当時(明治23年)最も著名な歴史学者の一人、豊城星野恒氏は、『史学雑誌』に清和源氏は、実は陽成源氏だという説をとき、「六孫王は、清和源氏に非ず」としたのであった。その大きな根拠は石清水八幡宮の紀氏(田中家)に800余年もの間保存されてきた「源頼信告文」を星野氏等が調査し、「原文にあらずと雖も、その紙質書風伝説等より推せば、蓋し鎌倉時代の書写しならん」としたのであった。その告文中に
極めていみじき武神八幡大菩薩は、仲哀天皇の后の神功皇后の懐中より現世に現身を示現されて、誉田天皇(応神天皇)に成られた。以降、異賊の侵寇や国内の謀反などがある度に、国家の鎮護の徳果現してくれた。誠に武の神と言うべきである。
清和源氏が八幡信仰で一貫した理由はが、之だったのである。八幡大菩薩が武の神であると云う事の他に、一族の「氏神」なのだという認識があったのである。即ち、石清水八幡宮は、水元(源)を意味し、かつ祖応神が武の神であったのである(それ故に、千乃先生の所に軍神であるミカエル大王様がいっらっしゃるのである。故に、これも先祖崇拝である。それ故に祖先の霊を否定するのがおかしい!忍)。先の続きであるが、
ところで、自分頼信は父満仲、祖父経基王、曽祖父元平親王とその系図を遡っていくと、陽成天皇を経て、遂に八幡大菩薩の現身である応神天皇にまで行き着くのである。即ち、われ頼信こそは、八幡大菩薩の現身である応神天皇から18代目の陽成天皇から4世の子孫、つまりは八幡大菩薩(応神天皇)はかたじけなくも、わが22世の氏祖(祖先の神)なのである、とある事を根拠にしたものである。
そして、千乃裕子先生の先祖である陽成天皇陛下の問題で、藤原基経によって、強制的に廃位させられて、光孝天皇陛下を擁立させた問題がある。そして、光孝天皇陛下が、自分の子孫を天皇陛下にさせない為に、自分の子孫を臣籍に降ろした事がある。其の臣籍から皇位付いたのが次の天皇陛下である宇多天皇陛下である。此の問題を深く考えさせる必要がある事を、天上界が指摘しているのではないでしょうか。明治以降、官の公式の資料集は宇多天皇陛下から始まっている。陽成天皇陛下の廃位の理由は、一応、公式には病気説、非公式には物狂説、そして廃位数ヶ月前に源益が格殺されたのを非公式には陽成天皇陛下であると考えられている。これらの問題が天上界が疑問をもたらしているのではないかと考えられる。此の陽成天皇陛下の問題が今日の千乃裕子先生に一族の問題に繋がるのである。そして、もしこの廃位が藤原基経と光孝天皇陛下の繋がりに何らかの関係(戦略)が有って、陽成天皇陛下が無実で有れば、今の千乃裕子先生が天皇陛下になる可能性があるのです。藤原良房と基経が、臣下が摂政・関白なって初めて政治を行った人達である。だから、権力の欲望が大きいは事実である。幼帝を擁立したのも、陽成天皇陛下の父親である清和天皇陛下からである。それ以前は、全く無かったのである。そう云う事も含んで次の論文を考えてみたいのです(藤原一族の謀略)。
第一
元慶八年二月に於ける陽成天皇の遜位をめぐる複雑な事情については、今日なお充分に究められていない。『三代実録』に記された病弱による退位説が表面を繕う為の虚飾に過ぎぬ事は、何人の眼にも明らかであって、『大鏡』や『中外抄』、降っては『神皇正統記』等の著者達も、夙に病弱説を排し、暴君説を採っている。中でも慈円は、暴君説を強く主張し、
この陽成院、九歳にて位につきて八年十六までのあひだ、昔の武烈天皇のごとくなのめらず
あさましくおはしましければ、おぢにて昭宣公基経は摂政にて諸卿群議有て、『是は御もの
ゝけのかくあれておはしませば、いかが国主とて国をもおさめおはしますべき』とてなん、
をろしまいらせんとてやうやうに沙汰有りけるに、・・・
と述べ、この帝を廃し、光孝天皇を擁立したことをもって、『藤氏の三功』の一つに数えているのである。
江戸時代の学者達は、好んでこの問題を採り上げた。しかし彼等の関心は大義名分に集中されており、従って議論も、陽成天皇を廃した基経の行為を上の立場から評価するに終始した。即ち、『大日本史』や『日本政記』の撰者、著者は、『神皇正統記』の意を承けて基経の廃帝を『至公無私』として是認したのに対して、『本朝通鑑』の著者は、私家を営むの罪は免れぬとして非難の言葉を列ねている。明治時代に至っても、そうした見方は根強く残っていた。例えば、田口卯吉氏等も、諫規の言を致せず、俄然として廃立の計を行った基経の挙借は、我が国の大憲を破ったものであるとし、大いに非難しているのである。
大正時代に至り、和田英松博士は、この廃立問題について画期的な論文を発表された。博士の立場も、基本的には大義名分論の域を出るものではなかったが、しかし判定を下す前に、博士は出来るだけ事実を究明しようとされた。即ち博士は、『三代実録』の諸記事のほか、『大鏡』、『愚管抄』、『古事談』(第一)や、『玉葉』に見える清原頼業の談話等によって、暴君説に軍配を挙げた後、基経は社稷の為、止むを得ず廃位を決行したと認め、その立場に対しては同情を禁じ得ないと述べられた。この程度の論考ならば、考証がより精緻になったと言うだけで、特別な新味が加えられたとはみなされない。本労作において殊にじゅうしされるのは、基経の立場を一応是認されながらも、その間に疑問を提出されている事である。即ち和田博士は、陽成天皇の廃位だけを見れば、基経の挙措は認められるけれども、これに続いた光孝天皇陛下の擁立、源定省の即位(宇多天皇陛下の即位!忍)の二件には不可解なるものがあり、これらを一聨の事件として把えてみると、基経の挙措は公平無私とは言い難いと説かれたのである。
ともかく和田博士が光孝・宇多両天皇陛下の即位問題と不可分と結び付いている事を強調されたのは、並々ならぬ卓見と言うべきであった。
和田英松博士の論考は、当時の国史学会において高く評価され、基経の意図が奈辺にあったかの問題はともかく、陽成天皇の廃位に関する限り、その要因を乱交に求める見解、即ち暴君説は、殆ど定説化して今日に至っているのである。
たまたま本年(昭和四三年)に至り、富山大学の山口博氏は、『陽成帝の退位をめぐって』と題する論文を『日本歴史』四月号(二三九号)に寄せ、和田博士いらい47年振りにこの問題を採り上げ、独自の解釈を公にされるところがあった。ところが、偶然と言おうか、著者(角田文衛氏!忍)も本年一月六日、平安博物館の年頭講演会において、『陽成天皇陛下をめぐる2、3の問題』と題する研究を発表し、やはりこの退位問題について、管見を披瀝したのであった。今、更めて山口氏の論考を通読してみると、氏の資料操作には幾つかの無理があるように見受けられ、従って結論も筆者のそれとは異なった方向に導かれている。その意味において筆者は、山口氏の所論の問題点を指摘すると共に、退位問題に関する卑見を公にする必要性を覚えるに至ったのである。
第二
山口氏の『陽成帝の退位をめぐって』は、五節から成り立っている。第一節のおいて病弱説を軽く否定し去った同氏は、第二節において暴君説と取り組み、退位前の陽成天皇にはさしたる乱行は見られず、『乱行が退位をもたらしたのではなく、退位が乱行をもたらしたと考えるべき』であると説かれる。『三代実録』に散見する、退位に直結する一聨の事柄は、首謀者たる基経が退位の為に意識的に作り上げたものである。『臣下の地位にありながら帝を廃帝に、後世に皇国史観では許せない行為の為、それを合理化する為物狂帝が喧噪されたのであろう。』と言う山口氏の所見は、おおむね妥当であると認められる。然らば、何故に基経は陽成天皇を敢て廃したのであろうか。山口氏は、第三ー五節においてその理由の解明に努められている。
即ち、第三節において山口氏は、陽成天皇の母后・藤原高子と在原業平との情事に関する古くからの所伝に着目し、『伊勢物語』第三、五、六段の補注や『大和物語』第161、第163段等によって二人の情事が虚構ではなく、事実であったと認め、高子の後々の所業から知られる『多情な性格』をもって、その裏付けとされている。
第四節において山口氏は、陽成天皇は高子が生んだ業平の子ではないかと言う目加田さくを氏の仮説を採用される。基経は、業平の子である陽成天皇の在位が続けば、在原氏の権力が伸張し、遂には藤原氏の没落を招くと豫(予)見して廃帝に踏み切った。『つまり陽成帝の廃立は、帝が在原業平の子である事に基き、政権の在原移行を予測しての基経の行動なのである。』以上のように山口氏は推論し、かつ断定されている。第5節において山口氏は、業平は皇孫であるから、その子たる陽成天皇は、自らも帝位につき、かく在位する資格があるにも拘らず廃された。陽成上皇が後になって、一旦臣籍に降りながら皇位についた宇多天皇(歴代天皇陛下では、宇多天皇陛下だけである!忍)に対して反感を抱いたのは当然である。上皇の乱行や皇室権力への反撥は、この反感に根ざしていると説き、『母は廃后、子は廃帝、業平にからむ奇しき親子であったわけである。』と結ばれている。
山口氏の所論は、一つの仮説、又は憶測の範囲を越え、断定の形をとっている。陽成天皇陛下が業平の胤であると言うのは、古来一片の所伝も存せず、目加田氏の頭に泛かんだ想像説に過ぎない。この想像を無批判に採用し、これを決定的な挺として断定的な結論を出されるのは、余りにも武断に過ぎはしないであろうか。陽成天皇は、貞観11年2月、生後2ヶ月半で皇太子に冊立されたが、老獪極まりない太政大臣の良房が業平の子と分かりながらこの嬰児を皇太子に立てたなどと言うのは、全く考慮の外にあるのである。
第三
第四
目加田氏や山口氏が提唱された陽成天皇の業平胤説は、文献上の証拠も、伝承も欠いているし、諸般の事情もこれを推測さすだけの条件を備えていない。従ってそれは、全く荒唐無稽の想像説と言わざるをえない。其の点でむしろ問題されるのは、貞数親王を業平の子とする伝承であろう。即ち、『伊勢物語』(第79段)には、『これは貞数の親王、時の人、中将(業平)の子となんいひける。兄の中納言行平のむすめの腹なり。』と述べられているのである。これとても、業平の色好みが誇張された結果、後に生じた付会の伝承であって、史実として受け取る訳には行かないであろう。
今仮に、貞明親王が業平の子である事が皇太子の冊立後に判明したとしよう。この場合。清和天皇は勿論、大皇太后・順子、良房、基経等が尤もらしい理由を附して廃太子の挙に出る事は、火を睹るより明らかであった。勅命によって太子を廃するのであるから、名分の上でそれは問題にならぬのである。貞明親王には同母弟の貞保親王がいたし、また弟として貞辰親王−−母は基経の娘・佳珠子−−がいた。清和天皇は、貞明親王を廃し、貞保親王ないし貞辰親王を太子に立てる事が出来た。こうした事柄が全て起こらなかった事は、貞明親王(陽成天皇)が業平胤でない事実を証する上で、有力な資料とされよう。
山口氏は、前記のように、『陽成帝の廃立は、帝が在原業平の子である事に基き、政権の在原氏移行を豫測しての基経の行動なのである。』と断定されているが、そこには又藤原氏、特に北家内麻呂流の勢力に対する同氏の理解の不足さが目立っている。一人山口氏ばかりでなく、多くの歴史学者について指摘される事であるが、8世紀中葉の藤原氏の勢力と9世紀中葉のそれとを同日に論ずるが如きは、甚だしい誤謬である。これらの学者は、例えば『応天門の変』(866年)があれば、奈良時代的な考え方から発して、それは伴善男を先頭とする伴氏の勢力の復興を抑圧する為に良房が仕組んだ陰謀であると説く。これえなども、当時の藤原氏の勢力を過小評価した結果なのである。
9世紀の中頃においては、藤原氏、殊に北家にとって、伴、紀、橘、在原、小野等の諸氏の勢力等は、もはや眼中になかったのである。『応天門の変』における良房の敵は本能寺に、つまり実弟の右大臣・良相にあったのである。良房の誠意の前には、伴大納言などは問題でなかった。最も懼るべき敵は、同母の末弟で徳望があり、太后・順子に可愛がられていた良相であったのである。良房は、『応天門の変』で一石三鳥の妙手を打ち、一挙に左大臣・源信、右大臣・藤原良相、大納言・伴善男を失脚せしめたのであった。時平と忠平、実頼と師輔、兼道と兼家、道隆と道兼、頼通と教通、忠通と頼長に見る通り、摂関家にとって、最も恐ろしい仇敵は兄弟であり、兄弟同士の対決は北家冬嗣流の優位確立の時から本格化したと認められるのである。
業平は、元慶4年5月卒しており、陽成天皇の廃位が起こった元慶8年現在、業平の異母兄・行平が在原氏では只一人高位にあった。即ち行平は中納言であり、その娘は清和天皇の更衣となって貞数親王を生んでいたけれども、行平は既に68歳の老齢であった上に、在原氏には行平の後に続く人材は全く存しなかった。その頃、基経の勢威は確立されており、たとい陽成天皇が業平の子であったとしても、この時点において政権の在原氏移行などは、想像する事すら出来ないのである。藤原行成は、次ぎのようにしたためている。
昔、水尾(清和)天皇は、文徳天皇の第4子なり、天皇の愛姫・紀氏(紀静子)産む所の第一
皇子(惟喬親王)、其の母の愛に依ってまた優寵せらる。帝、正嫡なるを以って皇統を嗣がし
むるの志有り。然れども、第4皇子は、外祖父の忠仁公(良房)、朝家の重臣たるの故を以っ
て、遂に儲弍たるを得たり。
仮に陽成天皇が業平の子であったにしても、太政大臣の基経の地位は不動であり、天皇がいかほど母后の高子と協力して試みたところで、基経や一世源氏(左大臣・源融、右大臣・源多、中納言・源能有)を退けて行平を大臣に抜擢したり、貞数親王を皇太弟に冊立することは出来なかった。山口氏は、9世紀中葉における藤原氏北家の勢力を余りにも甘く見ておられるし、また後に触れるように、その時分の後宮の実力者について全く思いを致しておられないのである。
陽成天皇の廃位について、山口氏が暴君説を否定されたことは、全く評価される。しかしその代案として提起された業平胤説は、上来検討した通り、全く成立の余地がないものである。山口氏がそうした失敗を演じられた一半の理由は、この問題は光孝・宇多天皇陛下の即位問題と切り離して論じられるべきではないと言う和田博士の注意を無視されたことに求められるのである。
第5
元慶8年における陽成天皇の廃位については、少ないながら種々な史料が遺されている。その中にあって最も基本的な史料は、『三代実録』に散見する関係記事である。
この『三代実録』の編纂が終り、上奏されたのは、延喜元年であったが、その頃、陽成天皇も、廃后の高子も、まだまだ健在であった。上皇は、『小倉百人一首』で有名な、
釣殿の皇女につかはしける
筑波嶺の峰より落つるみなの河恋ひぞつもりて淵となりける
の歌が示すように、釣殿の皇女、即ち光孝天皇皇女の綏子内親王を室に迎えておられ、宇多法皇との関係も、その時分には良好であった。また上皇は、太上天皇として当然受くべき待遇を与えられており、上皇として立派に面目を保っておられた。従って『三代実録』の編纂者達には、上皇に対する大きな憚りがあった。彼等は、陽成天皇の退位事件について、『禁省の事秘にして、外人知ることなし』と言う風に、事件の真相を隠蔽する事はあっても、曲筆して捏造の記事を書いたとは認められない。そこで編纂者達が採ったのは、皇室や陽成上皇の尊厳を傷つけぬ為、表面的には病弱説を打ち出し、一方では基経の挙措を正当化する為、暴君説を臭わせると言う記述法であった(逆に言えば、「三代実録」は、基本的に光孝天皇陛下を正当化する為であり、陽成天皇陛下を貶めるものである!忍)。なにもこの事件に限らないが、『三代実録』を読む場合には、皮相的、選択的記述に惑わされず、眼光紙背に徹する熟読が要請されるのである。
陽成上皇の退位に関する『三代実録』の記載は、頗る簡明である。しかしそれは、北山茂雄氏の言うような『臣僚による廃帝の、もことにあっけない一幕』ではなかった。上演される一場面は、観客にとってはたとい『あっけない一幕』に見えても、演出者、演技者のそれに払う労苦は、並々でないのが常である。陽成天皇の退位ないし廃位の一件にしても、『三代実録』に表れた限りでは、簡単な一幕のように映じても、背後には複雑かつ怪奇な事情が潜んでおり、その根もまた深い可能性が多分にあるのである。
いま、『三代実録』の皮相的、虚飾的記述の一例として、清和天皇の人物評に関する条を掲げてみよう。
天皇、風儀甚だ美しく、端儼神の如し。性、寛明仁恕、温和慈順にして、顧問に因るに非ざれば、
輙ち言を発し給わず。挙動の際は、必ず礼度に遵ひ、好んで書伝を読み、思ひを釈教に潜め、鷹犬
漁猟の娯しみは、未だ嘗て意に留め給はず。
これはまさに、『物狂の帝』と評された陽成天皇とは全く対蹠的な性格であって、恐らく当時考えられていた天皇の理想像に近いものであったであろう。しかし『三代実録』の編纂者達がいかほど讃美しようと、現代人は別個の意味を右の讃辞から汲み取らざるを得ない。即ち、この天皇は、おとなしくて寛大ではあるが、決断力や政策上の識見を欠いており、なんでも摂政・良房の言いなりになる、洵に御し易いロボットであった、と言う意味にも解されるのである。
更に言うならば、清和天皇は、政事には無関心であるけれども、よく勉強し、深く仏教に帰依され、挙止はすべて礼儀に叶っておられた。また軍事訓練に当たる遊猟などは、念頭になかったのである。つまりこの天皇は、飾り物として立派であるが、治世の君主としては水準以下と言う事になるのである(仏教の教えを真剣に帰依したならば、政治に無関心ではあり得ない。仏教の教えは、政治に深く掛かり合っている。其の例として、インドのアショカ王の善政が有名である。そして明治天皇陛下の法華経による政治もそうである。聖徳太子の政治もそうである。やはり、力が無い為に無関心を装っただけであると考えられる。「応天門の変」を青少年(17歳)ながら見てきた清和天皇の胸中はいかがであったでしょうか。幼帝から天皇陛下の仕事をやらされた胸中を察する必要がある。幼少から自分の祖父である藤原良房の権力欲を多感な時期に目の前で行われたから、それを一人胸の中に納めたと思う。そして良房が亡くなった後、火事(淳和院・右近衛府・冷然院・大極殿)が起こっている。此の火事は何処から来るのか考えたいのである!忍)。
のみならず、清和天皇は、至って病弱であった。『三代実録』には、天皇が不豫であると言う記事が散見するし、また貞観18年11月における譲位の宣命にも、元来が病弱である上に、近年は熱病を煩っておる旨が述べられている。この病弱と言う理由は、譲位後四年を経た元慶四年十二月、三十一歳で崩御された事実に微しても、疑う余地はないであろう。
只愕きに堪えぬのは、このおとなしくて寛大であり、よく典籍を好み、礼節を重んじ、あまつさえいたく病弱な清和天皇が、元服(貞観6年)から譲位までの僅か12年間に、30人ほどの女性を枕席に侍らせられたことである。・・・・・・・。
もとよりこれは、清和天皇の異常に強い猟色心にもよるが(これは、全く言い過ぎだと思う。全て良房に無理矢理渡されたと思う。真面目に仏教を勉強をしているなら、強く良心が働くからである。清和天皇は確か法華経の勉強もしていると教えられている。法華経安樂行品第14の中で、女に近付くことを禁止しているのです。しかし、清和天皇陛下と陽成天皇陛下の違いは、母親の違いなのです。藤原高子という個性のある独立心の強い母親を持ったお陰で陽成天皇陛下は強い自立心を持つことが出来たのです。その為に藤原基経に睨まれて廃位になったのです。しかし、清和天皇陛下は、抵抗する心がなく、全ての出来事を自分の心の内側に留めたのです。そして、やり場のない状況にあったのです。それを全て女性に求めて心の安らぎを求めた結果だと思います。とにかく此の多感な青少年期に、良房の野望を見てどうする事が出来なかった事に対しても反省が全て仏教の教えで逃げたのです!忍)、最大の原因は、太政大臣、後には摂政として輔弼の責任を負うていた良房の方寸に求められねばならない。良房の人柄から推測すると・・・・後宮に無制限に婦人を納れる事を奨励し、天皇の関心を政事から後宮に向けようと図ったに相違ない(これは、異常の後宮政策である。後ろに悪魔ダビデの暗躍が感じられる。悪魔ダビデは、清和天皇を陥れようと、野望を持った良房に扇動をしたと感じられる!忍)。・・・・。祖父・良房の奸策に乗じられ(無理矢理にやらされ!忍)、30余人の婦人を相手に日夜奮闘されていた清和天皇陛下の姿は、実に痛ましい限りと言えよう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
第六
政治の実権を掌握し、天皇を傀儡化する為に良房が案出した秘策は、当然、基経によって継承された。基経自らも、娘の頼子を清和天皇の後宮に納れ、頼子が皇子女を産む見込みがないと知るや、妹の佳珠子を後宮に送り込んでいるのである。良房の娘で、清和天皇を産んだ明子は、皇太后、ついで太皇太后に祭り上げられはしても、極度の気鬱症(これで、全てを語っている。此の臣下の陰謀に何も出来ない状態が気鬱症をかかっているのです。自分の息子が痛ましいのを見ても何も出来ないのです!忍)、良房の後宮政策に異議を唱えなかったようである。頼子も、佳珠子もおとなしい姫君であったと見え、父・基経の遣り方に反抗しなかったと推量される。しかし陽成天皇の母后・高子の場合は、いささか事情を異にしていたろうと推測される。
今ここで高子の生涯について詳述する余裕はないが、彼女が個性の強い女性であり、栄誉よりも寧ろ真実の愛情を尊ぶ性格で有った事は、否定されまい(同じ角田文衛著『王朝の映像』で、「藤原高子の生涯」に詳述してある!忍)。『伊勢物語』や『大和物語』に語られており、又『古今和歌集』に暗示されている高子と在原業平との灼熱した情事は、別に考証したように史実として認められる。この場合、気性の激しい高子は、業平との仲を無残に引き裂き、『応天門の変』後の政界の混乱に乗じて闇雲に清和天皇の後宮に自分を押し込んだ良房や基経に対して、如何なる感情を抱いていたことであろうか。
天皇の後宮に10人内外の女性が侍ることは、当時の常識であり、高子はその程度の事なら敢て奇異に思わなかったであろう。しかし、清和天皇の場合、良房や基経は協力して30余名の婦人を後宮に送り込んだ。こうした後宮政策に対して、高子は自ら批判的ならざる得なかったと思う。同時に彼女は、病弱なくせに孜々として日夜女色を漁る天皇に対して、あさましさを覚えていたに違いないのである。とすれば、自分の息子には父親の轍を踏ませたくないと思うのは、高子ならずとも、およそ母親たる者の誰しもが深く心に期するところであろう。
更に婦人は、一旦嫁して子女が生まれれば、そういつまでも実家の利益ばかりを考えている訳には行かぬものである。まして息子が当主ともなれば、婚家の利害を優先的に考え、せいぜい婚家と実家の利益との調和を志向するに至るものである(だが、清和天皇陛下の明子皇太后は、藤原良房・基経の為すままに置かれたのである!忍)。高子について言えば、母后としての彼女は、天皇家、少なくとも息子の陽成天皇陛下の側に立って事を処理せねばならなかった筈である。清和天皇陛下の悲惨な姿を眼のあたり目撃した高子は、陽成天皇が女色に溺れ、其の結果、天皇陛下が兄・基経の傀儡と化する事を絶対に容認出来なかったであろう。強い個性と激しい気性をもち、栄誉よりも愛情を尊んでいた高子が、東宮女御の時代から良房や基経の後宮政策や、政権獲得の為なら手段を択ばぬ態度に心から瞋恚を覚えていた事は、先ず疑いがないと言ってよかろう。
貞観18年11月、清和天皇は皇太子に位を譲り、基経に『幼主を保輔し、天使の政を摂行』せしめられた。基経は、二度上表して摂政を辞したが、これを慣用によったものであり、別に問題とするほどの事ではない。元慶四年十二月、陽成天皇は、臨終の清和上皇の命によって基経を太政大臣に任じられた。この時、基経は、旬日の間に三度上表して太政大臣を辞そうとした。三度程度の辞表は、謙譲の義徳を顕すものであり、これまた異例ではない。しかし不穏当なのは、太政大臣の任命後、基経は里第に退去して政務をみなかったばかりでなく、5年2月と4月には、第4、5回目の辞表を上り、その態度が頗る執拗であったことである。後に『阿衡の紛議』の際にも見られたように、基経のそうした挙措は、明らかに厭がらせ戦法に出ずるものであって、陽成天皇陛下に対して彼が抱いた著しい不満をかかる態度で演出したものと認めざるを得ない。しかし天皇陛下は、まだ十四歳の少年に過ぎず、基経が恩や恨みを覚える程の齢頃ではなかった。基経が墳懣を抱いたとすれば、それはまだ自主性のない陽成天皇にではなく、天皇に大きな発言権を有する皇太夫人の高子氏に対してであったと断定されるのである。
『三代実録』によると、元慶元年に陽成天皇が患われた時、摂政・右大臣の基経は、齋戒して平癒を祈ったし、翌年11月には、自ら平城の春日神社に参詣して聖体の安穏を祈った。つまりこの時点に於いては、高子と基経との仲は、少くとも表面的には冷却していなかった。従って、両者の関係が悪化したのは、元慶三年から四年にかけての期間のことと推測される。この間に基経を怒怨さすような事が起こり、彼は清和上皇の崩壊、遠慮すべき人が居なくなったのを好機として、失地恢復、又は勢威拡大の為に牙をむき出し、得意のサボタージュ戦法に出たのであろう。
元慶三、四年において、皇太夫人・高子の如何なる行為が兄・基経の怒りを買ったのかは、少くとも『三代実録』の文面を眺めた限りでは、明瞭ではない。只、全般的に言い得るのは、政権の鬼とも言うべき良房や基経に対する永年に亘って蓄積した反感が高子の様々な行動の端々に顕われたのであろうことである。嘗て高子と契りを結んだ在原業平は、当時、右近衛権中将であったが、元慶三年十月、蔵人頭に補された。これは明らかに高子の差金による人事と推測される。しかし基経と業平とは仲が悪くはなかったし、またそれ自体、無理のない人事であった。基経を怒らしたのは、彼の希望した人事を高子が陽成天皇を通じて阻碍(阻害)したと言った様に、否定的(ネガティーブ)な形をとったものと憶測される。
いま、ひとつの臆説を挙げてみると、業平が参議の栄職を目前にして卒去した元慶4年5月、基経は、後任の蔵人として左馬頭・源興基を推挙したのではなかろうか。興基の前任者の藤原国経(高子の異母兄)が左馬頭のまま蔵人頭を勤めていたように、当時は、左馬頭であっても蔵人頭に補されたのである。高子は、基経に対する反感と、清和女御・宣子に抱いていた嫉妬から基経の推挙を却け(自分は、高子は個人的な気持ちで却けたのではなくて、清和天皇陛下の悲劇を二度と繰り返さないように天皇家の独立を守ったのではないでしょうか!忍)、代わって権左中弁兼式部大輔の藤原春景を蔵人頭に補されたのである。此の人事は、基経ばかりではなく、彼の本妻・某女王(名は厳子か。時平らの母)の怨みを買ったに違いない。更にそれは、後宮をとりしきる従三位典侍・藤原淑子の怒怨を招いたらしい。淑子は右大臣氏宗の後妻であったが、氏宗が前妻との間に儲けた息子達−−前記の春景を含めて−−に対しては極めて冷淡であり、ひたすら養子の定省だけを愛していた。のみならず淑子は、異母兄・基経の本妻の某女王(興基の姉妹)とは、非常に親しかった。それ故、春景の蔵人頭起用は、兄・基経、姉・淑子、基経室の某女王を敵に廻す結果を招いたのではなかろうか。
こうした春景は蔵人頭に補されたものの、太政大臣の基経や典侍の淑子に睨まれたのでは、蔵人頭として出仕する事が出来ず、元慶4年9月、『仕へざるに依りて』解任されたのであった。その後も春景は、式部大輔に暫く留まってはいたが、仁和元年5月以後は消息を絶っている。なかば以上、参議を約束されている蔵人頭に補されながら出仕せず、その為に被免された事の背後には、出仕を妨げる重大な理由が存したに相違ないのである(人それぞれ才能と性格が違い、それぞれにあった仕事があるのです。先それを認める必要があるのです。そして共存共栄の道を探るのです。でも人間社会(初めは日本だけと思ったけれど、外国でも沢山やっている噂があるので人間社会と名付けたのです。)は、村社会であるので虐めが多いのです。今現在でも陰湿な虐めが多いのです。これは其の氷山の一角でしょう!忍)。
恐らく右の春景の一件は、高子が基経を怒らした理由の一つに数えられよう。現在、文献の上から窺知されないが、基経と高子の仲を疎隔さすようような小さな事件は、この他にも2、3あったかも知れない。それはともかく、興基・春景事件が二人の間柄を悪化させた事は、殆ど確かであろう。そして基経は、その報復手段として、清和上皇崩御の後、サボタージュ戦法をとり、高子・陽成天皇を屈服させ、自己の威勢を確立しようと図ったのであろう。
春景が蔵人頭に解かれた後には、即ち元慶4年10月には、基経や高子の従弟に当たる左近衛少将・藤原有実がこれに補された。これは、二人にとって差障りのない、中立的人事であったから、基経の憤懣は激化はしなくても、収まる事はなかったであろう。
源興基は、元慶六年四月に頭に補されたが、結局これは、高子・陽成天皇側が基経の挑戦に敗れ、彼の要求を容れて、表面的にせよ、和解した事を暗示するものと思う。基経の太政大臣を辞する表(第五回)は、元慶五年四月をもって終わっている。これから推察すると、興基の蔵人頭補任を条件とする基経と高子との和解は、元慶五年五月頃に行われたとみなす可能性が多いのである。
第七
元慶六年正月二日、陽成天皇が紫宸殿において元服された時、太政大臣で摂政の任にあった基経は、御冠を執って陛下に加えたし、またこの儀式において主役を演じた。更に彼は、同月七日、参議以上の上卿を率いて内裏に参り、御元服の祝辞を奉呈したことであった(『三代実録』)。これは、基経と高子の間に和解が成り立ち、一応、協調的体制が存した事実を指証するものである。
慣例に従って基経は、二度に亘って摂政を辞する表を上った。ところが、二度目の辞表も聴されず、陛下元服後も彼は摂政の任にとどまった。これは、同年二月に於ける源興基の蔵人頭の補任にも看取される通り、高子・陽成天皇側が基経の意を迎え、気色を損ぜぬよう、大いに気を配っていた事を暗示している。
ところで、基経がまた摂政を辞する表を上り、例の里居戦法を用いてサボタージュを再会したのは、元慶七年八月の事であった。どの様な事件が高子と基経の間を疎隔し、二人の関係を破綻に陥れたかは、詳らかでない。しかし敢て臆測を試みるならば、今回は基経の娘の入内問題が原因でなかったかと思う。
一体、養父の良房から秘策を伝授されていた基経は、政権を確保する為には、娘を後宮に納れ、かくして生まれた皇子を皇太子、ついで天皇に立てねばならぬことを知悉していた筈である。そこで彼は、素早く頼子を清和天皇の女御とし、頼子が不妊と知るや、妹の佳珠子を同じ天皇の後宮に送り込んだ。後年になって基経は、温子を宇多天皇の女御とした。彼にとっては、実妹であろうと、これらは全て政権獲得の為の道具であった(私的目的で政略結婚を行ったならば、天皇家に対する冒涜である!忍)。そうした方針を堅持する基経であってみれば、当然彼は、元服を済ませた陽成天皇陛下に娘を配そうと企図したに相違ないのである。
嘗て和田博士は、元慶八年の夏、即ち光孝天皇が践祚されて間もない時に、女御にされた藤原佳美子をもって、佳珠子の名との類似から、基経の娘であろうと推断された。確かに践祚直後の光孝天皇に女御を納れるような人物は、基経を抜きにしては考えられぬから、和田博士の推測は、正鵠を射たものと認められる。恐らく基経は、元慶六年の初め頃から、異母妹の淑子を通じて、娘の入内について皇太后の高子と交渉を始めたことであろう。
此の時代には、若い天皇や皇太子の配偶者に関する限り、母后が決定権を握っていた。例えば、基経の娘の穏子は、寛平九年七月三日、皇太子・敦仁親王の元服の夜、宇多天皇の勅許の下に、皇太子のもとに入内しようとした。しかしそれは、宇多天皇の母后・班子女王の反対に遭って阻止された。それ故、基経・佳美子の入内の成否は、専ら皇太后・高子の方寸に存していたのである。
いま一歩を譲って佳美子じゃ、基経の娘でなかったとしても、彼には温子と言う娘がいたことを挙げられねばならない。温子の方は、元慶七年において十二歳であった。温子の妹の穏子が十三歳で入内を予定されたことを想起すると、基経が温子の入内を画策したと仮定することも可能である。娘をまず天皇の後宮に納れようとするのは、内麻呂以来の常套手段であるが、基経には特にその意識が強かった。それが佳美子であれ、温子であれ、基経が陽成天皇の女御として先ず自分の娘の入内を意図し、淑子などを通じて大いに画策したことは、殆ど疑いを容れぬのである。
想うに、皇太后・高子と基経との決定的な破綻は、高子が基経の娘−−恐らく佳美子の−−入内を拒絶したことに起因していたのであろう。多分、高子は、基経の娘の入内は、基経の権威を極度に増大させ、ひいては皇室の存在を危くすると判断し、他の事柄はともかく、入内拒否の線だけは絶対に譲れぬと決意したのではないか。これは、皇太后と言う立場から見て、また清和天皇陛下の哀れな姿を目撃した最右翼の后妃として、極めて当然な判断であったであろう。
一方、高子の拒絶は、彼自身の政権の将来、並びに彼の子孫の政権維持に関連して、基経に深刻な不安をもたらしたに相違あるまい。彼の眼には、高子の態度は、摂家に対する、許すべからざる裏切りと映った筈である。とすれば、陽成天皇は、如何なる奸策を講じても廃黜せねばならぬ存在となった訳である。
ところで、『三代実録』その他に伝えられた限り、遜位前の陽成天皇の所謂『乱行』などは、いかにも少年らしい乱暴さに過ぎず、大人が真面目に採り上げるような種類のものではない。源益を格殺したのが事実であったにしても、それは遊び相手と相撲をとり、打ちどころが悪くて益が死んだと言った、過失致死程度のことであったかも知れない(岩瀬本『大鏡』第一巻(宇多天皇伝)や『今鏡』(第四『ふぢなみの上』)によると、宇多天皇がまだ殿上人であった頃、業平と相撲をとり、業平に投げられて、勾欄(宮殿の廊下の端のそり曲がったてすり)を折ったと言う。うちどころが悪ければ、死ぬようなこともあり得たであろう)。蓋し『三代実録』の編者は、天皇の少年らしい乱暴さを採り上げ、それによって事の真相を記載する責任から韜晦(包みくらます)したのであろう。
『三代実録』によると、この若い天皇については、次のような事柄が注意される。
(1)射芸や馬術を好み、豪放で覇気に富んだ性格であったこと。
(2)内裏の慣例などに拘らぬ、やんちゃな少年でありながら、母后には甘えん坊であったこと。
(3)まだ男友達と遊ぶのが面白い齢頃であって、異性に対する関心は薄かったこと。
(国王の自覚で、異性に興味持つより男友達を作る事が将来にとって必要なことである事
要するに国王としての勉強を真剣に考えていた事。神の法は父親の苦労と母親の悲しみを
学ぶ事。此の法を預かる最高責任者であること。年齢的には異性に興味ある時期であるが、
社会的責任を考えると個人関心よりも社会に対して自覚が強く持った事!忍)
(4)感受性の強い、文学的な素質を心底に潜めていたこと。
(1)を指証する記事は、『三代実録』の隋処に見られ(天皇としては正しい仕事だと感じます。天皇陛下の第一の仕事は神の儀式(特に農業儀式)を守ること、第二の仕事は国と国民を守る仕事であること、第3は、国民の安泰を考えること(これは、神の儀式を通して学ぶことだと想います。)、摂関政治の時代は、天皇陛下の仕事を壊す勢力であったこと、仏教の最高の教えは「法華経」であり、陽成天皇陛下は、父親(清和天皇)から「法華経」を学んであると想います。法華経は、兵書の心構えを説いたものなのです。兵書と言えば戦う技術だけだと考えるけれど、法華経は技術だけではなく、人間としての心構えを説いたのです。其の発展が武士道に繋がったのです。活用剣の大切さを説いたのです。此の法は本当に大変な法なのであまり表現したくありません。法華経は日本では聖徳太子から説いたもので、一種の帝王学のものです。因みに昭和天皇陛下は、日本の帝王学である法華経を学んだ形跡が感じられないのです。昭和天皇陛下が大切にした人達は、法華経行者ではないのです。それと違って明治天皇陛下は、自分の机の中に聖徳太子が書かれた「法華義疏」を大切にしたのです!忍)、茲に蛇足を加える必要はあるまい。(2)は、即位後も、母后と同殿されていたことから窮地されよう。(3)は、内裏の中で馬を飼ったり、闘鶏を行わせたりした記事から微証される。男友達のうちでも特に眼をかけられたのは、小野清如、紀正直、藤原公門など、下級貴族の子弟であった。(4)は、後年の陽成上皇が独自の風格ある歌人になったことからしても、明白である。
陽成天皇は、性的には奥手の方であり、まだ譲位後の行状に照してみても、婦人に対しては淡泊な人柄であられた。炯眼にして老獪な基経は、清和天皇とは違ってこの天皇は、将来に於いても、女色をもって籠絡できないし、母后が健在であればなおさら傀儡化する事は不可能であると洞察したに相違ない。当時は、太政大臣にしても、摂政にしても、まだそれは基経の一家に定着するには至っていなかった。良房が文徳天皇の治世の末に太政大臣となり、清和天皇の貞観八年に、人民にして始めて摂政に任じられたのは、断じて棚牡丹式の幸運ではなかった。そこには心血を注いだ数々の陰謀(『承和の変』の時の恒貞親王の廃太子と『応天門の変』による藤原良相の失脚!忍)があり、平然として娘を攻略の手段に使う非常さがあり、それに幸運が絡んだのである。良房が必死になって獲得した勢威は、幸にも養子の基経に伝えられはしたものの、なんと言ってもまだ日も浅く、基経がもし一歩を誤れば、一家の勢力は失墜し、政治は天皇親政に逆転する可能性が多分にあった。そして陽成天皇に関しては、母后を後盾として親政に断行する懼れが強かった。基経は、萌芽の間に禍根を断とうとして、陽成天皇の廃位を決意し、実行に移したのであろう。
要するに、基経による陽成天皇の廃位は、基経のあくどい政権慾に根ざすものと推断される。しかし政権慾とは言っても、基経が在原氏への政権移行を懼れたことが原因ではなかった。北家、南家、式家を含めた藤原氏全体の勢力は、全く圧倒的なものがあり、在原氏の進出くらいで動揺するほど脆弱なものではなかったのである。
第八
早く和田英松博士が陽成天皇の廃位問題を光孝天皇陛下の擁立、宇多天皇陛下の即位と関聯して考究されたのは、洵に敬服に価する。これら三事件を検討すればするほど、三者は切り離し難い関係にあることがぶんめいとなるのである。
そこで先ず第3の宇多天皇陛下の即位の件であるが、別に詳しく考察したように(角田文衛著『尚侍藤原淑子』(同著『紫式部とその時代』所収、東京、昭和41年)参照。)、その際、主役を演じたのは、基経ではなく、尚侍従一位・藤原淑子であった。生存中に従一位を授けられた尚侍の淑子は、深謀遠慮の点では、叔父の良房に勝るとも劣らぬ婦人であって、自分の猶予の定省を、その独自な政治力により、天皇の位につけると言う、前代未聞の離れ業を見事にやってのけた人物である。
淑子は、夙に、時康親王(光孝天皇)の子の定省王を猶予としていた。そして彼女は、定省王の母・班子女王とは、特別に親しかった。淑子は最初から定省を皇位に即けようと企図してはいなかったと思うが、猶予の実父であり、親しい友達の夫である時康親王の即位は、どう転んだところで、非常な利益を彼女にもたらすものと判断していたと思量される。
一体、政治と言うものは、古今を通じて、極めて非常な面を有している。政治に関しては、実の親子、兄弟の間でも、しばしば残酷な仕打ちの免れないものである。檀林皇后が実の娘の正子内親王(淳和后)に対して、如何に冷酷であったかを想起してみるがよい。従って、もし基経の利害と、異母妹・淑子のそれとが一致すれば、二人が妹の高子に対して共同戦線を張ったとしても、少しも不思議ではなかろう。そしてもともと淑子は、良房、基経のよき協力者・藤原氏宗(右大臣)の後妻であったのである。
その当時、後宮を宰配する尚侍、または最右翼の典侍はまだ非常な権力を握っていた。貞観年間から元慶年間にかけて、尚侍の任を帯びていた源全姫は、嵯峨天皇の皇女で、良房の正室・源潔姫の実妹であった。それ故、全姫は良房に対して好意的ではあったろうが、王氏に属すると言うその立場上、些細な理由で陽成天皇を廃するといった策謀には与しなかったであろう。
しかしながら、淑子は、全姫とは立場を異にしていた。元慶四年に清和上皇は崩じ、同六年には全姫が薨去し、淑子を憚るような人物は、政界や後宮において姿を消したのである。更に、元慶七年、老典侍の甘南備伊勢子が卒すると、淑子の威勢はいやが上にも増大し、あらゆる官女は、淑子の前に慴伏するに至った。従って基経が陽成天皇陛下の廃位を決意した時、彼が先ず淑子に計画を打明け、協力を求めた事は、容易に想察される。陰謀をめぐる二人の目的は違っていたにしても、当面の目標の為に彼等は固く提携したに相違ない。
元慶七年と言う年は、淑子が陰謀をめぐらし、権力を濫用する上では、最好適の条件を備えていた。前記のように、彼女が憚るような人物は政界には見当たらなかった上に、天皇はまだ少年期から脱しておられず、太皇太后の明子は、若い頃からの気鬱症で無力であった。異母妹の皇太后・高子は、母后として、また持前の気性から言って、大きな発言権を有していた。しかし高子は側近に強力な官人や官女を欠いており、その点では政治力を充分に発揮出来ない状態に置かれていた。例えば、皇太后宮大夫の藤原国経は異母兄ではあっても、押しのきかない好人物に過ぎなかった。蔵人頭の源興基は、上記のように高子に反感を抱いていたと想起される。高子を輔佐した従三位・藤原栄子(〜895)は、同母兄・清経の室で、恐らく典侍であったけれども、穏かな婦人であったらしく、無論、淑子に拮抗出来るような人柄ではなかった。
いま、『三代実録』その他から窺ってみると、陽成天皇の乱行を臭わすような記事は、全てが後宮をニュース源としていることが察知される。このことから臆測すると、典侍の淑子は輩下の官女達を使嗾して天皇に関する歪曲、誇張した情報を貴族社会に流し、基経が廃黜しても、臣道に叛いたと非難されぬような下地を用意したのであろう。
基経は、元慶八年正月末まで堀河第に籠ったままで、殆ど参内しなかった。従って陽成天皇の遜位の如きも、彼が直接それを天皇に迫ったとは考えられない。最も可能性の多いのは、彼が遠くから天皇に無言の圧力をかけ、淑子が天皇や高子に因果を含めて退位を決意せしめたと言う見方である。左大臣の源融や右大臣の源多がそうした火中の栗を拾ったとは、到底、考えられないのである。
基経が数ある皇子のうちから、なぜ時康親王(光孝天皇)を皇位継承者に推挙したのか。これは表面的には明記されても、内情は必ずしも明確でない。恐らく淑子が班子女王や定省王の関係から時康親王を強引に推し、基経は、直接天皇や高子に退位を求めた淑子の要求を呑まざるを得なかったと言うのが実情であろう。この場合、二人の間に結ばれた妥協条件は
(1)時康親王の即位前に生まれた王子女を全て臣籍に下し、皇位継承者としての資格を奪うこと。
(2)基経の娘を女御として納れること。
であったに相違ない。光孝天皇が践祚後間もない元慶八年四月、斎宮、斎院を除く男女二十九人の皇子女を臣籍に下したこと、並びに同年六月、基経の娘と想察される藤原佳美子が女御とされている(入内は、五月頃か)ことは、自ら上記二条件の存在をすいりせしめるものである。
『三代実録』の同年二月四日条には、『是より先、天皇手書を太政大臣に送呈し給ひて曰く、云々』と記されている。これから察すると、天皇が−−多分、淑子の説得によって−−退位を承諾されたのは、一月末のことであろう。この報知を得て即刻、基経が参議以上を召集し、皇位継承者を選定したことは、遍く知られている。その席上、左大臣の源融が自薦し、基経から臣籍に一旦下った者が皇位についた例なしと一喝されたこと、また議論百出して紛議した時に、参議の藤原諸葛が剣の柄に手をかけ、『今日の事は、偏に太政大臣の語に随ふべし。もし異議を出さん人においては、忽ちこれを誅すべし』と睥睨・恫喝した為、基経の推す時康親王に決着した事なども、周知の通りである。
こうした事柄は、全てが豫め基経の仕組んだ芝居の筋書通りであろうが、同時に基経が娘の佳珠子の生んだ貞辰親王を推挙し得なかった事情をも語っている。つまり時康親王の推挙は、基経に私心がなかった所為ではなく、上卿の顔振れから言って、また淑子の要請を容れねばならぬ立場からも、それが出来なかった為なのである。
元慶八年四月一日、班子女王が女御とされる翌二日、正三位の淑子は、尚侍に任じられた。これは、光孝天皇の擁立をめぐる論功行賞と目される。基経は、事実上の関白として政界を圧していたが、淑子は後宮を宰配し、基経と緊密に連絡しながら良房・基経流の勢力を確保していた。女御の班子女王は、淑子を姉のように敬愛していたし、新しい女御の佳美子に至っては、淑子の養女のような形であったことであろう。その間に淑子は、猶予の定省を皇位に即けようとする計画を、班子女王と共に、秘かに練っていたのであろう。
光孝天皇の臨終の際に、淑子が自らも動き、また基経にも強要して、猶予の定省を天皇に擁立した手腕は、驚嘆に価する。この場合も淑子が基経に与えた好餌は、定省が皇位に即いた暁には、娘の温子を女御に迎えると言う事であったであろう。この為には、淑子は、定省の妻に迎えてやった橘義子の悲嘆などは無視するだけの非情さを備えていたと思われる。
結果的に見ると、陽成天皇の廃位は、基経の外孫の即位でなく、淑子の猶予の即位をもたらした。淑子が定省の即位を明確な目標として陽成天皇の廃位に参与したと想定するのは、行き過ぎであろう。しかし時康親王(光孝天皇)の即位が定省の為最も有利であるとの判断の下に、自ら陰謀を買って出たことは、殆ど疑いがないと思う。基経と淑子とは、陽成天皇の廃位の為、緊密に協力したけれども、その目的に関しては、両人は同床異夢であった可能性が多いのである。
これを要するに、陽成天皇の廃位は、病弱ないし乱行の所為でも、また天皇が業平胤であったためでもない。恐らくそれは、上来考察したように、基経や淑子と、皇室側に立った高子との権力闘争の結果として理解さるべきであろう。換言すれば、それは、摂関政治を確立・維持する為に基経が採った強硬手段であって、彼は典侍・淑子の協力を得てこれに成功したと言えよう。
この廃立事件の真相は、もとより『三代実録』には明記されていない。これを究明する為には、どうしても幾多の推理を試みながら『三代実録』の紙背を探求せねばならない。それだけに決定的な結論を得る事は不可能に近いが、以上述べた帰結は、在来の諸説に較べて遥かに蓋然性に富んでいることは、否定さまいと思う。