プ ロ ム ナ ー ド

醜い韓国からの脱出>Natchi-fan様/鳩

 掲示を拝見させて頂きました。
 それで日本人の一人として申し上げたい事が有りまして、横レスを入れさせて頂く事に致しました。
 宜しくお願いします。

 あなた様の掲示を読ませて頂いて、一番最初に感じた事は、
 「どうして、いつまでも隠した儘でいるのだろう。」
と言う憤りで御座いました。
 その「隠した儘」と言う部分に関して掘り下げて記述して置きたいと思います。

 「隠した儘」とは、韓国の庶民社会には日本の国民に対して厳重に秘匿した儘の部分が有る、と言う事で有ります。
 それは文字の違いこそ有れ、口から出す音に関しては日本語が多く含まれている、と言う事で有ります。
 
 どうしてその様な事が存在するのかと言うと、日本から独立した時の韓国のハングル語と中国の北京語に置いては、かなり言葉が不足していた状態に有ったと言う事が言えると思います。

 日本から独立した韓国を米軍が暫くの間統治する時に置いても、やはり言葉の教育の為に旧日本軍人が呼ばれた、と言う事実があなた様に置いてもご確認頂けると思います。
日本から独立した直後の韓国に置いても、多分に日本語が教育され続けていた、と言う事を確認して頂けると思うのです。

 そうした現象の一例として中国の周恩来首相が1970年代に「道徳」と言う文字を含む日本語を大量に導入した一例が挙げられると思いますし、韓国に置いては反対に1965年と1970年頃の二度に渡って、公での日本語の使用を禁止する大統領令が出され、厳しい処罰を持って厳正にその取り締まりが徹底された時代が有りました。

 その大統領令が出されるまで、繁華街には日本語の看板が沢山あったのですが全てハングル文字の看板に書き換えられたので有りました。
 当時はハングル文字依りも日本語文字の方が馴染まれたいたので、不都合を感じる人も多かったと聞き及びます。

 こうした観点から考えると、大きな要素としては、日本語を韓国の言葉の源と考える事が出来るかも知れません。
 考えて見ますと北京語も1912年に旧日本軍が導入させた日本語の訓読みを土台としています。

 旧来の中国語文字は音読みだけで、しかも発音記号が無かったので識字率を上げる事は容易では無く、実際にそれまで1パーセントを越える識字率にする事には困難が有ったと思います。
 元の簡略な日本語的文字に変えられた1970年代に成って漸く、言葉と文字が全ての国民の共有する財産と成るまでに至った、と言う事が言えると感じます。

 こうした事は、過去の資料を振り返れば全て確認できる事で有ると思います。
 旧日本軍が中国に強い影響を与える前の中国の看板の文字の形と1970年以後の中国の看板の文字を比較すれば、同じ国の公用語とは思えない隔たりが有ります。
 
 1965年頃までの韓国の市街地を収録した僅かな映像には多分に日本語の漢字が使用されていたので有ります。
 今は忘れ去られた1970年頃の、韓国の自力では回復不可能とされた経済破綻と貧困飢餓の有様を映し出した映像を検証する事が出来れば、そうした事をご確認いただけると思います。

 そうした過去の歴史の中で目を引く事として、1960年代で有ったと思いますが、米軍と韓国人の間に生まれた少女に対する強姦が一般化してしまい、そうした境遇の少女が大挙してアメリカに亡命受け入れを求める、と言う大きな椿事が有りました。
 
 ハングル語では混血児の事を「チャ」と言いますね。
 「ヨォ、チャイッソウ。」(=おっす、可愛い子はいそうか。)
 「アニヨ、ハシムネガ。」
 (=兄よ、偶にはこれで良いものかと考える気持には成らないか。)
 気心の知れた者同士の陽気な挨拶では有りますが、前段の大量の混血児の亡命受け入れと言う歴史的事実の痕跡と考え合わせますと、現在の色白に変身した繊細な国民性の標榜を持つ韓国人からは、想像できない凄烈な生活風俗と生活観念が実は潜んでいる社会で有った事を思い起こしてくれます。

 実に、戦後直後の在日韓国人の方が、一般の日本人とその議会から祖国に帰還する事を求められながら米軍の裁量で、日本の民意に反して強制的に居住権が与えられたと言う経緯とを考え合わせますと、国に依ってはそこに住む人の性格が本質的に違うと言う所を思い知らされます。 

 1960年代の韓国人社会、韓国系居住者の方々に置かれましては、日本国内で民族性を隠す事とか、民族性を偽ると言う事はさほど行われていなかったと思います。
 白幸水(硝酸カリウム)の常飲が普及していなかったので肌の色の違いでそれが出来なかった、と言う事も有ると思います。

 韓国人社会の鮮烈な生活環境は如実に伝えられていたと思います。
 とてもとても、現在の謝罪要求とは整合性の無い所が伝えられていたと思います。
 旧日本軍が敗戦してから、逃げ遅れて韓国国内にいた日本人を含む外国人旅行者がどの様な性的被害や残虐な行為を受けたかは想像を絶するものが有ったと思います。
 当に自然児のタガが外れた本能の塊と化した様がそこに有ったと言えるかも知れません。

 ですからそうした方々から、韓国政府に対して管理不行き届きと言う事に基づいて組織的性犯罪に依る被害と言う事で謝罪要求が有るとしても、韓国政府から旧日本軍に対して組織的性犯罪に依る被害と言う事で謝罪要求が出される事など想像も出来なかったと思います。

 現在の韓国人と韓国政府は、日本人社会の性的モラルの向上を果たす為に、過去に置ける自分達の行いを思いっきり噛みしめて頂く事が必要で、そうした事からも自分達は旧日本軍に依る組織的性犯罪に依る被害を伝え、謝罪を要求すると言う姿勢を現しております。

 その様な姿勢を現す事の出来る正当な立場に韓国人や韓国政府が有ったと言い得るのでしょうか。                                            
 烏滸がましいとか偽善などと言う、人間の有様を越えた凄烈な貪欲さがそこに有ると感じる事は許されない事でしょうか。
 もう少し掘り下げて考えて見たいと思います。

 例えば盗人が幾つもの盗みを重ねながら、他人に盗みが有ったとして証拠も不十分な儘で告発を行ったとします。
 その場合、告発を受けた人間の立場としてはどの様な事を感じる事になるでしょうか。

 並々ならぬ悪意が自分に向けられている事を感じる事が出来るのでは有りませんか。
 それと同時にその悪意を懐いた人間が、人の有様を越えた醜い心の歪み方をしている事を感じる事が出来るかも知れません。
 そしてそうした可能性は、人間が神から与えられている自己保存の本能に基づくと考えられるもので、世界一般に基本的人権として認識されている事で有ると思います。

 ですから日本人としては、現在の韓国人と韓国人社会に対して醜さを感じるのだとおもいます。
 1960年代の韓国と韓国人は見窄らしい有様で有ったので、隣国の日本としては世界からプレッシャーを感じ、何ら手を差し伸べない儘ではいられませんでした。
 ですが現在の韓国は日本と並ぶ生活レベルです。
 人間として理不尽な在り方に対してはノーと言える立場で有り、もしかするとそれは人間としての義務で有るかも知れません。
 
 心の醜さとそこから生まれる悪意を否定しない儘で周辺隣国と自分達の後世の人間に災禍を及ぼす権利は、現在の日本人に与えられている権利では無く、現在の人間の選択肢として与えられてはいないのだからです。
 
 もしかすると最近の10年の間の韓国人の有様は、日本人の犯した過ちも大きな要因と成っていたと考える事が出来るかも知れません。
 それは即ち、韓国人社会の本質を鋭く踏み込んで看破して、その心の醜さと悪意を指摘し否定する事をしないままに、韓国人の心の醜さと悪意を結果として肯定する形で韓国に対して援助と融資を重ねてしまっていたのです。

 それは韓国を国として立ち上がらせる事に焦っていた旧日本軍と同じ轍を踏んでしまっていたと言い得るかも知れません。
 いずれにしろそうした答えは間もなく現れると言えると思います。
 
 日本の援助と投資が下火に成った時の韓国が、外の国々の管理の元に自立出来るかどうか、それがこの度のIMF管理の正否に現れるものと感じます。
 僭越ながら、私などの考える韓国では絶望的と感じます。
 
 余りにも醜い心とそこから生まれる悪意を逞しくしてしまっているからです。
 幾らかでも本当の意味で日本に頭を下げさせる為にも、成功する為に惜しみなく韓国人社会の全精力を降るって頂きたいと感じます。
 
 それにしても良く世界の常識を受け入れて、日本経済の資本管理と言う形では無く、ギリギリの形で出来上がったIMF管理の形を受け入れて頂く事が出来たと、安堵する気持で一杯です。
 重ねて、世界に先駆けたその形式を成功させる事を祈っております。

 何故私などが、日本の無償の援助無しには韓国経済が成立しないと考えるか、と言う所を披瀝させて頂きたいと思います。
 その理由は、韓国とは基本的に華僑的マフィア社会の様な感じの構成の社会(三金会)で有る、と言う事で有ります。
 そうした所はここまでの私の記述した資料を検証して頂ければ全て整合性の有るものと感じます。

 日本に置ける経済界が、多分に総会屋の影響を受けていると言う所が報じられている昨今で有りますが、韓国に置いては全く有りません。
 そうした違いが韓国人社会の道徳の高さとか秩序の高さを物語っているとあなた様に置かれましては仰られるかも知れませんが、寧ろ逆の場合も有ると言い得るかも知れません。

 その一つとして統合製鉄所に置ける不健全さを指摘する事が出来るかも知れません。
 健全な経営体質で有れば当然計上されているべき年間3パーセントのメンテナンス費が計上されていないと思います。
 減価償却に合わせた積み立ても行われていないと思います。
 本来的な経営では無いのでは無いでしょうか。
 
 かつては韓国の鉄筋が日本国内に席巻していた時期も有りますが、現在では全て返品されているのでは無いでしょうか。
 それは溶鉱炉の管理の杜撰さの産物と考えられると思います。
 壊れてから壊れた部分を交換するのでは、製品の質が許容範囲を超えるのですね。
 そうした結果からも、ここまでの論は有る程度の整合性の有るものと考えます。

 ここであなた様の記述を引用させて頂きたいと思うのです。
 
Natchi-fan様>
 ところがこの本、実はあとがきを書いている加瀬秀明氏が「韓国人
自省の書」を詐称して持論を展開したトンデモない本であることが明
らかになっています。
 
 以下、簡単にその根拠とされているものを挙げておきます(『週刊
金曜日』1994年10月4日号その他による)。

( 1) 韓国の歴史・民俗に関する基本的な誤りが多く、韓国人の書い
  たものとは考えられない。

( 2) この本と加瀬氏の著書との間には、韓国に関する知識やルビな
  どに「誤りの一致」が見られる。加瀬氏自身、二〇数カ所につい
  ては自分の文章を挿入したことを認めている。

( 3) 出版契約上の著作権者が「加瀬秀明」となっている。

( 4) 加瀬氏が著者として名前を挙げた張世淳氏に対する説明が支離
  滅裂で事実とも反する。
   ・「著者はソウル在住の韓国人」
     →張氏は当時、東京在住。
   ・「原稿はソウルからファックスで送られてきた」
    →張氏は手渡しで原稿(本の中で一部引用された)を加瀬氏
     に渡している。また光文社側ではこの点に関して「口述筆
     記」だと説明、加瀬氏側内部でも大きく食い違う。
                                             ……などなど。

( 5) 加瀬氏自身、張世淳氏に対して「貴殿が著者でないことを確
  認」する覚え書きを書いている。また、張氏は「協力者」であ
  り、その原稿を「一部使用」したことも認めている。
  (では本当の著者は誰なのか、またなぜ加瀬氏がそうしたことを
   「確認」できるのか、こうした点について加瀬氏は一切説明で
   きないでいる。)

***

 これらのことで分かるのは、加瀬秀明という人は「韓国の批判をす
る韓国人」をでっち上げ、文筆詐欺を働く人物であるということ。山
本七平・板倉由明・田中正明など、ある種の人たちの間では珍しくな
いことである。

 こうした所に私として大きな違和感を禁じ得ないのです。
 
 (1)に置いては言わずもがなの事とも感じられますが、韓国の歴史教科書の中で自国の中で中国から導入された法律を正確に伝えているものが有るでしょうか。
 そうした資料が存在するでしょうか。
 「旧日本軍の焼却処分された。」
とする弁はここでは不要のものと感じます。

 何故ならば旧日本軍が焼却処分した書籍、発行物とは、韓国人に依って発行されたハングル文字に依るもので有り、中国語や漢字に関しては処分していない事は寺院の表札の存続などで確認されているからです。
 そうした李一族の統治に関する資料に置いては、旧日本軍の活動を正当化する何よりの証拠と成り得る公算が大きかったので焼却処分しているとは考えられません。

 寧ろ自分達韓国人に読めない文字と、その文字の中に記されているで有ろう過酷な奴隷としての扱いに関する資料は、現在の韓国に置いては歴史から隠滅されているのでは無いでしょうか。
 ここはポイントで有ると思います。

 李一族の使っていた文字をまさか現在のハングル文字と言う事は出来ないと思います。 ハングル語の歴史を百科事典で調べて見ると李一族は三世紀以上の間、ハングル語を公用語としては受け入れていなかった事が明らかにされています。
 そしてその李朝は、旧日本軍が敗戦するまで一応存続し続けていたので有ります。
「韓国の歴史・民俗に関する基本的な誤りが多く」と言う事に置いては多分に、現在の韓国人社会と韓国政府に対して言い得る事と感じます。

 (2)の、
「この本と加瀬氏の著書との間には、韓国に関する知識やルビなどに「誤りの一致」が見られる。加瀬氏自身、二〇数カ所については自分の文章を挿入したことを認めている。」
と言う所にも大いに意義が有ります。

 1970年代に成ってから多分の日本語漢字をハングル文字に置き換えた作業が有ると言っても、日本語の言葉の全てをハングル語が網羅しているとは言えないのです。
 概してハングル語は世俗語が多すぎるので、説明が必要とされます。
 その事は貴男ご自身が、本当は良く知っているのでは無いでしょうか。
 
 歴史認識と民族性の標榜に大きな隔たりが有れば、客観的な解釈に対して本人の韓国人と韓国人社会の認識が異なるのは当然です。
 韓国人の方々に置いては常識で有っても、日本に置いては多くの説明を必要とする事が多く、その説明付けを韓国人社会が肯定しようとしない事は、先の(1)に置ける歴史認識同様に往々にして有り得る事で有り、必ずしも韓国人社会とその政府の主張が真実で有るとは断言出来ず、客観的判断の根拠とも証拠とも成り得ないのです。

 ( 3)の、「出版契約上の著作権者が「加瀬秀明」となっている。」
と言う所にも大いに意義が有ります。
 あなた様は伏せている大きな客観的事実が有ります。
 1960年代の韓国の思想統制に依る虐殺と身柄拘束の厳しさで有ります。
 現在の韓国人社会は、当時の思想を肯定した儘で今日に至っているのです。

 もし、韓国人社会に少しでも不利に成る様な証言をする人間がいた場合には、韓国国内で生きながらえる事の出来る人間はいたでしょうか。
 戦後の日本国内では、在日韓国人の方が日本国籍と日本人名を名乗って日本人を標榜しながら日本人社会と日本政府を厳しく批判する事は一般的に成りましたが、韓国に置いて同様の事が有れば、下手をすれば命が奪われると言う社会事情の違いが有ります。
 
 どうして韓国人社会を批判する著作者の名前として韓国在住の韓国人のお名前を印刷する事が出来るでしょうか。
 「どの様な事を捏造されて死刑に成っても恐れはしない。」
と言う方で有っても、余程政党や経済界の実力者の裏の生活の証拠写真でも所持していなければ、拷問を恐れてとてもとても出来ないお話で有ると思います。
 
 それが現実では有りませんか。
 で有れば、日本人としては印税は相手に渡すとしても、印刷上は自分の名前を著作者とする選択は良心の有る人間として当然の配慮と感じます。
 (4)と(5)に関しても(3)と同様の配慮や状況の変化に応じて、兎に角本当の著作者、情報提供者の命を守り、拷問から逃れる為の術を模索した産物として別段違和感の無い所を考える事が言えると思います。

 多分に言える事としましては、韓国人社会と韓国支持者の方々が前提としている韓国人社会とは、必ずしも世界に恒久的に認められるものとは限らない、と言う点にこそ注意を喚起されるべきと感じます。
 旧日本軍がどうの、現在の日本人がどうの、と言う事にあくせくする事を正当な行いとするに為には、旧日本軍が朝鮮半島に侵攻する前の韓国に置いては、どうしてハングル文字が公用語として使用されていなかったのか、と言う事に対する説明が全ての前提で有る様に感じられます。

 お読み頂き、有り難う御座いました。  識者の検証を頂ければ幸いです。
 http://village.infoweb.ne.jp/~fwiy5954/


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