共産主義で云う「厳重な検閲」なのです。要するに収容所としての働きを完璧な行いをしているからです。此の収容所の状態が共産主義で云う「天国」を意味しているのです。本来は「地獄」と云う言葉の意味すけれど。言葉の意味を「2重」に指しているです!忍)。だからこそ諷刺小唄が有るのだ。だからこそゲオルギイ・ミハイロヴィチ・オソルギンはいつも冗談半分に言うのだ。

 「Comment vous porterzーvous(いかがです
 か) 此の島で?」

 「A lager comme a lager」

(当に是の冗談こそ、此の強調された貴族的独立精神こそが、此の半ば獣に成り下がったソロフキ諸島の獄吏達に一番我慢がならなかったのだ。そうした或る日、オソルギンは銃殺される事に決った。そして当に其の日にソロフキ島の波止場に彼の若い妻が(彼自身も未だ40歳以下だった)降り立つのだ! 其処でオソルギンは、妻の面会日を悲しい物にさせない様にと獄吏達に頼み込むのだ。3日以上は妻の島での滞在を長引かせないと約束させて、妻が帰ったら直ぐに銃殺しても良いと言ったのだ。貴族達を破門に付した我々は、今やつまらない悲しみや、一寸した痛みにも悲鳴を挙げている始末だ。否、そうした我々が最早忘れてしまった自制心の模範が此処にあるのだ(是の解釈が可笑しい。罪無き裁判や不正は弾劾するのが貴族の仕事の本分である。単なる仕事の怠慢であり、綺語の精神の持ち主であり、人間の感情を持たない冷たい精神である。間違った方向の騎士道精神は地球を崩壊するだけの話である。共産主義は、悪魔主義の精神から出来ているのである。貴族精神の王である「神」に対する憎しみの精神の持ち主である。本来ならば、自分が貴族精神を持っていると自認するならば、此の収容所の崩壊させるにはどうするのかと考えて行動を取っている。そして、自分の妻に対して此の死刑の無念と不正を正す遺言を残す筈である!忍)ーー三日間妻と水入らずでいながら、其れでも尚気付かせない事だ! 不用意な言葉で悟らせない事だ! 声の震えを押える事だ! 眼を悲しみで沈ませない事だ! たった一度だけ(妻は生き長らえて、今思い起している)聖湖の辺を散歩していた時、彼女は振り返って、夫が苦しげに顔を抱えているのを見た。「どうかなさいましたか」ーー「否、別に」ーー彼は即座に明るい顔になった。彼女は未だ居続けようと思えば、出来たのだが、彼は帰る様に頼んだ。船が波止場から離れる時、彼は既に銃殺される準備をする為に服を脱ぎ始めていた)
 しかし、彼等に此の3日間をプレゼントした人はいた訳だ。此のオソルギンの3日間と他の出来事が示している様に、ソロフギ諸島の待遇は未だ完全に体系の甲冑で締め付けられてはいなかった。否、ソロフキ諸島の雰囲気は不思議な程既に極端な残忍性と未だお人好しの無理解とを混ぜ合せて持っているかの様な印象を与えた。此の傾向は何の(どの)様な方向へ発展して行ったのか。ソロフキ諸島の特徴の内何の様な物が、偉大な《群島》の胚芽になりつつあったのか。何の様な物は最初の芽を出した儘直ぐに枯れる運命にあったのか。矢張り未だソロフキ諸島の囚人達にも、此の北極圏のアウシュヴィツの焼却炉(此れは、ユダヤマルクス共産主義者の嘘情報ではないかとの情報がある!忍)は既に燃え盛っており、此処へ一度運ばれて来た人々は誰でも其の犠牲になるのだ、と皆が皆固く信じ込んでいた訳ではなかったのだ(しかし、実際には其の通りだったのだ!……)。皆の刑期が余りにも短かった事も誤解の元だったーー10年は稀で、5年も少なく、殆どが3年、たったの3年だったのだ。其の上、法律は猫が鼠を弄ぶ様な真似をする事が理解されていなかったーー取り押えては放す、取り押さては放すと云う具合に。結局此の原始的無理解ーー此の事が何の様な方向に発展しているのかと云う原始的無理解は囚人達から成っていた警備隊員達に影響を及ぼさない訳は無かった。ひょっとしたら、獄吏達にも僅かながら及ぼしていたのかも知れない。
 敵の当然受ける処置は絶滅以外の何物でも無いと云う公に堂々と至る所に掲示されていた階級的教義の文字が如何に鮮明に浮き出ていても、尚且つ二本の足を持ち、髪を、目を、口を、首を、肩を持つ列記とした人間の絶滅になるとは、矢張り想像出来なかったのだ。諸階級が絶滅されるのは信じられたとしても、其れ等の階級に属する人間は残されるべきではないか……と云う気がしてならなかったのだ。他の寛容的で曖昧な諸観念に育まれた露西亜人達(日本人も含む!忍)の目を前にしては、度数の合っていない眼鏡が掛かっているかの様に、是の残酷な教義の文字はどうしても正確に読まれなかったのだ。つい最近、公然と発表されたテロから可也の歳月が過ぎた気もするが、尚どうしても信じられなかったのだ(今の日本も是の罠に填まっている!忍)!
 此処へも、《群島》の最初の島々にも其の色とりどりの年の、詰まり20年代中頃の不安定な雰囲気が伝わった訳だ。其の頃は全国的に不明だったーーもう全てが禁止されているのか。其れとも反対に、此れから全てが許されようとしているのか。昔気質の露西亜は未だに格好の良い言葉を信じていたのだ(是の意味も不明。マルクス主義理論を正しく読めば、神に対する憎しみの理論である事は認識出来る筈である。格好良い言葉は一つも無いのだ。此れは、ユダヤ人の憎しみの理論であるのです。只、表面的、戦略的に偽善を行っているので、騙された人が多くいたのは事実です)! 只小数の悲観的な人達だけが既に理解して、何時、そして何の様にして全てが打ち壊されるかを知っていたのだ。
 火事で円屋根が損傷されたとは云う物の、其の土台は永久的だった……世界の最果てに耕された土地もあったが、今では荒らされている。休む事を知らぬ海の変り易い色。静かな湖。人に懐き易い動物達。残忍な人間共。そして、越冬の為にビスケー湾へ《群島》の最初の島の全ての秘密を持って信天翁(あほうどり)が渡って行く。しかし、鳥は平和な海水浴場で何一つとして語ってはくれない。欧州でも誰にも語ってはくれないのだ。
 当に幻想的な世界だ……其の主要な束の間の幻想の一つは、白衛兵達(此れは、反共産主義革命軍として戦った兵達の事を云う)が収容所生活を管理している事だ! 従ってクリルコの出現は決して偶然ではなかったのだ。
 其れはこういう訳だ。広々とした城砦(クレムリン)の中にたった一人だけ自由の身のチェキストが居る。其れは収容所の当直者である(此れがレーニンの役人)。門の警備(望楼は無い)、島々に設けてある監視用の伏兵所と脱走者の捕獲は警備隊の任務である。警備隊には自由な者以外に普通の殺人犯達、貨幣偽造者達、及び其の他の刑事犯罪人達(泥棒以外の)が編入された。しかし、誰が内部組織を担当すべきか。誰が行政部を管理すべきか。誰が中隊長や部隊長になるべきか。其れは無論神父達では無い。あらゆる宗派の信徒でも、新経済政策(レーニンのネップ政策)の下の成金達でも、学達でも、又大学生達でも無い(大学生達は少なからずいるが、ソロフキ諸島の囚人達が被る学帽は、当局に対する挑発であり、不遜であり、自ら銃殺してくれと宣言しているみたいなものだ)。そんな事は旧軍人を於て他に出来る者は無いだろう。しかも白衛軍の将校達以外に軍人がいるだろうか。
 前者と後者の原則的立場は一体どうしたのか? 此れは当に驚嘆すべき事ではないか。信じられない事では無いか。否、此れは階級的社会的分析に慣れてしまい、其れしか出来ぬ者にとってのみ驚異なのだ。其の様な分析学者には是の世の中の全ての物が驚異なのである。何故ならば彼の予め創って置いた溝へ、世界と人間が何時に成っても流れ込んでくれないからである。
 赤衛軍人を派遣してくれないなら、ソロフキ諸島の極吏達は鬼をも喜んで雇うだろう。囚人達は自己統制する事(自己迫害する事)と云う指令が出ている。誰に其れを一番安心して任せられるか。
 
 
 
 

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 かのサワチー、ゲルマン、ゾシマ達は何処へ行ったのか。否、此の北極圏で暮らそうなんて一体誰が考えついたのか。其処には家畜もいなければ、魚も取れないし、穀物も野菜も栽培出来ないと云うのだ。
 ああ、繁栄していた土地を荒廃させる名人達よ!こんなに早くーー僅か1、2年でーー模範的な修道院の生産施設を取り返しの聞かない程の完全に荒すなんて!どうして其れが出来たのか。掠奪しては運び出したのか。其れとも現地で全てを破壊してしまったのか。何千人と云う空いている働き手を持っていながら、其の土地からは何一つ取れないとは!
 自由な人々だけに牛乳、サワークリーム、新鮮な肉、其れにメフォディー神父の素晴らしいキャベツが与えられた。ところが、囚人達には腐った鱈ーー塩漬けにしたものか乾燥した物ーーしか与えられなかった。其の他じゃがいもの入っていない、真珠状に精磨した大麦又は黍の碾割の入った薄い野菜汁(バランダー)が与えられた。普通の野菜汁とボルシチは一度として無かった。其の結果、壊血病が発生した。《事務仕事の諸中隊》の囚人達さえも腫物が出来た。一般中隊に至っては……遠方の出張所から護送される囚人達は<四つん這いになって>帰って来ている(文字通り、波止場から四本の足で歩いて来ているのだ)。
 (家からの)仕送りの中から1ヶ月に9ルーブルのお金を使って良い事になっている。ゲルマン小礼拝堂に売店があるのだ。小包は一か月に一個。情報審理部が其れを開ける事になっている。連中に賄賂を遣らなければ、小包の中の多くの物、例えば碾き割りを受け取れない事になっていると言い出す始末である。ニコリスカヤ教会とウスペンスキー大寺院では、板寝床が上へ伸びている。詰まり4階建てである。プレオブラジェンスキー大寺院付属の建物に居る第13中隊の所でも此の位の窮屈さだ。此の入口の所に圧し潰された黒山の人だかりを想像して欲しいーー其れは3500人近くの人々が作業を終えて自分の宿舎に帰ろうとして必死になっているのである。熱湯を貰う為のボイラー室への行列は1時間も待たなければならない。土曜日毎の夜の点呼は深夜迄長引く(まるで昔の勤行のようだ……)。衛生については、勿論、厳重に取り締まっているーー強制的に頭髪を刈って顎髭を剃り落すのである(此れは神父達全員にも同様である)。其の他、長い衣服では裾を切り落す(特に法衣の)。他ならぬ其処に黴菌が隠れているからだ。只、肌着一枚と袋しか身に着けていない病人と老人達は、なかなか冬に自分の板寝床から離れて風呂へ行けない。彼等は蝨に負けてしまうのである(余分な配給食糧を貰う為に、死人は板寝床の下に隠す。しかし、其れは生きている人々の利益にはならない。何故ならば、蝨は冷たくなっていく死体から暖かい、未だ生き残っている人々の身体に移るからである)。城砦内(クレムリン)には酷い病院のある衛生部があるが、ソロツキ諸島の奥地には医術の医の字も無い有様だ(例外はアンゼルの懲罰出張所になっているゴルゴフスコ=ラスピャトスキー隠遁所だけである。其処では殺す事で……治療しているのだ。其処は、ゴルゴフスカヤ教会で衰弱した神父達も、梅毒患者達も、年老いた労働不能者達も、若い盗賊達も抛って置かれて、食事不足と残酷な扱いの為に死んで逝く。死につつある人に頼まれて、又自分の任務を楽にする為に、其処の医者は既に絶望的と思われる人々にストリキニーネ(Strychnine,マチン属Strychnos植物中に含まれる中枢神経亢奮作用を現すアルカロイドで毒薬。ストリキニンとも云う。現在はマチンS.nux?vomicaの種子、馬銭子(ホミカとも云う)から抽出し、硝酸塩として精製される。強力な痙攣毒で、犬に飲ませた場合、0.47mg/Kgの用量で痙攣を起こさせ、1.2?3.9米g/kgで痙攣死する。ストリキニーネの最も著名な薬理作用は脊髄の反射機能を亢進させる事で、僅かの知覚刺激に依っても強度の筋収縮を生じさせる。動物に大量投与した場合、脊髄反射機能の亢進に因って全身の筋肉に特有の強直性痙攣を起こし、呼吸麻痺又は循環障害により死亡する。人の中毒量は個人差が大きく、特に年少者は感受性が高いと云われる。中毒の際、多くの場合、意識は比較的明確で、患者の苦痛は大きい。大脳皮質の刺激感受性を高め、視覚、嗅覚、味覚及び聴覚を鋭敏にする(アルカイドの一種だから、麻薬だと感じたけれど、生理作用の点を見て此れは毒薬と覚醒剤の一種に当てはまるではないか)。本品は非常に苦しく、舌の鋭敏な人は40万倍の希釈液でも苦しみを感ずると云う。脊髄反射の機能亢進の作用機序は、脊髄の運動神経を直接亢奮させるのではなく、脊髄の亢奮性を通常は抑制的に調整している神経を抑制し、結果的に亢奮させると云う複雑な機構に依るものである事が解っている。薬理学の研究用の試薬としては重要性が高いが、致死量と藥効量が近いので、殆ど治療には用いられない。手術時のショック、麻酔薬に因る中毒、脳出血後の麻痺、視力障害に用いる事がある。本品を誤って服用した時の処置として、過マンガン酸カリウム液に依る胃洗浄、及びエーテル、バルビツレート(先ずバルビツル酸の説明。C4H4N2O3、分子量128.09.尿素に、マロン酸ジエチルとナトリウムエトキシドを作用させると得られる。無色の結晶、融点248?252℃。酸、無水に易溶。水溶液は酸性で酸解離定数Ka=9.9×1/100000(25℃)。5位の水素は、ナトリウム、臭素、アルキル基等で置換する事が出来、此等の誘導体の中には催眠作用を持つ物が数多く知られているが、無置換の物には催眠作用は無い。生体中でが、ウラシルの代謝の中間物質として存在する。CAS[67ー52ー7]。バルビツレートとは、バルビツ酸塩とも云う。バルビツル酸系催眠薬鎮痛薬の基本骨格で、5位の水素が種々の基により置換された構造が広く用いられている。一般にマロン酸誘導体と尿素から合成されているもの塩である。構造活性相関として5位の2個の水素は、何れも置換される必要があり、其のアルキル基は、炭素数5個か6個が限度で、又、側錯や不飽和を有する物は、側錯や飽和の物に比べ作用時間が短い。1、3位をアルキル基で置換したり、2位をチオカルボニルに変えると、作用時間が短くなる。其の作用の持続時間に依って、長時間作用型、中等度作用型、短時間作用型、超短時間作用型に分類される。鎮静、催眠、麻酔効果の作用点は大脳皮質、間脳及び脳幹網様体とされている。単独では鎮痛作用は弱いが、解熱鎮痛薬と併用すると相乗作用で強力な鎮痛効果が診られる。通常の用量では、発疹、胃腸障害、めまいを起こす事がある程度だが、大量に服用すると、呼吸及び血管中枢を抑制して呼吸停止、血圧降下等を招く。連用に依って、耐薬性及び、薬物依存症を生じる。此れは、精神的依存性が主だが、希に、身体的依存性が診られ禁断症状を示す事がある(『化学大辞典』東京化学同人より))、中枢性筋弛緩薬に依る対処療法を行う(『世界有用植物事典』平凡社より)。
 ホミカに含まれるアルカロイドの一つ。無色針状結晶で水に溶け難い。血管、呼吸中枢を興奮させ、脊髄の反射機能を亢進する。亢奮剤、強心剤、分析用試薬として使用。ストリキニンとも云う(『言泉』小学館より。此の意味からでは毒薬とは取れない)!忍)を与える。冬の間、顎髭を長くしている死体は肌着一枚で、当分の間教会の中で放置される。其の後は上り段の所に移して、壁に立て掛ける様に置くーーそうすれば場所を取らないで済むからだ。外に持ち出すと、其れ等の死体をゴルゴダの丘から下へ突き落す)[註.此の丘と隠遁所の名称は普通ではない。其れは此処以外に何処にも見当たらない(ゴルゴダの丘でイエス・キリストは磔になっている)。伝説に依ると(18世紀の文献 国立公共図書館 ソロヴェツキー諸島の聖僧伝)、1712年6月18日に修道司祭イオウが此の丘の麓で夜間の祈りを捧げていた時に、聖母が《天の荘厳な輝き(天が守護する人は、「銅の仕事」に命がけで行った人である。主婦の仕事が”神の仕事”であると認識している人であり、家庭を良く守っている人である!忍)の中に》現れて彼に言ったーー「此の丘の名は此れからゴルゴダとする。其の上には教会とラスビャトスキー隠遁所が立つ。そして其の丘は多くの人々との苦悩で白くなる」言われた様に名称を付けて、言われた様に教会と隠遁所を建てた。しかし、200年以上に亙って其の予言は当て外れで、実現しそうもない様に思われた。ソロヴェスキー収容所が出来た後はそうとも言えなくなったのだ(此れは、悪魔ダビデが聖母に化けての預言である。結論的から見れば、悪魔の共産主義思想を広める為に使われた収容所になって実行されたから。又、露西亜正教の問題点は、残酷支配のイワン雷帝を派出させた、露西亜貴族の頽廃を是正出来なかった問題点があるのです。後は神の悲しきの場所であり思い出したくない名前である「ゴルゴダ」の名を使っている所に、更に無実な政治犯が実行された所に悪魔の戦略が見えるのである。場所から見ると優しい「自然の秘境」の場所に、残酷な収容所を作る事自体が、「神」の概念を覆しているのです!忍)]。
 或る時ケミでチフスが発生した(1928年頃)。囚人の60%が死んだ後に、チフスはボリショイ・ソロヴェスキー島にも伝染した。此処では暖房の効いていない《劇場の》大広間に一度に数百人ものチフス患者達がごろごろしていた。そして数百人が墓地送りとなった(囚人の登録数を間違わない為に、作業手配係達は各々の患者の手に其の名前を書いた。そして回復した患者達は刑期の短い死人と刑期を交換した。詰まり、其の死人の名前を自分の手に書いた)。1929年に何千人と云う《バスマチ(中央亜細亜の反革分子)》が送り込まれた時、彼等は流行病を持ち込んだ。其の病気に掛かると、身体に黒い斑点が出来て、人間は必ず死ぬのだった。ソロフキ諸島の囚人達が考えた様に、其れはペストでも天然痘でも無い筈だった。何故なら、此等の二つの病気はソビエト共和国では完全に克服されていたから、そんな事は有り得なかった。其処で其の病気に《亜細亜のチウス》と云う病名を付けた。治療は出来なかったから、次の方法で其れを絶滅したーー監房の誰かが其の病気に掛かると、其の監房の全員を閉じ込めて外出を許さず、食事だけを支給した。此の状態は其の監房の全員が死ぬ迄続いた。
 若しソロフキ諸島時代には《群島》が未だ自分自身を理解しておらず、其の子等も未だ自分の性質に気付かなかったと云う事を確認出来たとしたら、吾々にとってどんなに科学的興味を惹く事か! 其の性質が其の後如何にして表れていったかを見極める事が出来たら、さぞ興味深い事だったろう! だが残念ながら、現実にはそうではなかったのだ! 教師たる者が存在しなくとも、見習う様な手本は無くとも、否、遺伝さえ無かった様だが、其れにも関わらず《群島》は早くも自分の将来の性格に気付き、其れを表していったのである。
 ソロフキ諸島には将来の骨と肉となる物が既に沢山発見されている! 既に《一般作業から引っ張り出す》と云う術語もあった。皆が板寝床で寝ていたが、或る者は其の時既に普通の板の寝台で寝ていた。寺院に中隊毎に収容されているのが普通だったが、或る者は一部屋に20人ずつ、又或る者は一部屋に僅か4、5人しかない生活ぶりだった。或る者は其の時既に自分の権利を心得ていたーー新しく到着した女性の護送団を調べて自分の為に気に入った女を選ぶ事(男何千人に対して女は150及至200人しかいなかった。最も後の時代には又増えたけれど)。既に屈従と裏切りに因って有利な地位や職務を獲得しようとする戦いが展開されていた。既に反革命分子達は事務職から追っ払われていたが、刑事犯罪人達は間違いばかりしていたので、元の事務職に戻さざるを得なかった。既に常時流れる恐ろしい噂の為に、収容所の雰囲気は凝縮されつつあった。既に最高の教訓も確立しつつあったーー誰をも信頼するな!(其れは銀世紀の感傷的理想主義を締め出していった)。
 自由な雇人達も又収容所の甘い汁を啜って、ふんだんに其の権利を利用する様になった。自由な雇人達の家庭は収容所の料理人を無料で使う権利を持っており、何時でも自分の家に薪割り人夫、洗濯女、裁縫師、理髪師等の職人を呼んで使う事が出来た。エイフマンスは自分の為に北極圏地方に別荘を建てさせた。ポチョームキンも又十二分に収容所での特権を利用したーー元の竜騎兵曹長だった彼は後に共産党員となり、更にチェキストと成り、そして今はもうケミ中継監獄(ケンペルプンクト)の長官である。ケミで彼はレストランを開いた。其処の楽団は高等音楽院学生から編成されており、女給士は絹のドレスに身を包んでいた。30年代初頭に食券制度の敷かれたモスクワから遣って来た収容所管理本部の御歴々は此処で豪遊出来た物だ。彼等の給士はシャホーフスカヤ公爵夫人が勤めた。請求書は只形だけの物で、30コペイカ程度だった。残りの金額は収容所の金庫から賄われた。
 其れに、ソロヴェツキー島の城砦(クレムリン)はソロフキの全てでは無い。其れは最も居心地の良い場所だ。真のソロフキと云う物は隠遁所(社会主義者達が運び出された後、其処には労働出張所が開設された)でも無く、其れは伐採作業現場と遠方の作業場の事である。しかし、今は他ならぬ其処に働いていた人々が全員一人残らず死んでしまったからである。今知られている事は、其の時既に、秋には囚人達がずぶ濡れになりっぱなしだった事。深い雪の冬には碌な衣服も履物も無かった事。労働日の長さは其の仕事に依って決定されていた事ーー詰まり、其の仕事が遂行された時点で始めて労働日が終るのだった。若し遂行されない場合には、宿舎に帰れなかった訳だ。既に其の時分から新しい出張所を《開設する》時は、人間の住んでいない場所に全く下準備を施す事無く数百人の人々を行き成り送り込むだけであった。
 しかしながら、ソロフキ時代の初期では労働に依る駆り立てや無理な仕事の与え方は発作的に起っていた感じもある。過渡期的な狂暴さの中に、其れ等は未だ締め付ける体系には成っていなかった。我が国の経済は未だ其れ等の上に基盤を置いていなかった。最初の頃ソロヴェツキー諸島特別収容所管理局には、恐らく確固たる経済計画はなかったのだろう。又収容所内の作業にどの位の労働と人間が費やされているかも考慮に入れなかったのだろう。だからこそいとも簡単に有意義な収容所維持の為の作業を懲罰に変える事が出来たーー氷上の一つの穴から他の穴へ水を汲み移す事、丸太を一つの場所から他の場所へ運んで又元の場所に戻す事、等。こういう事は残酷な事だった。其れと同時に原始的でもあった。ところが、熟慮したあげく確立された体系になると、労働による駆り立てが、酷寒に晒して水を掛ける事や蚊責めに合わせる為に切株に突き出す事は最早余計な事となり、死刑執行人の力の浪費となるのである。
 こういう公式的な数字があるーーロシア共和国で1929年迄に全囚人の34から41%しか労働に《従事》していなかった(我が国の失業状態では此れ以外の事態は有り得なかった)。是の中に収容所維持の為の労働も含まれているのか、其れとも此れは純粋に《外部的》労働なのかは不明である。しかし、残りの60及至65%の囚人達にとっては収容所維持作業も足りない筈だった。其の比率は其の儘ソロフキ諸島にも表れない筈は無かった。20年代を通じて如何なる定職をも持たない(一部には衣服が無い為に)囚人、或いは形だけの仕事に就いていた囚人が少なく無かった事は確実である。
 我国全体を震撼させたあの第一次5ヶ年計画の第一年目は、ソロフ諸島をも震撼させた。ソロヴェスキー諸島特別収容所管理局の新しい(1930年頃)局長ノグチェフ(社会主義者達を銃殺した例のサワチエフスツキー隠遁所の所長)は「講堂に集まった聴衆の驚愕の騒めき」を耳にしながら、ケミ市の自由な市民に次の数字を並べて報告した。「全く驚異的成長率を誇るソロヴェツキー諸島の特別収容所管理局管轄の伐採事業の他に、ソロヴェツキー諸島の特別収容所管理局が鉄道森林公団とカレリア森林公団の《外部からの》受注に応えて行った調材はーー1926年に6万3千ルーブルに達し、1929年には235万5千ルーブル(37倍だ!)に、1930年には其の3倍にも達した。カレリア=ムルマンスク地方での道路建設は1926年に10万5千ルーブルに達し、1930年には600万ルーブルに達したーー何と57倍ではないか!」
 囚人達を如何にして絶滅に追い込むかを知らなかった以前の荒掠たるソロフキ諸島は、こうして終りを告げようとしていた。労働の魔法使いが援助の手を差し伸べて来たのだ!
 ケンペルプンクト経由でソロフキは創られ、又同じくケンペルプンクトを通じて成熟したソロフキは20年代後半から元の所へ、大陸へと膨張していったのである。そして囚人にとって最も辛い事と云えば、其れは是の大陸の出張所へ送られる事であった。以前は大陸に於けるソロフキの領分としては、ソロカとスムスキー村と云った沿岸修道院の領地しか無かった。しかし、今や膨れ上がったSLONは修道院領地の境界線をすっかり忘れてしまったのだ。
 ケミから西へ沼沢地を通って囚人達は、「以前は殆ど実現不可能と思われていた」地面剥き出しのケミ=ウワタ街道の建設を始めた。夏は溺れたり、冬は凍えたりして働いた。是の街道はソロフキ諸島の囚人達にとって是の上も無い恐怖だった。そして長い事城砦(クレムリン)の内庭でこんな脅しが轟いた者だ。「何だと?? ウワタへ行きたくなったのか?」
 此れと同じ様な二つ目の街道はパランドフスキー街道(メドヴェジェゴルスクより始めた)だった。此の道路建設の時、ガシーゼと云うチェキストは岩壁に爆薬を仕掛ける様にと命令して、其の岩壁に反革達を送って、彼等が爆発で吹っ飛ばされるのを双眼鏡で眺めていた。
 話によると、1928年の12月にクラースナヤ・ゴールカ(カレリア)で刑罰として(仕事を遂行しなかった)囚人達は森の中に夜間放置されて、其の内150人が凍死したと云う。此れは極めて一般的なソロフキーの方法だから、少しも疑う余地は無い。
 しかし、次の話は信じ難い。ケミ=ウワタ街道のクットと云う所で1929年の2月に約100人からなる囚人の中隊を、計画量(ノルマ)を遂行しなかった為に焚火の中へ追い込み、全員が焼死した!と云うのだ。
 此の話を私に聞かせてくれたのはたった一人の人間、近くにいたD・P・カリストフ教授で、彼は古参のソロフキ諸島の囚人であったが、最近此の世を去った。只、此の話を裏付ける証言は入手出来なかった(ひょっとしたら、もう誰も入手出来ないかもしれない。否、多くの出来事に関しては一つの証言さえも取れないかもしれない)。しかし、生身の人間を焼死させないと云う保証があろうか。焼死の場合は技術が少し難しいと言うのか。
 生きている人間の証言よりも活字で印刷された物がより信憑性があると思う人は、同じソロヴェツキー諸島の特別収容所管理局に依って、同じ囚人達の手で同じ年に、只場所はコラ半島で建設された道路に関する次の文章を読むがいい。

 「大変困難に遭遇しながらベーラヤ河の渓谷、ヴドヤルヴ湖畔に沿って
 クキスヴムチョル山(現在のアパチートゥイ近郊)迄の延長27Kの道
 路を敷いた時、沼沢地を埋める為に……ーー何で埋めたと思いますか。
 其の言葉はもう舌の先に出かかっていますね。只、紙の上に書くには相
 応しくないけれどーー崩れ落ちる岩だらけの山の気儘な起状を削りなが
 ら、丸太や砂を使った」

 其の後、ソロヴェツキー諸島の特別収容所管理局は其処で鉄道を敷設した。

 「冬のひと月に11粁……ーー(どうして1ヶ月でなければならないの
 か。どうして作業を夏迄延期出来なかったのか)ーー……此の任務は実
 現不可能に思われた。30万立方米の土をーー(此れは北極圏内での事
 だ!しかも冬だ!ーー其れは土と言える物か! 花崗岩よりも硬いのだ
 !)ーー手作業だけでーー鶴嘴(つるはし)、鉄梃(かなてこ)、シャ
 ベルだけで取り出さなければならなかった。ーー(手袋は一体あったの
 か?……)ーー数多い橋の建設は作業を遅らせていた。終日三交換制で、
 北極の夜を灯油バーナーの灯で切り裂きながら、樅材で道を切り開きな
 がら、切株を堀り出しながら、人間の背丈以上の高さ迄雪の積る吹雪の
 中で……」(G・フリドマン著『おとぎ話のような現実』、雑誌『ソロ
 ヴェツキー諸島』1930年 4号 43、44頁)

 此れをもう一度読み返して下さい。今度は眼を閉じて下さい。そして想像して見て下さいーー貴方は頼りない都会人で、チェーホフの作品に溜息をついている。ーー其れが急に此の氷の様な冷たい地獄の中へ! 貴方は円帽(チュベチェイカ)を被っているトルクメン人であるーー其れが突然との夜の吹雪の中へ!さあ、其処で切株を掘り出してご覧なさい!
 此れはあの最も素晴らしい、明るい20年代に、未だ《個人崇拝》以前に起こった事なのである。其の時地球上のあらゆる人種は、白人も黄色人も黒人も褐色人も我国を自由の明星とみなしていたのだ(ああ、バートランド・ラッセルよ! ああ、ヒューレット・ジョンソンよ! 其の時貴方方の燃える様な良心はどうしていたのか?)。其れは軽演劇の舞台でソロフキ諸島の諷刺唄を公然と歌っていた時代であった。
 

 此の様にして誰も気付かない内にーー労働課題に依ってーー諸島に閉じ込もった特別収容所の以前の構想は崩壊してしまった。ソロヴェツキー諸島は生れて成熟した《群島》は、我国の全土に拡がって行き、其の悪性腫瘍を蒔き散らし始めたのだ。
 其処で次の様な問題が発生した。是の《群島》に全土を明け渡しても、只すっかり占領させない事、我がものの顔にさせない事、同化させてはならない事だった。《群島》の一つ一つの小島と一つ一つの丘の周囲にソビエトの敵意を込めた防波堤を築かなければならない。是の二つの世界は相互に入り交じるべきではあるが、融合すべきではなかったのだ!
 
 
 

◎農奴と収容所の神の法を守る政治犯の比較  ソルジェニーツィン著

 農奴!……考える時間を得た多くの人々が此の比喩に思い当った事は決して偶然では無かった。農奴制と《群島》とは、其の個々の特徴では無く、其の存在の主旨全般に於て全く同一であった。其れは何百万と云う奴隷の無料労働を強制的に且つ情容赦無く利用する為の社会的機構である。1週間に6日、屡(しばしば)7日も、《群島》の住民は、自分達には何の得にもならず、体力だけを消耗させる賦役労働へ出る事になっていた。彼等には自分の為に働く第5日も、第7日も与えられなかった。何故かと言うと、生命を維持する為に《1ヶ月分の食糧》、詰まり、収容所の配給食糧が与えられたからである。農奴制の下でと同様に、彼等は賦役立ての百姓(《A》グループ)と直接地主(収容地点長)の面倒を見て邸内(収容所構内)の仕事をする僕婢(《B》グループ)に分けられた。病人(《C》グループ)としては全く板寝床から降りられなくなった者だけを認めていた。同様に悪い事をした者(《D》グループ)の為には刑罰も存在していた。只、刑罰を科する時に差があった。自分の利益を考える地主はなるたけ労働日を減らさない様に配慮して処罰した。例えば、馬小屋で鞭打つくらいで、懲罰監房は無かった。其れに対して収容所地点長は国家の指令に基づいて過失を犯した者をシーゾ(懲罰隔離監房)或いはブール(規律強化バラック)へ入れるのだった。地主と同様に収容所所長は如何なる奴隷をも下僕として、料理人として、理髪師として、或いは道化役者(其の気になれば、農奴の俳優からなる劇団を作る事も出来た)として使う事が出来、如何なる女奴隷をも家政婦として、妾として、或いは女中として心ゆく迄気ままな事が出来た(ヒムキ収容所所長のヴォルコフ少佐はある囚人の若い娘が入浴後長い亜麻色の髪をパサパサと解いて日光で乾かしているのを見て、何の理由もなく急に腹を立てて短く命令した。「切り落としてしまえ!」その場で彼女の頭髪は切り落とされた。1945年)。地主或いは収容所所長が代る時、奴隷全員は従順に新任を待ち、彼の習癖を占い、予め彼に服従するのだった。主人の気持を予想出来なければ、農奴は自分の将来の運命も考える事は出来なかった。囚人も同様だった。旦那様の許可無しで農奴は結婚出来なかった。まして囚人は所長の同意を得て初めて収容所妻を持つ事が許された。農奴は自分の奴隷的運命を選択しなかったし、農奴で生まれた事も彼の所為では無かった。其れと同様に、囚人も又此の運命を選択しなかったし、《群島》へは宿命によって送り込まれたのだ。
 此の類似は露西亜語で昔から気付かれていた。「ヒトに食事を与えたか」「ヒトを作業へ送り出したか」「お前の所にヒトは何人いるのか」「私の所へヒトを寄越してくれ!」此のヒトを、ヒトがとはーー誰の事なのか。昔は農奴の事をこう言ったのだ。今は此の様に囚人達の事を言うのだ。しかし、将校達の事、指導者達の事はこう言えない。「御前の所にヒトは何人いるのか」ーーこう言ってしまうと、誰一人理解してくれる者はいないだろう。
 しかし、矢張り農奴と其れ程多くの類似点は無いという反論があるかもしれない。否、相違点の方が遥かに多いと言う人がいるかも知れない。
 吾々も賛成だーー相違点の方が遥かに多い。しかし、不思議な事だーー全ての相違点は農奴制に有利なのだ! 全ての相違点は《収容所群島》に不利なのだ!
 農奴達も朝から晩まで以上は働かなかった。囚人達は暗闇の中で仕事を始めて、暗闇の中で終る(其れもいつも終ると云う訳にはいかないのだ!)。農奴達の日曜日は神聖な日だった。其の上、ギリシア正教(露西亜正教では無かったか。もしかしたらギリシア正教と露西亜正教と対立していたかもしれない?忍)の全ての12祭日、寺院の祭日、日数の多いクリスマス週間も(仮装して家々を廻ったものだ!)神聖な日だった。ところが、囚人は日曜日が来る度に心配していたーー休日を呉れるか、其れとも呉れないか、と。祭日は全く無い(ヴォルガ河に休日が無い様に……)ーーメーデー(5月1日、悪魔ダビデがイルミナティ教団を設立した日!忍)だの、10月革命記念日の11月7日だのは祭日というよりも、捜査や待遇等の面で苦痛が多かった(或る者は此等の日に限って年々懲罰監房に入れられた)。農奴達のクリスマスと復活祭は真の祭だったーー仕事が終った後とか、早朝とか、夜間とかの一人びとりの捜査(『寝床の側に立て』と云う具合の)と云う物は全く知らないものだった!農奴達はいつも同じ百姓家に住み、其れを自分のものと思い、板寝床(ナールィ)、寝床或いは長椅子の上で寝る時は、此れは自分の場所だ、自分は此処で寝ていたし、此れからも寝るだろうと心得ていた。ところが、囚人は明日何処のバラックで寝るか全く分からない(仕事から帰る時すら、昨夜寝た所へ今夜も帰れると云う自信は全く無い有様だ)。彼には《自分の》板寝床も無ければ、《自分の》組立板寝床(ワゴンカ)も無い。移された先で寝るだけの話だ。
 賦役の百姓は自分の馬を持ったり、自分の鋤(すき)、鉞(まさかり)、大鎌、紡錘、篭(かご)、食器、衣類等を持ったりした。僕婢達でさえも、と、ゲルツェンは書いているが、何等かの襤(ぼろ)を持っていて、死ぬと其れを親類に残したものだ。そして其の褸(ぼろ)は地主が殆ど奪い取る事は無かった。ところが囚人は春になると冬物を返却しなければならない。秋になると夏物を返さなければならない。物品目録作成の時は彼の袋を汲ま無く調べ、余計な褸切れがあると、国家の為に没収されるのだった。生き物の中から許されたものと云えば、其れはシラミだけだった。農奴は時々《簗(やな)》を仕掛けては魚を取ったりする。囚人が魚を取ると云えば、野菜汁の中からスプーンで杯い上げる程度だった。農奴は牛を飼ったり、山羊や鶏を飼育したりした。ところが、囚人はミルクを唇にさえ付ける事が無い、何十年も鶏の卵を目で見た事が無い。例え見ても、恐らく其れが何か判らないだろう。
 既に7世紀に亙って亜細亜的奴隷制度を経験していた露西亜は、殆どと言っていいくらいに飢饉と云う物に見舞われる事が無かった。「露西亜では飢餓で死ぬ者はいなかった」と諺も言っている。諺と云う物は嘘を付いて作れる物では無い。農奴達は奴隷ではあったが、常に満腹だった。ところが、《群島》では何十年にも亙って残酷な飢餓が生活を支配し、囚人達は塵箱の中から鰊(にしん)の尾一つを手に入れる為に命がけで噛み合いを繰り広げた物だ。クリスマスと復活祭にはどんな貧乏な農奴でもベーコンを入手するのだった。しかし、収容所の最も成績の良い労働者でも小包からでないとベーコンを手に入れる事は出来なかった。
 農奴達は家族と共に暮らしていた。家族と引き離しての農奴の交換や売買は、公然と野蛮な行為として認められ、露西亜の新聞や文学は憤慨して此れを非難した。何百人、多くとも何千人(其れは有り得ない事だが)者農奴が家族から引き離された。しかし、其の数は決して百万単位にはならなかった(今の自由主義国は、当に此れに当たる。其れは単身赴任が多いのである。単身赴任するよりも、家族と一緒に赴任する方が正しいのである。其れが出来ないのは企業責任として追及するべきである。其れに対する言論は無いのである。そして、其の寂しさで性の乱れ(売春行為)を増やしているのである!忍)。ところが、囚人は逮捕された其の日から家族と引き離され、半数の場合は永久に引き離された。若し息子が父と同時に(吾々がヴィトコフスキーから聞かされた様に)或いは妻が夫と一緒に逮捕される時、最も警戒された事と言えば、其れは彼等が一つの収容地点で出会わない事だった。若し偶然に出会った場合は出来るだけ迅速に彼等を引き離すのだった。同様に男囚と女囚が収容所で会って、二人の間に短い或いは真の恋が花を咲かせると、急いで懲罰監房へ打ち込み、二人の仲を引き裂き、其れから別々の場所へ送ろうとした。だが、最も繊細な(センチメタルな)女流作家達もーーシャギニャンとかテスとかもーー此の事で声を押えて涙一つハンカチの上へ落しはしなかった(彼女等は知らなかったと言うのだ。或いは、そうしなければならないと考えていたのだ)。
 農奴達が或る場所から他の場所へ移動する時も慌しくは行われなかった。ーー彼等は家財道具を纒めて動産を集める時間を与えられて、ゆっくりと15及至40露里離れた所へ引っ越したのだ。しかし、囚人の上に疾風の如く囚人護送が襲いかかると、収容所に持ち物を返却する為の時間として20分、否、10分しか与えられない。其の時から彼の人生はひっくり返り、彼は何処から地の果てに送られる。ひょっとしたら、其れは永久に送られるかも知れないのだ。農奴は生涯を通じて一度以上の引越しをする事は稀だった。彼等は殆ど1ヶ所に定住するのだった。此れに対して一度として護送を体験しなかった《群島》の住民がいるのだろうか。多くの人々は5回、7回、11回も移動した体験を持っている。
 時として農奴達は年貢を納める事も出来た。そういう場合、彼等は呪った旦那から遠く離れて、商いをし、金持ちに成って自由な人と同様な暮し方をしたものだ。しかし、護送抜きの囚人達ですら他の囚人と同じ収容所構内で暮して、朝から他の囚人達の隊列が駆り立てられる同一の作業現場へ出向くのだった。
 大部分の僕婢は墜落した寄生虫(《僕婢共は人間の屑だ》)であり、、賦役立ての百姓達を食い物にしていたが、自ら彼等を支配する事は無かった。しかし、囚人の場合は、墜落した特権囚(プリドウルキ)共が其の上彼等を支配し、意の儘に使う事から其の辛さも倍増したのだった。
 一般に農奴達の状態は地主が彼等を容赦せざるを得なかったから、遥かに楽だったーー農奴は価値があり、自分の労働に依って地主に富を齎らしたからである。ところが、収容所の所長は囚人達を容赦しないーー彼は囚人達を買う訳でも無く、自分の子供達に遺産として残す事もない。ある者が死ねば、其の代りに他の者が送られると云う寸法だからだ。
 否、わが囚人達を地主の農奴達と比較しない方が良かった。後者の状態を遥かに落ちつきのある、人間的なものと認めなければならないからだ。《群島》の住民の状態との比較にある程度迄耐えうる物と言えば、其れはウラル地方、アルタイ地方、ネルチンスク地方の工場付属の農奴達だった。或いはアラクチェーエフ時代の移住者達[だが、此の点で私に反論する者がいるーー其れも不当だ。アラクチェーエフ時代の移住地にも自然があり、家族があり、祭があった。公正な比較に耐えうるものは古代東洋の奴隷制度以外にないのだ、と)。
 たった一つだけ、農奴達に比べて囚人達のたった一つだけの特典が私の頭に浮ぶーー囚人が《群島》へ送り込まれるのは、年端のいかない子供であっても12歳及至15歳からである。何れにしても、生れた其の日からでは無いのだ! 何れにしても、打ち込まれる時迄彼は娑婆の空気を味わうのだ! 裁判に依って決定された一定の刑期の何の点が終生の農奴身分より有利であるかと云う事に関して言うなら、多くの断り書きが必要であるーー其の刑期が4半世紀で無ければ、適用条項が第58条で無ければ、2度目の収容所の刑期を付けなければ、刑期終了後自動的に流刑に処せられ無ければ、2度勤めとして娑婆から直ぐ《群島》へ引き戻されなければ、である。是の断り書きは尖った杭で組んだ矢来の様に無限にあるが、旦那も気粉れで時々は農奴を自由にした事もあったと云う事を思い起さなければならない……。
 だからこそ、例の《ミハイル皇帝》がルビャンカで吾々にモスクワの労働者達の間で全ソ連邦共産党(ボリチェヴィキ)の事を第二次農奴制度(ボリシェヴィキ)とする小話の解釈が行われている事を知らせてくれた時、其れは吾々に可笑しな事とは映らず、予言的な事に思えたのであった。
 
 
 

ソルジェニーツィン著『収容所群島(3)』新潮社(一部自分の加筆あり)より
 
 

此処で本を買ってより詳しく調べて頂きたい