プ ロ ム ナ ー ド
南京大虐殺に対する一つの考察
(南京虐殺が共産党軍の仕業の可能性と伝聞証拠)
(そして、旧日本軍に依る満州建国の正当性とは。 !! )
開いて頂いて有り難う御座います。
南京大虐殺と言うと、現在に置いてはそれは「多くの歪曲と捏造が交えられていたお話」と言う所が、世界に観念付けられる様に成ったと言い得ると思います。
私は学の無い単純労働者では有りますが、この問題に関して大きな懸念を感じる人間の一人として、復員の叔父さん達から聞かされていたお話を交えながら、思う所を記述して置きたいと思うのです。
南京大虐殺と言う言葉を聞く度見る度に感じる懸念とか、違和感と言う所を申し上げますと、本来は人間社会の中に有り得ない筈のタイムスリップが受け入れられながら、中国主体の歴史観に基づいて謝罪要求の是非が議論されて来た様な気がするのです。
1960年代に2,000万人もの餓死を出した貧困飢餓から日本が救済した事を度外視してです。
中国と北朝鮮の国境に関しても、戦争直後の白人列強と中国のイニシアチブの産物のそれを、神が判定して定めたもので有るとする前提の下でです。
現在の中国に、日本の軍隊が侵攻したとすれば、それは何処の国の国民に判断して頂いても、
「非道な事で有るから止めさせなければいけない。」
この様な御発言で終始すると思います。
南京に置いても同じです。
ですが私はこの当然至極の事から、大きな違和感を感じたのです。
現在の中国や南京を思い浮かべて、そこに他国の軍隊が侵攻する事は良い事で有るのか悪い事で有るのかと言う議論を展開すれば、完全に答えは決まっているのです。
当然の事として、不必要な戦闘はいらないと言う結論に達します。
不必要な南京城建設は要らない、と言う事に成ります。
勿論、紫禁城の建設もです。
当然です。
現在の中国にはそれを必要としない国力とそれを生みだしている政府が有りますから。
本来は、その様な意味の無い前提の下の議論は有る筈も無い事で有るのですが、現代に生きる人間社会全体が、ここに填り込んでしまっている様な気がするのです。
機を衒う様な素朴な疑問の披露に成ってしまいましたが、では、本来的にはどの様な議論が有って欲しい、或いは有るべきと感じるのかと言うと、旧日本軍が紫禁城を建設して中華民国政府を援助し、南京に城壁を建設して平穏な市民生活を営む空間を提供しながら、難民支援、中国支援を行っていた時代の内陸部の社会の実体。
そして1937年10月に共産ゲリラに城壁を突破されてから、旧日本軍が入城する時の南京城内の状況、こうした所にスポットライトを当ててそれが如何に他国の軍隊の侵入を必要としない人間社会のレベルの状況で有ったのか、これが真っ先に論じられるべき事で有ったかも知れない、と言う見地です。
勿論、日中戦争の後の中国に置きましても凄惨な内戦に依る犠牲者が有り、内戦終結後の粛正を兼ねた万里の長城修復延長工事に依って、700万人の人間が虐殺死同様に過労死していたと言う状況も有ります。
そうした事に関して他国からは全く干渉する事も無く、台湾などから上げられる政治宣伝の様なその批判に説得される形で、1960年代に成ってから日本からの万里の長城修復の為の資金提供が停止して、中国に対して非道な行為が無い事を希望すると言う様な、抽象的な声明が伝えられる、と言う状況も有りました。
1950年代の中国と日本は国交を回復する前で、関係する事と言えば、紫禁城を中国の文化遺産として残す交換条件として、万里の長城修復延長工事などに関して資金提供が約束されていたと言う様な所で有ったと思います。
この年代の初期には国交回復前としては最大の干渉が有り、旧日本軍が総督府として中世の紫禁城の城跡に建設した、紫禁城に似せた総督府を破壊しようとしていた中国共産党に対して、アメリカを通して思いとどまる事を求めた、と言う経過が有ったと思います。
この時には、紫禁城の破壊を思いとどまる条件として、日本がその建物を中国の文化遺産として公に認める姿勢を現す事と、天安門の建設費を全額支援すると言う事で有ったと思います。
そして現在のあの様な立派な史蹟が残っていると言う次第です。
さて、日中戦争が終結してから再び国交が回復する迄の間の中国に対する日本の干渉の在り方と言うと、まるで象の廻りで蟻が動き回る程度のもので有りました。
その地でどの様な非道な戦争や粛正の嵐が吹き荒れようとも、で有ります。
軍事的に介入しようなどとは思いもしない状況で有ったと思います。
所で、どうしてでしょうか。どうして日中戦争が集結してから再び国交が回復する迄の間の中国に対する日本の干渉の在り方とは、象に対する蟻の程度で有って、旧日本軍が朝鮮半島に侵攻してから太平洋戦争が終結する迄は、軍事的な介入をすると言う対照的な違いが有ったのでしょうか。
ま、勿論、環境としての世界の枠組み、世界情勢が対照的に違っていたと言う事も有ると思います。
例えば南京入城の頃には、独立した主権国家の立場を回復している東洋人国家と言うと日本だけで有ったのです。
その10年ほど前の1927年と言うと、独立した筈のイラクに置いては、イギリスの植民地と成ったインド軍に依る侵攻と武力制圧が行われていたので有りました。
ま、大概、他国の事で有るから関係ないと信じていられる世界情勢では無かった、と言う事が言えるかも知れません。
世界情勢は世界情勢として、中国とその中の南京の状況とはどの様な状況で合ったのでしょうか。
統一された軍隊は存在していたのでしょうか。
統一された政府は有ったのでしょうか。
そもそも人間社会としての最低限のモラルは備わっていたのでしょうか。
少なくともそれが回復する可能性を信じられる状況に有ったのでしょうか。
南京大虐殺を考える時、旧日本軍の活動の是非を考える時には、こうした点にこそ焦点を当てた議論が展開されるべきで有った様な気が致します。
極論としては、理性的な政府など存在せず、1937年10月の時点では強姦殺人、強盗虐殺、こうした事が蔓延して、さながら地獄絵図の様なものが展開されていたとすれば、その地に軍隊として足を踏み入れ、非道を止める行いは批判を受けるべき行いと言い得る事で有ったのでしょうか。
更には、その地の住民一般と第三者的立場の国連監視団から、非道な行いをした犯罪組織の構成員に対する捕縛と処刑を求められ、実際に250人ほどの人間を処刑したとしても、それはやはり批判を受けるべき行いで有ったのしょうか。
南京大虐殺に関する議論が行われる時には、対立軸として、ここに上げた極論からスタートする弁者の存在が不可欠で有った、と言えるかも知れません。
そしてその反対側の立場の見地から行われる積極果敢な調査と検証こそが、歴史観念を決定する為には必要とされていた筈の大きな前提条件とされる所で有ったと言えるかも知れません。
確かに旧日本軍の活動を否定する立場の対立軸からは、かなり徹底的な調査と検証が行われて来たと思います。
ですが彼等から現された事の殆どは、虚言と捏造で有りました。
その様な根拠の上に築き上げられた歴史観念とは、人類に平和と幸福をもたらす事と期待できる事で有ったのでしょうか。
もしかすると、大きな災いと不幸を撒き散らすだけの行いで有ったかも知れません。
そうした懸念から、更に掘り下げて記述して置きたいと思います。
私が復員の叔父さん達から聞いていたお話を朧気な記憶から引き出して見ますと、南京入城の10年位前には、旧日本軍の建設した紫禁城と言う総督府に蒋介石氏が陸軍大臣を務める政権が有ったとか言います。
で、どうして左遷する事が決定されたかのと言うと、中国人社会の中で生活風俗として継承されて来た「軒下に黄色い札を貼らせる行為」を行った、と言うのです。
その黄色い札の意味は、
「軍隊や政府関係者がお越しに成った時には自分の娘を性的饗応に差し出します。
お気に召せば当分の間、召使いとして使用して頂いて宜しいです。」
この様な意味が有ったと言うのですね。
で、生活風俗としてそうした行いが現されない民家に対しては、敵陣営のゲリラを支援する居住者として強姦殺人、強盗虐殺が行われていた、と言うのです。
旧日本軍の立場としては、「五目の三四」に掛かった様なもので有ったと言えるかも知れません。
その蒋介石氏の行いを是認すれば、後に後見役としての旧日本軍に批判が及ぶのは当然です。
かと言って、1927年の北伐遠征司令官の蒋介石氏がその遠征の後でクーデター的に設立した、武漢政府を徹底的に打倒しようとすれば、王精衛政権までもが共産党の側に傾倒する事は目に見えていた事で有ります。
ソフトランディングと言う事で、南京郊外から武漢に関しての治安維持に協力を得ると言う関係を維持した、と聞き及びます。
そして後には上海と南京郊外に飛行場を建設し、旧型の戦闘機を払い下げて訓練をする関係に迄に至っていた様で有ります。
で、ここからです。
旧日本軍が南京入城を果たさざるを得ない状況に至った、と、私が考える状況とは、次なる状況です。
つまり、蒋介石軍は北京の紫禁城で反撃するとか奪還する事を試みる事も無く、軍隊を連れて、南京政府の協力を得て武漢を拠点として勢力の拡大を図った、と言う感じです。
数年後にはラーベ氏の協力を得て実際に大きな軍事力を持つに至っていたが、中国共産党に依るいわゆる「漢口の奇蹟」成る謀略で、組織内部に性的接待に依る懐柔工作でドイツ式の規律を崩壊させられたのだと思います。
現在に置いても九の一麺麭射武者部と言う名前でその種の活動は存在している様で有りますが、当時は女紅衛兵と称され高く評価されていた様で有ります。
そしてついには共産党に海容な立場を選択し、1937年8月9日に始まる第二次上海事変に置いて、14日午前10時には、蒋介石軍のマーチン爆撃機がフランス租界の大世界ビルを爆撃してしまって、中国人女性と白人1,000人を越える犠牲者を出してしまったのでした。
他方、南京では、小康状態で有った共産ゲリラが、南京城壁を建設する時に使っていた揚子江沿岸のコンクリート生コン工場を日本側から払い下げて貰ってから悪用し、南京城を取り囲む様に小型要塞を建設してしまった事で以前から小競り合いが生まれていたのですが、9月頃から激しい波状攻撃を始め、とうとう南京城壁を突破してしまったのでした。
蒋介石軍は、南京城に対する波状攻撃を黙認する姿勢を選択し、城壁を突破した時にも何ら干渉せず、幹部の合流する行動も黙認する姿勢を選択するに至ったものと考えます。
南京城内にも、当然近代工業化の為の日本人労働者も多数働いていたので有り、日本領事館を防衛する様にバリケードを築き、備品の武器を持って他の中国人労働者と力を合わせての攻防戦が旧日本軍の援軍を待つ様に行われていた様で有ります。
私はこの様な有様を復員の叔父さん達から聞いた時には、大変に整合性の有るお話と感じました。
付け焼き刃の人間社会の政府が歯止めを失った時には、往々にして有り得る事と感じられたのです。
人間や安全区の配置も整合性の有る所と感じました。
そしてその様な事の起きうる社会の傾向を現す、南京城と言う町の特異な構えにもです。
こうした考察は旧日本軍が南京入城を果たす時の、一般的に伝え聞かれる様な、
「旧日本軍が南京に入城する時には殆ど戦闘が行われず、治安の為の盗賊との戦いが散発的に有っただけ。」
と言う所とも整合性が有ると思うのです。
ですが全体としては、論理的に脆弱な気が致します。
ですから私の主張とは、検証を求めたいとする一つの仮定論と言う感じです。
1927年の北伐遠征司令官として遠征した後の、蒋介石氏に依る武漢政府の樹立は、当時はクーデターとして行われたと言う所が意外に重要な気も致します。
アメリカも正式に認めていた孫文政府とは、1905年に日本の東京で作られた「中国革命同盟会」が始まりで有るのですが、孫文氏は1925年に没しています。
その後は蒋介石氏が一年余りの間、軍部の責任者として正式な政権を維持していて、左遷された後は共産党を容認する政策を示して合流する様に武漢政府を宣言している様で有ります。
そして内部崩壊して武漢政府が潰れた時には南京政府に吸収される事を選択している様で有ります。
1927年以後の正式の流れを持つ政府と言うと、王精衛政府と言う事で、小さな紛争は有ったものの、旧日本軍とは一応の妥協の形が維持されていた様です。
この他にも軍閥が有って、それぞれに抗争を展開していたわけで有ります。
で、中国特有の戦い方として、戦場にされた地域社会では強姦殺人、強盗虐殺が少なく無かったと言う状況が有ります。
大変に複雑な状況では有ります。
こうした状況に置いてです。
目を引くところとして、蒋介石氏の武漢政府と言うものがクーデター政権で有ったと言う点です。
私がここに考える所は、クーデターと言うのだからそれが宣明される迄は正式な政権としては存在していなかったで有ろう、と言う事です。
そして南京の在り方としては、かなり近代工業化が進んでいたで有ろうと言う感じです。
で有れば、確かに日本人に対する反発も増幅していたで有ろう事は考えられます。
ですから確かに純粋の中国人政権で有る蒋介石政権は王精衛政権より歓迎される政権で有ったかも知れません。
ですが蒋介石軍は南京郊外と上海に旧日本軍の支援を受けて空軍飛行場を築き上げ、旧型では有りますが戦闘機の払い下げも受けているので有ります。
共産系の労働者に対しても、日本側から揚子江沿岸の生コンプラント工場が払い下げられている所から、一事はかなり関係が修復されていた様にも感じられます。
南京城が完成してからは、南京城内に置いては強盗に襲われる事も無く、テロ的破壊行為も無くなり、生活風俗的な強姦被害も殆ど無く成ったと聞き及びます。
ですが、南京が犯罪常習犯の入り込めない町に成ってしまった事が、返って中国人社会から嫌われる原因に成ってしまっていた様で有ります。
小型要塞を生かした共産ゲリラの波状攻撃が本格的に始まり、南京城の城壁が破られたのは10月初頭と聞き及びます。
ここに南京城内の市民生活者の社会から、嘗て自分達の正式な政権で有った王精衛政権、そしてその後見役として理性的に存在する旧日本軍に対して救援を求めたとしても、当然の事で有ったと思います。
私がここに記述した自分の類推する所は、大凡、復員の叔父さん達から聞いていたお話を自分なりに纏めたみた記述で有ります。
旧日本軍が南京に侵攻したと言う事は確かに外国の軍隊に依る侵攻と言う大変な事で有りますが、北京と南京とは名前は似ていても距離はかなり離れています。
そして旧日本軍が満州国から国境を越えて南京に入城するまでには殆ど武力衝突が無かった様なお話も伺います。
とすれば、王精衛政権も南京城内の居住者も、侵攻や侵略を受けたとするより、寧ろ旧日本軍に現在のPKFの様な活動を要請したと言う事は考えられないでしょうか。
それと思わしき書簡は全く現在に残されていないのでしょうか。
その様な書簡が一つも無いとしても、ここまでに記述した事が大筋の事実として肯定される様な物的証拠となり得る要素が、全く無いわけでも有りません。
その物的証拠とは、何を隠そう、実は南京城の城壁そのものです。
はい。
当時作られた世界のコンクリート築造物の中で、殆ど補修無しで原型を留めている築造物とは、旧日本軍の技術支援で建設された南京城城壁、重慶の防空壕、重慶の倉庫、そうしたものだけで有り、日本が関係しないで作られた当時の中国国内のコンクリート築造物は、殆ど瓦礫の山に成って原型を留めているものは無いのでは無いでしょうか。
その城壁の構造と存在性にこそ、識者賢者の精密な目を向けて頂いて、旧日本軍の南京入城の正当性を主張する能動的な論の展開が有って欲しいと感じます。
もし、私などが認識している通りの南京入城の形で有りますと、充分に正当性を主張できる様な気が致します。
虐殺事件に関しては、国際連盟の監視団の中に感情的に成って積極的に処刑する事を求めた人間がいて、処刑しなければいけない雰囲気に成ってその様な結果に成ったと聞き及びます。
「後に東京裁判で有罪を主張する証人として証言した人間の中に、その人間がいた。」
と聞き及びます。
これも如何にも有りそうな気もするお話で有ると、私は認識して来ました。
南京城内に運び込まれた20,000人を越える虐殺死体に関しては、旧日本軍が虐殺をしたのでは無く、朝鮮半島統治が崩壊した時に南京周辺に移住していた華僑の李一族に対する韓国民間人と朝鮮軍に依る報復行為の産物で有ったと聞き及びます。
8月の第二次上海事変に置ける旧日本軍の被害はさほど無かった事から、1937年8月頃に南京に復帰したラーベ氏の仲介で、再び休戦協定を結んでいた蒋介石軍に南京郊外の治安維持を依頼していたが、全く動かなかったので大きな惨事が発生した場所が有った、と言う事の様です。
「犠牲者の処置を自分達の判断に任せる。」
と言ったら南京城内に持ち込んだと言うのです。
南京虐殺事件前後に、旧日本軍と国民党軍が休戦協定を結んでいたり同盟関係に有ったとする所は気を衒うお話の様に感じられるかも知れません。
ですが蒋介石軍は1941年昭和16年1月6日、「かんなん事件」と呼ばれる戦闘で共産党新四軍に死者一万人を越える損害を与えています。
同年2月末、蒋介石軍は日本の第13軍に対して帰順し、旧日本軍は食料、弾薬を与えています。
その支援で蒋介石軍は再び共産党軍と戦っています。
こうした所をご確認いただければ、整合性の有る事とお考え頂けると思います。
南京郊外に置ける朝鮮人と朝鮮軍に依る虐殺を国民党軍が阻止できなかった理由には、彼らが日本の国旗を掲げていた事が大きな理由と言う所も聞き及ぶ次第です。
南京郊外の虐殺ビデオに関してはアメリカ人旅行者が収録した8ミリ映写ビデオと言うものが実在していて、最近に置いて日本円にすると6,000円程度でアメリカ国内で売り出されたと聞き及びます。
これはインターネットメールに置いて確認済みの事実で有りますから、きっと近い将来はそうした事実も明らかにされるものと期待しております。
全体として振り返って見ると、旧日本軍の活動に正当性を見出す事は出来ない事で有ったのでしょうか。
外国の軍隊として侵攻したと言う事は、如何なる状況に置いても批判を受けるべき事で有ったのでしょうか。
1927年の小さな南京大虐殺事件で、アメリカが引き上げた中国の状況が、現代に置いてアメリカの出動を必要とするアラブ情勢、ユーゴ情勢と同じかそれ以下で有り、東アジアに置いてアメリカの代役を勤める事が出来る国が有ったとすれば、私は旧日本軍で有ったと思います。
改めて書き加えますと、南京などの中国国内の都市に大挙して日本人が経済進出を展開していましたのは、日本の横浜などで檄を飛ばして西洋に対抗して進出を求めた孫文氏に動かされての事で有りました。
そこには日本人の思いも寄らない生活風俗の容認など一言も無かったと思います。
そして孫文氏がご存命の間は、その特異な生活風俗の出現は目立った現れ方をしていなかったと思います。
大和民族の日本人の立場からしますと、私は南京入城が外国の軍隊に依る侵攻と言う形では有りはしても、充分に正当性を主張できる立場に有ると考えます。
1960年代の中国以上に、近代化の困難な中国の時代に有って経済進出を求められ、その気に成って多数の技術者と労働者を繰り出して見れば、襲いかかられると言う結果に至ってしまったのです。
軽装備の武力の備品では、幾日も持ちこたえられる筈も有りません。
町を防衛する隔壁が崩され、凄惨な状況が展開される事は目に見えていた状況に有ったので有ります。
矢も楯も堪らず、南京に侵攻する事に成ったのでは無いでしょうか。
1990年代の中国と1960年代の中国の様子には大きな隔たりが有る様に、それ以上に1990年代の中国人社会と1930年代の中国人社会の様子は、全く別世界で有ると思うのです。
どうもこの南京入城と言うと、南京大虐殺と言うエンターテイメント的な存在に焦点が引き寄せられてしまい、他の要素が全然トンと頭に浮かんで来ないと言う所が不思議で成りません。
ですが考えて見ますと、南京入城以前から日本軍と王精衛軍との衝突は有ったのです。
1932年に満州国が作られたのですから。
で有りますが当時は国連も休止していた時代で、中国以外の他国からはそれ程反発は無く、イギリスからは対ロシア防衛の見地から歓迎される向きさえ有ったのです。
そこの点に関しては、満州国建設の大きな要因の一つとして朝鮮軍の活躍が着目されるべきで有ったのかも知れません。
考えて見ますと、遼東半島の存在は当時に置いては現在のインドとパキスタンに置けるカシミール地方と同じ存在で有ったと言えるかも知れません。
朝鮮人に取っても、同じ古墳文化を持つ日本人の目から見ても、遼東半島や満州地域とは、共通する古墳を持つ高句麗民族の古来からの領土で有ったのです。
万里の長城の最古のものは高句麗を守る形で位置している事も、高い整合性が有ると言えるのでは無いでしょうか。
多くの識者の更なる検証が得られれば幸いです。
お読み頂いて有り難う御座いました。