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四国の剣山上に「モーセの契約の箱」あるのではないのか?

 

神(ミカエル大王様)の言葉

 日本の民はユダヤの孫として、イスラエルの二支族(ヨブ、ユダ!忍)に供ない、
天が降りし時より、契約の箱(アーク)と共に天の守りを与えしが、天の人、神の人
である昭和裕仁天皇の死に伴い、万世一系の天皇家の衰退となり、総ての善なる
ものが邪まなるものとなった。悪がこの国の支配権を奪い、今将に崩壊しつつある。
(1997年8月25日から)
 

◎四国山中に遺る皇室に関わる封印された真相◎

●大嘗祭に欠かせぬ神具「麁服」は徳島県木屋平村でのみ作られる

 四国山中には皇室についての隠された事実が多くある。その内の二つだけを取上げてみる。
 その第一は、大嘗祭に欠かす事の出来ない麁服、そして第二は皇祖についての事である。
 まず第一に麁服。これは大嘗宮内陣の第一の神座に供えられるものである。平安時代の現天皇の大嘗祭の時にも用意された。
 これを貢ぐ事が出来るのは徳島県木屋平村の「三木家」に限るとされている。5万分の一の地図で木屋平村を見るならば、等高線が非常に緻密になっていて、山また山のなおまた山の奥にその木屋平村がある事が分る。
 三木家はその木屋平村の山の、なお頂上近くにある。三木家の裏に、それこそ山の尾根を走る古代の幹線道路を見付ける事が出来るし、そこに昭和39年まで公立三ツ木小学校があったという石碑が立てられている。
 この小学校は明治12年に建てられたものであった。その頃は未だ木屋平村の中心が山の頂上近くにあったという事が分るのである。
 今日、三木家を尋ねるならば、その山頂近くの前庭に切開かれた、竹垣をして鉄条網が張られ、入口には鳥居が設けられた一地区がある。ここで大嘗祭の為の麁服の大麻?が栽培されるのである。
 大麻が盗難されたり、悪戯されたりしたら困るので、畑の周りを竹垣と鉄条網で二重に囲んであるわけである。そして種蒔きから刈入れまでの約3ヶ月間、24時間体制で監視が続けられるのであった。それも僅か4反の麻布をつくる為にである。
 いわゆる平成の今日においてでさえ、大嘗祭の儀式に使われる麁服は、かくも厳重にしてかくも心を入れたものとして作られたのであった。
 四国、中でも徳島県以外の人々からするならば、何故この様な儀式物が、いわばかくも山奥で作られているのだろうかと、不思議に思うものである。
 麁服は古来から阿波国の忌部氏が調進するものと定められていたという。それが平安時代になると明確な文書として残っている。
 『貞観儀式』(859年)や『延喜式』(927年)には大嘗祭に関する式文が定められていて、麁服については阿波忌部氏が御殿人に指名され、麁服を織って神祇官に調進する方法が、細かく定められていた。
 忌部氏は中臣氏と共に朝廷を司る氏集団として歴史的に知られている。
 平成天皇の時にも麁服を織ったこの徳島県木屋平村の三木家は、将に古来からの忌部氏の末裔なのである。だからこの三木家でなければ、麁服を織る事は不可能なのである。
 

●麁服に見る四国山中に隠された”日本を支える力”

 三木家には多くの古文書が残されている。麁服についての古文書も多く残されている。 最も古いものとされるのが、文応元年(1260)11月のもので、当時の三木宗時が亀山天皇の大嘗祭に奉仕した時のものである。
 しかも大切な事は亀山天皇から三木宗時に命令が出され、その古文書には「先例にならって早く麁服を出すように」という意味の事が書かれているのである。
 という事は三木宗時以前から、三木家はずっと麁服を用意してきた事が分る。
 永仁6年(1299)11月、後伏見天皇。延慶2年(1309)6月の花園天皇。文保2年(1318)11月の後醍醐天皇。正慶元年(1332)11月の光厳天皇。これら各大嘗祭に麁服を調進した事が、古文書によって確認出来るのである。
 大嘗祭について研究した文書によると、朝廷はこれら阿波の国の三木家から麁服が都に運ばれる際、通過する各国の国司に道路を清掃する事を命じ、うやうやしく見送るようにという命令を出している。
 しかし三木家から麁服の献上する事が中断せざるをえなくなる時が来た。それは南北朝の騒乱である。
 南北朝の騒乱の時、阿波忌部氏は南朝方につき、三木家の当主は南朝軍として従軍したが戦死した。そして多くの迫害を受けた後、阿波忌部氏族は四散した。南北朝合体の後、朝廷はその勢力を失い、麁服の献上は途絶えてしまったのである。
 それ故に麁服が復活するまでには600年間の歳月が必要であった。即ち大正天皇の大嘗祭において再び阿波忌部氏の麁服が献上されたのであった。
 

●徳島・気延山麓・八倉比売神社にある皇室の祖の神陵!?

 第二に、皇祖についても又四国山中に隠されている。
 かって阿波の国に国司が遣わされていた所は、今日のJR徳島線府中あたりであった。 かっての国府跡に立てば真っ直ぐ西に気延山を仰ぐ事が出来るし、その山麓に天石門別八倉比売神社がある。
 この山陵は古来、矢野神山といわれ、山全体が御神体とされている神社なのである。
 江戸中期に古墳が削られて社殿がつくられた。そしてその残れる古墳の上に五角形の祭壇が作られたのであった。
 「阿波国国史研究会」によると、「祭神は大日霊女命(天照大御神の別名)」である。徳島藩の史書『阿波志』は天照皇太神、『入田村史』(大正2年)には大日霊女命を祀ると記されている。又京都押小路家所蔵の延喜式神名帳の阿波国八倉比売神社の項には、「祭神が大宮売神と注記されているが、これも天照大神の尊称である」と発表されている。 この八倉比売神社の社格は式内大社である。延喜式というのは律令の施行細目にあたるものであって、927年に作られた。
 平安時代当時、神社の数は三万社ともいわれていた。その内から国家祭祀に組入れられた神社が『延喜式』の中に登録され、それは3132に及んだ。この神社が、延喜式内社又は式内社と呼ばれたのであった。
 八倉比売神社はその式内大社なのである。そこで行われていた祭祀の起源の説明等をひもといていくならば、延喜式に取上げられる遥か以前の7世紀末期には、既に存在した神社である事が分る。
 

●徳川幕府も探っていた「阿波の本当の歴史」

 徳川幕府は本当の阿波の歴史を知っていたらしい。それ故に江戸時代を通じて多くの注文を、阿波藩につけてきた。
 松原元康が天下に名をあげるや、自らの家系は鴨族の末裔であると称して、その名を松平から徳川に改めた。その後、阿波の蜂須賀藩に、阿波藩を徳島藩に改名せよとの命令を出した。それ以降、初めて阿波の国に徳島という地名が現れだしたのである。
 更に時代は下って徳川光圀は江戸に修史局を開き、元禄10年(1697)、突然徳島藩江戸留守居役であった老中土屋相模守を呼びつけ、覚書を手渡し、阿波及び淡路両国にある古代天皇葬場の調査が続けられたのであった(阿波国国史研究会編『道は阿波より始る』に詳しく述べられている)。
 四国、中でも阿波の国には隠された歴史があるらしい。それが又日本歴史の根幹をなすものようである事が分る。
 それらの事を明らかにするのは『阿波風土記』であろう。しかし『阿波風土記』は現在、現存しないとされているのである。
 しかし『阿波風土記』から百数十年前に引用されたとされるものが、多くの本に取上げられている。それらを継ぎ合せるだけでも阿波国の不思議が浮び上がってくるのである。『阿波風土記』は徳川家が持っていた事が分っているし、明治初年まで徳島藩自体もそれを持っていた事が明確になっている。
 しかし明治5年、小杉椙邨氏が『阿波古風土記考証』を出版した時点で、それらが一斉に消えてしまったのである(これが、今現在も行われている。例えば、国際連合に対する論文を発表した雑誌が今、消えているのです。『阿波風土記』に何かを隠されているのです。皇室の問題が書いて在るのではないでしょうか!忍)。勿論『阿波古風土記考証』も同じ運命を辿った。
 今日、学校教育の場で、四国、中でも徳島県が詳しく取り上げられることはない。いわんや四国山中の不思議についても取上げられることはないのである。
********************************

●気延山悲願寺の灯台が照らす皇室と四国山中の結びつき

 その阿波藩についても不思議な事がある。
 先ほどの気延山のなお奥に、神山神領という所がある。それは全く山の中である。しかし、山の中とは雖も数千人が生活する事が出来る程に平らに開かれた場所がある。
 その中心が悲願寺で、その寺の庭に灯台の建物がある。江戸時代のつくりで、当時はその灯台の灯火は1日として消される事はなかったという。勿論江戸時代には、今の場所よりももっと山の中の、切立った崖の上にそれを立っていた。
 その灯火は遥か吉野川流域からも見る事が出来ただろうし、徳島の町からもそれを望む事が出来た。
 徳島藩は密かに阿波の国の歴史を探る事によって、日本国家の根幹に関わる事を発見したのではないだろうか。
 神山神領という名前だけでも荘厳である。徳川家に隠れて、自分達が知った何かを暗示せずにはおられない衝動に駆られたのではないだろうか。
 繰返すようであるが、その灯台は海上を行く船とは何の関係もない。只山の上で約250年間、光り輝き続けたのであった。しかも灯火を守る為に数家が選ばれ、1日たりともそれを絶やせば斬首刑にあったと聞く。
 数年前、皇室に関わる重要な人物がおつきの者と徳島県を訪れ、気延山山麓を訪れた。 気延山には先に述べたように、天照大御神の神陵である天石門別八倉比売神社がある。いわば皇室の皇祖墳墓の地である?
 彼は、その神社そのものを訪れる事は無かった。その神社のなお平地に至った所、かって阿波国の国司がいた所に、国分寺と国分尼寺が建てられている。彼は国分寺から静かに車を走らせて国分尼寺跡に向ったのである。彼の左には八倉比売神社が見えた事は間違いない。
 

●古代ユダヤ王国であった日本が首都置いた四国徳島県

 四国山上に首都あった古代ユダヤ王国が、山を下り、奈良の大和に向わなければならない時が来た。そのリーダー(聖徳太子を意味している。ユダヤの神エホバ(エル・ランティ様が、悪魔ダビデから守る為にユダヤ本国から「日本」と生れ変えた。詳しくはJI出版『古代日本と七大天使』を参照!忍)達は率先して大和に行ったが、その山中に残された人々も多くいた事だろう。
 同時に彼等が四国山上を去る時、自分達のルーツを隠匿した形跡がある。なぜ隠匿しようとしたのか。恐らく自分達にとって最も大切なもの、即ち「モーセ契約の箱」をカムフラージュする爲ではなかっただろうか(それと悪魔ルシファを使って操った悪魔ダビデの悪業から守る為!忍)。
 その隠匿の方法は、将に巧みであった。
 紀伊水道を挟んで、四国、中でも阿波及び四国山上にあった地名をそのまま奈良県及び和歌山県北部に作ったのであった。
 その代表的なものは吉野川である。吉野川は四国の中心を流れている。阿波の生命を支える川といっても過言ではないだろう。その吉野川は真っ直ぐ東へ進むならば、又吉野川が奈良の山奥から同じ紀伊水道に流れ込んでいる事に気が付く。
 勿論近畿地方にある吉野川は、下流に行って紀ノ川とその名を変える。しかし吉野川である事は変りはない。
 古代ユダヤの人々は四国山上において東祖谷村、西祖谷村等で生活していたように、奈良県南部の同じような地形の所に十津川村を作った。
 十津川村の郷土達の歴史は不思議である。南北朝動乱が起きると直ちに南朝につく。又南朝の武将達も、その十津川村を慕って吉野川上流を訪れ、そこを自分達の安全地帯と心得ていた。
 十津川村郷士は勤王の志士として京都動乱の地に馳せ下っていったのであった(真の南北朝問題は、沖縄王族と現王朝が南北朝問題なのです。「保元の乱」が真の意味の南北朝問題が発生させたのです!忍)。

 

●淡海、香具山・・・地名で覆い隠そうとした四国山上の世界最高の宝

 更に徳島県に那賀郡があるように、対岸の和歌山にも那賀郡がある。
 徳島県から今日の香川県にいくと、大阪があり、奈良街道がある。その奈良街道の果てに難波津があるのである。
 阿波国国史研究会によれば、『万葉集』歌われている難波津の歌はここで詠まれたというのである。
 しかもその歌に詠まれた淡海は、文字通り今日の徳島県と淡路島の間の淡海を指す。決して近江国の海、即ち琵琶湖ではないという。
 例えば『万葉集』273の歌を近江海即ち琵琶湖として考えるならば意味が通らない。
 「磯の崎こぎたみ行けば 淡海の海
  八十の淡にたづさわに鳴く」

 これを徳島県と淡路島の間の淡海とするならば、自然と理解する事が出来る。磯崎山と高島に狭まれた小鳴門海峡をこぎ抜けると淡海に入る。船上からは多くの島々や淡が見えた事であろう。「八十の淡」とは阿波を海上から眺めた光景なのである。
 そのような事は多くある。
 香具山についてはどうであろうか。
 私達は天香具山といえば直ぐに大和三山の1つであると思う。しかし今日の小松島湾の所に香具山がある。
 遥かなる昔、即ち『万葉集』が詠まれた時、阿波の国は「倭(和)」と言われ、大和の国の奈良県は大倭と呼ばれていたのである。

 「やまとには郡山あれど、とりよろふ天乃香具山 登り立ち、国見をすれば
 国原は 煙り立ち立つ 海原は かもめ立ち立つ うまし国ぞ やまとの国は」

 倭(ユダ)の国には数多くの山があるが、海原はない。かもめが飛立つ事もありえないのである。
 そして天香具山も、阿波国の天香具山を指している事になる。
 本来、阿波国にあった地名が主に近畿地方に多く作られ、その他にも作られていった。このようにして阿波の国が隠匿されていっただけでなく、本来の『万葉集』の歌の意味も日本人には分らなくなってしまったのである。言葉を換えればそれほどに阿波の地を隠し、四国山上の世界最高の宝を覆い隠そうとしたのではないか。

(「万葉集」は、悪魔ダビデによって改竄された旧約聖書の中身を真の意味の旧約聖書の内容を伝えているヘブライ語聖書を日本語文法にそって表現された歌謡集。基本的にはヘブライ語で表現されている。内容の中身はJI出版「古代日本と七大天使」に詳述している。そこからヘブライ語の和歌から、標準日本語がどの様に発展、発達していったか、細部に渡っての問題は、研究課題の一つである。そしてもう一つ問題を提起しますと、万葉集の中に語られる地名や山の名には、被実在のものがある事が知られている。これはどう言うことを示すかと申すと、即ち、地名や山の名は、万葉集の中で、ヘブライ文が隠蔽されていく中で作られ、そして、隠蔽された後のその作られた地名や山の名が、日本国内に、それぞれの山や地名として名付けられ、振分けられた、と考える事が出来るわけです。万葉集の中に今も残された非実在の地名や山の名は、その選に漏れたという事である。つまり、万葉集に語られた地名、山の名、河の名を、日本国中に名付ける事、これもヘブライ隠蔽政策一掃政策と新しい日本国へ向けた倭奴(ユダ)国、大和朝廷の新しい政策の一環でもあったと考える事が出来る。勿論、それ以前の古くから存在した地名や、山の名はそのまま、漢字に当字され残された。実例が今まで上文で説明出来る事である!忍)
 

●剣山を一切見せないようにした空海の遍路設定

 弘法大師・空海はその事の為に大いに貢献したと云われる。
 四国・吉野川の上流には、古代ユダヤ小国家があった四国の山々があると共に、その真ん中に剣山が控えている。弘法大師は近畿地方の吉野川の上流に剣山を隠匿する場所として高野山を開いたと云われている。
 弘法大師は剣山の重要性を心得ていた。
 四国の吉野川沿いから剣山を見る事の出来る場所は僅か100mである。ほんの僅かな所からしか剣山を臨むことが出来ない。
 それが出来る貞光町のある場所に立って、晴れた日、遥かに剣山を臨むと、あたかもその剣山の前の山が切取られて、わざと剣山が見えるように作られているかのような山の佇まいを臨む事が出来る。
 弘法大師といえば四国88カ所礼所を定めた人物である。
 その第一の礼所は鳴門から始る。しかし88礼所に至るまで、如何なる所からでも剣山を見る事は出来ない。
 いや見る事が出来ない様に作られているかの様である。
 この事を特に研究したのが先述の大杉博である。
 大杉博氏は『四国は死国にされていた』の著作の中で、日本文芸社 宇野正美著『古代ユダヤは日本で復活する』P4696〜97頁に示したような図を掲げている。一の礼所から始って、十までは、そのまま西に進んで行くだけである。更に西に進むならば、貞光町の剣山を見る事が出来る地点に行く筈である。
 しかし十の切幡寺の名の通り、そこで切れていて、11番目の礼所は西ではなく南に下るようになっている。剣山は一切見る事は出来ない。
 更に礼所は南に下り、剣山から剰りにも遠い所を迂回して行く事になる。
 しかし大杉氏は、その10番の礼所である切幡寺の、なお奥の院から、僅かではあるが剣山を臨む事が出来るというのである。そして第88番礼所の奥の院からも、剣山を少し見る事が出来るという。
 この第10、第88番礼所から剣山を臨む事が出来るのは、弘法大師の温情ではないかと云われている。裏返せば弘法大師は全てを知っていて、剣山という聖所を隠匿する為に、88カ所の礼所を定める様にと命じられていたかもしれない。
 

●イエス誕生の時に現れた「東方の三博士」は四国から出発した

 更に年月は流れ、紀元前4年、パレスチナではイエス様が誕生した。
 このイエス様誕生について『新約聖書』は克明に記録しているが、特に『新約聖書』「マタイ伝」には、東方から3人の博士達がやって来た事について述べられている。博士という言葉はギリシャ語ではマゴスなるが故に、正確には「知恵者」と訳すべきであろう。 この東方からきたマゴス達は、欧米では今日のイラクかイラン辺りから来た人々であるとされている。
 どうしてこのマゴス達が日本からやって来たと思えないのであろうか。
 欧米の人々には日本からという概念は100%ない。しかしイザヤの子孫である(ヘフジバ(天照大神)、シャルヤシュブ(月夜見尊)、マヘル・シャラル・ハシュ・バズ(素盞鳴尊、又は午(馬)頭大王)達[イザヤ祭政主は日本に来ていない!忍]が日本に「契約の箱」を運び込み、約2000年前にはそのイザヤの精神が未だ残っていた四国の小国家から、『旧約聖書』の預言の成就(悪魔ダビデの計画!忍)ともいうべきイエス様の誕生を確かめるかのように、一群の人達が西亜細亜のユダヤ国家を訪問したとは考えられないだろうか。
 この東方からのマゴス達は、まずエルサレムに向った。そしてエルサレムで当時の王ヘロデに会って次の様に尋ねた。彼等は救世主の事を「ユダヤ人の王」と呼んだのであった。

 「ユダヤ人の王として生れた方はは何処にお出でになられるのか。私達
 は東の方でその方の星を見たので、拝みにやって来たのである」

 これを聞いたヘロデ王は恐れた。エルサレム中の人々も同様であったという。
 なぜヘロデ王は恐れたのか。ヘロデ王はユダヤ人ではなかった。イドマヤ人だったのである。此の頃ユダヤ国家はローマ帝国の属国であった。それ故ローマ人はイドマヤ人をユダヤの王として立て、ユダヤ人を統治していたのであった。将に巧みな植民地政策というべきであろう。
 ユダヤの新しい王が生れたとなれば、自らの立場が危うくなる。ユダヤ人による反乱が起きるかも分らないと、ヘロデは恐れたのであった。
 ヘロデ王は『旧約聖書』の学者達を呼んで「キリスト(救世主、ギリシャ語では『クリスト』)は、どこで生れるのか」と尋ねた。彼等は『旧約聖書』の中の「ミカ書」を聞いて「キリスト(クリスト)はベツレヘムである」と答えたのであった。
 直ちにヘロデ王は東方から来たマゴス達を呼んで、彼等から星の出現の時間を聞き出し、
 「ベツレヘムに行ってその幼子の事を詳しく調べ、わかったら自分にも教えて頂きたい。自分も行って拝まなければならないから」と言った。
 勿論ヘロデ王は拝む爲ではない、その幼子を亡き者にする爲であった。
 東方から来たマゴス達は、直ちにベチレヘムへ向った。星が再び彼等を先導して行ったと「マタイ伝」は記録している。
 彼等はベツレヘムに着き、イエスがいる家を訪ね当てた。そして母と共にいる幼子イエスを見、ひれ伏して拝んだ。そして彼等は肌身話さず持ってきた宝の箱を開けて、その中から黄金、良い香りのでる乳香、藥である没藥を出して、贈物として捧げた。
 東方から来たマゴス達は、其後、夢のお告げでエルサレムに戻る事なく、ヘロデには会わず、別の道から東方へと帰っていったのであった。同時その夜に天使がヨセフに危機を伝え、そのヨセフが母マリヤに伝えて、イエス様と母マリヤと一緒にエジプトへ脱出していったのであった。
 怒り狂ったヘロデ王が、ベツレヘムの2歳以下の男子を全て剣で殺したのは、それから数日後の事であった。
 

●徳島・東祖谷村の栗枝渡神社の名はイエス・キリストに由来する!?

 剣山、その中でも日本のチベットと云われる東祖谷村には、不思議な神社がある。
 その神社には鳥居がないのである。普通、神社の象徴は鳥居であるが、遥かなる昔からこの神社には鳥居がない。
 加えて天皇家の家紋、即ち16菊紋が使われている。瓦や、ハッピの背にもあざやかな16菊紋が染抜かれているのである。
 安徳天皇が屋島の戦いで生延びて、四国山上そして東祖谷村にやって来たという話が伝わっているが、それは恐らく東祖谷村の人々が平家の落人の子孫であるという事に話を合わせたのではなかっただろうか。
 言い換えれば源平合戦を境に、その村の歴史を誰かが隠匿してしまったのである(それは、悪魔ダビデが歴史を隠匿した可能性がある。源平合戦の前の、「保元の乱」が実質的な悪魔と神との戦争を意味しているから。その歴史を隠す為に悪魔ダビデが隠匿したと思う!忍)。**********。
 この不思議な神社の名を栗枝渡神社という。
 この栗枝渡神社に掲げられている由来書には、元は栗須渡神社といったと明記されている。
 これは江戸時代の禁教令の頃に付けられた名前ではない。もっと以前からの事である。
 東祖谷村の栗枝渡神社とは何なのか。
 因みに「クリスト」とはキリストのギリシャ語読みの救世主の意味である。
 将に日本離れした神社の名前である。全世界に通用する救世主という言葉が、その神社の名前になっている。そして神社の象徴である鳥居もない。
 先の『新約聖書』中の「マタイ伝」のイエス様誕生の記録と、東祖谷村の栗枝渡神社を考え合わせるならば、何かを彷彿させないだろうか。
 栗枝渡神社から目を上げると、遥か彼方に剣山山系が見える。場所によっては剣山そのものが見えるのである。
 将にその辺りは古代ユダヤ国家があった所なのである。
 この栗枝渡神社の記録書には次の様に書かれている。

 「剣山参拝者は栗枝渡神社を参拝しなければその意味がない、と
 毎年5月頃より11月頃までの間、白衣の行者姿が、毎日のよう
 に『六根清浄(法華經)』を高らかに唱えて長蛇の列が続いていた」

 この事からも分るように剣山と栗枝渡神社は一体なのである。
 ではなぜ東祖谷村のこの神社が栗枝渡神社と名付けられたのだろうか。
 それは「マタイ伝」の東方から来たというマゴス達のベツレヘム訪問と併せて考えれば解ける。
 彼等はベツレヘムで幼子イエスに会った。当時のユダヤ国家ではアラム語と共にギリシャ語が、一般の人々の言葉として使われていたのである。
 恐らく彼等はエルサレムそしてベツレヘムを訪ねる内に、アラム語と共にクリストという言葉を耳にした事だろう。彼等は救世主イエス様を訪ねて、旅していたからである(もし、正統なる天上界が守っている場所であるならば、基本的にギリシャ語は広まっていると考えられる。ギリシャ文化の基本的なゼウス・アリストテレスを通して、神ヘホバが直接、地球人に法を説いたから、宇野氏が自覚していないのは、日本国家は「神の国」天帝(エホバ)が存在している国であるという自覚がない。「モーセの契約の箱」が日本に在るのもその証の1つに過ぎない事である!忍)。
 そして彼等はイザヤの遺言通り、ベツレヘムで生誕したばかりのクリスト即ちイエス・キリスト自身に出会った。
 彼等は十分に目的を果すと共に、彼等が持っていった非常に高価な黄金、乳香、没藥を、クリストに捧げたのであった。そして彼等は元来た道を、再び東方に向って帰っていったのである。
 即ち彼等の出発点が、この東祖谷村の栗枝渡神社の辺りだったのであろう。
 彼等の帰りを待ちわびる多くの人々がいた。当時はイザヤが没して以降、700年しかたっていない(その間に、イザヤの計画が遂行出来る環境を悪魔ダビデが行ったのである。イザヤ書の計画は、神エホバの双子の弟悪魔ダビデの計画であり、天上界は心からは支持する事は無かった。今、現在もイスラエルは、ダビデ王の再来を待っているが、神天上界は、千乃裕子先生を中心に世界の宗教を統一する事を考えている。悪に対して戦いは、許されるけれど、調和のある社会に、わざわざ破壊の道を計画するのは許されないのである。神の言葉を聞きたいならば、今現在は、神の言葉は日本語だけになったのである。イスラエル人は、日本の文化を学び、日本人になる事が救いの道になるのです。それは、キリスト教の正しさとイスラム教の正しさをも学ぶ必要があるのです。あくまでも「宇宙の法」に添っての調和のある社会なのです!忍)。
 この剣山山系において、イザヤの精神はまだ生きていたのであった。
 このように日本離れした神社も、古代ユダヤとの関係で見るとき、その名の重要性が鮮明なものとなるのである。
 
 
 

モーセの契約の箱「アーク」に関して

●「かごめ、かごめ」のわらべ歌に秘められた驚異の暗号

 日本人の誰もが知っている童歌。しかしそのままではどのような意味なのか分からない。何か、暗号が秘めている様に思える。

「かごめ かごめ
 かごの中の 鳥は
 いついつ 出やる
 夜明けの 暁に
 鶴と亀が すべった
 後ろの正面 だーれ」

 昔、四国・剣山は「鶴亀山」と書いた。
 現に剣山山頂に登り、すぐ崖の下を見るならば、自然石で作られた大きな鶴と亀を見つける事が出きる。長い歳月の内に、鶴の首は落ちているが、亀はそのままの形を保っている。
 この童歌にも「鶴と亀」が出てくる。その鶴と亀が崩落した時、後ろの正面からそれまで隠されていた物が登場するというのである。
 昔、物を覆う時に竹で籠を作り、それを被せた。竹で籠を編むが故に、多くの籠目模様が出来上がる。
 鶴と亀が崩落した時、その中から大切なものが登場する。
 それはいつの事なのか。
 「夜明けの晩に」とある。これは将に不思議な言葉である。夜明けと云えば朝日が昇る時であるから、ますます光が溢れてしかるべきである。しかし夜明けにも関わらず、晩のように暗い状態を指している。
 全世界が夜明けを待っているのに、夜明けが来ない状態の時に、鶴と亀は崩落すると言っているのだろうか。
 これを剣山に古代ユダヤ最高の秘宝、「モーセ契約の箱」が隠されているとしたならばどうであろうか。

 後で詳しく述べる事であるが、その「契約の箱」の上には、金の打ち物作りで出来た翼を広げた二つの天使「ケルビム」があった。これまで日本人の思想には、天使というものはなかった。それ故に遥かなる昔、それを見た人が子孫に伝える時、ケルビムが分からず、翼を広げているが故に鳥と表現したのではないだろうか。
 確かに日本の神輿の上には鳳凰が大きな翼を広げている。
「モーセ契約の箱」が剣山に隠されているならば、しかもそれを登場したならば、どれほど世界的発見となり、世界歴史を変える事になるだろうか。

 

●四国・剣山は「モーセ契約の箱」が隠された

人工の山であるという噂は、昔からあった。剣山から西に広がる山々と谷それは東祖谷村、西祖谷村である。この村では昔から剣山は人工の山であると言伝えられて来たという。
 昭和初期、高値正教氏という人物が3年間に亘ってこの剣山に登り、しかもそこに数ヶ月滞在して、剣山が人工的な山であるかどうかを探ろうとした。
 当時の新聞はそれを指して「ソロモンの秘宝を検索」等と云ったが、それは単なる噂であって、本人は只剣山が人工的な山であるかどうかを検索していたのであった。
 高値正教氏自身は次の様に書き残している。

 「筆者は自己の研究の学術的価値を実証の爲、昭和11年7月、四
 国剣山に登山し、果たして人工なりや否やを実証すべく、その調査を
 着手し、その年の12月10日までその研究を継続して帰京し、翌
 12年7月に再度登山してその研究を続け、同年12月10日まで
 にて打切りとなして帰京、翌13年7月に3回目の登山をなし研究
 を継続し、同年12月29日まで山に留まりて、これが実証に没頭
 したり。
  その同調査の為に地下の発掘延べ485尺(147m)の長さに
 及びたり。この研究の内容発表は省略する事とするが、その人工な
 る1点の確証は完全に把握したのである」(『四国剣山千古の謎』
 四剣山顕彰学会刊)

 剣山は標高1955mの山である。それもその山だけではなく、多くの山が連なり、その中の1つとして剣山があるのである。
 昔、人々が剣山に近づくだけでも大変な努力を要した事だろう。
 この高い剣山は夏であっても夜には気温が下がり、非常に寒くなる。高根氏は夏だけではなく、秋から冬にかけてもこの山頂近くに留っていたのである。しかもそれは数ヶ月に及んだ。
 冬の剣山には多くの雪が降る。如何なる自然の苛酷な条件であっても、高根氏の執念を挫折させる事は出来なかった。
 彼はその当時、剣山を奥へ奥へと掘っていったのである。血の滲むような労苦、そして多くの費用は費やされた事だろう。そして彼はその目的を果す事が出来た。「その人工なる1点の確証は完全に把握した」のである。
 高根氏は続けてこう書いている。

 「しかしこの発掘は決して内臓物の発掘の為に非ずして、徹頭徹尾『人工』
 の確証であった事をここに名言しておく必要があると思う」(前掲書)
 

●人工の山・剣山の内部に創られた巨大な水溜

 剣山が人工の山であるとするならば、何が分るのだろうか。その中に大きな水溜が掘られているのではないだろうか。
 そこに水溜があるとするならば、洞窟が掘られ、かつ水が溜まると共に、それを覆う岩も残っている事になる。それ故その内部は温度と湿度が一定である。そうすると木製品であっても、長き歳月に亘ってそのまま保存する事が出来るのである。
 剣山の内部に大きな水溜があって、温度と湿度が一定に保たれているとするならば、そこに古代ユダヤの「モーセ契約の箱」が安置されているかもしれないのである。
日本文芸社 宇野正美著『古代ユダヤは日本で復活する』P24に掲げた不思議な写真を見て頂きたい。これは東祖谷村のある神社で見付けたものである。剣山内部の水溜めを暗示しているのではないだろうか。不思議というより、非常に思慮深く創られている事に気が付く。
 中央の大きな水溜に水が溜る。そしてそこからあふれた水は土手から外の溝に流れ込み、留る様になっている。そして溝の1カ所を切っておけば、そこから水抜きをする事が出来るのである。
 剣山内部に水溜を作り、その水抜きを作る為に外部のある処に穴を空けて作業するものが入ったとしよう。そしてものの見事に水抜き装置を作り、再び自分達が入った穴から外へ出る。更に水抜き装置が作られている事は分らなくなるのである。
 しかし歳月が立てば、幾ら巧みに作られた物であっても、ひび割れ等が生じるだろう。 剣山頂上付近にはそれを象徴するかの如く、同じ高さの所から、幾筋もの水が噴出し、滝が流れているのである。
 しかも平成6年(1994年)夏と云えば、四国全土が水不足の最中であった。7月17日、例年行われているように、御輿が剣山頂上を目指して駆け上がっていったのである。
 この7月17日にぼ、剣山山頂近く、正確には山頂から200メートル下った同じ高さの所から、数筋の滝が音を立てて流れていた。
 更に、おそらくは水抜き装置として作られていたのであろうか、既に自然石が崩壊した「行者の滝」と云われている洞窟の内部には音を立ててとうとうと水が流れていたのである。
 常識的に考えても、頂上近くから幾筋もの滝が溢れ続けるという事は起り得ない事である。その頃高松市では、既に1日19時間の断水指令が出されていた。
 この1点を見ても、剣山内部は人工的に作られ、しかもその中に大きな水溜のある事が分る。

●ノアの箱船漂着の日に由来する剣山の「7月17日」の祭り

 毎年、剣山山頂に向って神興が担上げられていくのが、7月17日であるが、この7月17日には特別な日である。それは『旧約聖書』によれば、ノアの箱船がアララテ(アララト)山腹に漂着し、新しい時代が始った時とされている。
 この話は『旧約聖書』中の「創世記」に書かれているものである。全世界は神に反逆し、罪に溢れた。そこで神はこの世界を滅ぼそうとした。しかし神は、神に従うノア及びその家族を救おうとし、箱船を作る事を命じた。その箱船は巨大なもので、今日でいえば50万トン級のタンカーに匹敵するものであった。しかもその内部は三階建になっていた。 箱船が出来た時、ノア及びその家族と動物1つがいずつが、その中に入ったという。全てが入り終った後、大雨が降続き大洪水が起きた。(基本的に、日本以外の神話は、大洪水神話が世界中に残っている!忍)

 「それから大洪水が40日間、地の上にあった。水かさが増していき、
 箱船を押上げたので、それは地から浮び上がった。水はみなぎり、地の
 上に大いに増し、箱船は水面を漂った」(「創世記」7章17節、18
 節)

 箱船は何日も水の上を漂い続けた。そしてやがて雨は止み、水は引出した。箱船が到着したのは、今日トルコとアルメニアとの国境にあるアララテ山腹であった。ノアはその後、新天地で人類の始りを体験する事になる。

 それ故7月17日とは、新しい時代の始りを指している。剣山山頂で神輿がかつぎ上げられる7月17日に行う(因みに、八坂神社が7月17日に山鉾巡業が行われているが、それは悪魔ダビデが、わざと京都で昔は、悪霊が人々に病気させて、多くの人が死んで、ノアの箱船の日に疫病が止む様にさせた。そして真のノアの箱船の儀式である剣山山頂での神輿が担上げる儀式を無にさせる目的で行われた。八坂神社が祀っているのは、牛頭大王であり、それはパール神信仰であり、悪魔ダビデを指している。陰陽道で、牛頭大王は、残虐な悪神である事を教えられている。これを著した宇野正美氏は八坂神社が秦氏が行われている事を気付いてユダヤ教と繋げたが、これはユダヤ教でなく、聖書で禁止されているパール神信仰である。同じ神主の秦氏が祀っている伏見稲荷神宮が、素盞鳴尊を正確に午(馬)頭大王として祀っているのでユダヤ教系列である!忍)。

 7月17日、剣山山頂に向って神輿は古代ユダヤとどのような関係があるのであろうか。
 世界広しと雖も、多くの人々が御神体を担いで練り歩くという習慣がどこにあるのだろうか。そればかりか日本の神輿は、今から3500年前、モーセが『出エジプト記』に書留めた形と大きさがほぼ一致し、飾付けも非常によく似ているのである。
 かって古代ユダヤ人達が日本に来ていたと云う事は、今日でも神輿が日本各地でかつぎ上げられ、古代ヘブライ語「エンヤラヤー」(我こそは神を誉め讃えまつらんの意味)」がかけられ、練り歩かれているのを見ても、証明する事が出来るのではないだろうか。
 

●”かつぎ””金で覆う”神輿の謎は「契約の箱」(アーク)に起因していた

 3500年前のモーセの言葉を『旧約聖書』から引用しよう。

 「幕屋の型と幕屋の全ての用具の型とを、私があなたに示すのと全く同
 じように作らなければならない。
  アカシヤ材の箱を作らなければならない。長さは2キュビト半、幅は
 1キュビト半、高さは1キュビト半」(「出エジプト記」25章9、10
 節)

 ここでいうアカシヤ材とは私達が並木等で見かけるアカシヤではない。砂漠アカシヤである。砂漠アカシヤは多くの棘を持っている。素手で掴む事は難しい。しかし一旦その皮を剥ぐならば、硬質の白い木材を得る事が出来る。
 1キュピトとは約44cmである。従って長さ110cm、幅及び高さが66cm。このアカシヤ材で作られた箱は、神輿とほぼ同じ大きさになる事が分る。

 「これに純金を被せる。それはその内側と外側に被せなければならない。
 その回りには金の飾り縁を作る」(同25章11節)

 そのアカシヤ材の箱は純金で覆われていた。
 今日、日本で担がれている神輿の全ては、内も外も金で覆われているではないか。それを保存し、担ぐ人々に、神輿はなぜ金で覆わなければならないのかと尋ねてもそれは分らない。しかしハッキリ云える事は3500年前の「出エジプト記」の通り、神輿は金で覆われていると云う事である。
 しかもアカシヤ材の周りには、金の飾りぶちが作られているのである。
 将に日本の神輿はその通りではないか。
 更に神輿は、必ず”担ぐ”という習慣がある。本来、神輿を車に乗せると云う事はない。必ず担がなければならないのである。従って神輿の下には、担ぐ為の棒が縦横に組まれている。
 アカシヤ材で作られた「契約の箱」も担がれた。
 それ故にその箱の基部には4つの環に棒を通すだけでは担ぐ事が出来ない為、縦横に棒を組んで多くの人が担ぐ事が出来るようにされた神輿であった。しかし今では使っていないにも関わらず、4つの環はそのまま取付けられているのである。
 この事は神輿は元々4つの環、及びそこに通した棒で担がれていた事を暗示している。将に「モーセ契約の箱(Ark)」そのものだったのである。

 「箱の為に4つの金の環を鋳造し、それをその4隅の基部に取付ける。
 一方の側に二つの環を、他の側に他の二つの環を取付ける。
 アカシヤ材で棒を作り、それを金で被せる。
 その棒は、箱を担ぐ為に、箱の両側にある環に通す」(同上25章12
 〜14節)

 神輿は夏祭、秋祭に引出されて、担がれる。普通は神社の倉庫にしまい込まれているが、だからと云って神輿に差込まれた棒が抜かれているわけではない。殆どの場合、差込んだままの状態で保存されている。
 それと全く同じ様に「モーセ契約の箱」も、棒は箱の環に差込んだままにしておかなければならなかったのである。

 「棒は箱の環に差込んだままにしなければならない。抜いてはなら
 ない。
 私が与えるさとしをその箱に納める。
 また純金の『購いのふた』を作る。長さは2キュビト半、幅1キュビト
 半」(同上25章15〜17節)

 そしてその「契約の箱」の中には、神自身が「私が与える聡」といった10戒が書かれた契約の石板が2枚入れられ、マナという食べ物が入った壺と、モーセの兄のアロンの杖が入れられていたのである。
 更に「契約の箱」の上には、箱の上と同じ面積の純金の「購いのふた」というものが置かれていた。その購いのふたの両側に二つの金のケルビムが、打ち物づくりで置かれていたのである。
 

●神輿の鳳凰はケルビム(天使)の変身したもの

 上述したように、日本人の思想にはケルビム即ち天使という思想はない(日本は、直接天帝(エホバ)が直接、治めている国家なのである。天帝が居ない時は、お釈迦様が変りに日本を見ているのである。それを忘れては成らない。日本では、天使はずっと狐に化けて社会全体を見回した可能性が残っているのです。当然その報告が、天帝の所に情報が流れている可能性があるのです。これからは、狐ではなく、猫、猪、熊、カラスに化ける可能性があるのです。今現在は、千乃裕子先生の所にいますから。今、日本人は、テスラ波を用いて生物絶滅の政策を採っていると強い神の批判が載っている雑誌「LR」を読めば、今の言葉は理解出来ると思います!忍)。
 だが本来の「契約の箱」にはケルビム、今日の日本で担がれる神輿の上には、先にも述べた通り鳳凰が乗せられているのではないか。
 鳳凰は古来、中国では麒麟、亀、龍と共に四瑞として貴ばれ、嘴は鶏、顎は燕、背中が亀、尾は魚、首は蛇、前部が麒麟で後部は鹿に似ている、将に想像上の鳥である。しかも最も貴い鳥とされた(聖徳太子の時代に、日本ではヘブライ色を消して、新しい「日本国」を作ったのである。その時に中国での言葉で貴重されている「鳳凰」が使ったと考えられる!忍)。
 宇野説
 「ある時、ある人が「契約の箱」を見たのではないか。そして只大きく
 翼を広げた二つの天使を見た。しかしそれをどの様に表現したらよいか
 分らず、後世に伝える場合、翼を広げた鳳凰とした。」
 

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 東祖谷村、西祖谷村は「平家落人部落」といわれる。
 そこには平家の旗なるものが伝わっている。世にいう平家の赤旗である。その平家の赤旗には、二羽のアゲハチョウが向い合い、かつ大きく羽根を広げている姿を描かれている(平家というと「平治の乱」を思い出すけれど、あの当時で本当の問題の戦争は、神との関わりの戦争は「保元の乱」であるのです。其の結果、崇徳上皇の恨みが日本に蔓延されたのです。神は源為朝を通して沖縄に琉球王国を作り、実質的にここから南北朝問題が発生したのです。「保元の乱」の時は、平家も源氏も分裂して戦った戦争なのです。でなぜこれを書いたのかというと東祖谷村、西祖谷村の平家は、桓武天皇の子孫が直接に伝えているのではないかと調べる必要があるのです。それは、平家の没落と無関係であるのではないかと考えているのです。桓武天皇と云えば、空海と深く関係があるのです!忍)。 はるかなる昔、「契約の箱」の二つのケルビムを見た人々は、そのままを表現する事が出来なかった。ある人は鳳凰として、ある人は二羽の羽根を広げたアゲハチョウとして伝えたのではないだろうか(自分は黙示として表現したのではないかと考えている!忍)。

 「槌で打って作った二つの金のケルビムを『贖いのふた』の両端に作る。
  一つのケルプは一方の端に、他のケルプは他方の端に作る。ケルビム
 を『贖いのふた』を覆うようにする。互いに向い合って、ケルビムの頭
 が『贖いのふた』に向うようにしなければならない」(同25章18節
 〜20節)

 今から3500年前、古代ユダヤ人はエジプトを出て、砂漠の旅を続けていた。そしてシナイ山で宇宙の法則を預る天帝(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教がいう唯一絶対の神を指している!忍)が、神と古代ユダヤ人との契約の印として、「契約の箱」を作るようにと命じたという。
 神はモーセにその原型を示した。モーセがその通りに作ったものが「モーセ契約の箱」と云われるものである。
 これに比べるものは他にはない。その原型となるものを、世界中何処においても見出す事は出来ないのである。しかし只日本においてのみ、昔から日本人が崇めてきた神輿にそれを見出す事が出来るのである。
 日本人が独自で神輿を考え出したのではなく、日本に伝えられた「モーセ契約の箱」(アーク)を模倣して作り、それが日本に広がっていったのであろう。
 古代ユダヤ人はその「契約の箱」を大切にした。モーセの命令通り、それを肩に担ぎ、力の限り神を誉め讃えつつ練り歩いたのであった。
 21世紀を迎えようとする今日、日本各地でそれと同じ様に光景を見る事が出来るのである。

 

●山の尾根を走る古代の幹線道が「死国」の不思議を明かす

 日本全体を見渡しても四国は非常に不思議な所である。それはあたかも忘れられた地とされているかのようである。
 ある人はそれを指して「四国は死国にされた」といった程である。
 しかし四国は死国にされたが故に、人目に触れられる事もなく「契約の箱」は剣山山中に、しかも人工的につくられた水留めの上で守られ続けた事になるのではないだろうか。『東祖谷山村誌』は剣山について次のように述べている。

 「剣山への素朴な信仰は、修験道の霊山(大日如来)と崇められ
 るずっと以前からのものだったと考えられる。つまり修験道の行
 場としての剣山の性格性、即ち厳しい自然を持つ登山困難な山と
 いう意味だが、それだけの理由で修験道がこの山を求めたとは考
 えにくい(修験道の修業は、神から霊能力を頂ける為に、そして
 仏法でいうと金剛力を頂けるための修行として実行しているので
 す。これはブッダ様が行者の寓として批判されているが、当時空
 海様が此の近くに霊界の結界を張ったので、それと霊現象を起し
 たのではなかろうか。今、霊現象を科学的に明かすのが、千乃裕
 子先生が出す『超物理現象を物理学解明』に証されるのです)。
 剣山の側で、既にある種の信仰を集め得たからこそ、修験道をも
 招く事が出来たと考える方がよいと思われる」

 剣山は修験道の霊山になる前から、非常に崇められていた山だったのである。
 四国は殆どが山である。しかも高い山々が連なっている。平野は少なく、盆地は殆どないといっても良いだろう。
 JR土讃線に乗って高知を出発して、間もなく列車は山間に入る。それもV字型の谷底をはうように走り続けていく。
 筆者も、今から20数年前、その土讃線に乗ったとき、車窓から見上げるようにしてV字型の切立った山肌を見上げた事があった。そこには家がへばりつく様に建てられているではないか。
 どうして人々はそのような場所に家を建てるのか、どの様にしてそこに行くのか、生活はどうしているのか、水はどの様にして得ているのか等と思い巡らしたものである。
 四国以外の人々は筆者と同じように、東祖谷村、西祖谷村の山肌に立つ家々を見てその様に考えるものである。
 ここで大切な事は四国を思う時、四国以外の人々はその考え方を逆転させなければならないという事である。
 即ち四国の人々は、遥か昔から山の尾根を古代の幹線道路が走っていたのである。
 当時、人々は山の尾根づたいに移動していた。山の尾根を古代の幹線道路が走っていたのである。
 東祖谷村、西祖谷村では、今は谷にそって道路が走っている。しかしその道路は大正年間に開通したに過ぎないのである。
 人々は尾根づたいに移動し、尾根にそって家を建て、焼畑等をして何不自由なく生活していたのである。
 例えば徳島県山城町の塩塚高原にはカヤ等の雑草が生茂っているだけで、木は一本も生えていない。展望台から塩塚峠(標高1043m)までの約1Kmに亘る道は、尾根づたいの道である。このような道が四国の山の頂上近くの至る所にある。これが古代の幹線道路だったのである。
 

●パレスチナの地形と酷似する四国山上の地形

 四国郷土史家である大杉博氏は次の様に書いている。

 「四国の山々は往古から明治の頃まで山焼き風習が続いていて、大体
 中原から上には木がなかったのである。そして山上に飲料水用の大き
 な溜池を無数に造り、人々は山上に住んでいた。四国の山上からは既
 に多数の遺跡や遺物が見つかっている。現在も山上に村落が多いのは、
 その余波なのである」(『四国は死国にされていた』倭国研究所刊)

 確かに四国山上には多くの池がある。それも一目で人工の池であると分るのである。
 日本文芸社 宇野正美著『古代ユダヤは日本で復活する』P46に掲げた写真は、剣山に至る見越峠近くにある夫婦池である。標高1000m以上の所になぜこの様な池を造る必要があったのか。とても水田の為に造ったとは思えない。現にこの様な山の上に池を造った所で、どのようにして水田に引く事が出来るだろうか。
 これは生活用水であると共に、身を清める為のものであったと思われる。
 大杉博氏によると四国山上には周囲が1Kmもある巨大な池跡から、小は30平方m程の池跡まで無数の池が存在するという。
 大杉氏は調べ尽した。そするとそのような池及び池の跡は四国山上に約200カ所程もあるという。そしてこれらの池は例外なく、山頂や尾根の頂上部、更には段丘の上等に存在している場合が多いのである。
 どの道も、造られたという言伝えを残してはいないが、弥生式土器が発掘されている事から、弥生時代以前に造られたものであると分る。
 四国では幹線道路を確保する為に山の上には木を植える事なく、山焼きの習慣をほぼ近年に至るまで保っていた。剣山もしかり、次郎笈もしかりである。
 今日でも祖谷地方の農村では焼畑でソバを栽培している。そのソバから作った純ソバ粉、干ソバ、生ソバ等、将に素朴な味で大好評である。
 そのような日、筆者(宇野正美氏)がスタッフと共に剣山山頂に上がった時、そのスタッフは思わず次のように言った。

 「これはパレスチナの地形と非常によく似ている」

 将にその通り、古代ユダヤ人達の古里パレスチナと四国山上は地形が非常によく似ているのである。
 今、問題となっているイスラエルのエルサレムは、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の聖地である。このエルサレムはどのような町であるのだろうか。
 エルサレムは800mの山上にある。パレスチナでは人々は皆山の上に住んでいる。
 約2000年前、イエス・キリストは次のように言った。

 「あなた方は、世界の光です。山の上にある町は隠れる事が出来ません。
 ・・・この様にあなた方の光を人々の前で輝かせ、人々があなた方の良い
 行いを見て、天におられるあなた方の父を崇めるようにしなさい」(「マ
 タイ伝」5章14、15節)

 この後、宇野氏は「イヤサカ」について述べていますが、いけにえの儀式は悪魔ダビデ、大サタンが起させた儀式なので、この悪しき風習は無くすのが、賢明であるのです。ユダヤ人の象徴である割礼も同じです。
 
 

宇野正美著『古代ユダヤは日本で復活する』日本文芸社より一部「忍」が加筆あり

参考HP
神の国「日本史」の歴史