幣原外交とは何を意味するか 小室直樹・渡部昇一著『封印の昭和史』徳間書店より

 

●掠奪・暴行にも隠忍自重した日本(小室)

 支那事変は突如起きた物では無く、其れ以前にももの凄い反日運動と云う物があった。昭和2(1927)年の第一次山東出兵に続く同年3月の南京事件、昭和3(1928)年5月の済南事件等を踏まえた上で、此の事変を検討するものでなければなりません(此の事件の内容はどう云う物であるのか、幣原外交はどう云う事をやらせたのか真剣に考える必要がある!忍)。
 南京事件の時には、中国で最も軍規が厳正であると言われていた国民軍が、軍閥を破って南京入城を果たすや否や、一般居留民に対して大掠奪を行い、外国領事館を襲撃する者迄現れました。日本領事館に避難していた陸軍武官や警察署長は重傷を負って無抵抗を余儀無くされ、、其の他館内に避難していた者は、男女の別無く衣服を剥ぎ取られ、財布、指輪を奪われ、館内にあった有らゆる物、寝具、家具、調度品、子供の玩具(おもちゃ)迄もが運び去られると云う事があった訳です。
 此れは日本領事館のみならず、米国、英国等も同様でした。其処で、長江に碇泊していた米国、英国の砲艦が、一斉に艦砲射撃を開始し、1時間程の間に200発近くを南京城内に撃ち込みました。此れに依って、漸く国民軍に依る掠奪が鎮まったのですが、日本は隠忍自重して、米国、英国の様に艦砲射撃をしていません。
 後に日本の上海陸戦隊が、僅か数万人で何十万人もの中国軍を相手に戦い、見事に打ち破ったのは、其れ迄の隠忍自重が爆発したと云う側面もあります。だからこそ、日本の国民は熱狂的に兵隊さんに感謝をし、快哉を叫んだ訳です。又、日本の軍隊は、そうした国民の支持と尊敬とに支えられて、益々強くなっていた訳です。此れは当然の事です。
 
 

●隠忍自重の果てに自決を謀った荒木大尉(渡部)

 其の間の事を面白く書いた小説があります。トラベーニアンの『シブミ』と云う小説です。此れは売れ行き最良(ベストセラー)となり、The Book Of The Mansにも入る程の本でした。小説と云う体裁を取っていますが、極めて史実に忠実であり、歴史的事実と完全に符合しています。
 何の様な内容であるかと云いますと、上海事変の時に、実は蒋介石の軍隊が、自国の国民を爆撃していたと云う話です。此れは本当で、蒋介石の軍隊は、先ず自分達と日本人の間に一般の支那人を置きます。そうして、其の人達が避難出来ない様にして置いて、空から爆撃をした訳です。其の様子が、『シブミ』に、生き生きと描かれています。蒋介石側のパイロットは、ノースロップと云う米国の飛行機に乗って遣って来て、全く躊躇無く自分達の国と国民とに爆弾を落としたのです。
 何故其の様な事をしたかと云いますと、夥しい一般の支那人の死傷者を出す事に因って、国際世論を喚起せしめる為でした(此の時の、フリーメーソンの関係を調べた方が良い!忍)。蒋介石の国民軍は、此の策謀に成功し、日本は国際世論の非難を浴びます。其の事を、此の小説は実に精密に描いています。
 扨、南京事件ですが、此れは其の後(上海事変以後!忍)にもあるので、昭和2(1927)年3月27日に起こった事件を、此処では第一次南京事件と呼びましょう。
 此の第一次南京事件が何の様な経緯で起こったかと言いますと、先ず広東の国民政府が、北京の軍閥を討伐する事を決議します。理由は、北京の軍閥が、全国統一会議に出て来なかったからです。そうして、実際に派兵した軍隊が、北京の軍閥を征伐すると云う事から、北伐軍と呼ばれました。
 此の北伐軍の猛攻に依り、軍閥は呆気無く破れ、敗走します。そうして、南京入城を果たした北伐軍が暴徒と化し、外国領事館や外資系の工場、外国人住宅を襲い、掠奪や暴行の限りを尽くした訳です。
 其処で、米国、英国の軍艦が、此の蛮行を止めさせる為に、南京目掛けて威嚇砲撃をした訳ですが、日本だけはしませんでした。日本も遣ろうと思えば、直ぐにでも遣れました。何故ならば、其の時揚子江に駆逐艦「檜」が碇泊していたからです。
 此の時の事を、佐々木到一中将は、次の様に記しています。

  逐日耳に入る所の事件の真相は非憤の種だった。英米仏の軍艦は遂に
 場内に向けて火蓋を切ったのに、我が駆逐艦は遂に隠忍した。しかも革
 命軍は、日清汽船の客船に乱入して、此れを破壊し、我が艦を目標とし
 て射撃し、現に一名の戦死者を出しておる。
  荒木(亀男)大尉以下12名の水兵が城門で武装を解除された。在留
 外人は全部掠奪され、某々国の何々が殺された。我が在留民全部は領事
 館に収容され、しかも3次に亙って暴兵の襲撃を受けた。領事(森岡正
 兵)が神経痛の為、病臥中を庇う夫人を夫の前で裸体にし、薪炭庫に連
 行して27人が輪姦したとか。30数名の婦女は、少女に至る迄凌辱せ
 られ、現に我が駆逐艦に収容されて治療を受けた者が十数名も居る。根
 本少佐が臀部を銃剣で突かれ、官邸の2階から庭上に飛び降りた。警察
 署長が射撃されて瀕死の重傷を負うた。抵抗を禁ぜられた水兵が切歯扼
 腕して此の惨状に目を被うていなければならなかった、等々。
  然るに、だ、外務省の広報には『我が在留婦女にして凌辱を受けた者
 一名も無し』と云う事であった。南京居留民の憤怒は極点に達した。居
 留民大会を上海に開き、支那軍の暴状と外務官憲の無責任とを同胞に訴
 えんとしたが、それすら禁止された。等々。実に此れが幣原外交の総決
 算だったのである(佐々木到一『ある軍人の自伝』)

 尚付け加えますと、此処には「荒木(亀男)大尉以下12名の水兵が城門で武装を解除された」とだけ記されていますが、其の後、荒木大尉は自決を図ります。
 何故ならば、荒木大尉は、駆逐艦「檜」から連絡の為に南京の領事館へ派遣されます。其の途中で、中国軍に捕まり武装を解除され、暴行を受けたのです。しかしながら、其の様な事態に遭遇する事になっても、日本人居留民の安全を図る為に、「決して抵抗してはならない」と云うのが、艦長の命令でした。其処で、荒木大尉は、命令に従って無抵抗に徹し、釈放されて帰艦し、更に重巡洋艦「利根」に移った後、其の艦長室に於いて、「日本の軍人として屈辱に堪えない」との言葉を残し、自決しようとした訳です。
 戦後生まれの人は、武装解除と云ってもピンと来ないかもしれませんが、此れは、降伏者や捕虜等に対して、其の兵器を強制的に取り上げる事です。其の他に、中立国が自国の港に碇泊している交戦国軍艦に対して行う事もありますが、大体は降伏者や捕虜等に対して行う事です。ですから、武装解除と云うのは、特に軍人に取っては最大の屈辱である訳です。其れも、精一杯に戦って実際に負けたのならば、諦めもつきますし、武装解除を潔しとすると云う事もあるでしょう。しかしながら、幣原喜重郎の外交方針の為に、戦わずして武装解除されねばならなかった訳ですから、軍人に取っては、当に憤死、割腹に値する屈辱でした。
 又、当時は、国策として兎に角問題を起こさない様に軍艦等も指導されていましたので、支那人の艀(はしけ)の船頭が日本の砲艦に上がって来る程迄に、侮られ切っていました。上海市内で買物をする日本の婦人が、苦力(中国の筋肉労働者)にからかわれたり、小学校に通う日本人児童が、中国人に石を投げられたり、ナイフで切り突けられたりしたのも此の頃です。
 
 

●参考

<『ある軍人の自伝』>
 佐々木到一氏は、此の本を昭和14(1939)年 に書き上げていたが、
 戦時中の為刊行する事が出来なかった。其の後、佐々木到一氏は、終
 戦と共にソ連に抑留され、昭和30(1955)年に死亡している。
  本書が刊行されたのは、死後8年を経た昭和38(1963)年の事であ
 る。最初は普通社より、後には勁草書房からも刊行された。

もう一つの当時の中国共産党の活動については渡辺明著『満州事変の国際的背景』(図書刊行会)に述べられている。
其の目次(『満州事変の国際的背景』から)
ソビエト(コミンテルン篇)
1、中共結党とコミンテルン
2、武力闘争路線
3、第一次山東出兵
4、済南事件
5、コミンテルンと高麗共産党
6、朝共満州総局とパルチザン
7、中共満州省委の策動
 

<幣原喜重郎>(1872?1951)各国公使を経て、大正13(1924)
 年以後、4度に亙って外相を務める。其の外交方針は、対米英協調と対中国
 内政不干渉であり、軟弱外交と非難された(此の非難の言葉は正しくない。
 軟弱外交と云う言葉は、強者の言葉であって、正義から来る言葉では無い。
 軟弱外交と云うより「不義外交」と云う言葉に当てはまる。其れは人間とし
 ての責務を果たしていないから!忍)。45年に首相、序進歩党総裁となり、
 其の後に民主党、民主自由党に参加し、衆議院議長となる(此処で加える事
 は、幣原氏は欧州で留学した時に、フリーメーソンに入っている。そして、
 ロンドン軍縮会議の時に、会議所の外国人に対して国益外交を行わないで、
 同じフリーメーソンの仲間と一致して、国を売ったのである!忍)。