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◎日本軍の中枢が米国派(ユダヤ・フリーメーソン)だった太平洋戦争◎

米国の為に重大な役割を果たした山本五十六

●骨の髄迄親米派のフリーメーソン

 山本五十六氏は明治17年4月4日、新潟県長岡の玉あ院町に6男として生まれた。父・高野貞吉は既に56歳に達していたので「五十六」と命名されたと云う。山本姓を名乗るのは小佐時代の33歳の時に山本家の養子となってからである。高野家は代々儒家であり父親の貞吉は小学校の校長であった。
 五十六は坂の上小学校、長岡中学校と進級し、明治34年11月江田島の海軍兵学校に入学、37年11月に次席で卒業した。此の時の上位卒業者は塩沢幸一、山本五十六、吉田善吾(阿部、米内、第二次近衛の海相)、嶋田繁太郎(東条内閣の海相)、堀悌吉であり、上位4人は大将まで進んだ。
 日露戦争時には第一艦隊旗艦「日進」乗組となり前艦橋に立って戦闘報告を記録中バルチック艦隊からの敵弾丸が命中(「日進」の砲の「とうはつ」と云う説もある)して半身に大火傷を負い、右足のこむらの肉をそぎ落され、左手の中指と人差し指も吹き飛ばされると云う負傷を負った。五十六は日露戦争参加の功により明治39年4月「勲6等単光旭日章」を受け、350円を支給された。
 大正2年12月には巡洋艦「新高」の砲術長となるが、砲術学校時代には海兵29期で五十六より3期上の米内光政と交流を深めた。米内も教官として赴任しており、五十六とは同じ部屋に起居している。二人は盡く波長が合ったと言われるが、後に米内海軍大臣、山本次官の組合せ(コンビ)で陸軍が薦める三国同盟に真っ向から反対する事になる。
 大正3年5月横須賀鎮守府副官兼参謀となったが2カ月後に第一次世界大戦が勃発、五十六は12月に海軍大学校甲種学生として入学した。此の海軍大学校在学中に五十六は、旧長岡藩士山本帯刀の名跡を継いで養子と成ったのである。山本帯刀は長岡藩家老河井継之助と共に戊辰戦争で官軍の山県有朋と戦い戦死した若い家老であった。
 大正5年海軍大学を卒業、第二艦隊参謀となるが病気で休職、続いて同6年、海軍省軍務局第二課を経て8年5月20日米国駐在となって横浜を出港した。米国ではボストンのハーバード大学イングリッシュEに籍を置き英語力を身に付けた。
 大正末から昭和の初めに掛けては再び渡米し、日本大使館付武官として2回目の米国在勤をしている。米国在留中に五十六は中佐に昇進、米国の産業やヤンキー精神(自分は、純粋な米国の基督教精神は、今の日本では学ぶべき所があると思う。此処で言うヤンキー精神は、アングロ・サクソン人の基督教保守精神を忘れた軽重な人の精神を指している。此れは戦前の場合も、神の法である「法華經精神」を忘れた軽重な日本人にも当て填まる!忍)に強く瞠目するが、五十六がフリーメーソンに入社したのも或いは此のあかも知れない。五十六は在任中に米国で石油(当時、国際連合の地下に核爆弾を置いたロックフェラーが経営する悪徳のスタンダード石油が大手会社だった!忍)及び航空軍備と海軍について強い影響を受けた。
 大正7年7月19日に五十六は帰国、10年12月から12年半ば迄海軍大学の教官に任じた。其の後9ヶ月の欧州視察旅行を終え、大正13年3月帰国、海軍省の副官・大佐となり間もなく霞ヶ浦航空隊付となって9月、副長として赴任した。そして1年3ヶ月後五十六は三度渡米、米国の日本大g館付武官となった。戦前の海軍で此れ程米国と縁の深い軍人は、五十六に於いて他にはいないのでは無いのか。
 山本五十六が骨の随まで親米派となる過程は此の様にして造られたのである。米国駐在武官の任を終えた五十六は昭和3年12月航空母艦「赤城」の艦長と為った。大正11年のワシントン海軍軍縮条約に依る英米日の主力艦トン数比率は5・5・3と為ったが、当時の海軍の此の劣勢を精神力や技術(此の技術開発が、正確に理解していなかった。要するに西洋の偽科学に騙されたのである。東洋で云う「気」を真剣に学べば、軍隊の作り方と精神のあり方を真剣に考えなければならない状態になる。又、石原莞爾が将来の総力戦に備える必要があると説いている!忍)で覆うと連日、月月火水木金金の猛訓練を重ねていた。
 山本五十六も其の例外では無い。得に航空戦力を重視した五十六は昭和4年4月の済州島沖での連合艦隊演習で「赤城」を飛び立った13式艦上攻撃機9機が悪天候に依って遭難、其の内の2機4人を失うと云う事故も起こしている。
 五十六は其の後海軍省軍務局に転任、昭和5年1月からのロンドン海軍軍縮会議の全あ委員随員と為った。五十六は出発の日に少将に進級しているが、全あ委員の中では特に発言あは無く、随員の纒め役と云う事であった。
 ロンドン条約は全あ若槻礼次郎や海軍大臣財部彪等の条約賛成派が軍令部の加東部長や末次次長の激しい反対を押し切って対米補助艦比率を当初の絶対7割死守から米妥協案6割9部7厘5毛を受諾した事で大いに紛叫、軈て浜口首相狙撃事件、5、15事件へと発展していくのである。
 ロンドンから帰国した五十六は昭和5年12月、航空本部技術部長と云う要職に就任する。此の時代日本の航空戦力は飛躍的に進展を遂げる事になる。初めて発動機、機体とも日本人に依る設計で製造された「90式艦上戦闘機」が採用され、更に五十六が航空本部長となった昭和10年12月には「96式艦上戦闘機」が完成、速力230ノット(426キロ)と驚異的な性能を誇った。此の96式艦戦は昭和15年9月に「零戦」が登場する迄海軍の花形戦闘機と為った。

●空軍の重要性を熟知しながら設立を拒否

 山本五十六は戦術兵器としての戦闘機改良には大いに貢献したと言えるが、海軍の航空化には賛成しても空軍の独立には一貫して反対であった。
 英国では既に大正7(1918)年には空軍を独立、独国でもナチス政府が昭和10(1940)年には空軍を創設していた。
 あれ程航空戦力を重視した五十六に、空軍独立の必要性と重要性が分からなかった筈は無い。山本五十六は意図的に日本空軍を創設する事を拒んだのである。
 其の狙いは二つであった。一つは日本が独立した空軍を持つ事で、戦略的な優位に立つ事を恐れたからであり、もう一つは来るべき対米戦で真珠湾攻撃を行う際に全ての航空戦力を自分の指揮下に置いて置く為であった。日本の航空戦力を海軍の補助戦力として位置付ける事に依って日本は確実に米国よりは劣性でいる事が出来る。フリーメーソン山本五十六は其の様に考えたに違いない。
 海軍大学校教官加来止男中佐(後、空母「飛龍」艦長。ミッドウェー海戦で艦と運命を共にした)と陸軍大学校教官青木少佐は連名で陸・海大学校長に宛に空軍独立の意見書を提出するが、山本五十六を本部長とする海軍航空本部は此れに対して正式に空軍独立の反対を表明するのである。
 後世の批評家は此の時の反対理由が単に山本五十六の陸軍嫌いであるとか、無能な陸軍の将官が空軍の主要地位を占めれば、航空の進歩は止まってしまう等と評するが、其れは山本五十六を買被った皮相的見方と言えよう。
 山本五十六がフリーメーソンであった事を考えれば其の狙いがもっと別の所にあったとしなければ真実の姿は見えて来ないであろう。

●米内・山本・井上の親米仲間(コンビ)

 山本五十六は航空技術部長を2年10ヶ月務め上げた後、第一航空戦司令官として8ヶ月在職し、昭和9年9月第二次ロンドン軍縮会議予備交渉の日本代表となって米国経由ロンドンに向けて出発した。
 ワシントン条約、ロンドン条約で米英に対し、主力艦、補助艦、潜水艦の比率で著しく不利となった日本は条約破棄の可能性も含んでの交渉である。日本の提案は次の通りであった。

一、日米英(仏伊)の兵力量の共通最大限度を規定する。
一、各国は其の範囲内で自由に持てる様にする。
一、攻撃兵器を破棄し、防御兵器を中心として配備する。
一、航空母艦や主力艦の全廃を主張してもいい。

 此れに対し、米英は当然反対をした。軍令部の意図は新しい比率に依る新条約締結か、さもなくば無条約状態を作り出す事だった。
 山本五十六はロンドンに到着して間もなく中将に進級したが、其れと条約交渉とは別で結局予備交渉は失敗に終った。事実日本は昭和9年12月、米国に対しワシントン条約の廃棄を通告、更に11年1月、ロンドン会議予備交渉で五十六は海軍の真の意図、詰まり無条約及至は破棄の方針を無視して新条約の締結に熱中した(昭和10年1月に、フリーメーソンの首領になり、日米戦争の計画を立てる。川尻徹著「ノストラダムスの戦争黙示」より!忍)。是の事で海軍首脳に疎まれた五十六は帰国後9ヶ月間主要な地位から外されたのである。
 ロンドン海軍軍縮会議の本会議は形式的ながらも予定通り開催され、全て永野修身大将が交渉に当る事になるが五十六は随員となる事を固辞した。一般には五十六が永野を嫌っていたと評するが、好き嫌いで此の様な重要な役割を拒否出来るものでは無く、五十六としては予備交渉で、失敗し、米英(ユダヤ)に奉仕出来なかった自分が厚顔にも再び参加する訳にはいかなかったと云うのが真相であろう。
 此の様な山本五十六であるが、昭和10年12月、突然航空本部長に任命される。五十六の最も得意とする分野である。所が翌年12月、広田内閣の永野修身海軍大臣に要請されて次官に就任、以後米内海軍大臣のもと林銃十郎、近衛文麿(第一次)、平沼氏と3代の内閣で次官を務めるのである。此の二人のフリーメーソン大臣・次官組合せが其の後の日本海軍にどれ程大きな影響を与えたかは想像に余るものがあろう。
 昭和13年4月五十六は再び航空本部長を兼任。此の間、陸軍は米英との対決姿勢を強め日独伊三国同盟と対米開戦に反対し続ける五十六等には陸軍や右翼からの脅迫が続いた。此の為暗殺の危険を恐れた米内は平沼内閣総辞職、阿部内閣の成立と共に連合艦隊司令長官に転出させたのである(日独伊は、基本的に反共国家であった。先ず此れを認識しないと話が理解出来ない。此の当時の時代から反道徳の法律を作り、政府転覆の計画を立てた共産主義革命に反対した国家である。唯、今、同じアーリア民族であるオーストリア国内に、ポルノが氾濫しているのである。自分の目で見ると共産主義に為っている。連合国は、其の悪魔の計画を作った国々である。ソ連は単なる実験場である。陸軍は、基本的に反共であるから、3国同盟を結んだのである。寧ろ、当時から共産主義の残虐性をあったのに、其れを無視してユダヤ共産主義者と仲良くする道を作ろうと考えて、計画したアメリカの太平洋問題調査会と仲が良いのが海軍が問題である!忍)。
 山本五十六が此の地位に就任したのは昭和14年9月3日であった。米内は軍事参議官に、井上は第4艦隊司令長官として中央を追われた。
 後任の海軍大臣には五十六と海軍兵学校同期生の吉田善吾が就任、けれども米内は其の後、僅か4ヵ月で退陣した阿部内閣の後、元老西園寺公望の推薦で首相となるのである。米内は其の後も影響力を行使し続け小磯、鈴木、東久邇、幣原の4代に亙る内閣で海軍大臣を務める事になるが、日本を敗北に導いた元凶の一人が東京裁判で裁かれる事も無かったのは、偏に米英ユダヤ・フリーメーソンの為に協力し多大な「貢献」をしたからであろう。

3、卑怯な日本を演出した山本五十六

●真珠湾奇襲攻撃でルーズヴェルトに協力

 ところで連合軍隊司令長官に就任した山本五十六は日米開戦は最早避けられない物として何時の間にか「真珠湾攻撃」を口にする様になる。
 欧州では既に昭和14(1939)年9月3日、第二次世界大戦が勃発して独国が破竹の進撃を続けていた。欧州で苦戦を続ける英仏を救済し米国を参戦させる事は米国大統領フランクリン・D・ルーズヴェルトの基本戦略であった。ルーズヴェルトは英首相チャーチルと共謀して日本を追い込み、先に攻撃を仕掛けさせて米国の世論を激Vさせ、其の怒りで対独伊戦、対日戦を正当化しようと目論んだ。
 フリーメーソン(親方!忍)山本五十六はルーズベルトとチャーチルに協力してハワイ奇襲の構想を練ったのである。
 山本五十六が連合艦隊司令長官に就任して半年余り経った昭和15年3月、真珠湾攻撃を想定した実戦さながらの電撃訓練が行われた。
 五十六の乗る連合艦隊旗艦「長門」そして「陸奥」及び空母「蒼龍」を目標に艦上攻撃機、双発陸上攻撃機、急降下爆撃を行う艦上爆撃機等81機が上空低空から襲いかかり模擬魚雷等を撃ち込んで三隻とも撃沈間違い無しの戦果を上げたのである。山本長官は此の時「飛行機でハワイを叩けないものか」と呟いたと云う。山本五十六は昭和16年1月、及川古志郎海軍大臣に宛てた私信の中で次の如く述べている。

 「日米戦争に於て我の第一に遂行せざるべからざる要項は、開戦劈頭
 敵主力艦隊を猛撃撃破して、米国海軍及米国民をして救ふ可かざる程
 度に、其の士気を阻喪せしむ事是なり。此の如くにして、初めて東亜
 の要衝に占居して不敗の地歩を確保し、依て以て東亜共栄圏も建設維
 持し得べし」

 五十六の計画の中には、既に機動部隊に依る真珠湾攻撃の具体的構想があったのである。
 1月下旬、連合艦隊司令部は真珠湾攻撃の研究を開始、第11航空艦隊参謀長の大西瀧治郎少将に極秘で此の研究を依頼した。大西は五十六と同じ思想を持つ航空主兵、艦隊無用論者であった。
 ハワイ奇襲攻撃の猛訓練は鹿児島県志布志湾を中心に行われた。斯うして訓練に訓練に重ねた第一航空艦隊(空母6隻を中心とした機動部隊。司令長官は南雲忠一中将)は択捉島単冠湾に集結、昭和16(1941)年11月26日秘かにハワイに向けて出航した。日本時間12月8日午前3時25分、赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴の6隻の日本空母から発進した第一次攻撃隊183機はハワイ・オアツ島パール・ハーバーにある米国太平洋艦隊の基地を奇襲した。
 ハワイ真珠湾攻撃を米国大統領ルーズヴェルトは事前に知っていた。日本の外務省が使用していた『紫暗号(パープル)』は盡く米国に筒抜けであったが、此のあには日本に暗号解読の協力者がいたと見なければならぬ。
 真珠湾に集結していた米太平洋艦隊は主な物で戦艦アリゾナ、オクラホマ、ウェスト・ヴァージニア、カリフォルニア、ネバダ、テネシー、メリーランド、ペンシルヴェニアの8隻、重巡ニューオルリンズ、軽巡ローリ、ホノルル、ヘレナの3隻そして駆逐艦ショー、カシン、ダウンズ、オグララ、ドックの5隻総計17隻である。
 ところが不思議な事に空母レキシントンはミッドウェーに飛行機を輸送中であり、エンタープライズはウェーキに矢張り飛行機を輸送しての帰路で不在、サラトガは米国本土西海岸にいた為に無事であった。
 被害を受けた戦艦は何れも1910〜20年代に就任した旧式艦であり、しかも真珠湾に沿って態々攻撃し易い様に一列に並べて停泊してあった。戦艦アリゾナは撃沈、他の艦は転覆、海底沈座、大破、中破、小破等の被害を受けたが、真珠湾は海底が浅く、海底に沈座した戦艦等は何れも引き上げが容易で短期間の内に修理、再就役し太平洋戦争中期からは攻撃力を発揮したのである。
 斯うして見ると真珠湾攻撃と云うのは一種の茶番劇であった事が分かる。山本五十六は真珠湾攻撃の「大成功」に依り英雄視されているが、其の結果残った物は「日本の卑怯な欺し討ち」と云う非難と米国の対日積極参戦の意識高揚そして今も観光地ハワイの真珠湾海底に沈む戦艦アリゾナの残骸だけである。此の時死んだ米国兵2403名は今でも米国人にとって対日憎悪の対象と為っている。

●最終通牒を遅らせた大使館員は戦後大出世

 真珠湾攻撃には幾つかの不可解な事が起こっている。一つは宣戦布告の通知が遅れた事、そしてもう一つは攻撃の不徹底さである。通知が遅れた件に関しては此れは最初からそう仕組まれたものであったと云う他は無い。
 日本から発せられた最後通牒は時間的にも充分間に合う物であった。東郷外相の訓令は対米宣戦布告の最後通牒の手交をワシントン時間、12月7日、午後1時に行うものであっス。ところが野村、栗栖大使が実際に其れをハル国務長官に手交したのは午後2時であり、其の時真珠湾は既に猛火と黒煙に包まれていた。最後通牒の手交が何故遅れたかに就いては尤もらしい説明が付けられている。
 対米最後通牒の電報は14通から成り、其の内の13通は米国の12月6日中に日本大使館に到着し、既に電信課に依って暗号解読され、其の日の内に書記官に提出されていた。残り、即ち最後の14通目は翌7日早朝(ワシントン時間)に大使館に到着、同時に最後通牒の覚書を7日午後1時に手交すべく訓令した電報も大使館には届いていた。
 其の時の大使館員の様子は次の如くであったとされる

◆14通の電報は2種類の暗号を重ねた2重暗号であり、最初の13通は
 12月6日午後1時から入電を開始、粗同時に専門の電信官に依って暗
 号解読が始まった。午後8時半あ事務総括の井口貞夫参事官が解読作業
 中の若手外交官達を誘って行き付けの中華料理店”チャイニーズ・ラン
 ターン”の一室で夕食会を開く。此れは寺崎英成1等書記官の中南米転
 任送別会を兼ねていた。
◆7日、早朝13通分の電文タイプを開始、寺崎一等書記官は妻グエンと
 娘のマリコ、及び妻の母と共に郊外に車旅行、連絡も付かない状況であ
 った。
◆7日の朝、大使館の電信課宿泊員で若い熱心な基督教徒である藤山楢一
 は14通目の電報ともう一通の「最後通牒」の手交時間訓令の電報を入
 手したが、其の日は日曜日であった為、教会の礼拝に出掛け、電信課の
 責任者であり前夜宿直していた奥村勝蔵首席一等書記官及び松平康東一
 等書記官に対し連絡を怠った。

 14通目の電報が7日の何時から暗号解読され始めたかの公式記録は無い。だが前日に受信した13通の電報が既に解読されており、事の重大性に大使館全員が気付かぬ筈は無い。重大であればこそ大使館員全員が待機して14通目の到来を待ち、其れ以前の13通分に就いても事前にタイプを済ませて何時でもハル国務長官に提出出来る様にして置くのが当然であったろう。だが実際にタイプが始まったのは7日午前7時半あからであり、14通目の暗号解読が終ったと推定される午前10時あ迄は奥村一等書記官に依るのんびりした調子(ペース)であった。
 ところが午前11時過ぎに最後通牒の手交時間が午後1時である事が解り、大使館は騒然と成った。だが日本の外務省から秘密保持の為タイピストを使わぬ様指示されていた日本大使館では慣れない奥村がタイプを打ち続け、終了したのが真珠湾攻撃開始後の1時25分、ハル長官に野村、栗栖大使が手交しスのは1時55分であった。
 此の外務省、日本大使館の動きは全く理解に苦しむのである。
 先ず外務省であるが、僅か残り数行に過ぎない14通目と最後通牒文である第901号電を何故態々其れ迄の13通より遥かに遅れて発信したのか。更に此の重要な時期に何故寺崎一等書記官を転任させる処置を取ったのか。又何故秘密保持と称して専門のタイピストを使用禁止にしたのか等である。
 大使館側にも深い疑惑は残る。大使館員十数人全員が丸で事の重大性を弁えぬ無神経、且つ怠慢な動きを取っている事である。此れは一体何を物語るものであろうか。答は二つ、外務省の大使館員は天下一の無能集団であるか、差もなくば確信犯であったと云う事である。真相は恐らく後者であろう。
 戦後ポルトガル駐在公使だった森島守人が帰国するなり吉田茂外相に此の最後通牒手交遅延の責任を明らかにする様進言したが、吉田は結局此の件をうやむやに葬り去ってしまった。吉田茂こそ日本を敗北に導いた元凶の一人フリーメーソンであった。当時の日本大使館員達は戦後何れも「功労者」として外務次官や駐米、国連大使となり栄進した。
 日米開戦の最後通牒が遅れ真珠湾攻撃が”卑怯な欺し討ち”になった事で米国人の世論は開戦派が以前の3%から90%に跳ね上がっている。日本の外務省と大使館の責任はまことに大きいと言わざるを得ない。

●不徹底な攻撃で米国を助ける

 ところで「攻撃の不徹底」であるが其れには二つの意味がある。
 一つは真珠湾上の米国海軍艦船に対するものであり、もう一つはハワイ太平洋艦隊海軍基地の陸上軍事施設に対するものである。
 真珠湾攻撃で受けた米国太平洋艦隊の実際の被害状況は当初発表された膨大きなものはではなかった。戦艦八隻の内アリゾナとオクラホマを除き残りの6隻は其の後全て水深15mと云う浅い海底から引き上げられ修理、復旧した後何れも戦線へ復帰して大活躍しているのである。
 又陸上施設に就いては南雲第一航空艦隊司令長官による第一次、第二次攻撃隊は全く手を触れておらず、第三次攻撃隊を出す事も中止している。第三次攻撃に関しては殆どの艦隊幕僚が実行の提案をし、現に第二航空艦隊司令長官の山口多聞少将は第三波攻撃準備を完了していたが、南雲中将や草鹿第一航空艦隊参謀長や源田参謀は愚か、遥か後方の戦艦「長門」で高見の見物をしていた山本五十六連合艦隊司令長官迄が其の必要性を認めていないのである。
 若し、此の時第三次攻撃を敢行し、艦隊に対するもっと徹底した攻撃と、陸上のハワイ空軍基地の格納庫、補給庫、給油施設、武器弾薬貯あ庫、更には米国海軍基地の補給、修理施設、工場郡、燃料タンク郡を破壊しておれば太平洋の戦局は大いに変ったものとなったであろう。
 ハワイが米国の太平洋艦隊の最も重要な海軍基地であった事を考えるならば、此の攻撃不徹底はいかにも奇異な物であると言わなければならない。ハワイの燃料タンクに貯あされていた重油450万バレルを爆撃しておれば米国本土からの補給は数カ月間に亙って不可能となり、米国の太平洋艦隊は身動きが取れなかったのである。
 更にもう一つ付け加えるばらば、ハワイ攻撃の日が何故12月8日であったかと云う事だ。勿論日米交渉の行き詰まり、最後通牒の日程上此の日になったと云うのは一つの説明であるが、山本長官が此の日は真珠湾に米国空母がいない事を予め知っていたからであろう。
 山本五十六はハワイを徹底攻撃する気は最初から無かった。日本が米国を奇襲攻撃し、「卑怯な日本」と云う既成事実を作れば其れで良かったのである。

4、日本兵を大量に無駄死にさせた山本の作戦

●日本の連合艦隊の撃滅が山本の目的

 昭和17年5月、帝国陸海軍はニューギニア進攻作戦を実行する。此の作戦の主目的はニューギニアのポートモレスビーを攻略して此処に強固な前進基地を構築し、米国とオーストラリアの分断を計り、オーストラリアを孤立させる事だった。
 此のあ、大本営では陸海軍の戦略思想の対立が再び深刻化、陸・海軍省及び参謀本部・軍令部で戦争指導計画の再検討が行われ、「今後採ルベキ指導ノ大綱」が妥協に依って3月7日に成立した。そして「戦況の許す限り、出来るだけ早く占領或いは撃滅する必要のある地域」として次の3部に分けられた。
(1)ソロモン諸島のツラギ、及びニューギニア南岸のポートモレスビー
   の基地を占領し、珊瑚礁とオーストラリア北部の支配あを確立する
(2)ハワイ北西の太平洋上に広がるミッドウェー環礁を一挙に水陸両面
   作戦により撃破する
(3)フィジー、サモア、ニューカレドニアを結ぶ線を確保し、米国合衆
   国とオーストラリアとの直接連絡を断つ

 此の内(1)と(2)は山本長官の発案だった。計画(1)の暗号名は「MO」計画(2)は「MI」とされ、此の二作戦が失敗した場合、計画(3)は中止すると云う物だった。斯うして先ず「MO作戦」が山本長官の強い意志で実行されたのであるが、其の真の意図は此の作戦により米国太平洋艦隊を此の海域におびき出して決戦を挑み、日本の連合艦隊を撃滅させる事だった。
@驚くなかれ、山本長官の狙いは米国の太平洋艦隊を撃破する事では無く、其の逆だったのである。ニューギニア進攻作戦そのものは米豪連合軍の激しい反撃に遭って挫折、ポートモレスビーの陸路進攻も失敗するが、進路から此の地を攻略する為井上成美中将の指揮する第4艦隊は珊瑚礁に於て5月7日、8日の両日、米国太平洋艦隊(司令長官チャスター・W・ニミッツ大将)と激突するのである。
 此の海戦で日本粗互角の叩き合いとなり、7日の戦闘で日本側は空母「祥鳳」一隻を失い、米側は駆逐艦と油槽艦各一隻、続いて8日は日本側は空母「翔鶴」が被弾、米側は空席「レキシントン」が沈没、「ヨークタウン」は大破した。
 だが此の時井上中将は何故か「ヨークタウン」に止めを指す事をせず、攻撃を中止して北上するのである。此の「ヨークタウン」がハワイの海軍基地に帰り僅か2日間で修理されて2カ月後に起こったミッドウェー海戦に参加、彼の連合艦隊撃滅の立役者となるのである。
 此の珊瑚海海戦で井上成美第4艦隊司令長官の果たした役割は一体何であろうか。其れは「手緩い攻撃」に依って引き起こされた戦術的勝利戦略的大敗北に他ならない。
 しかも真珠湾攻撃同様、暗号は盡く米軍に依って解読されていた。ニミッツに依る空母2隻の急派も日本海軍のMO作戦を全て事前に知っていたからであった。結果として日本軍はポートモレスビーの攻略に失敗、南太平洋の戦局は厳しい物となり、日本軍の限界を示すものとなった。
 昭和17年4月P8日、空母「ホーネット」を発進したドーリットル中佐率いる双発爆撃機B25十六機が日本に向かい、東京、川崎、横浜、横須賀、名古屋、神戸の各都市を爆撃した。此れに依って日本側は死者45名、重傷者153名、家屋全焼160戸、全壊21戸の被害を出した。
 此の「ドーリットル空襲」に大きな衝撃を受けた陸軍部は太平洋に於ける制海あの確保、防空作戦上の見地から太平洋海域に於ける重要拠点の確保詰まり島嶼の領有を検討し始める。
 海軍が主導するミッドウェー(MI)、アリューシャン(AL)両作戦に当初反対であった陸軍は、4月20日此の太平洋方面作戦で海軍と同一歩調を取る事を決定したのである。
 元々太平洋戦争開始に際し、海軍が取って来た戦争指導は早期撃破、戦果拡大であるのに対し、陸軍は長期持久であり、守勢思想の重視であった。「ドーリットル空襲」は結果的に往来の陸軍の作戦指導を変更させる事になった。

●何故暗号が米軍に筒抜けになるか

 斯うしてミッドウェー攻略作戦は陽動作戦であるアリューシャン作戦と共に陸海軍の合同兵力で推進される事になった。
 ミッドウェー環礁はハワイの北西1800キロの所に約10キロに亙って広がる小さな島嶼で「ハワイ番兵」と呼ばれていた。日本軍の出撃でウェーク島を失っていた米国にとってミッドウェーは太平洋上の最西端に位置する拠点であった。
 又日本にとっても此の地点を攻略する事により東京空襲の阻止は勿論ハワイの再爆撃も可能であった。当然此の作戦は秘密裡にしかも迅速に遂行されねばならなかった。
 ところが日本海軍が用いていた暗号は盡く米国の暗号解読班に依って傍受され、其の全容は米国海軍首脳部に筒抜けであった。ミッドウェーを意味する地点略語「AF」もハワイを表わす「K作戦」も全て米国に依って解読されていた。
 日本海軍は秘密保持の為「JN25暗号」を定期的に変更すべき所を怠ったのである。 本来、変更は4月1日の予定であった。此れが5月1日に延期され、更に珊瑚礁の5月28日迄再延期された。此の御陰で米暗号解読班はJN25を完全に解読する機会(チャンス)を得たのである。
 此の暗号解読により日本軍が画策したアリューシャン列島への陽動作戦は全く用をなさず、始まる前から米国軍には分かっていたのでニミッツは全力をミッドウェーに投入する為に迅速な手を打った。6月4日の海戦に備えてフレッチャー少将の率いる第17機動隊(空母「ヨークタウン」、巡洋艦「アストリア」「ポートランド」、駆逐艦「ハマン」「ヒューズ」等)は日本軍に悟られる事無く絶好の位置に待ち伏せする事が出来た。
 山本長官は暗号の変更を延ばし延ばしにし、米国側に「MI作戦」の全貌」を知らせた上で日本海軍の総力を投入し、其の壊滅を策謀したのである。ミッドウェー作戦には無能であり、しくじる事が分かっている南雲忠一中将や草鹿龍之助少将を最も重要な機動部隊に起用し、自らは後方400キロの北西海上で戦艦「大和」や戦艦「長門」「陸奥」等と共に主力部隊に留まり此れ又高見の見物をしていたのである。
 米太平洋艦隊司令長官チェスター・W・ニミッツは珊瑚海海戦で空母「レキシトン」を失い「ヨークタウン」を大破された第17機動部隊司令長官J・フレッチャー少将をハワイに急拠呼び戻し、更に珊瑚海海戦に間に合わず無疵でいたハルゼー中将率いる第16機動艦隊を合衆国艦隊司令長官E・J・キングの反対を押し切ってミッドウェーに急派、司令長官をハルゼーからレイモンド・A・スプルーアンスに交替させた上で空母「エンタープライズ」と「ホーネット」の二隻を投入した。
 酷い損傷を受けていた空母「ヨークタウン」は修理に90日掛かると言われながら1400人の溶接工、整備工、電気技師、造船工の手により、たった二日間で直り、5月31日午前9時には再び就航可能となったのである。
 ミッドウェーに投入された空母3隻の内「エンタープライズ」は真珠湾攻撃の時に取り逃した空母3隻(エンターブライズ、サラトガ、レキシントン)の内の1隻であった。

●山本長官は常に後方で高見の見物

 此の時点に於いて日本側は「ヨークタウン」「レキシントン」の空母二隻は珊瑚礁で沈没、「エンタープライY」「ホーネット」も遥か南方海域にいる筈と固く信じていた。
 一つには5月25日以降、ハルゼーの空母部隊は未だ西太平洋にいるかの如く見せかけ囮電報に日本軍が飛びついたからであった。ニミッツは暗号解読による事前情報に基づいて日本艦隊よりも先に艦を出し、6月3日以前には未だ展開していなかった日本海軍の潜水艦隊の警戒線を無事通過し、連合艦隊の到着を待ち受けていたのである。
 一方、日本側は連合艦隊始まって以来の大艦隊を編成、山本長官の指揮下には「加賀」「赤城」「蒼龍」「飛龍」等空母8隻、連合艦隊「大和」其れに「武蔵」「長門」「陸奥」等戦艦11隻、巡洋艦22隻、駆逐艦65隻、潜水艦20隻等合わせて艦船200隻、総トン数150万トン、更に飛行機700機を含めて動員数10万人の将兵と云う堂々たる陣容を形成した。
 此れだけの大戦力を持ちながらミッドウェー海戦で日本側は大敗北を喫してしまった。此の海戦で日本は虎の子の空母「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の4隻を一度に失ったのである。米国側の損害は空母「ヨークタウン」1隻に留まった。此の様な大敗北は全く予期せざるものであった。
 日本は勝てる戦争を敗れるべくして敗れたのである。敗北の「大原因」即ち戦略的失敗を齎らしたのは山本五十六であり、其れは意図されたものだった。幾つかの予期せざる遇然、悪運が重なったとは云う物の、戦術的「大失策」を犯したのは南雲機動隊司令長官だった。南雲は刻々と変化する戦況を的確に判断する事が出来ず、逡巡し、誤った判断を下した。本来の目的であったミッドウェー島の基地爆撃も、上陸も果たせず、米国の艦隊撃破にも失敗した。
 南雲の指揮した空母では帰投して上陸で着艦を待つミッドウェー攻撃隊の収容と、第二次攻撃の為の爆撃及び敵空母攻撃の為の魚雷換装をめぐって判断が遅れ、結果的に米艦隊の猛攻を受けて次々と沈没したのである。
 かろうじて山口多聞少将率いる空母「飛龍」が攻撃機を飛ばし米空母「ヨークタウン」に甚大な損害を与えた。6月7日、ハワイに向けて曳航中の「ヨークタウン」を日本の潜水艦「伊168潜」が撃沈した。
 ミッドウェーで山本長官が何故空母部隊のみを突入させ、自らは戦艦と共に安全圏にいたのかは一種の謎であった。空母を中心とする機動部隊の撃破も其の一貫であるが逆に攻撃を受けた時には艦隊防御能力は極めて低い。日本海軍の誇る戦艦「大和」「武あ」「長門」等高い防御能力を持った戦艦郡は遥か後方にあって、連合艦隊司令部の護衛等と云う戦略的に無意味な任務を就いていた。
 機動部隊の空母を防御していたのは駆逐艦等数隻であり、其の陣型にも大いに問題があった。米機動部隊の陣型が空母上空に濃密為る弾幕を張り、防御能力を最大限に高めていたのに対して、日本の空母は二隻並んでいる上に僅かの駆逐艦を横に配置しているだけであった。此れでは空母に対する防御が手薄であり、米機にとって如何にも攻撃し易い陣型になっていた。
 珊瑚海海戦で軽空母「祥鳳」が撃沈、「翔鶴」が大破すると云う苦渋を味わったのも此の艦隊防空能力の欠如であった。連合艦隊は1ヶ月前の苦い教訓を生かす事が出来なかったのだ。
 日本側が機動部隊に充分な対空防御能力を付けておれば、敵機襲撃に対しても時間的余裕が生まれ、空母での攻撃機兵装を大急ぎで取り替えると云う混乱は起こり得なかったであろう。
 だが山本長官個人を守る為に温存された強力な戦力は終に一度も投入される事無く大事な空母を米機の攻撃に晒し、海の藻屑と消えさせたのであった。山本連合艦隊司令長官はミッドウェーで大敗北し空母4隻を失った時旗艦「大和」で涙を流していたと云う。だが此の涙はフリーメーソン山本五十六の喜びの涙ではなかったのか。

●真珠湾もミッドウェーも山本が強引に決行

 真珠湾攻撃の時もそうであったが、ミッドウェー攻略作戦も又山本長官の強引な主張に依って計画されたものであった。山本長官の主張とは昭和17(1942)年中に米太平洋艦隊を誘き出して此れを撃滅する。其の為の餌としてはミッドウェーが最適であり、此処を占領してハワイに脅威を与えれば米国の戦意は著しく衰え、其れに依って和平交渉への道が開かれると云う物であった。
 だが此の計画に対して東京の海軍軍令部は強い反対論を唱えた。其の第一の理由は占領後のミッドウェーの戦略的価値が疑わしいと云う物である。ミッドウェーはハワイから僅か千八百キロしか離れていない上にハワイの陸上基地から攻撃機が殺到し、直ぐに奪還されるに違いないし、ミッドウェーを占領しても奇襲以来基地を強化し続けていた米軍への脅威にはならず、米国民の志気に影響を与える事は無く、従って米国が和平交渉を提案する事は有り得ないと云うのである。
 又日本の偵察機の行動半径は1120キロ(ハワイに届かない!忍)に過ぎないので広大な太平洋の真ん中で有効なる偵察任務は果たせないと反論した。
 其れよりもニューカレドニア、フィージー、サモア諸島に対する攻撃を強め、オーストラリアとの分断を謀る方が戦略的価値は高く、米国艦隊も本国基地から強く離れているので、補給困難に陥るだろうとし、米艦隊を誘き出す目的であれば、オーストラリアが自国の海岸線を脅かされる為米国に救援を頼むのは確実である、と強く反駁したのである。
 ところが山本長官は敵の空母勢力を撃破すれば自ら米豪間は分断されるので、先ずミッドウェーで敵の空母を誘き出し此れを必ず撃破して見せると豪語したのである。山本長官の主張は頑なにミッドウェー攻撃一点張りであった。
 ミッドウェーが米国最大の海軍基地ハワイの近くであり、戦略的に日本が不利な事は一目瞭然である。にも関わらず、山本長官がミッドウェーに固執し一歩も譲らなかったのはルーズベルトとの間に秘密の協定があり、日本の連合艦隊を此処で破滅させる約束をしていたからに違いない。
 そもそもハワイ真珠湾で航空機による奇襲攻撃を実施し、航空機の持つ破壊力と重要性を態々米国に教えた事のみならず、生産力では圧倒的に勝る米国が此の事を教訓に大量生産の下、航空戦力の飛躍増大を図った事は山本長官の決定的間違い(実は陰謀)ではなかろうか。以後米国はあらゆる戦局で航空戦を挑み、日本を圧倒していくのである。
 ミッドウェー作戦自体も真珠湾攻撃同様山本長官が立案したものであるが、山本長官の表向きの主張はミッドウェー島の攻略と米空母部隊を誘き出した上で、此れと決戦すると云う二つの目的であり、首尾よく米空母部隊を撃滅出来た場合は続いて10月にハワイを攻略すると云う物であったが、真の隠された狙いは日本の連合艦隊を破滅に導く事であった。
 米国は充分に航空戦の練習を積み、山本長官の差し出した獲物に向かって殺到したのである。山本長官の作戦に対し大本営海軍部は大反対であった。だが山本長官は其の反対には全く耳を貸そうとしなかった。最後は山本長官とは腐れ縁であった永野修身軍令部総長の決裁でミッドウェー作戦は認可された。
 幾ら連合艦隊司令長官が特殊な立場であり強い権限を持っていたからと言っても、大本営軍令部に此れ程迄楯衝く事は異常であった。フリーメーソン山本長官はルーズベルト大統領(フリーメーソン33位階)チャーチル英首相(フリーメーソン)との約束を死守したのである。
 ミッドウェー海戦で首尾よく日本の空母部隊を破滅させた山本長官は次のガダルカナル、ソロモン海戦で日本軍敗北の総仕上げを行い、自らは米国側と通牒の上、逃亡計画を実行する。ブーゲンビル上空での戦死狂言である。では其処に到る迄の経過(プロセス)を見る事にしよう。

5、ガダルカナルを見捨てていた山本五十六

●悲劇のガダルカナルを生んだ大本営軍令部

 ミッドウェーは太平洋戦争全体を通じて当に転換点(ターニングポイント)であった。此の敗北以来、日本の帝国陸海軍は苦況に陥るのである。其れを象徴するのがミッドウェーの海戦であった。「MO作戦」でニューギニアのモレスビー攻略に失敗した日本軍が米豪を分断する為、次に戦略的拠点として選んだのが南太平洋ソロモン諸島の主島ガダルカナル島である。此の島に飛行場を建設し、強力な基地航空隊を置けば南西太平洋の制海権(制空権では無い)が得られ、米国と豪国の連絡は分断され、豪国北東部は日本軍の攻撃範囲となり、此処に猛攻を加える事によりオーストラリアを厭戦気分に陥し入れ、連合軍からの脱落を誘い、日豪単独講和に持ち込む事が出来れば米国も戦意を喪失、日米の和平も実現出来るのではないかと海軍は考えていた。
 ニューギニアの東方千キロの南太平洋上に展開するソロモン諸島の内航空基地に適した島だけであり、日米双方とも此の島の戦略的重要性は充分過ぎる程認識していた。米国軍は此の様な日本の意図を見抜き、ガダルカナル島を日本軍から奪取し、其の勢いで南太平洋を北西へ進撃してニューブリテン島ラバウルの日本軍基地を撃滅しようと考えていた。 昭和17年5月3日、日本の海軍陸戦隊はガダルカナル島の対岸にあるツラギ、ガヴツ島を占領、此処から水上機隊を進出させ哨戒飛行を開始した。此れによりガダルカナル島に有望な飛行場適地を発見したのである。
 ミッドウェー作戦の失敗によりFS作戦(ニューカレドニア島を攻略し米豪遮断を計る)を二ヶ月延期した大本営軍令部は、ガダルカナル島を主とした基地航空兵力に依って推進する事とし、直ちに同島飛行場の建設に着手した。
 6月16日には海軍第11設営隊(門前鼎大佐)が上陸、7月1日には第13設営隊(岡村徳長少佐)も加わり建設を開始した。7月11日、FS作戦は正式に中止され代わりにガダルカナル島の工事は強い意志の下に続行された。飛行場は8月5日には滑走路が粗完成し、10日後には零戦1個分隊の進出を待つばかりとなった。
 ガダルカナル島の航空基地を足場に日本軍は次の様な三段階の計画を策定した。

1、MO作戦で5月1日に奪取したツラギ周辺の守りを固める。
2、ソロモン諸島一帯を占領する。
3、ニューギニアの大半を占領する。

 一方、米国軍も米国、豪国、ニュージランド間の連絡路確保の為4月24日、ルーズヴェルト大統領の承認を得て次の様な「米海軍太平洋方面会戦大網計画」を策定した。

1、ツラギと其の周辺の島々占領
2、ソロモン諸島からラバウルへの侵攻
3、ニューギニアの完全な奪還

 此の両者の計画が示す通り、第二段階に於いて日米はガダルカナル島を巡り衝突する運命にあった訳である。当初日米とも此の正面衝突の時期は昭和18(1943)年以降と判断していた。ところがミッドウェー海戦の大勝利で自信を深めたニミッツ米国太平洋艦隊司令長官(兼海洋区域の連合軍指揮官)とマッカーサー南西区域連合最高指揮官は、早め攻勢に転じる決心を固めた。
 米統合参謀本部が反撃を決意したあには南太平洋地域での日本軍の進出状況を可也的確に捉えた情報網があり、米国軍は真珠湾攻撃の遥か以前から日米戦を想定し、先々の事態を予測して「通信解析」や「暗号解読」を中心とした研修や技術的準備をしていたからである。米国軍は予め次の様な情報収集網を設置していた。

◆適切な場所に必要な受信所を設置
◆通信隊員と解析係を育成
◆日本軍の無線通信のパターンと意味を理解する技術を研鑽
◆発信源、呼出、符号の意味を探求

 斯うして傍受された日本軍の通信情報は次々と解析され、米軍の司令部に送られた。通信隊は6月末には既に日本軍のソロモン諸島での活発な動きを報告し、更にニューギニアで奪取した文書から7月11日と13日に宿営中の日本軍支隊がガダルカナルに出撃する事も判明、南方海上には第4及び第8艦隊が存在、ラバウルでは第八艦隊の重巡「鳥海」に座乗した三川軍一中将が作戦の指揮を取り、第四艦隊はラバウル島を基地として外南洋を担当する事等日本軍の動向は絶え間なく傍受され、解明されていった。
 マッカーサーはフィリピンを追われて以来豪国で反攻の機会を伺っていたが、既に太平洋戦争に於ける主導あは米国に移ったとして統合参謀長会議(JCS)を急き立て、ニミッツとの主導あ争いを行った。
 元々太平洋戦域での最初の攻勢作戦は場所や時間の如何を問わず太平洋艦隊司令長官であるニミッツの作戦指導で行う事になっており、加えてニミッツの上官である合衆国艦隊司令長官(兼海軍作戦部長)のキングも作戦強行を主張した為、統合参謀本部のマーシャル陸軍参謀総長は困り果てて次の様な妥協案を提出した。

1、区域境界線をずらしてソロモン諸島をニミッツの担当区域に移す。
2、第一作戦の指揮あはニミッツ隷下のゴームレー南太平洋区域指揮官に
 付与し、マッカーサーを此れに協力させる
3、第二、第三作戦の指揮はマッカーサーが取る。

 此の方針ノ基づいて米国軍は出撃準備を大車輪で行い、6月海兵隊第一師団の攻撃部隊を客船で米国からニュージランドに向けて輸送、7月初めにはウェリントンに到着、更に7月31日、1万9千人の海兵隊員が19隻の輸送船と24隻の駆逐艦に分乗して出撃した。此れを援護するのはケリー・ターナー提督麾下の第62機動部隊と少し離れて護衛するフレッチャー提督率いる「エンタープライズ」、「サラトガ」、「ワスプ」を含む空母部隊であった。
 7月31日、ゴームレー麾下のB−17爆撃機がガダルカナル島及びツラギに対する爆撃を開始、続いて8月7日未明、米強襲上陸部隊の大軍が日本軍には全く気づかれる事無くガダルカナル及びツラギに上陸を開始、其の日の内に日本軍の整備したガダルカナル島東岸中央部ルンガ岬付近の長さ800m、幅60mの滑走路を持つ飛行場を占領したのであった。そして同時に対岸のフロリダ島ツラギの水上基地も奪取した。
 米国が投入した兵力はターナー少将指揮の攻略部隊が重巡6、軽巡15、掃海艇5、輸送船23、海兵隊1万9105名と云う大部隊であり、此の攻略部隊をフレッシャー中将の率いる空母3隻を含む機動部隊が編成されていた。
 ところが、此の時点で日本軍のガダルカナル島守備隊が僅か247名、非戦闘員の設営隊が2571名だけであり、ツラギには横浜空大艇隊を主力とし他に設営隊、警備隊合わせて約600名、大艇約10機、水上戦闘機9機、其れに高角砲が若干あるだけであった。
 ツラギの守備隊600名は9日迄に粗全員玉砕、ガ_ルカナル島での攻防戦は日本軍の再三に亙る奪回上陸作戦により凄惨な死闘を繰り広げ、昭和17年12月末に至って大本営は遂にガダルカナル撤退を決定した。
 此のガダルカナルを中心としたソロモン海域では、昭和17年8月7日より同年12月迄6度に亙り大きな海戦が展開された。其の過程は次の通りである。

1、サヴォ沖海戦(第一次ソロモン海戦)ー海上夜戦(8月7日〜9日)。
2、東ソロモン戦(第二次ソロモン海戦)ー空戦と海戦(8月23日〜25日)。
3、エスペランス岬戦(サヴォ島沖海戦)ー海上夜戦(10月11日〜12日)。
4、サンタ・クルース島戦ー空戦及び海戦(10月26日)。
5、ガダルカナル戦(第三次ソロモン海戦)ー空戦及び海上全日戦(11
 月13日〜15日)。
6、ルンガ・ポイント戦(ルンガ沖海戦)ー海上夜戦(11月30日〜1
 2月1日)。

  此の他にも昭和18年2月迄にレンネル島、北ソロモン諸島、サヴォ島南部エスペランス岬(2回目)、コロンバンガラ島、チョイセル島南部、レンドーヴァ沖等更に7ヶ所で可也大きな戦闘が行われたのである。

●米軍の研究が皆無だった日本軍(大日本帝国海軍!忍)

 さて、では此の日米衝突となったガダルカナル及びソロモン諸島に於ける海戦で、日本の連合艦隊は何をしていたのかを見なければならない。
 山本長官率いる連合艦隊は真珠湾・ミッドウェーに続きソロモンでも作戦計画が米国に筒抜けになるが儘にしていた。米軍が充分な準備を整え、先回りして大部隊をガダルカナルに派遣する迄日本の連合艦隊はのんびりしたものであった。
 ツラギから緊急電を受けてラバウルの第八艦隊司令部は此れが単なる敵の強行偵察だろうと推察、現地からの報告は敵兵力を過大視したものであろうと勝手に解釈していた。
 第八艦隊司令長官三川軍一中将は8月7日午後2時半になって漸く重巡「鳥海」に座乗して出撃した。第八艦隊は8日、ブーゲンビル島南端からソロモン海スロット水道を通りガダルカナルへと向った。此の日の夜戦で三川艦隊は米国海軍の重巡4隻撃沈、1隻大破、駆逐艦2隻を中破する大戦果を上げたが、此の時点で三川中将は「全軍引け」の命令を下し戦場から離脱したのである。
 ルンガ沖には米国の大輸送船団が居たにも関わらず三川中将は此れには一指も触れずラバウルへと直行帰還したのである。もし三川第八艦隊が多少の犠牲者は覚悟の上で此の輸送船団に大被害を与えて置けば、米国軍のガダルカナルに於ける橋頭堡造りはどうなったか分からず、其の戦局は大きく変わった可能性は高いのである。
 三川軍一中将は山本長官の大好きな怯将の一人であったと言うべきだろう。
 ともあれ、8月8日の第一次ソロモン海戦で見かけ上の圧倒的勝利を得た連合艦隊司令部は事態を楽観視し始めた。其処でガダルカナル島の米軍を追い払う為の準備が遥か北方の南太平洋上にあるトラック島で進められた。
 ガダルカナル島への上陸部隊として歩兵第28歩兵隊長一木清直大佐の指揮する一木支隊約2千4百名と横須賀第5特別陸戦隊司令安田義達大佐指揮下の約600名である。此の内一木支隊から4個中隊916名が先遣隊(第一梯団)として駆逐艦6隻に分乗、8月16日に急遽トラックを出港してガダルカナル島に向った。又同じ日、残りの一木支隊と横五特も第二梯団を編成して輸送船3隻で続航した。
 先遣隊の一木支隊は18日午後9時あガダルカナル島飛行場から東方に約40キロ離れたタイボ岬に強行上陸した。計画では続編の兵器の輸送を待って攻撃する予定であり、其の船団は21日にラバウルを出港する事になっていた。だが、昭和12年に起きた盧溝橋事件時の大隊長であり、ミッドウェーでは結局出番が無く不満であった猪突猛進型の一木清直大佐は敵兵力を僅か2千名と見謝り、尚且つ米軍の位置や兵力を調査する事も味方の増援部隊到着を待つ事もなく勝手に攻撃を決意した(全く違う。当時、中央から余り準備無しで攻撃を推薦し、話によれば海軍がせかんだの話です。『大東亜戦争「敗因」の検証ー「帝国海軍善玉論」の虚像』佐藤晃著 芙蓉書房出版から。其れで、神の守護があると信じての行動だけど、当時、日本軍は神を否定し、山本五十六と云う悪魔に従っての戦争だから、神力は出ない。彼の時には、石原莞爾が、神の言葉を預かっていた。然し日本人は神を否定した。今現在は、千乃裕子先生が神の言葉を預かっている。千乃先生の所で戦争を準備すれば、神の神力は出る。其れ以外は全て偽物である。宇宙連合軍隊最高司令官は、千乃先生の所しかいない。他の所で神力を出せば、消滅宣告が行われるから。仏陀様が付託した「佛所護念会」の活動も、皇族の正統性を受け継いだ沖縄王族の子孫であり南無東方善徳佛である千乃裕子先生を無視しては何も出来なくなる!忍)。
 8月21日、午前3時10分一木支隊の1個中隊200名が緑色の照明弾を合図に銃剣突撃を開始。ポラック中佐の第2大隊正面に踊り出た。待ち伏せていた米海兵隊は満を持して小銃、機銃、37ミリ対戦車砲等近代的兵器・火器を駆使して十字砲火を浴びせた。川口からは海岸沿いに別の一中隊が恐ろしい叫び声を上げて突進して来たが、此れも海兵の射ち捲くる弾丸の餌食となった。次々と押し寄せる日本兵に対して米軍は後方の75ミリ曲射砲から猛烈な砲火を加え、戦車6両で日本軍を圧倒した。一夜明けると、イル川東岸は日本軍の死体で埋まっていた。一木支隊は全滅したのである。
 此のガダルカナル島に於ける一木支隊と米海兵隊の激突こそ太平洋戦争開始以来初めての陸上戦であり、其れ迄中国兵や露西亜兵とのみ陸上戦を戦って来た日本軍にとって最初の米軍との地上戦であった。真珠湾攻撃以来日米は海戦或いは空戦を戦い抜いて来ており、其れ迄一度も本格的な地上戦を行った事が無かった。
 開戦当初の日本軍は圧倒的な強さは米軍にとって脅威であり、日本軍に対して一種の恐怖を抱かせる者だった。海戦や空戦では互いに敵の顔は見えない。軍艦や航空機と云ういわば機械同士の戦いであり、何れ程敵に損害を与えても其処から人間の生身の姿は見えて来ないのである。米軍は見えない敵と戦いながら日本軍の恐怖心を募らせて来たが、ミッドウェーでの大勝利に続き、ガダルカナルの陸上戦での圧倒的な勝利は米軍の士気を大いに高ら占めた。
 イル川の川口や海岸に転がる日本軍の死体の山は米軍にとっては誠に信じられない光景であった。彼れ程勇猛さで知られた日本兵が斯くも簡単に全滅するとは全く不思議な出来事である。
 日本兵の装備は38式歩兵銃に銃剣を装着した物だけであり、而も一発の弾も撃たずに大声を上げて突撃して来るのである(当時、中央から余り準備無しで攻撃を推薦し、話によれば海軍がせかんだの話です。『大東亜戦争「敗因」の検証ー「帝国海軍善玉論」の虚像』佐藤晃著 芙蓉書房出版から!忍)。此れでは米海兵隊の圧倒的な兵器、鉄量の前では為す術(すべ)を知らない。米軍は此の時初めて日本軍の真の実力を知ったのである。
 一方、日本軍はと言えば明治40年(1907)年4月に制定された「帝国国防方針」で米国を仮想敵国としていながら米国軍に対する研究は殆どなされていなかった(此れは帝国陸軍では無く、帝国海軍の仕事であり、其の帝国海軍がフリーメーソンに支配されていて、アメリカの犬になったから何も出来ないのは当然である!忍)。大本営でも中国やソ連に対する研究や諜報活動は活発であったが、米英に対する情報収集や戦術戦法研究は殆どないがしろにされて来たのである(当時、帝国陸軍は、ソ連に対して仮装敵国にしたから、アメリカは当然研究しなかったと考える。指揮系統は、海軍と陸軍は別々であり、天皇陛下で統一されていた。しかし、昭和天皇陛下は、英米国に対して事の他親愛の情があったので研究を出来なかったのが真相だと感じる。要するに昭和天皇陛下は、考明天皇陛下の遺志を受け継がなかったのが、真の指揮が乱れた理由である。阿片戦争の脅威を全く忘れたのである。そして当時、フリーメーソンの問題も全く考えていなかったと感じられる節がある!忍)。
 米軍に対しては余りにも無知であり、傲岸とも言える侮りがあった。日本軍指揮官の多くは米国兵も支那兵同様、日本軍の銃剣突撃には恐れをなして退却すると考えていたのである(全く違う。補給が無かったから、後続の弾の為に余り使わなかったから。今もそうだけど、日本の場合は、どうしても玉砕戦になりそう。何故ならば、軍隊に対して国民は余りにも軽視しているから!忍)。
 だが、兵器の発達は戦場での様相を一変させていた。ノモンハン事件でソ連軍と衝突した関東軍はソ連の圧倒的な機械化兵団に粉砕されているし、上海事変でも近代装備を身に着けた中国兵は旧来の日本軍が容易に倒せる相手では無かったのだ。にも関わらず日本軍は其の教訓を一切生かす事が出来なかった。其の事が露呈したのがガダルカナルの陸上戦である(此れも全く違う。帝国陸軍は、予算範囲内しか研究が許されなかったから。此れも今現在の日本の場合も同じである。研究したくても其れを許す事が出来なかったから。此れは大正時代の軍隊軽視が結果として現れている。雑誌『ゼンボウ』には、真面目に陸軍が兵器研究した内容が載っている!忍)。

●海軍が全面協力していれば救えた

 さて、一木支隊が全滅した事で大本営陸海軍部では直ちノガダルカナル島の奪回計画を立てた。取り敢えずは進撃中の第二梯団をガダルカナル島に送り込む事が急務であり、此の増援軍の輸送作戦を巡って第二次ソロモン海戦が起こる事になる。
 ミッドウェー海戦で空母4隻を失ったとは言え、ソロモン海戦時日本の連合艦隊の勢力は未だ米国海軍を上回っていた。山本長官の指揮下には最新空母「翔鶴」「瑞鶴」を始め6隻の空母が未だ健在であり、「大和」以下12隻の戦艦も無傷であった。此れに対し米海軍の空母は「ホーネット」「エンタープライズ」の他に修理完成した「サラトガ」、其れに大西洋から回航して来た「ワスプ」の4隻であるが、戦艦は未だ真珠湾で修理中であり、彼我の戦力差は瀝然(歴然)としていた。
 ところがトラック島で直接指揮を取る山本長官は「大和」「武蔵」等の戦艦をトラックに停泊させた儘出撃させず三度目の高見の見物を始めたのである。山本長官は8月11日瀬戸内海より近藤信竹中将率いる第二艦隊(戦艦1、重巡5、水上機母艦2、軽巡1、駆逐艦10)を出撃させ、続いて8月16日又しても、南雲忠一中将の指揮する新編成の第三艦隊(空母2、軽空母1、戦艦2、重巡4、軽巡1、駆逐艦11)機動部隊を桂島泊地から出撃させた。一方フレッチャー中将は此れを阻止する為空母3隻(「エンタープライズ」「サラトガ」「ワスプ」)を基幹とする機動部隊を率いて、ガダルカナル島の南東海上に出勤したのである。
 連合艦隊司令部はガダルカナル島への後続部隊上陸を成功させる為第三艦隊を増設部隊の援護に向かわせた。空母「翔鶴」を旗艦ニする南雲機動部隊は米機動部隊との決戦に備える一方、軽空母「龍驤」の他艦攻6、艦爆23、零戦30、水偵3に対し、米側は損失機20だけであった。
 南下を続けた日本の増援部隊は25日の朝、ガダルカナル島の米航空隊に空襲され、輸送船「金龍丸」と駆逐艦「睦月」が沈没、此れに依って船団輸送は中止され、第一次ガダルカナル島奪回は挫折した。斯うして第二次ソロモン海戦は、米国側の戦略的勝利となったのである。
 ところが日本軍の潜水艦部隊が思わぬ大活躍をする。8月31日には「伊26」が米空母「サラトガ」を雷撃で大破、続く9月15日にも「伊19」が、新型酸素魚雷を発射して空母「ワスプ」を撃沈したのである。
 此の時点で日本には未だ空母「翔鶴」「瑞鶴」「飛鷹」「隼鷹」4隻が揃っていたのに対し、米側は僅か「ホーネット」1隻だけであった。
 9月13日、ガダルカナル島に上陸していた川口支隊3996人が全滅。10月に入ると輸送船団「東京急行」を阻止する為ノーマン・スコット少将の指揮する米巡洋艦隊と5藤存知少将率いる第6戦隊が衝突、サヴォ沖海戦(10月11〜12日)が起こった。此の海戦では往来夜戦を得意として来た日本海軍が、初めてレーザーを搭載した米艦隊に敗北する。
 此の海戦で日本軍は重巡「古鷹」及び駆逐艦「吹雪」が沈没、重巡「青葉」大破、「衣笠」小破と云う損害を受け、一方米軍は駆逐艦「ダンカン」沈没、軽巡「ボイス」及び駆逐艦「ファーレンホルト」大破、重巡「ソルトレイクシティ」小破と云う結果であった。

●此処でも大型戦艦は投入せず高見の見物

 斯うしてじりじりと日本軍の劣勢と為って行く中、ガダルカナル島の奪回の必要性は益々高まり、連合艦隊司令部は10月1日、戦艦「金剛」「榛名」及び軽巡1隻と駆逐艦9隻から成る第三戦隊挺身攻撃隊を編成、トラック泊地を出撃した。13日午後10時30分第三戦隊はガダルカナル島のエスペランス岬に到達、艦砲射撃準備態勢に入った。11時37分轟然たる音を発して「金剛」の初弾が発せられた。2隻の戦艦は交互に全力を出してヘンダーソン飛行場に向かって砲弾を撃ち込んだ。
 此の日、日本陸軍は夕刻より既に15cm榴弾を撃ち込んでいたが、今度は戦艦2隻に依る36cmの巨弾である。飛行場は一時火の海と化し、39機あったドーントレス爆撃機の内35機が破壊された。「金剛」「榛名」の2艦が撃ち込んで36cm砲弾は918発に達し、ガダルカナルの飛行場は一時的にせよ其の機能を失ったのである。
 だが、此の攻撃は結局不徹底であった。先ず山本長官はトラック島に停泊している「大和」「武あ」等大型戦艦を投入する事無く、又々高見の見物をしていたのである。「大和」級の46cm砲弾が撃ち込まれていれば、飛行場のみならず残りのドーントレス爆撃機4機、更には米国海兵隊の守備隊2万3千人も壊滅していた事であろう。
 そうすれば基地司令官バンデクリフト少将も完全に基地防衛を諦め、飛行場は再び日本軍の手に帰していたに違いないのだ。山本長官の意図は丸見えである。
 更に悪い事は「金剛」の見張り員が午前0時30分、後方より迫る電光を発見、此れを回避する為転舵してしまった。しかし、此れは米軍の魚雷等では無く、ツラギの米軍基地から発せられたサーチライトを誤認したものであった。ところが、此の光に紛れて米軍の魚雷艇4隻が第三戦隊に接近、此の内の1隻が「長波」に魚雷を発射した。
 「長波」は直ちに反撃したが、此の事態に恐れをなした第三戦隊司令官栗田健男中将は「撃ち方止め」の命令を発し、予定を繰り上げて午前0時56分、戦場の離脱を計った。此の不徹底攻撃に因り、残された4機の爆撃機が其の内ガダルカナル奪還の為に送り込んだ日本軍の高速輸送船団に大被害を与え、輸送船5隻を大破するのみならず、食糧・武器弾薬類の多くを喪失させたのである。
 1ヶ月後日本軍は再び同様の作戦を立てて攻撃を行ったが、今度は態勢を立て直した米軍の反撃により日本は戦艦「比叡」「霧島」を失う事になった。一方、米軍は此の夜日本軍が行った「艦砲射撃」の凄じい破壊力を知り、其の後サイパンや硫黄島等で見られる限り、戦艦の巨砲を日本軍の陸上基地攻撃に有効使用する事になるのである。当に此の新戦法を米軍に教えたのは山本長官であった。
 10月26日、ヘンダーソン飛行場を破壊する為日本の第三艦隊(南雲忠一中将)及び第二艦隊(近藤信竹中将)が再びガダルカナルに出撃、トーマス・C・キンケード少将率いる米機動部隊と衝突する。此の南太平洋海戦と呼ばれる海戦で日本の海軍航空隊は致命的とも云える損害を受けてしまったのである。
 此の海戦で南雲・草鹿コンビは米軍哨戒機の接近を受ける度に「北方反転」を繰り返す。此の消極的攻撃により圧倒的な戦力を誇る日本海軍の戦果は比較的小さなものに留まり、米海軍を破滅させる機会(チャンス)を又しても逃してしまったのである。
 米軍側の損害は空母「ホーネット」及び駆逐艦「ポーター」が撃沈、空母「エンタープライズ」、戦艦「サウスダコタ」、軽巡「サンジュアン」の3隻が中破であった。
 此れに対して日本軍の損害は空母「翔鶴」と重巡「筑波」が大破、軽空母「瑞鶴」が中破であり、此の海戦に依り米軍は作戦可能な空母は1隻も無くなった。此の意味では日本海軍の勝利とも言えるが、米軍の戦闘機と対空砲火に因る損害は甚大で日本軍は約100機の攻撃機と村田少佐を始め多くの熟練航空士(ベテランパイロット)を一度に失った。此の損害により日本の機動部隊は以後の戦局で、有力な航空作戦を行う事が不可能になった。
 11月の中旬、日本軍は二度に亙り戦艦部隊をガダルカナル泊地に突入させたが、日本軍は米艦隊の強力な反撃に遭い敗退する。第三次ソロモン海戦と呼ばれる此の海戦では第一次夜戦(11月12日〜13日)で阿部弘毅中将指揮下の挺身攻撃隊は戦艦「比叡」を撃沈され、第二次夜戦(11月14日)でも戦艦「霧島」を失い、日本軍は作戦目的であった飛行場の攻撃に失敗、以後其の機会は二度と訪れる事は無かった。
 第三次ソロモン海戦で米軍は決定的勝利を納めた。日本軍は戦艦2隻を失ったのみならず、ソロモン海域の制海あを完全に失ったのである。此の重要なガダルカナル、ソロモンの戦局に於て山本長官は戦艦5隻(「大和」、「長門」、「陸奥」、「金剛」、「榛名」)を連合艦隊司令部のあるトラック島に釘付けにし、此等を投入する事無く戦力を小出しにしては米海軍に撃滅させると云う卑劣な手段を取った。11月30日にルンガ沖海戦で田中頼三少将の日本水雷戦隊が米第67任務部隊(カールトン・H・ライト少将)に対し圧倒的勝利を得るが、田中少将は勝ち過ぎた為に其の後日本海軍からは不当な評価を受け、干されるのである。
 昭和18年1月29日、レンネル沖で日本の陸攻部隊が米艦隊を攻撃、其の隙に日本軍は駆逐艦による3回の撤収作戦を敢行、ガダルカナルより1万3千人の将兵を救出した。

●次々と無能な司令官ばかりを使う(本当に日本を守る為の自衛戦争を行ったのか!忍)

 昭和17年8月7日に拾ったガダルカナル戦と翌八日の第一次ソロモン海戦に端を発したソモロン諸島海域での日米の衝突は双方に甚大な被害と多大な消耗を強いたが、結果として日本の戦略的失敗に終わった。日本軍は昭和18年2月のガダルカナル島撤収作戦を以て同島の奪還を諦め、以後南太平洋での制海権及び制空権を一切失い米軍の攻勢に対して後退に後退を重ねるのである。
 ガダルカナル戦及びソロモン海戦で特徴的な事は日本軍に戦略と云う物が全く存在しなかった事だ。山本長官はソロモン海戦に於ても南雲忠一中将、草鹿龍之助参謀長、原忠一少将、三川軍一中将更に後のレイテ沖海戦で「謎の反転」を演じた栗田健男中将等の無能な司令官を投入し日本艦隊の消耗を加速させた。其の分米国側の被害は最小限で済んだのである。
 山本長官はソロモン海戦でも「大和」「武蔵」等の大型戦艦を攻撃隊に加える事無く戦力の小出し投入を行った。此の為戦艦「大和」は遂に「大和ホテル」と呼ばれる有り様であった。
 ガダルカナルのヘンダーソン空軍基地からは山本長官の指揮下にあった全ての空母や戦艦等58隻から成る大艦隊と艦載機177機を駆使して全力投球しておれば充分奪還は可能であったのみならず、ソロモン海域全体で大きな勝利を手にする事が出来た筈であった。
 戦後『大日本帝国海軍』の著者ポール・ダルは其の中で「山本長官は此の会戦をどう考えていたのか理解し難い」と指摘しているが、山本長官の行動は良心的な米国人にすら全く理解の出来ないものであった。
 ハルゼー提督は各所に配置した航空偵察隊や通信解析、低レベル暗号解読、其れに沿岸監視員の偉大なる貢績を称え、「沿岸監視員がガダルカナル島を救った。其れにガダルカナルが太平洋を救った」と賞賛しているが、米軍の勝利に最も貢献したのが他ならぬフリーメーソン山本長官であった事は知らなかった様である。
 ガダルカナル及びソロモン海戦で日本軍は約2万3千8百人に及ぶ地上部隊員の戦傷病死を出し、艦艇の喪失も空母1隻、戦艦2隻、巡洋艦5隻、駆逐艦等25隻其れに航空機の喪失は1053機にも及んだ。
 一方、米軍は地上部隊員の戦傷病死5485人、空母2隻、巡洋艦9隻、駆逐艦等15隻であり、航空機の喪失は不明である。
 昭和17年12月31日、昭和天皇はガダルカナル島からの撤退を裁下し、翌18年2月1日より7日に掛けて3回の撤収作戦を開始、同島に取り残され飢餓と熱帯病の為生死の境を彷徨いつつあった日本軍将兵一万余人を救出したのであった。
 日本軍の撤退によりガダルカナル島を掌中にした米軍は、此の不沈空母を土台(ベース)に次はソロモン方面へと照準を合わせて来た。日本軍は米軍の侵攻を阻止する為ソロモン、ニューギニア方面の戦力を強化するべくラバウルから東部ニューギニアのラエへ増援部隊を送る事にしたが、此の輸送船団が米軍機の襲撃を受けて潰滅的打撃を受ける事になった。此れが「ダンピールの悲劇」と呼ばれる惨事である。
 此のラエ輸送船団の潰滅で日本軍は駆逐艦4隻、輸送船団8隻、第51師団の将兵約3千名、火砲41門、車輛41輛、輜重89輛、大発38隻其の他貴重な物資を失った。此の戦闘は米軍側で「ビスマルク海戦」と呼ばれている。
 トラック島に停泊していた連合艦隊「武蔵」に本拠を置く連合艦隊司令部は此の事態を重大視し、南東方面にある航空兵力を結集して米軍の兵力を撃滅すべく「い」号作戦を計画した。先のソロモン海戦で数多くの航空機と優秀な航空飛行士(パイロット)を失った日本軍の手元に残されたのは、ラバウルを基地とする第21航空戦隊、其れにブイン及びブカを基地とする第26航空戦隊の稼働機160機のみであった。
 此れに第三艦隊の空母「瑞鶴」「瑞鳳」「隼鷹」「飛鷹」から空母艦載機を陸上に上げ、海軍航空隊の総力を挙げて航空撃滅作戦を行うと云う物である。作戦の総指揮は山本長官が取る事になった。
 斯うして4空母からは零戦103機、艦爆54機、艦攻27機の合計184機がラバウルに進出、基地航空機からは零戦108機、艦爆16機、陸攻72機、陸偵9機の合わせて205機が加わった。海軍航空部隊の総力とは言っても389機が決戦兵力の全てであった。
 山本長官は「い」号作戦を直接指揮する為、参謀長官宇垣纒中将以下連合艦隊の幕僚達と共に4月3日、トラック泊地から飛行場でラバウルに進出した。ラバウルの南東方面艦隊庁舎は臨時連合艦隊司令部となり、将旗が掲げられた。
 「い」号作戦は次の通りである。
◆ソロモン方面にX攻撃(4月5日〜10日)・・・ガ島方面に母艦機と
  基地航空隊機の合同による攻撃。
◆東部ニューギニア方面にY攻撃(4月11日〜20日)・・ポートモレ
  スビー方面に母艦機と基地航空隊機の合同に依る攻撃。
◆同Y1攻撃・・・ラビ方面、基地航空隊機が担当
◆同Y2攻撃・・・ブナ方面、母艦機が担当
 こうしてガダルカナル、ポートモレスビー方面への5次に亙るX,Y攻撃を加える事になるのであるが結果は日本軍の航空機兵力の損耗を早めるだけであった。
 山本長官は「い」号作戦は大成功であったとし、4月16日作戦終結を下命、北ソロモン諸島のバラレ、ショートランド、ブイン等に居る将兵の労を労い志気を鼓舞する為と称し、前線基地視察を計画した[実際は、攻撃隊はラバウルを離陸して1時間後、コーストワオッチャーに掴まる。そして其の監視に身を晒して2時間飛行して、万全の迎撃態勢で待ち構える敵の中に飛び込む。当然戦果は上がらず我方の受けた打撃は大きい。しかし報じられた戦果は大きい。山本長官は其の幻の大戦果に浮かれた(実際は知っていながら嘘を付いていると考えられる!忍)。一例を上げよう。「い」号作戦の中のガダルカナル攻撃をX作戦と云う。其のX作戦の大戦果の内、撃沈の輸送船を見るなら25隻とある。現実に撃沈されたのは給油艦1隻である。大破を入れても、輸送船1・給油艦1に過ぎない。飛行機を見よう。撃墜134(含不確実・39)、地上撃破20が其の戦果なるものである。現実に撃墜された米軍機は7機となっている。ポートモレスビー、オロ湾、ミルン湾、ラビ飛行場等に対する攻撃も、何れも実態とは雲と泥程異なった戦果が報じられた。海軍の戦果誤認症はラバウルの第11航空艦隊のみでなく、機動部隊も同様である。一体どうなっているのであろう。ニミッツがガダルカナル戦に当たって張った網は、依然としては良く機能している。日本機の群は懲りもせず次々に網の中に飛び込んで来る。カクタス基地の米軍は、只待っておるだけで良い。「い」号作戦の大勝利?で、海軍のみで無く日本国中が「勝った、勝った」と舞い上がった。陛下から御褒めの御言葉があった。・・・「い」号作戦の結果、ラバウルの基地航空隊は大消耗し、搭載機を激減した機動部隊は戦力回復の為内地に帰ってしまった。しかし連合艦隊は大勝利と思い込んで、敵は当分の間は立ち直れない等と楽観している。「い」号作戦に大勝利?した連合艦隊は山本長官死後(実は生き残っていた!忍)ソロモンに積極作戦を採り続ける。「ニューギニアに作戦の主力を注ぎ『其の要域の確保』を骨子とした消極作戦」は、此処に影を潜めてしまった。そしてソロモンの積極作戦が、海軍航空が自滅するまで続くのである。戦後社会では嘘の代名詞に「大本営発表」なる話がある。確かに当時の大本営発表はとてつもない大嘘である。しかし、大嘘吐きは「大本営海軍部」なのである。戦後社会では、陸軍も海軍も共に大嘘吐きと云う事になっているが、此れは報道関係の大嘘に国民が騙された結果である。戦前から国民を戦争に駆り立てた元凶は、紛れも無く報道関係である(此れは朝日新聞の記者であった尾崎秀美の証言で事実である!忍)。其の報道関係が戦争犯罪の糾弾から逃れる為に、最大限に利用した隠れ蓑が、東京裁判史観による「唯一日本悪玉論」と其れを連動する「唯一陸軍悪玉論」である。戦後言論界の陸軍糾弾は、己の身を守るいわば背水の陣なのである。陸軍への悪行転嫁こそ報道関係の唯一の生存手段であった。報道関係が海軍の非を唱える時の言葉は必ず「軍部」とか「大本営」なるものにする。故に国民は陸軍も同罪と思い込む。報道関係の談合の前には、国民とは真に他愛ない者である。同様に暗号が傍受解読された件に就いての表現は、絶対に「海軍の暗号は・・・」とならずに「日本軍の暗号は・・・」となるのである。陸軍暗号が絶対に解読されなかった実態を知る国民も稀であろう。其の他諸々概ねそんな調子なのである。報道関係の此の表現方法も又、大東亜戦争惨敗の構図を限り無く訳の分からぬ物にした大きな要因である。国民は、戦時中は大本営海軍部に騙され、戦後は報道関係に騙されて来たのである。報道関係と海軍、此の両者は或る意味では同じ穴の貉(むじな)である。『大東亜戦争「敗因」の検証ー「帝国海軍善玉論」の虚像』佐藤晃著 芙蓉書房出版から!忍]。

6 山本五十六は戦死していなかった

●疑問だらけの死体検案書

 こうして昭和18年4月18日、ブーゲンビル島ブインの航空基地視察の為と称して山本長官は午前6時ラバウル東飛行場を一式陸攻で離陸した。宇垣参謀長等を乗せた2番機も粗同時に離陸したが、此れを護衛するのは第204航空隊の零戦僅か6機だけであった。
 此の日山本長官は何故か正式な連合艦隊司令長官の軍服では無く、生まれて初めて着る草色の略装である第三種軍装を身に纏い、護衛機の数を増やす事にも強く反対したと云う。
 山本長官の前線基地視察日程(スケジュール)の情報は事前に暗号電報で前線基地に予報された。連合艦隊司令長官の詳細な行動予定が、視察の5日も前に前線基地に伝えられるのは異例の事だった。
 ショートランド第11航空戦隊の城島少将は不用心な暗号に憤慨したと云われるが、御丁寧にも此の暗号電報を受け取った現地指揮官一人は、態々儀礼的に低水準(レベル)暗号の無電で関係先に知らせたとも云う。
 米軍は此の暗号を解読して山本長官搭載機撃墜計画を練ったとされるが、寧ろ真相は山本長官自身及至は其の側近が事前に何等かの方法で米軍に詳細な行動予定を知らせていたと云うのが本当だろう。山本長官は全ての役目を終了し、ルーズヴェルト大統領との約束に基づいて姿を消す事にしたのである。
 山本長官を乗せた一式陸攻は高度2千5百mでゆっくりと飛行、6機の護衛戦闘機は其の500m上空を飛行していたが、ブーゲンビル島南端のブイン基地上空に差し掛かった所、ガダルカナル島ヘンダーソン基地を飛び立ったミッチェル少佐の指揮するPー38米攻撃機16機が午前7時33分、正確に山本長官機と出合チた。ミッチェル隊はP38の航続距離からして僅か10分間と云う許容時間で攻撃を開始、山本長官を撃墜したのであった。
 右エンジンに弾丸を受けた長官機は火災を発し、黒煙を吐きながらジャングルの中に落下していった。2番機はモイラ岬沖の海上に不時着、宇垣参謀長等3名は助かったが、長官機は翌19日午後2時あ陸軍の捜索隊に依って発見された。
 山本長官の遺体は機外に投げ出された座席に腰掛け、軍刀を握り締めた儘であったとされているが、其の死には深い謎が付き纒う。
 大本営海軍発表の「死体検案書」(死亡診断書)と「死体検案記録」(死亡明細書)に依れば死亡日時は「昭和18年4月18日午前7時40分」である。傷病名は「顔面貫通機銃創及び背部盲貫機銃創」であり、末尾には「右証明ス昭和18年4月20日海軍軍医少佐田淵義三郎」として著名捺印がある。
 ところが墜落現場を最初に発見した砂浜陸軍少尉は次の様に証言している。

 「長官は宛も遂先(さっき)迄生きていたかの様な風貌で、機外に抛出
 された座席上に端然として死亡していた・・・其の顔面には創は無かっ
 たし、出血の痕も無かった。其の発見は墜落後実に30時間前後も経っ
 たあである」

 同様の証言は陸軍軍医蜷川親博中尉は長官機遭難現場近くの歩兵第23連隊の次級軍医として勤務していた。此の為、中尉は救難捜索行動に参加し、長官死体の検視も行っている。
 にも係わらず山本長官の秘あっ子と言われた渡辺中佐参謀は事故の後19日、ラバウルより現地に急行、20日夕刻掃海艇上に運び込まれた長官の遺骸を検視して大本営(海軍)と全く同一内容の証言している。渡辺参謀の証言内容とは「20日夕の時点で顔面貫通機銃創と背部盲貫機銃創は共にあった。4月18日、0740機上での戦死は間違いない」と云う物である。
 前出の田淵軍医は「私が検死した時点では顔面に創はあった」「蛆の侵蝕とは考えられぬ」とし、更に重要な証言「死後の作為が加えられたかどうか判らない」と言いながらも其の可能性を強く示唆している。

●戦死が狂言であった此れだけの証拠

 山本長官の「死」は明らかに狂言であろう。其の隠された真相は次の如くであると推測される。

1、山本長官は太平洋戦争前半に於ける帝国海軍崩壊の為の全ての役割を完了した。
2、其の為急遽姿を隠す必要が生じ、側近の宇垣纒中将(連合艦隊参謀長)や渡辺中佐(参謀)と共謀し、予め暗号を米国側に漏洩した上で長官機撃墜の一大ペテン劇を演出した。
3、当日、山本長官は態々草色の第三種軍装を身に纏いジャングルを逃亡の際目立たぬ様略装にした。
4、米軍機攻撃の際、一早くパラシュートで脱出、地上より兼ねて打合わせの場所からガダルカナル島米軍基地へと逃亡した。
5、捜索班が事故機を発見した時、長官の身替わりとされた男(恐らくは風貌の似た人物)を座席に縛り付け毒殺した。
6、従って発見時には顔面の創も背部盲貫機銃創も存在しなかった。
7、其の後、山本長官を「機上死」であると捏造する為、遺体に拳銃か鋭利な刃物で人工的な死後損傷を加えた。
7、山本五十六が生存した証人
 1994年6月、私はソロモン諸島ガダルカナルで、深夜土砂降りの雨をついて一人の地元民と出会った。男は山本機が撃墜されたブーゲンビル島ブインの密林の地主の後継者で41歳。ブイン周辺は独立戦争(パプア・ニューギニア政府と、ブーゲンヒル島の分離独立を求めるブーゲンヒル革命軍の戦い)の真っ只中にあった(1994年9月3日に和平交渉が成立した)。男の兄弟三人は最近、革命軍兵士に射殺され、彼は小舟を漕いで対岸のソロモン領ショートランド島に逃げ延びてガダルカナルにいるブイン出身の友人宅に身を隠していた。
「祖父と父から固く口止めされていた。撃墜機の山本は生きていた。祖父が彼を助け出した」  男は私にそう語った。内戦の実相はブーゲンヒル島の地下資源からあがる利益配分を争うもので、その背後には旧植民地支配国の英国、ドイツ、オランダなどの世界資本家群が控えているという。

 事実、田淵軍医が検死をしていた最中長官のワイシャツを脱がせようとしたが、渡辺連合艦隊参謀から突然大声一喝され、「脱がすな、此れ以上触れてはならぬ!」と怒鳴られ制止されているのである。人工的な死後損傷であったとする証言も数多く存在するが、此れ等の全ては黙殺され、渡辺中佐の命令下、虚偽の「死体検案書」と「死体検案記録」は作成され、「機上壮烈なる戦死」と云う大本営(海軍!忍)発表となるのである。

●「運良く」助かった宇垣纒中将とは何者か

 此処で「運良く」助かった宇垣纒中将とは何者かを知らなければならない。
 宇垣は明治23年2月、岡山県赤磐郡潟瀬村と云う地に生まれた。岡山一中を経て明治45年7月、海軍兵学校40期を卒業、大正7年、海軍大尉。11年12月〜13年11月、海軍大学校甲種学生、13年12月、少佐、14年12月、軍令部一班二課、昭和4年1月、独国駐在、6年12月第二艦隊参謀。7年11月、海軍大学校教官兼陸軍大学校教官。10年10月、連合艦隊参謀兼第一艦隊参謀。11年12月海防艦八雲艦長。12年12月、戦艦日向艦長。13年11月、少将。13年12月、軍令部第一部長、16年8月連合艦隊参謀。
 以上がインド洋作戦辺り迄の略歴である。宇垣の態度がデッカク、傲岸不遜、唯我独尊であった事はつとに有名であり、独国駐在の折りにはヒットラーのナチス・独国共直接接する機会を得、日独伊3国同盟時は軍令部第一部長と云う要職にあった。
 3国同盟締結の折は賛成派に回った為山本長官に疎んじられている共言われたが、どう云う訳か昭和16年8月、連合艦隊参謀長に任命され、山本五十六大将を直接補佐する事になる。以後、連合艦隊の旗艦「大和」上の司令部内で山本長官の影武者に徹して常に其の意向を尊重し、補佐して来た。
 彼れ程傲岸不遜な宇垣が何故山本長官に寄り添い続けたのか。其の訳は宇垣がユダヤ・フリーメーソンに入信した事であろう。
 山本・宇垣の組合せ(コンビ)は真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル、ソロモンと呼吸を合わせ、日本海軍の崩壊に尽力した。
 ブーゲンビル上空で山本長官逃亡の手筈を整えたのも宇垣である。宇垣もしっかりと生き延びており、昭和17年11月には中将に進級、昭和20年8月15日の終戦詔勅渙発を知るや沖縄の沖合に蝟集する米艦隊目がけて突入すると称して部下の操縦する飛行機に搭乗、其の儘行方を絶った。日本の敗戦を見届けて姿を消したと云うべきか。
 戦後山本長官の姿を何処やら見かけたと証言する人も居り、太平洋戦争を敗北に導いた功労者の多くは「世界支配層」ユダヤ・フリーメーソン陣営に依って手厚く保護されたのである。

●ルーズヴェルトの命令を忠実に守ったから

 此処で山本長官の果たした役割に就いてもう一度纒めて見よう。
 真珠湾攻撃の計画は元々「世界支配層」及び米国其れに山本長官の深慮遠謀から生まれた計画である。
 日本人フリーメーソン山本五十六は連合艦隊司令長官にあるずっと以前、恐らくは海軍次官のあから米国側と連絡を取り、若し日米が開戦になった時は先ず真珠湾を奇襲し、米国の対独戦を合理化させると同時に日本への米国国民の参戦気分を一気に高揚させると云う計画を練り上げたに違いない。
 米国側で此の計画を推進したのは勿論フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領であった。そして此の計画にはヘンリー・スチムソン陸軍長官、フランク・ノックス海軍長官、ジョージ・マーシャル陸軍参謀長、ハロルド・スターク海軍作戦部長、そしてコーデル・ハル国務長官が加わっていた。
 日本側で此の計画を知っていたのは山本五十六以外にはほんの一握りの人間であろう。其れは元首相や海軍大臣、そして外務省の高官達等最高度の機密を保てる者に限られていた。
 山本長官は此の計画を実現させる為に色々な手を打った。開戦の年昭和16(1941)年夏の時点では真珠湾攻撃で使用する予定の軽魚雷は未だ開発中であったし、9月初旬に於ても攻撃用の直接部隊は不足していた。山本長官は画策の末、こうした戦術面での問題を11月の末には全て解決した。
 ところが肝心の永野修身軍令部総長等海軍首脳部はこぞって反対であった。海軍上層部には尚未だ日米開戦への躊躇と真珠湾攻撃が実際に何れだけ効果を上げられるか疑問を持っていたのである日本が米国を仮装敵国としたのは明治40(1907)年4月に「帝国国防方針」が制定されてからであるが、日本の陸海軍が立案した正式な計画の中にはハワイ攻略は含まれていない。攻略の対象はせいぜいグアム島止まりだったのである。
 昭和15(1940)年ルーズヴェルト大統領は米海軍首脳の反対を押し切って、其れ迄西海岸カリフォルニア州のサンディアゴ軍港にあった太平洋艦隊を年次演習の目的でハワイの真珠湾に進出させた。第二次大戦が勃発し、山本五十六が連合艦隊司令長官として対米戦を計画している最中であった。ルーズヴェルトは山本長官と共謀して、日本側に格好の攻撃目標を提供したのである。

●日本を敗戦に導く山本の謀略とは

 山本五十六連合艦隊司令長官が3年8ヶ月に及ぶ太平洋戦争の中で実際に艦隊を指揮したのは真珠湾攻撃の始まった昭和16年12月8日からブーゲンビ島上空で「戦死」する昭和18年4月18日迄の1年4ヶ月である。
 此の間に山本長官は偉大為る貢献を「世界支配層」ユダヤ・フリーメーソン陣営に行った。其の貢献とは何であったかである。山本長官は太平洋戦争が日本の敗北で終わる事を望んでいた。日本を敗北させる事がフリーメーソンである山本五十六の役目だったのである。
 其の為には日本が圧倒的優位を誇る連合艦隊を速やかに壊滅させる必要があった。そしてもう一つは米国の太平洋艦隊に対し常に手心を加え、其の戦力を温存させる事であった。此の為山本長官が取った手段は次の通りであった。

◆真珠湾攻撃を海軍軍令部の強い反対を押し切って強行。但し其の攻撃は不徹底なものとする。
 忠実為る配下の指揮官・・南雲忠一中将(第一航空艦隊司令長官)
             草鹿龍之助少将(第一航空艦隊参謀長)
             源田実中佐(第一航空艦隊参謀)
◆珊瑚海海戦で米海軍に手心を加え驕B米空母「ヨークタウン」撃沈せず
 忠実為る配下の指揮官・・井上成美中将(第4艦隊司令長官)
             原忠一少将(第4艦隊空母指揮官)
◆ミッドウェー海戦で連合艦隊大敗北を画策
 忠実為る配下の指揮官・・南雲忠一中将(機動部隊司令長官)
             草鹿龍之助少将(機動部隊参謀長)
◆ソロモン海戦でガダルカナル大敗北の原因を作る
 忠実為る配下の指揮官・・三川軍一中将(第八艦隊司令長官)
             南雲忠一中将(機動部隊司令長官)
             草鹿龍之助少将(機動部隊参謀長)
             原忠一少将(軽空母「龍驤」指揮官)
◆「い」号作戦で日本の南東方面航空兵力を潰滅させた。

 何れの海戦に於いても忠実為る配下の凡将、愚将、怯将である。南雲中将、草鹿少将、源田参謀、井上中将、原中将、三川中将等を長期に亙って使い続け、「攻撃の不徹底」及至は「手心」を加えさせている。
 更に大事な要点は海軍が使用していた暗号電報を米国側に筒抜けにさせている事であろう。山本長官は米国が日本海軍の暗号電報を既に解読し、連合艦隊のあらゆる作戦行動を見抜いていた事も予め承知の上で、作戦を強行した節がある。真珠湾攻撃の時もそうであるし、モレスピー攻略作戦(MO作戦)に於ける珊瑚礁海戦は不充分な戦果に終わった。ミッドウェー海戦(MI作戦)の時も、米国側に充分な情報と対応の為の準備期間を考えていたと考えられる[「情報収集と判断能力は相まちて、完璧に近付くものとする」と言う。情報収集能力の欠陥と判断能力の欠如は、競い合って海軍情報力に致命的悲劇を齎らした。大東亜戦争3年8ヶ月、海軍は敵の情報は取れず、我情報は取られっ放しで彼の戦争を戦った。戦後判明した所に依ると、戦争中の、米軍の日本暗号の解読状況は次の通りである。戦後判明した所に依ると、戦争中の、米軍の日本暗号の解読状況は次の通りである。
(外務省)誤字のないものは殆ど全部、全体の約95%が解読された。
(海軍)約70%が傍受され、其の70%が解読された。
(陸軍)戦争前半0%、19年・0.08%、19年末以降0.6%」(含終戦後暗号書をとらえて解読されたもの)が解読された(『昭和軍事秘話中』)!忍」
 長期間に及んだソロモン海戦の時も日本の艦隊や輸送船、飛行隊の動きは全て米国に依っては把握されていた。結局日本海軍は山本五十六の意図に依って其の初期戦力を激滅させていたのである。
 此の偉大為る「功績」により山本長官の役目は一通り終わった。そして姿を消す時期が遣って来たのである。ブーゲンビル島上空に於ける「戦死」がそれである。米国が暗号解読をしている事を承知の山本五十六は前線視察と称して連合艦隊司令部から一式陸攻に搭乗してブーゲンビル島のブイン飛行場に向かったのである。昭和18年4月18日の事である。
 山本五十六連合艦隊司令長官はこうして戦線から姿を消すのであるが、山本長官と共に1年4ヶ月の海戦を戦った将官達は、其の極度な無能ぶりにも関わらず戦後様々な戦記作家に依って何れも名将、名参謀として称えられている。
 戦後の日本が米国に占領され、民族心を盡く失う迄に洗脳された結果、「世界支配層」に迎合するフリーメーソン作家が此の様な日本民族に対する背信行為をするのも、いわば当然であろう。
 日本が開戦した時の米国との国力は1対10の比率であったと云われる。
 此の為に日本が戦争したのは無謀であったとか、軈ては負ける運命であった等と云う意見がある事も事実だ。だが、日本があらゆる海戦で勝利(するべき事をする!忍)を納めていれば(其れは可能であった)米国の戦意が喪失し、休戦、和平交渉の道も可能だったのである。

●「Z作戦計画書」を米軍に渡す作戦(日本帝国海軍乙事件!忍)

米軍はミッドウェー海戦の勝利以降、ガダルカナル、ソロモン、ラバウルを制圧し、アドミラルティからニューギニア北岸を西進、更にパラオからマーシャル諸島のブラウンに到達した。当時パラオにあった連合艦隊司令部は米軍の急迫を避ける為フィリピンのミンダナオ島ダバオへ移転する計画を立てた。
 昭和19年3月30日、米輸送船団がアドミラルティの北西を西航中であると云う重大なる情報が大本営より齎された。此の大本営通報が後になって誤報である事が判明したが、何故か確認もされない儘翌31日、連合艦隊司令長官に任命された古賀峰一大将は計画に基づいて31日、司令部の移転を開始した。3月31日当日、パラオとダバオ間約千Kmの洋上には大きな低気圧が発生していたが、移転は次の3機によって実行された。

◆一番機(851空、機長・・難波正忠大尉)乗員・・古賀峰一大将(連合艦隊司令長官)、上野あ太大佐(艦隊機関長)、柳澤あ之助大佐(首席参謀)、内藤雄中佐(航空参謀)、大槻俊一中佐(航海参謀)、山口肇中佐(航海参謀)、柿原少佐(軍医)。
◆2番機(802空、機長・・岡村松太郎中尉)乗員福留繁中将(参謀長)、大久保信大佐(艦隊軍医長)、宮本正光大佐(艦隊主計長)、山本祐二中佐(作戦参謀)、奥本善行大佐(機関参謀)、小池伊逸中佐(水雷参謀)、島村信政中佐(航空参謀・気象)、小牧一郎少佐(航空参謀)、其の他2名
◆3番機(851空、機長・・安藤敏包中尉)乗員・・司令部暗号士及び暗号員

 1番機は22時30分に出発、2番機はやや遅れてパラオを飛び発った。3番機は翌4月1日未明4時56分に出発した。ところが、先に出発した筈の1、2番機は到着予定時刻の4月1日午前3時を過ぎても消息は不明であり、3番機のみが午前7時40分無事にダバオに到着した。
 1番機には古賀連合艦隊司令長官が座乗しA2番機には艦隊司令部用信号書及び暗号書、其れに「Z作戦計画書」が積まれていた。
 「Z作戦計画」とは「あ」号作戦(マリアナ沖海戦)や「捷1号作戦」(レイテ海戦)の原案となるものであり、此の機密文書と暗号書は福留中将の手提げ鞄の中に収められていた。2番機は2時50分あセブ島ナガ沖に不時着、福留中将は此の鞄を抱いた儘泳いでいたが、数隻のカヌーが接近して来た為鞄を放棄した。ところが漁夫び一人がゆっくり沈んで行く手提げ鞄を拾い上げ収容した。
 此の「Z作戦計画書」は防水ケース毎ゲリラの手に依ってセブ島南部へ送られ、米潜水艦に依ってオーストリアへ移送され、全頁が複写された。そして最終的に其れがハワイ真珠湾の米太平洋艦隊司令部に渡り、マッカーサー及びニミッツの許可の下編集、複写され、海上に出撃している全ての米艦隊司令官等に配布された。
 「Z作戦計画書」は元の防水ケースに収められ、潜水艦に依って再びフィリピンの海に流した。計画書が米軍に依って奪われた事を悟られない為の周到な準備であった。
 1番機の消息に就いては其の後何の情報も得られず、4月22日捜索は打ち切られた。 此の事件は「海軍Z事件」として秘匿され、何の追求もされない儘不問に付された。事件後の変更、作戦の見直しを訴えた情報参謀の意見も却下され、暗号は其の儘使い続けられ、マリアナ沖海戦もレイテ沖海戦も予定通り遂行されて大敗を喫するのである。
 此の事件は海軍首脳部に依って最初から仕組まれていたものであろう。先ず3月30日、米輸送船団が西航海中と云う偽情報が大本営海軍部より意図的に流される。そして司令部移転の日は態々低気圧の発生した31日に指定され、「Z作戦計画書」も遭難不時着を予め想定して防水ケースに入れられた。
 古賀長官を乗せた1番機は其の儘逃走、2番機は予定通りセブ島沖に不時着して暗号書及び作戦計画書がゲリラの手に渡る様仕組んだと見ていい。
 セブ島のゲリラ討伐中の大西大隊長は4月10日、ゲリラ長のクーシン米軍中佐から福留中将以下10名の将兵引き渡しと交換条件に討伐を中止して欲しいとの手紙を受け取った。福留中将等は12日、セブ派遣隊に引き取られ、13日、セブ水行者に到着した。此の時、福留中将は出迎えの山本繁一第三南遣艦隊参謀に対し、「機密書は漁民の手に渡ったが、彼等には関心が無かった様だ」と語り、平静であったと言われる。
 福留中将は18日、飛行機で羽田に帰着し、海軍大臣の官邸で口頭報告を行ったが、福留中将には何の咎めも無かった。結局、作戦構想も暗号も全く変更されなかったのである(此の時期は戦争最中であったから、当然作戦見直す必要があったなかろうか。漁夫が、敵の手に情報を渡さない保証は全く無く、最悪の状態を常に考える必要があったではないか!忍)。其の後福留中将は軍令部出仕となり、6月15日、第二航空艦隊司令官に補され、後にフィリピンで神風特別攻撃隊を指揮する事になる。
 古賀長官と福留中将の関係は山本長官と宇垣中将の関係と酷似している。日本海軍売国集団のお得意パターンである

●山本は焦土と化す日本を高見の見物

 志賀長官殉死後、南西方面艦隊司令長官高須四郎中将(当時インドネシアのスラバヤに本拠を置く)軍令承行令に依って連合艦隊の臨時指揮官となったが、中部太平洋方面の事情に疎い高須長官は拙劣な指揮で連合艦隊を混乱に陥れた。
 5月3日、豊田副武大将が古賀長官の後任として正式に連合艦隊司令長官に就任した。だが、其の参謀長はどういう訳かあの草鹿龍之助少将であった。豊田長官就任と同時に大本営は「あ」号作戦の実施を命じた。此れは米機動部隊をマリアナ諸島のグアム、テニアン、サイパン島付近に誘き寄せて連合艦隊の総力を以て此れを撃滅しようと云う物だった。大本営では昭和18年9月末に決定した「絶対国防圏」上の要衝サイパンを死守する決意であったが、実際には未だ其れ程の切迫感は抱いていなかった。
 米軍の攻勢は「飛び石作戦」に依ってニューギニアからフィリピンへと迫り、軈てマッカーサーは台湾、沖縄、九州南部に照準を当てていた。
 とアろがニミッツ提督は其の矛先をトラックからマリアナ諸島に向けて来た。サイパンを失えば日本本土が直接攻撃に晒される。其の為「あ」号作戦に連合艦隊が集中した戦力は太平洋戦争中最大と言えるものであった。
 其の編成は最新鋭の正規空母「大鳳」を中心ノ空母9隻、「大和」「武あ」等戦艦5隻、重巡10隻、軽巡3隻、駆逐艦29隻、空母搭載機は450機、艦載水上機43機に及び、其の他基地航空部隊、第一航空艦隊の約600機が参加した。
 しかし、此れだけの大戦力を投入しながら、マリアナ諸島に於ける激戦は日本軍の大敗で終わった。サイパン守備隊は玉砕、マリアナ沖海戦でも連合艦隊は大被害を被り、日本の攻撃機は「マリアナの七面鳥射ち」に遭い潰滅した。
 グアム、テニアンは其の後圧倒的な米軍の集中攻撃を受けて玉砕、陥落した。此のマリアナ諸島の獲得により、米軍は更に硫黄島へと進攻し、同島の飛行場から連日飛び立つB29爆撃機により日本本土は軈て焦土と化す事になる。
 日本に2個の原爆を落したB29爆撃機「エノラ・ゲイ」(天皇陛下抹殺!忍)はテニアンの米軍航空基地を発進したものであった。

ヤコブ・モルガン著 忍野昭太郎訳『山本五十六は生きていた』第一企画出版から(途中で自分の調べの註釈がある)

●アメリカ海軍の日本海軍に対する評価

米国海軍長官ノックスが言った。

 「日本軍とは近代戦を全く理解していないか、近代戦を戦う資格のない
 軍隊である」

太平洋艦隊司令長官ニミッツが言った

 「日本は先っぽでは米国に勝ったが、戦略では無為にして負けた」
 「古今の戦史に於て、主要な武器が、其の真の潜在能力を少しも把握さ
 れずに使用されたと云う稀有の例を求めるとすれば、其れは正に第二次
 大戦に於ける日本潜水艦の場合である」

南太平洋方面海軍司令官ハルゼーは言った。

 「心配するな。日本人は、勝ったと思ったら引揚げて行く。追撃して来
 はせぬ」

勿論、此等の全て帝国海軍に対する批評である。


 そして、敗戦後日本海軍が設けた組織に「史実調査部」なるものがある。連合国が終戦直後始めた作戦の質問に対する、調査及び回答をする為設置した部である。会員は富岡定俊(軍令部作戦部長)を部長とし、以下軍令部・聯合艦隊の参謀からなる10余人である。
 此の史実調査部の会員に、此の仕事を通じて知り合った米国海軍士官のみならず、GHQの軍人でもが、一様に聞く質問があった。即ち次の質問である。

 「日本海軍は何故同じ手を繰返して、其の都度叩き呑めされたのか」

そしてこうも言われた

 「日本海軍は、飛行機を向こう水に消費した。あれではどれ程あっても、
 足りない筈だ」