逐日耳に入る所の事件の真相は非憤の種だった。英米仏の軍艦は遂に
場内に向けて火蓋を切ったのに、我が駆逐艦は遂に隠忍した。しかも革
命軍は、日清汽船の客船に乱入して、此れを破壊し、我が艦を目標とし
て射撃し、現に一名の戦死者を出しておる。
荒木(亀男)大尉以下12名の水兵が城門で武装を解除された。在留
外人は全部掠奪され、某々国の何々が殺された。我が在留民全部は領事
館に収容され、しかも3次に亙って暴兵の襲撃を受けた。領事(森岡正
兵)が神経痛の為、病臥中を庇う夫人を夫の前で裸体にし、薪炭庫に連
行して27人が輪姦したとか。30数名の婦女は、少女に至る迄凌辱せ
られ、現に我が駆逐艦に収容されて治療を受けた者が十数名も居る。根
本少佐が臀部を銃剣で突かれ、官邸の2階から庭上に飛び降りた。警察
署長が射撃されて瀕死の重傷を負うた。抵抗を禁ぜられた水兵が切歯扼
腕して此の惨状に目を被うていなければならなかった、等々。
然るに、だ、外務省の広報には『我が在留婦女にして凌辱を受けた者
一名も無し』と云う事であった。南京居留民の憤怒は極点に達した。居
留民大会を上海に開き、支那軍の暴状と外務官憲の無責任とを同胞に訴
えんとしたが、それすら禁止された。等々。実に此れが幣原外交の総決
算だったのである(佐々木到一『ある軍人の自伝』)
尚付け加えますと、此処には「荒木(亀男)大尉以下12名の水兵が城門で武装を解除された」とだけ記されていますが、其の後、荒木大尉は自決を図ります。
何故ならば、荒木大尉は、駆逐艦「檜」から連絡の為に南京の領事館へ派遣されます。其の途中で、中国軍に捕まり武装を解除され、暴行を受けたのです。しかしながら、其の様な事態に遭遇する事になっても、日本人居留民の安全を図る為に、「決して抵抗してはならない」と云うのが、艦長の命令でした。其処で、荒木大尉は、命令に従って無抵抗に徹し、釈放されて帰艦し、更に重巡洋艦「利根」に移った後、其の艦長室に於いて、「日本の軍人として屈辱に堪えない」との言葉を残し、自決しようとした訳です。
戦後生まれの人は、武装解除と云ってもピンと来ないかもしれませんが、此れは、降伏者や捕虜等に対して、其の兵器を強制的に取り上げる事です。其の他に、中立国が自国の港に碇泊している交戦国軍艦に対して行う事もありますが、大体は降伏者や捕虜等に対して行う事です。ですから、武装解除と云うのは、特に軍人に取っては最大の屈辱である訳です。其れも、精一杯に戦って実際に負けたのならば、諦めもつきますし、武装解除を潔しとすると云う事もあるでしょう。しかしながら、幣原喜重郎の外交方針の為に、戦わずして武装解除されねばならなかった訳ですから、軍人に取っては、当に憤死、割腹に値する屈辱でした。
又、当時は、国策として兎に角問題を起こさない様に軍艦等も指導されていましたので、支那人の艀(はしけ)の船頭が日本の砲艦に上がって来る程迄に、侮られ切っていました。上海市内で買物をする日本の婦人が、苦力(中国の筋肉労働者)にからかわれたり、小学校に通う日本人児童が、中国人に石を投げられたり、ナイフで切り突けられたりしたのも此の頃です。
もう一つの当時の中国共産党の活動については渡辺明著『満州事変の国際的背景』(図書刊行会)に述べられている。
其の目次(『満州事変の国際的背景』から)
ソビエト(コミンテルン篇)
1、中共結党とコミンテルン
2、武力闘争路線
3、第一次山東出兵
4、済南事件
5、コミンテルンと高麗共産党
6、朝共満州総局とパルチザン
7、中共満州省委の策動
<幣原喜重郎>(1872?1951)各国公使を経て、大正13(1924)
年以後、4度に亙って外相を務める。其の外交方針は、対米英協調と対中国
内政不干渉であり、軟弱外交と非難された(此の非難の言葉は正しくない。
軟弱外交と云う言葉は、強者の言葉であって、正義から来る言葉では無い。
軟弱外交と云うより「不義外交」と云う言葉に当てはまる。其れは人間とし
ての責務を果たしていないから!忍)。45年に首相、序進歩党総裁となり、
其の後に民主党、民主自由党に参加し、衆議院議長となる(此処で加える事
は、幣原氏は欧州で留学した時に、フリーメーソンに入っている。そして、
ロンドン軍縮会議の時に、会議所の外国人に対して国益外交を行わないで、
同じフリーメーソンの仲間と一致して、国を売ったのである!忍)。