UFOと日本の関係 『UFO隠蔽工作の謎ー
驚くべき国家機密、恐るべき記憶操作』より

●領空侵犯したUFOに自衛隊機が緊急発進!

「ひと目見た瞬間、私はその円盤形の赤オレンジ色の物体が、見たこともない形態の航空機で、知的生物が製造し飛行させている物体だと、すぐピンときた!」

 事件後3年たっても、なお恐怖さめやらぬ表情で、久保田四朗元航空自衛隊3等空佐(仮名・事件当時40歳)は重い口を開いた。耳を傾けるアメリカ人の通信社記者リチャード・ドレイバー氏は、この退役軍人から今、世界にも稀なUFOとの”空中戦”を演じた経緯を、初めて聞き出す事に成功しようとしていた。1977年9月、残暑厳しい東京の、とある喫茶店の静かな店内で二人は向かい合っていた。
 久保田3佐の口から語られた事件の内容は、実に驚くべきものだった。ーー話は1974年6月9日の夜、茨城県の航空自衛隊・百里基地から、2機のF4Eファントム・ジェット戦闘機が緊急発進した時に遡る。目的は、国籍不明の領空侵犯機の確認にあった。離陸後直ぐに、1機は故障を起こして、やむなく基地に引き返した。残る1機には、パイロットの中村登志雄・二等空佐(仮名・当時42歳)とナビゲーターの久保田3佐が搭乗していた。
 緊急発進命令が出たとき、彼等はいつものように、時々北辺防空体制を試しにやってくるソ連の爆撃機の迎撃に向かうものと思っていた。ところが、空中に舞い上がった後、GCI(地上要撃管制)から、この出勤は、地上で数十人に目撃され、レーダーにも補足された明るい発光体を確認する為だと知らされた。
 数分後、同機は雲層から抜け出し、快晴の月のない闇夜をついて、高度9000メートルで飛行した。次の瞬間、数キロ前方に発光体を発見した。それは直径約10メートル、赤オレンジ色に輝く円形物体で、側面にぐるりと四角い形の窓或いは推進機関の外部装置らしきものが取り囲んでいた。中村2佐は躊躇わず、物体に向かって機を突進させた。UFOの姿が、火器照準具の中で見る見る大きくなってくる。とその途端、それはこちらの接近に気付いた様に、ひょいと高度を下げて、浅い旋回にうつった。久保田3佐の脳裏をチラッと掠めたのは、他のパイロット仲間からあれこれ聞いていたUFOとの遭遇談だった。トラブルを恐れて、彼等はいつも上官のいない所で、ひそひそ声でそんな話を囁くのだった・・・。

●UFOに衝突された自衛隊機は墜落!乗員が死亡と、出し抜けに物体は反転し、F4E機に向かってまっしぐらに迫ってきた。
 「あぶない、ぶつかるぞ!」
 久保田3佐は絶叫した。中村2佐は操縦桿を左へ倒し、機を猛然と急降下させた。赤く輝くUFOは、機体すれすれにかすめ過ぎると、急激な反転を見せ、再び彼等目掛けて突進してくる。これでは立場がまるであべこべだ。彼等は獲物を追い詰め、もし相手が敵意を見せたら攻撃するハンターの筈だった。ところが今や、彼等自身が獲物にされている。UFOは、2度、3度とF4E機に襲いかかり、激しく追いすがった。中村2佐は必死の操縦でその度に何とか相手をかわした。久保田3佐はそれを横目で見ながら、GCIに無線報告をがなり立てた。それでも、UFOが本気で衝突するとは思わなかった。だが、次の瞬間それは現実となったのだ。
 グワーン!腸がえぐられるようなショックと共に、眼前の夜が炸裂した。中村2佐の絶叫が久保田3佐の耳をうった。
 「緊急脱出だ!脱出しろ!」
 久保田3佐の体が、激しい勢いで射出座席ごと機体からはじき出された。同時にパラシュートが開いて、落下する体がぐいと引き戻された。彼はガクガク震えながら、闇夜を眺め回した。UFOは分解したのか、飛び去ったのか、どこにも見えなかった。F4E機はキリモミ状態で、炎に包まれたまま落ちていく。右手上方に、中村2佐のパラシュートがぽっかり花開いたのを見て、彼はほっと安心した。
 だが、それもつかの間、ああ何と言うこと、中村2佐のパラシュートに火がついて、メラメラと燃え上がるのが見えた。浮力を失った二佐の身体はみるみる加速がついて、眼下の闇の中へ飲み込まれていった・・・。
 ドレイバー記者の報告(『UFOレポート』1978年3月号)によれば、この”UFOに撃墜された”F4Eファントムの連続番号は17ー8307と判明、残骸も回収されている。ドレイパー事件直後と3年後の2度に渡って、この生き残りの退役軍人にインタビューしたが、そこまでこぎつける手がかりとなった最初の情報源は、当然ながら明かしていない。果たしてUFOがらみで時価7億円相当の国家財産と、貴重な一人の人命が失われたというこの事件は、現実にあったのだろうか?
 南山氏自身も防衛庁の航空幕僚監部広報室に照会してみたが、答えは予想された様に完全否定だった。事件があったされる当日、自衛隊機の墜落事故すら1件もなかったという。むろん該当機や該当者の有無については機密と云う事で回答を拒否された。ドレイパー報告では、乗員の名前を仮名とは断っていないが、現時点ではそれが確認出来ない為、一応、仮名としておく。しかし、この照会の際同広報室も、「レーダーで未確認機が補足され、緊急発進したが何も発見出来なかった」ことがあるとは認めた。只それは一般にいうUFOではなく、おそらく渡り鳥の集団とか気象観測用気球、或いはレーダー波の伝播ミスと思われるという但し書き付きだったが、いずれにせよ正体の確認出来なかった事件は起きている。 

●日本にもあった?UFO調査プロジェクト

 ドレイパーの報告では、こうした防衛庁の対応も、私達国民と外人記者とでは微妙に違っている。彼の指摘では、1974年以降日本各地の米軍と自衛隊の基地は、謎の侵犯物体にしきりに悩まされ、軍事施設の周辺ではUFOの活動が激増しているという。確かに1974年〜76年ごろは、民間でも日本全国がUFOブームに沸き立ち、新聞報道件数も極めて多かった。この符号は実に興味深い。
 ドレイパーによると、当時防衛庁の高官からもしばしば、UFO事件の発生と調査について肯定的な非公式発言があったらしい。これなども私達国民に対する防衛庁や自衛隊の日頃の公式見解とは、まるで逆である。
 例えば、77年9月、東京のホテル・ニューオータニで、次期戦闘機F15の購入問題に関する記者会見が開かれた最中、当時の航空幕僚長・平野晃空将はふと何気なく、こう漏らしたという。

 「我々はUFOをしょっちゅう見る。内密にも調査している」

 思いがけぬ発言に、記者団はどっとざわめいた。空将は、その反応にたじろいだが、急に又話題を次期戦闘機問題に戻して誤魔化してしまった。翌日、ドレイパーが航空幕僚監部に確認の電話を入れた所、「あの発言は当人の思い違いだった」と丁重に取り消されたという。
 又ドレイパーに同年、東京の山王アメリカン・クラブで”日本のCIA”内閣調査室顧問・小村秀樹空将補と会見したさい、UFOの話題を持ち出した所、同空将補は現在UFO調査が軍内部で行われていると認めなかったが、以下のように答えた。

「素直にいって1950年代後半には、我々も貴国(アメリカ)のプロジェクト・ブルーブックを真似た調査方式をとっていた。だが、国民の関心が高すぎて大量の目撃報告が殺到し、本物の報告とガラクタ情報との区別が困難になり、効率が悪いこの方式は中止された」

 そして明言は避けたが、現状についてこう補足したのである。
「我々に貴国政府と密接に協力している。ソ連のミグ25亡命事件(76年に函館空港に強行着陸し、世界を驚愕させた事件)の際も米空軍のFTD(国外技術部)から専門家を招いて、機体を調査してもらった。FTDはご存知の通り、閉鎖前のブルーブックが置かれていた部局だ。我々はいろいろな問題で協力してきたのだから、宇宙からの訪問者の件も、当然調査対象に入るだろう」
 ここに登場する平野航空幕僚長も小村空将補も、確かに実在の人物だ。彼等の右の様な発言が事実通りなら、わが国も又、アメリカ同様、政府と軍当局は国民をずっとあざむいてきたことになる。つまり防衛庁と自衛隊は内部のUFO事件と調査行動について、厳しい隠蔽政策をとっているのだ。只軍の上層部も外人記者に対しては、心の緩みからときおり不用意に、胸の内を明かす事もあるということらしい。

●ブルーブックに収録された日本での”UFO”事例

 日本領空内のUFO活動については、小村空将補の発言からも分かる様に、自衛隊当局も50年代後半以来、密かに調査を続けているものと思われる。だが、真相は依然厚い機密の壁にはばまれている。しかし、少なくとも太平洋戦争後日本に駐留している極東アメリカ軍が、進駐当初から日本領空内のUFO活動の極秘調査に当たってきたことには、今や疑問の余地はない。なぜなら、米空軍のUFO調査機関プロジェクト・ブルーブックが69年閉鎖された後、機密解除された大量の調査文書類中に、米軍が日本領空内で遭遇したUFOの目撃調査報告が多数含まれているからだ。
 現在、南山の手元にはその旧ブルーブック機密文書が、マイクロフィルムで約20卷(ページ數で推定約3万ページ分。それでも全体の1/4以下だ)ある。この中に少なくとも”UFO”と判定された日本のケースだけで、24件ある事を突き止めた。全貌の紹介は別の機会にゆずるが、代表的な3件の記録カードの部分だけを、以下に要約公開しよう。
<事件番号2ー8>
日時 1948年10月15日23時5分
場所 福岡県沖瀬戸内海上空
目撃者 P61パイロット(空軍中尉)及び機上レーダー・通信手(空軍少尉)
経過時間 約10分
目撃タイプ 空中目視及び機上レーダー探知
物体数 1個乃至6個
目撃概要
 P61機上のレーダー手が高度1500から1600メートルのUFOを6度捕捉、迎撃を試みた。物体は3600メートル以内に接近するまで時速320キロで飛行、接近するや、推定360メートル/(秒*秒)で急加速し、スコープから脱出。物体の長さは6乃至9メートルと思われた。パイロットは明るい月光下で物体のシルエットを観察。先端は丸く、全体は砲弾形、後尾は断ち切られたような形態だった。行動から見て、P61の位置を終始知っているとの印象を受けた。
コメント
 可能な説明なし。唯一の疑問点は、当該ターゲットが地上レーダーからは一度も捕捉されなかった事。P61の方は、目撃期間中同レーダーにずっと捕捉されていた。

<事件番号1082>
日時 1952年3月29日11時20分
場所 青森県三沢基地北方約30キロ地点上空
目撃者 T6パイロット(空軍中尉)
経過時間 約10秒
目撃タイプ 空中目視
物体数 1個
目撃概要
 T6は当日、F84ジェット戦闘機2機による迎撃訓練の標的の役を務めていた。最初のF84が高度1800メートルで接近した時、T6パイロットはF84の後方に陽光にきらめく小物体を発見。それは光り輝く円盤形物体で、F84に追いつくや同機の対空速度(時速約250キロ)まで急減速、90度近く傾斜して体をかわした後、機体の右6メートル以内を前後に往復。翼後方の気流に当たったのかいったんはね飛んだ。ついで同機前方に出て横切り、急停止した次の瞬間、急激に加速してほぼ垂直に上昇、視界から去った。パイロットは自機とUFOとの最接近距離を9乃至15メートルと推測。UFOは磨かれたクロームの様に輝く直径約20センチの円形・薄型の金属物体で、周縁部に波状模様があり、排気や突起物は認められなかった。
コメント
 追加情報なし。かすみ、排気ガス、気流乃至自機のキャノピーの反射屈折光という可能性を除き、この目撃の説明は不可能。

<事件番号7437>
日時 1961年6月2日22時17分
場所 沖縄県宮古島航空基地上空
目撃者 基地司令官、基地要員及び民間技術者他
経過時間 5分
目撃タイプ 地上目視(双眼鏡を使用)
物体数 1個
目撃概要
 円形物体。腕長距離でピンヘッドの約2倍大。青白色。色と形は星と比較が可能。コンパス目盛350度の北方、仰角60度の空に出現。コンパス目盛190度の南方、仰角60度の付近に消滅。空中に孤を描いて移動し、コースと速度が不規則なように見えた。無音。
コメント
 流星にしては遅過ぎ、目撃時間も長過ぎる。気球だとすれば1800メートル以高では当時逆風で目撃出来なかったはず。航空機としても余りに遅速。入手出来た証拠は十分にありながら、結論は出ない為、本件を”未確認”とする。

●殆どのUFO事件は軍当局が秘匿している!?

 これら日本関係のブルーブック旧機密文書(いずれも当時は極秘扱いだった)は、日本の上空で国民の知らない内にUFO遭遇事件が発生し、極秘に調査されていた事をはっきり証明するものだ。だが、ブルーブック以後はどうか。前出のドレイパー報告には、1970年代中頃の重要目撃事件が4件挙げられている。

☆1975年4月11日、北海道の基地を飛び立ったF104スターファイター4機編隊が、公海上空7800メートルで4個の円盤形物体に追跡された。UFOは、大気圏内に突入して加熱されたように、金属表面から真っ赤な光を放っていた。UFO群はF104編隊の行動をそっくり真似ながら飛んだという。

☆1975年9月11日夜半と14日夜半の2度、西日本一帯上空でUFOが目撃された。警察と軍当局への市民からの通報では、空中を飛び回った発光体の数は1個から12個とまちまちだった。山口県岩国の米海兵隊航空基地付近では、赤金色に光る円盤群が目撃された。また日本航空のDC8が香港からの岐路、赤オレンジ色のUFOに20分以上つきまとわれた。

☆1976年12月1日、東京・横田基地に着陸寸前の米海軍C123貨物機が、複数の赤オレンジ色の発光体に追尾された。UFO群は同機に10分以上つきまとって乗員を驚愕させた。これらのUFOは地上レーダーにも捕捉され、横田付近に約17分間留まっていた。

☆1977年1月29日、米副大統領ウォルター・モンデール(共産主義者!忍)が、当時の福田赳夫首相と会談の為来日した時、乗っていた特別機VC137Cが羽田国際空港に着陸する直前、赤く輝くドーム形物体が数分間つきまとうのを、乗員が目撃した。乗員はこの件について宣誓供述書を提出した。
 なおこのモンデール機事件は、ドレイパーが前述の小村空将補へのインタビューのさい真偽をただしたところ、空将補は決して否定しなかったという。更にドレイパーは、この件を含めて当時の福田首相は、日本政府のUFOの極秘調査を全て承知していたとまで断言するのだ。

 防衛庁幹部と接触する機会の多いこうした外人記者達が嗅ぎつけたUFO事件は、おそらく氷山の一角に過ぎないだろう。しかもこの4件さえ、南山氏が当時日本中の全国紙・地方紙から収集したUFO記事ファイルと照合した結果に関する限り、全く報道されていない。常識的に見ても、多分この10倍以上の件数の軍事関連の目撃報告文書が、防衛庁か自衛隊基地のどこか奥深くにファイルされているにちがいない。残念ながらそれが日の目を見る可能性は、近い将来、情報自由公開法が整備でもされない限り、まずありそうもない。

アメリカとUFOとの関係

●核ミサイルのコンピュータを狂わせた巨大UFO

「ピーッ、ピーッ、ピーッ!」
 1975年11月7日深夜、アメリカのモンタナ州マルムストロム空軍基地内の核ミサイル・サイトの地下発射管制エリアの室内に、突如けたたましい警報音が鳴り響いた。遠隔電子センサーが、何者かのサイト不法侵入を知らせる合図だった。
「K7に不法侵入者あり、ミサイル警備ヘリコプターで地上チェックを頼む!」
 管制室にいた二人の当直士官が基地指揮所へ緊急連絡した。同時に、保安警戒班(SAT)も不法侵入の発生を知らされ、現場への出勤命令が下された。
 全土約2000カ所のミサイルサイトの内、マルムストロム空軍基地には、ミニットマン・ミサイルを収容するサイトが20カ所あり、アルファベット順に符号化されて広い地域に散らばっている。その一つ、K7はモンタナ州リュイストンの真南、ジュディス・ギャップ地区にある。そのサイトへ通じる土道に、SAT隊の車がハイウェーから走り込むと、1.5キロ程前方のサイト真上の低空に、オレンジ色の明るい発光体が見えた。800メートルまで迫ると、それはいまや、とてつもなく巨大な物体とわかり、隊員達は息を呑んだ。
「この位置からでも、ものすごくでかい!フットボール場ぐらいはありそうだ。円盤形で、ギラギラとオレンジ色に光っている。下のサイトがあかあかと照らし出されている!」
 SAT隊長は発射管制室にそう無線連絡した。
「サイトへ入って、もっとよく確認してくれ」
 管制室は要請したが、SAT隊はUFOの巨大さに恐れをなしたか、それ以上の前進を拒否した。
 と次の瞬間、UFOは上昇を開始した。300メートル程の高度に達した時、はじめてNORAD(北米防空司令部・現・北米航空宇宙防衛司令部)のレーダーにもキャッチされた。直ちにモンタナ州グレート・フォールズ空軍基地から、F106Aデルタダート迎撃戦闘機が2機緊急発進して、K7地区目掛けて突進した。
 だがUFOは高速で上昇を続け、彼等に視認される前に、6万メートル付近でNORADのレーダーから消えてしまったのだ。
 事件後、SAT隊の全員が基地内病院に収容されて、厳格な心理テストを受けた。彼等が目撃した物体は、正体をどうしても確認出来なかったが、全隊員が不快極まる体験をした事は、テストの結果に明白に示されていた。
 一方、これとは別に、目撃設定班が、コンピュータ専門家とともにK7サイトへ急行し、核ミサイルに異常がないかどうかを点検したところ、驚くべき事が判明した。ミサイルを目標地点に向ける核弾頭内のコンピュータのテープが、不可解にも目標番号を変えている事が発見されたのだ!
 おそらくUFOが何らかの力で、意図的に目標番号を変更したとしか考えられない。結局この核弾頭は、ミサイルごと取り替えなければならなくなったのである。

●UFOの主目的は核兵器に向けられている

 以上のドキュメントは、匿名希望の内部関係者達の証言から再編成されたものだ。しかし、当時この事件、或いはこれに近い出来事が、少なくとも同地の10カ所以上のミサイル・サイトで発生した事は、NORAD、国家軍事司令センター(NMCC・核攻撃の指揮を取る司令中枢)、空軍特別調査部などの旧機密文書によってはっきり裏付けられる。
 これらの文書は後述するように、アメリカの民間研究家グループが情報自由公開法をタテにここ数年来進めてきた”政府UFO文書公開請求運動”のお陰で、これら政府と軍当局からしぶしぶ解禁されたものだ。例えば、NMCC文書の一つ、75年11月8日付の”未確認目撃物体”と題する記録用覚書には、次のような内容が盛り込まれていたのである。

 (1) NORAD司令部長発。11月8日午前2時53分(東部標準時)、モンタナ州マルムス
 トロムAFB(空軍基地)は高度探知レーダー上2900から4700メートルに、7個のレーダ
 ー像を受信。地上の同時目撃者は空中に発光体を発見、ジェット戦闘機に似たエンジン音を聞いた。
 FAA(連邦航空局)に照会したが、目撃地点から185キロ以内にジェット機はいなかった。レ
 ーダーはリュイストン上空を時速13キロで飛行する物体群を追跡、第24NORAD管区から2
 時54分、F106迎撃機が緊急発進し、2時57分には空中にあがった。最初の口頭報告では、
 マルムストロムAFBとSAC(戦略空軍)サイト・K1、K3、K6は、空中の発光体にはジェ
 ット・エンジン音が伴っていると報告した。
 (2) 午前3時44分、NORAD司令部長発。物体群の迎撃は失敗。山岳地形の為戦闘機は最
 低3600メートル以上の高度維持を必要とした。目撃物体群は西へ方向を転じ、速度を時速28
 0キロにあげた。高度探知レーダー上には18〜22キロ離れた2個の軌跡が出現。SACサイト
 ・K3は90〜300メートルの低空に目撃物体を報告。一方L4はそこから9キロの地点に物体
 目撃を報告。物体群は北緯46度50分・西経109度20分の地点で、時速9キロの追跡速度の
 ままレーダーから消滅した。
 (3) 午前4時5分、SACサイト・L5で物体が目撃され、それは加速して急上昇、ある高度
 から星と識別がつかなくなった。NORADは本件を”不明”のまま”消失”と記録。これは当時
 刻以降、視覚目撃のみとなったため。
 (4) 午前4時40分、NMCCはNORAD司令部長と連絡を開始、後者は以下を報告したー
 4時5分、マルムストロムが捜索・高度探知双方のレーダーに断続的軌跡を受信。モンタナ州スタ
 ンフォードの南東18キロのSACサイト・C1が、不明物体群の視認を報告。4時20分、SA
 Cサイト4カ所の兵員がF106機群の現場到着を報告。だが、目撃物体群は迎撃機が接近するや
 いなや消灯し、退去と同時に点灯した。4時40分、SACサイト・C1は依然として物体群を視
 認した。(以下略)

 この1通の機密文書だけからでも、我々は重大な事実をいろいろ知る事が出来る。第1に、米軍当局は表向きの公式姿勢とは全く逆に、UFOの存在を認めている事。第2に、UFOに国家の安全を脅かされ、困惑している事。第4に、UFOの行動は明らかに核兵器の存在と関係していた事などである。

●核兵器貯蔵地域に侵入したUFOを米軍が追尾

 マルムストロム事件の直後、10月下旬から11月上旬にかけて、同じようにカナダと国境を接するメイン州やミシガン州でも、戦略空軍基地へのUFO不法侵入事件が続発した。いずれの場合にもなぜか、UFOは核兵器貯蔵地域の制限空域内にしつこく出現して、空軍憲兵隊や軍用ヘリを右往左往させたのだが、当初、周辺住民の通報から事態をかぎつけたマスコミに対しては、軍当局は、強硬に知らぬ存ぜぬを押し通した。しかし、関係者の口から次第に真相が外部へと洩れ、それが情報自由公開法を通じUFO研究家達の入手した機密文書類によって立証されたのである。
 メイン州ローリング空軍基地では1975年10月27日午後7時45分、UFOが核兵器貯蔵地域に現れた。高度90メートルで基地の北側から、赤灯と白灯をつけた物体が侵入してくるのを、まず当直の第42空軍憲兵大隊隊員が発見。同時に管制塔でも、第2192通信大隊隊員がレーダー上に目撃し、第42爆撃航空団司令官自ら核兵器貯蔵地域に急行、基地中の憲兵隊車両が集結した。UFOはあらゆる無線周波数の呼びかけを無視して、制限空域内で旋回、滞空、上昇下降を繰り返し、40分後カナダ方面へ飛行、20キロ離れた地点でレーダー上から消滅したのだ。事件直後には、至急報がワシントンの国家軍事司令センター、空軍参謀総長、空軍前方作戦部、第8空軍第45師団戦略空軍司令部にそれぞれ送られた事が、解禁文書の中で明らかにされている。
 ローリング基地では、それからも数晩立て続けにUFOが核兵器貯蔵地域に侵入したが、追跡に出勤したヘリコプターはどうしても正体を確認できずに終わった。UFOは行動が一見ヘリコプターのそれに似ていたので、”未確認ヘリコプター”とか”不明ヘリコプター”と呼ばれたが、形態までがヘリコプターに見えたわけではなく、地上で一番接近して目撃したある爆撃機搭乗員達は、その形を”両端を引き伸ばしたフットボール”と形容、ドアや窓、プロペラなどの付属物は全く見あたらなかったという。
 つづいて1975年10月30日深夜には、ローリング事件に驚いた戦略空軍司令部の”未確認ヘリコプター攻撃に対する防御”指令で、既に警戒態勢に入っていた北部隣接基地群の一つ、ミシガン州ワートスミス空軍基地の核兵器貯蔵地域の低空に、UFOが侵入した。警戒中の第379憲兵大隊が目撃を報告すると同時に、レーダー進入管制(RAPCON)のレーダーにも低空飛行物体が捕捉された為、第379爆撃航空団司令官は、たまたま帰投中のKC135空中給油機に、UFO追跡を命じた。同機はRAPCONの誘導で、不規則な閃光を放つ2個のUFOに視覚接触、ヒューロン湖上まで追尾したが、UFOは1キロ以内に接近する度に、時速185キロの猛速で逃げ去った。
 この事件に関する解禁文書は、内容が断片的で伏字も多いが、それでもNORAD管区部長の10月31日付の日誌は、ワートスミス事件を次の様にはっきり裏付ける。

 ワートスミスAFB兵器貯蔵地域で不明ヘリ目撃と、NCOC(戦闘作戦センター)
 より警告あり。給油機も同一物を目撃し、南西方向へヒューロン湖上まで追尾。NC
 OCの要請で第379W(爆撃航空団)指揮所に連絡、助力を申し出る。更にML、
 LH、JL(基地符号)にスクランブルの可能性を通知した。

 事件後に戦略空軍戦史局が作製した事情聴衆報告書では、KC135の搭乗員が、怪物体を決して”ヘリコプター”とは呼ばず、常に”UFO”とか”物体”と呼んでいた。確かに最新型のジェットヘリでも、時速185キロはとても不可能である。またこの調査中で搭乗員は、空軍特別調査部から事件について口止めされた事も証言している。
 更に解禁文書は、同じ時期にノースダコタ州マイノット、ニューヨーク州プラッツバーグ、カナダ・オンタリオ州ファルコンブリッジの各空軍基地も、UFOの上空侵犯を受けた事、グアムからニューファウンドランドに至る15の空軍基地で警戒態勢が取られたこと、NORAD総司令官自らの通達で、”マスコミに対する情報規制”が指令された事などを、明らかにしたのだ。
 こうした全ては、米空軍当局がこれら一連のUFO活動を極めて重大視しながら、その真相をひた隠しにしてきた事を、はっきり物語っている。

 

●以前からあったUFOの”核”に対する異常な関心

 ローリング事件の際空軍内部で送られたあるテレタイプには、UFOが核兵器貯蔵地域で、”明確な意志”を示したとある。だが、核関係施設に対するUFOの異常な関心は、実は今に始まったことではない。アメリカの核兵器・原子力関係のトップ・シークレット開発研究施設は、特にワシントン州ハンフォード、サウスカロライナ州エイケン、ジョージア州サバンナ、テネシー州オークリッジに集中しているがそのいずれもが少なくとも過去のある時期、UFOの頻繁な訪問を受けている。とりわけハンフォードのトップシークレット核処理工場、ハンフォード製造所は原爆開発の発祥の地の一つで、広島のウラニウム爆弾についで長崎を灰にした有名なプルトニウム爆弾”ファット・マン”は、ここで作られた。現在でもここは、マスコミが一切立ち入れない軍の最高機密施設である。
 しかもこの付近では、それより以前の1944年3月(当然”ファット・マン”を極秘製造中だった)、PT19練習機で訓練中の陸軍航空士官候補生が、既に白昼UFO編隊を目撃していた。推定直径3メートルのまばゆく輝く”おはじき形”物体7個が、V字形編隊を組んでコロンビア河上空を渡っていたという。
 その若い候補生ジェームズ・E・エメリーは、後に空軍大佐にまで昇進して退役後、はじめてこの体験を公にしてこう語っている。

 「私はPT19を反転させて、それが目の錯覚でない事を確かめたが、300メートル
 まで接近した途端、UFO編隊は急加速して飛び去ってしまった。最初は軍の秘密兵器
 かと思ったが、今では宇宙母船から発進した無人探査機の類だと確信している。明らか
 にハンフォードの偵察が目的だよ・・・」

 1961年12月18日の夜は、核兵器製造工場の上空で旋回降下を繰り返す赤オレンジ色の発光体群を、100人以上が目撃するという事件があった。近くのマッコード空軍基地からF84スコーピオン2機が緊急発進して迎撃に向かったが、現場に到達する前にUFO群は離脱していた。
 これは未確認情報だが、1962年に起こった同様の事件で、UFOの迎撃任務に飛び立った別のF89スコーピオン1機が、跡形もなく消滅したという。同機の連続番号は52ー1256、所属は第318迎撃戦闘機大隊だったという報告もある。
 もっと最近1975年8月1日の晩には、海軍のP3Cオライオン哨戒機がハンフォード上空を飛ぶUFOのV字形編隊に遭遇。地上からの同時目撃者の証言では、UFO編隊全体がジクザグ飛行していたという。又、彼等は後日、ハンフォード製造所内の原子炉にこの時故障が発生したとの噂も耳にしたのだ。
 更に翌9月18日には、ハンフォード核施設に関係する政府高官ビル・マークス(仮名)が、深夜帰宅の途中、巨大なUFOと遭遇した。切ってあったラジオが突然怪音を発し始めたので、あわてて車を止めると、ハイウェイすぐ左手の木立の上をパイ形をした輝く発光体が、ゆっくり平行に進んでいた。高度は240メートル前後、外縁部が回転し、中央上部にドームが盛り上がっていた。同乗していた6歳の長男が怯えて泣き出したので、マークスは急いで車を発進させたが、ラジオの怪音はなり止まず、UFOもハンフォードへ向かう彼の車を追ってくるように見えた。街明かりが近付いた時、UFOはやっと夜空に上昇して視界から去ったという。
 国家の安全に直接関わるトップシークレット地域なので、こうした核施設に関する政府や軍当局の情報は、情報自由公開法をもってしても入手が極めて困難だ。だが例外的に、テネシー州オークリッジの原子力委員会実験施設が1950年の秋頻繁にUFOに侵入された事件は、解禁されたFBI(連邦捜査局)関係のUFO文書に含まれている。
 目撃報告は6月〜12月にまでまたがるが、特に10月がひどく、目撃者は核エネルギー推進装置プロジェクトなどの科学技術者、警察関係、空港レーダーサイトなど第663航空総軍の将兵といった信頼出来る人達だった。レーダーがUFOを捕捉する度に戦闘機が緊急発進したが、どうしても正体を確認できずに終わっている。
 このようなUFOの”核エネルギー”に対する関心は、一体何を意味するのだろうか。一説には、アメリカが人類文明史上初めて核実験に成功し、広島・長崎に原爆を落とした事が、UFOの活発な飛来を招いたとされる。単なる文明観察か、軍事偵察か、それともそれ以上の意図ーー攻撃力の誇示、核兵器への干渉、或いは1種のカルチャー・ショックなどが秘められているのだろうか。(地球の安全の為に、軍事偵察と威嚇を行っている。地球の文明は、大昔から、異星人の文明から学んでいる。霊体から学んでいる。しかし、霊体と肉体の異星人と繋がっている!忍)