基督教が悪の理由


 道徳の目的は、人の幸せを願うことから始まっている。(これはブッダ様の悟りにいくまでの過程を思い出して欲しいのです。人生の悲しみを覚えることから始まるのです。)キリスト教の教えからはこれを掴むことは難しいと思います。これは、正法者も分からないのではないかと思う。なぜイエス様の教えから掴むことは難しいのかと、いうとイエス様の教えは、親に剣を与えても良いと正当化した教えがあるからこれはものすごく危ない教えであるのです。「私の来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁を姑に。こうして、自分の家族の者が敵となる。」マタイ伝34(このキリスト教が99%が善で1%が悪であるというサタンダビデの宗教であること。家族を否定した宗教であること。宗教の根本的な概念を否定しているのである。いわゆる家の柱を壊した宗教である。サタンダビデはこれを言うためにあの悲劇が起こしたと思います。いつでも、革命を起こすことの出来る宗教であること。)これが共産主義の方向に発展したと思うから。正法者の人は家出を正当化する人が結構多いから。何が共産主義が悪いのか本当に理解をしている人は少ないと思います。家出と出家の区別することが出来る正法者がどれくらいいるのか分からない。たとえ、千乃先生が一人正しいことが分かっても、みんなが理解しなければ悪い方向に行くでしょう。(だから、オーム真理教になりやすい場所になる。)神の法の原点は父親の苦労・母親の悲しみを知ることから始まる。もう一度「天国の証」のブッダ様の章を読んで頂ければ、分かると思います。(何が、末法時代なのか)。
 

親の恩について

「この時、仏、すなわち法を説いて宣わく、
 一切の善男子・善女人よ、父に慈恩あり、母に非恩あり。その故は、人のこの世に生まるるは、宿業を因とし、父母を縁とせり。父にあらざれば生まれず、母にあらざれば育たず。ここを以て、気を父の胤にうけ、形を母の胎に托す。
 この因縁を以ての故に、非母の子を念(おも)うこと世間に比いあることなく、その恩未形に及べり。始め胎を受けてより十月を経るの間、行・住・坐・臥ともに諸々の苦悩を受く。苦悩休む時なきが故に、常に好める飲食・衣服を得るも、愛欲の念を生ぜず。ただ一心に安く産まんことを思う。
 月満ち日足りて、生むとき至れば、業風吹きてこれを促し、骨節ことごとく痛み、汗膏ともに流れて、その苦しみ堪えがたし。父も心身おののき懼れて、母と子とを憂念し、諸親眷属みなことごとく苦悩す。すでに生れて草上におつれば、父母の喜び限りなきこと、なお貧女の如意珠を得たるが如し。その子声を発すれば、母も初めてこの世に生まれ出でたるが如し。
 それより、母の懐を寝処となし、母の膝を遊び場となす。母の乳を食物となし、母の情けを生命となす。飢えたるとき食を求むるに、母にあらざれば哺わず。渇けるとき飲を求むるに、母にあらざれば咽まず。寒きとき服を加うるに、母にあらざれば着ず。暑きとき着物を取るに、母にあらざれば脱がず。母、飢えにあたる時も、哺めるを吐きて子にくらわしめ、母寒さに苦しむ時も、着たるを脱ぎて子に被らす。母にあらざれば養われず、母にあらざれば育てられず。
 その闌車を離るるに及べば、十指の甲の中に子の不浄を食らう。計るに人々、母の乳を飲むこと一百八十斛となす。父母の恩、重きこと天の極まりなきが如し。
 母、東西の隣里に傭われて、或いは水汲み或いは火たき、或いは碓つき、或いは磨ひき、種々の事に服従して、家に還るのとき未だ至らざるに、今やわが児、わが家に啼き哭きて、吾れを恋い慕わんと思い起せば、胸さわぎ心おどろき、両乳ながれ出でて、忍び堪うること能わず。すなわち去りて家に還る。児、遥かに母の来るを見て、闌車の中に在れば則ち頭を揺るがしこうべを弄し、外に在れば則ち匍匐して出で来り、空泣きして母に向かう。母は子のために足を早め身を曲げ、長く両手をのべて塵土を払い、わが口を子の口につけつつ、乳を出だしてこれを飲ましむ。このとき母は子を見て歓び、子は母を見て喜ぶ。両情一致恩愛のあまねきこと、またこれに過ぐるものなし。
 二歳、懐を離れて始めて行く。父に非ざれば火の身を焼くことを知らず、母に非ざれば刃物の指を墜すこと知らず。
 三歳、乳を離れて始めて食らう。父に非ざれば毒の命を落とすことを知らず。母に非ざれば薬の病を救うことを知らず。父母、外に出でて他の坐席に往き、美味珍羞を得ることあれば、自らこれを喫うに忍びず、すなわち懐に収めて持ち帰り、よび来りて子に与う。十たび還れば九たびまで得。得れば即ち常に歓喜してかつ笑いかつくらう。もし過りて一たび得ざれば、則ちいつわり泣きいつわり哭きて、父に責まり母に逼る。
 やや成長して朋友と相交わるに至れば、父は衣を求め帯を求め、母は髪を梳り髻をなで、己が美味の衣服はみな子に与えて着せしめ、己れは則ちふるき衣、破れたる服をまとう。
 既に婦妻をもとめて他の女子を娶るれば、父母をばうたた疎遠にして、夫婦は特に親しみ近づき、私房の中において妻と共に語らい楽しむ。
 父母、年たけて気老い力衰えぬれば、頼るところの者はただ子のみ、頼む所の者はただ嫁のみ。しかるに夫婦ともに朝より暮れに至るまで、未だあえて一度も来り問わず。或いは父は母を先きだて、母は父を先だてて、一人空房を守りおるは、なお弧客の旅寓に寄泊するが如く、常に恩愛の情なく、また談笑の娯しみなし。夜半、衾、冷ややかにして五体安んぜず、況や衣に蚤・虱多くして、暁に至るまで眠られざるをや。幾度か輾転反側して、独言すらく、ああ吾れ何の宿罪ありてか、かかる不孝の子をもてると。
 事ありて子を呼べば、目をいからして怒り罵る。婦も児もこれを見て共に罵り共に辱めば、頭を垂れて笑みを含む。婦もまた不孝、児もまた不順、夫婦和合して五逆罪を造る。
 或いはまた急に事を弁ずることありて、疾く呼びて命ぜんとすれば、十たび喚びて九たびたがい、ついに来たりて給仕せず。却って怒り罵りいわく、老いぼれて世に残るよりは、早く死なんにはしかず、と。
 父母これを聞いて、怨念胸に塞がり、涕涙瞼をつきて、目眩み心惑い、悲しみ叫びていわく、ああ汝幼少のとき、吾れにあらざれば養われざりき、吾れにあらざれば育てられざりき。而して今に至れば、則ち却ってかくの如し。ああ吾れ汝を生みしは、もとより無きにしかざりけり、と。
 もし子あり、父母をしてかくの如き言葉を発せしむれば、子は則ちその言葉と共に堕ちて、地獄・餓鬼・畜生の中にあり。一切の如来・金剛天・五通仙も、これを救い護ること能わず。父母の恩、重きこと天の極まりなきが如し。善男子・善女人よ、別けてこれを説けば父母に十種の恩徳あり。何をか十種となす。」
( 親の恩。1.懐胎守護の恩、2.臨産受苦の恩、3.生子忘憂の恩、4.乳哺養育の恩、5.廻乾就湿の恩、6.洗潅不浄の恩、7.嚥苦吐甘の恩、8.為造悪業の恩、9.遠行憶念の恩、10.究竟憐愍の恩、そして、此の父母の恩は、重きこと天の極まりなきが如し。「佛説父母恩重経」より )
 

正しい親孝行の仕方

「この時、阿難、座より立ちて偏に右の肩をあらわにし、長跪合掌して、すすみて佛にもうし曰さく、世尊よ、是の如き父母の重恩を、我ら出家の子はいかにして報ずべき。つぶさにその事を説示し給え、と
 佛、宣わく、汝等大衆よく聴けよ。孝養の一事は、在家出家の別あることなし。出でしとき新しき甘果を得れば、もち去りて父母に供養せよ。父母これを得て歓喜し、自ら食らうに忍びず、まずこれを三宝に廻らし施さば、則ち菩提心を啓発せん。父母病あらば牀辺を離れず、親しく自ら看護せよ。一切の事、これを他人にゆだねることなかれ。時を計り便を伺い、懇ろに粥飯をすすめよ。親は子のすすむるを見て強いて粥飯を喫し、子は親の喫するを見てまげて己が意を強くす。親しばらく睡眠せば、気を静めて息を聞き、睡り覚むれば医に問いて薬をすすめよ。日夜に三宝に恭敬して、親の病の癒えんことを願い、常に報恩の心を懐きて片時も忘失することなかれ。
 この時、阿難、また問いていわく、世尊よ、出家の子よく是の如くせば、以て父母の恩に報ずとなすや。
 佛、宣わく、否、いまだ以て父母の恩に報ずるとはなさざるなり。親、かたくなにして三宝を奉せず、不仁にして物を損ない、不義にして物を盗み、無礼にして色にすさみ、不信にして人を欺き、不智にして酒にふけらば、子はまさに極諌してこれを啓悟せしむべし。もしなお闇くして、未だ悟ること能わざれば、則ちために譬を取り類を引き、因果の道理を演説いて、未来の苦患をすくうべし。もし猶かたくなにして未だ改むること能わざれば、啼泣歔欷して己が飲食を絶つべし。親、かたくななりと雖も、子の死なんことをおそるるが故に、恩愛の情にひかれて、強いて忍びて道に向わん。
 もし親、志をうつして、佛の五戒を奉じ、仁ありて殺さず、義ありて盗まず、礼ありて婬せず、信ありて欺かず、智ありて酔わざれば、則ち家門のうち親は慈に、子は孝に、夫は正に、婦は貞に、親族和睦し、婢僕は忠順に、六畜忠魚に至るまで普く恩沢を被りて、十方の諸佛、天竜鬼神、有道の君、忠良の臣より庶民万姓に至るまで、敬愛せざるはなく、暴悪の主、侫嬖の輔、兇児妖婦、千邪万怪も、これをいかんともすることなけん。ここにおいて父母、現世に安穏に住し、後世には善処に生じ、佛(仏)を見、法を聞きて、長く苦輪を脱せん。かくの如くにして、はじめて父母の恩に報ずる者となすなり。
 佛(仏)、さらに説を重ねて宣わく、汝等大衆よく聴けよ、父母のために心力を尽くして、あらゆる佳味、美音・車駕・宮室などを供養し、父母をして一生遊楽に飽かしむるとも、もし未だ三宝を信ぜざらしめば、なお以て不幸となす。いかんとなれば、仁心ありて施を行い、礼式ありて身を検し、柔和にして辱を忍び、勉強して徳に進み、意を寂情に潜め、志を学問に励ます者と雖も、ひとたび酒色に溺るれば、悪魔たちまち隙を伺い、妖魅すなわち便を得て、財を惜まず、情を蕩かし、忿を発し、怠を増し、心を乱し、智を晦まして、行いを禽獣に等しくするに至ればなり。
 大衆よ、古より今の及ぶまで、これによりて身を亡ぼし、家を滅ぼし、君を危うくし、親を辱めざるはなし。この故に沙門は、独身にしてつれあいなく、その志を清潔にして、ただ道をこれ務む。子たる者は深く思い遠く慮りて、以て孝養の軽重緩急を知らざるべからざるなり。およそこれ等を父母の恩に報ずるの事なす。
 この時、阿難、涙を払いつつ座より起ち、長跪合掌してすすみて仏にもうして曰さく、世尊よ、この経はまさに何と名づくべきや。また如何にして奉持すべきや、と。
 佛(仏)、阿難に告げ給わく、阿難よ、この経は父母恩重経と名づくべし。もし一切衆生ありてひとたびこの経を読誦せば、則ち以て乳哺の恩に報ずるに足らん。もし一心にこの経を持念し、また人をしてこれを持念せしむれば、まさに知るべし、この人はよく父母の恩に報ずることを。一生にあらゆる十悪・五逆・無間の重罪も、みな消滅して、無上道を得ん、と。」

「わが子らよ、なんじらの父なる我に聞き、救われんがためにこれを守り行なえ。そは主、子らにまさりて父に光栄を与え、子らに対する母の権利を堅めたまえり。父を敬う者は、罪の贖いをなし、母をあがむる者は宝を積むなり。父を敬う者は、おのが子らの喜びを受けん。また、その祈るとき聞かるべし。父をあがむる者は長き命を保たん。主に従う者はその母に慰めを与うべし。彼は主に仕うるごとくその両親に仕うべし。言葉と行ないをもてなんじの父を敬え。父よりの祝福なんじに来たらんためなり。父の祝福は子らの家を堅むれども、母ののろいはその基をくつがえす。なんじの父をはずかしめて おのれを高しとすな、そは父の不名誉はなんじの光栄にあらず。人の光栄は、父を敬うことより来たり、母を尊ばざるは子の恥なり。子よ、老いたるなんじの父を助け、その命の限りこれを憂えしむな。その悟り衰うともこれを忍べ、おのが力強くとも彼を軽んずな。父への慰めは忘らるることなし、そはなんじの罪のつぐないとならん。なんじの苦難の日にこのこと覚えられ、好天に溶くる霜のごとく、なんじの罪は消え去らん。その父を捨つる者は神を汚す者に等しく、その母を怒らしむる者は主によりてのろわれん。」(「ベン=シラの知恵」より)
 

「また翻って思いを親子の関係に至らせますと、現代は親無きがごとく、子無きがごとく振る舞うのが常識であり、現代的な非常な感覚を身につけることが成人することであるかのごとく考え違いをしている若き世代あるいは子の親である中年層、またそれに習って老人までもが非常で冷酷な考え方を、子供であり、また子の親でもある四、五十歳代の人々に押しつけたり、互いが互いに不信の念でもって冷淡に接し、共に社会に勝手な人生を生きることが共存であると思い違いをしているーーー。
 これは現代のインドのみならず、古代インド、中世のインド、の歴史を通じてあり得ない、起こり得ないことなのです。
 これはいまだにカースト制度と言って、国自体が四つの階級に分かれ、同じ階級に属する者同志以外には心の交流も、知識の交流も無い。自由な人間であることも認められないという悪習が残っており、しかしそのゆえに家族制度の良さも残されているからでしょう。
 そして先ほど申しました非常な世代が世界中至るところに有るのが現代であり、末法の世であると私達が申している世界なのです。
 そのため最後の裁きが天上界の手にて行われ、私達一人一人がその結果を待たなければならなくなりました。すべてが罪に断じられて宣告を下され、一人としてそれを免れることはない。そのような恐ろしい神の怒りが下りました。」(「天国の証」ブッタ様より)
 

日蓮上人の遺文
「親は十人の子を養えども子は一人の母を養う事なし」
「心の内に父をあなずり母をおろそかにする人は地獄その人の心の内に候」
「子にすぎたる宝なし子にすぎたる戝なし」
「妙法なるが故に人貴し人貴きが故に所貴し」
「浄土といい穢土というも土に二つの隔てなしただ我等が心の善悪によると見えたり」
「世をあわれみ人を助けよこれわが罪を消し行く末の悪をのがるる道なり」
「一日の命は三千界の戝にもすぎて候なり」
「孝と申すは高なり、天高けれども孝よりは高からず、また孝とは厚なり、地厚けれども孝より厚からず。聖賢の二類は孝の家より出でたり。何に況や佛法を学せん人、知恩報恩なかるべしや。佛弟子は必ず四恩を知って、知恩報恩を致すべし。
 四恩=一切衆生、父母、国王、三宝の恩をいう。」(開目鈔)
「まず臨終の事を習うて後に他事習うべし」
「たとい貧なりとも信心強うして深からんは佛に成らんこと疑いあるべからず」
「それ一切衆生の尊敬すべきもの三つあり主師親これなり」
「わざわいは口より出でて身を破り幸いは心より出でて我を飾る」
「天晴れぬれば地明らかなり法華(天地大自然の法)を識る者は世法を得べきか」
「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財よりも心の財第一なり」
「法華經を一字一句も唱えまた人にも語り申さん者は教主釈尊の御使いなり」
「女人は水の如し。器物に従う。女人は矢の如し。弓に番はる。女人は船の如し、楫の任するに依るべし。而るに女人は夫盗人なれば女人盗人となる。夫王なれば女人后となる。夫善人なれば女人佛になる。今生のみならず後生も夫に依るなり。」(桟敷女房御返事)
「矢の走る事は弓の力、雲の行く事は龍の力、夫の仕業は女の力なり。今富木殿の是へ御渡りある事、尼御前の御力なり。煙を見れば火を見る、雨を見れば、龍を見る。夫を見れば女を見る。今富木殿に見参仕れば、尼御前を見奉ると覚う。富木殿の御物語り候は『此のはわ(母)の嘆きの中に、臨終の能く御座せしと、尼が能く当り看病せし事の嬉しさ、何の世に忘るべしとも覚えず』と悦ばれ候なり。」(富木尼御前御返事)
 
 
 

●共産主義の悪の理由 <ラファエル大王補佐様>

「第一に、神とモラルを否定し、良心の声を無視する。
 第二に、社会を支え、国家を支えている法律、諸規則、習慣、伝統(法華經体制!忍)を破壊する目的を持って計画し、行動する。
 第三に、家族離散を企み、人間相互の唯一のつながりである愛の価値観を歪め、砂漠のような乾いて冷酷な人格作りを目指す。
 第四に、キリスト教の神によって定められた、一夫一婦制の結婚の価値を減じ、動物と同じ乱婚、雑婚、離婚を当然して、罪の意識を無くさせてしまう。
 第五に、生と死に無関心となり、女性や子供でさえ、殺人や虐待を何とも考えず、容易に行えるような心理状態を社会に作り出す。
 現実にこういった意図で、数々、文学作品や、テレビやラジオの放映、放送用のドラマやコマーシャル作品が絶え間なく作られ、子供向けにマンガ化されて居ることは、誰もが否定できない社会現象です。
 そして第一から第五までを忠実に実行した人々はどのような態度で生活していますか?荒んでいる人(非行少年少女や、いじめ、凶悪犯罪者の増加)のみ増えて、大らかに伸々と、希望に溢れ、美しいものを喜び、かげりのない笑いを持つ人や子供はこの国から消えています。他の自由主義諸国も同じ。共産主義・社会主義思想(第一から第五を計画し実行する思想)やリベラリズム(第一から第五に共鳴し、自ら行動に移す人々)が浸透し、浸食が進んでいる国は特にこの現象が著しいですね。この悪魔(の思想)が否定するものを分析すると答えは二種類しかありません。良心や愛は人間社会と種の存続の保護につながり、”種の繁栄と存続”を。性の乱れは、犯罪と闘争と死につながり、”種の滅亡”を招きます。神は前者を望み、良心と愛と生命を人間の世界にもたらしました。悪魔は後者を望み、闘争と死をもたらそうとしているのです。私たちを信じるあなた方も、信じず従っていない人々も生命と死のどちらを選びますか?」