ウクライナ大飢饉の真相

 今から66年前、ウクライナで大飢饉があった。1983年は50周年にあたり、9月25日から1週間、
 ワシントンでは記念行進、記者会見が行われ、旧ソ連大使館前でアピールを読み上げる等、デ
 モンストレーションが繰り広げられた。参加者数は警察側9千人、主催者側2万人弱と発表され
 た。ホワイトハウス前の会場では、歴史学者ロバート・コンクェスト、ウクライナ正教会及びカトリ
 ック教会の代表者達、作家で人権活動家としても知られているV・ブコフスキーやレフ・コーペレフ
 等をはじめ、在米ウクライナ人、ソ連研究者達が講演を行い、ウクライナ大飢饉の意味を問い
 直した。

 1932年から33年にかけて、ウクライナでは六百〜七百万人の餓死者を出した大飢饉があった。今日、この大飢饉が単なる食糧不足によるものではなく、スターリンのウクライナ民族根絶政策によりもたらされたものであった事は明かである。即ち、カフカース餓死者を出したのは、ウクライナ、及び北カフカースのウクライナ人居住地区、そしてボルガ沿岸のドイツ人が住む地域に限定されている。又、確かに干ばつや洪水、虫害等穀物減産の原因となった自然条件はある事はあったが、例えば32年の収穫量は27年比で12%減に留まっており、この飢饉が人為的に引き起こされたものである事は想像に難くない。
 当時、国是であったソ連の工業化の推進には、西側からの重工業機械及び専門知識の導入が必須であった。そして貿易に必要なハード・カレンシーは、穀物輸出によって産み出すしかなかったのである。食料の輸出高は、28年に五万トン、29年に65万トン、30年には242万トン、既に飢饉に入った31年に259万トンと増え、当局が所定の目的を達した32年には90万トンに減っている。食料だけでなく他の生産物も輸出に向けられた。しかし実は、餓死者を見殺しにしながら、同地区の政府管轄の倉庫には供給可能な在庫食料が眠っていた。充分とはいえないまでも、十万トンの穀物さえあれば年頭から7月末まで100万人が死なずにすんだのである。
 又当時は同様に、富農(クラーク)撲滅と農業集団化政策が進められていた。富農とはそもそも裕福な農民を指していたが、スターリンは、ウクライナの民族主義者、インテリ、集団化政策の反対者、そして彼の権力にとって脅威であると見放した者は誰でもクラークとして抹殺した。豊かな土壌に恵まれたウクライナではあるが、課せられた収穫高の達成は困難で、更に当局による厳しい食料調達に耐えられず、集団化に不満を表明する動きが現われた。又、農村部は民族主義者達の溜まり場であるとして目をつけられていた。真先に教育のある地方エリートが攻撃目標となり、何百人もの作家や学者達が告白を強要され、監獄や収容所へ送られた。独立ウクライナ教会の関係者も同様に弾圧の対象となった。当局の政策を批判したカドで百万人のウクライナ人が粛清され、1千万人がシベリアのタイガでの森林伐採、極寒地での白海運河建設の為に連れ去られたという。
 スタニッツァ・ボルタフスカヤという人口四万人の村は、食料調達に応じる事が出来ず、村の住民が丸ごと追い立てられた。男子は白海運河建設へ、女子はウラルのステップ地帯に送られ、離散を余儀なくされたのであった。
 集団化政策の強行は減産を招き、割高を提出すると農民達には食料が残らなかった。更に、数々の条例が制定された。パンの取引や調達不達成、穂を刈ると10年の刑を課せられた。33年春には、オート麦や、ふだん草といった飼料を「悪用」(つまり飢えた人間達が食用にあてる)すると10年の矯正収容所送りとなった。32年12月27日には国内パースポルト制が実施され、農民達は農奴さながら村や集団農場に縛り付けられた。ウクライナは封鎖され、ロシア共和国との国境は閉ざされた。自由な出入りは許されず、首尾よく脱出してパンを持ち帰った農民達から、パンはその場で没収された。
 飢えた農民は、種用穀物に手をつけ、穂を刈って食べようとした。都市から派遣された労働者や党メンバーから成るオルグ団は空中パトロールで畑を監視し、農場にはコムソモール員が見張りに送り込まれ、肉親を訴え出れば子供にも食物や衣類やメダルが与えられた。党の活動家達は、家々を回り、食卓から焼いたパンを、ポットからお粥までも奪っていった(食べる事を許されない状態に持っていく残酷な共産党員!忍)。食料を没収された農民達はジャガイモで飢えをしのぎ、鳥や犬や猫、どんぐりやイラ草まで食べた。遂に人々は病死した馬や人間の死体を掘り起こして食べるに至り、その結果病死していった。通りには死体が転がり、所々に山積みされ、死臭が漂っていた。取り締まりや死体処理作業の為都市から人が送り込まれたものの、逃げ帰る者も多かった。誘拐を恐れて子供達を戸外へ出さなかった。形ばかりの診療にあたった医師達には、「飢え」という言葉を使う事が禁じられ、診断書には婉曲的な表現が用いられた。
 困り果てた農民達が村ソビエトに陳情に行っても「隠しているパンでも食べていろ」といわれるだけだった。当時飢餓地域を取材した記者達は惨状の報告書を本国へ送った。又自国ソ連に頼るのを諦めたソ連市民から、救済を嘆願する手紙が各国に寄せられた。しかし、
当時ソ連に招かれたバーナード・ショウやフランス大統領エリオ、NYタイムズ紙のワルター・ドゥランティ等は、模範的な運営が成されているにせ農村を見せられ、当局の望み通りの視察報告を行っただけであった。一方、英国、カナダ、スイス、オランダ等各国及び国際連盟や国際赤十字を通じて、ウクライナ飢饉に手を打つようソ連政府に要請が行われた。しかしソ連政府は頑として飢饉の存在を認めず、存在しない飢饉への救済は不要という一点張りだった。(実際には、33年春にウクライナOGPUは極秘で「人肉食」事件は人民コミサールで裁かず、直ちにOGPUの調査に移すよう指令を出している。)
 政府が飢饉を認めるという事は、ウクライナ農民に譲歩するということであった。しかし、5ヵ年計画の成功を宣伝し、国際連盟加盟、西欧諸国との不可侵条約締結等、外交的に認められようとしていたソ連としては飢饉を認めるわけにはいかなかった。国際政治の場での名誉失墜は避けねばならなかったのである。
 一方アメリカは、国内不況を打破する為に巨大市場ソ連に期待をかけていた。又、台頭しつつあった日本帝国主義を牽制する為にもソ連政府との協調を優先し、ウクライナ飢饉を沈黙したのであった(意味不明。道義国家日本人に牽制するより、悪徳共産主義者を牽制するのが優先ではなかろうか!忍)。こうした中でウクライナは孤立し、飢えに斃れていったのである。
 スターリンは、ウクライナ民族を疲弊させる為、集団化政策を強行し飢死に追い込んだ。政治、文化、宗教とあらゆる権利を奪い、民族意識の強いウクライナ人抹殺を、社会主義建設の名目の下に断行したのであった。

 西側在住のウクライナ人300万人は50年前のジェノサイド(民族虐殺)を忘れまいと昨秋の行動を支持し、又
世界各国誌紙に資料や記録を紹介する論文が掲載された。ソ連当局はこうした糾弾に対し、「ヒトラーの手先とな
り、戦後西側へ亡命したウクライナ人達による100%偽証言」と全面的に自らの非を否認している。(ロシア国もこ
の問題について何も謝罪していない。ロシア国の他民族支配について現在も行われている!忍)
(人殺しをして口を
拭っていて知らぬ顔は共産主義者の人生観及び共通の所信のようですねえ。”人畜非道”が彼等に相応しい形容なのに
ーー。千乃)

ソ連インナー・レポート社刊1984年4月号より