第2の開国について


「日本の解放がこのように失敗したのは、太平洋戦争で中断
されたフリーメーソンと日本の関係を順調に復活しなかった
のが原因である。
 即ち、1934(昭和9)年における日本には、ディストリクト
・グランド・チャプター・オブ・ジャパンの下に、東京に三
つのロッジ、横浜に13のロッジ、神戸に6つのロッジがあ
った。そしてロッジの分化は職能専門のメーソン化に発展し
て、殿堂形式の礎石を豊かにした。
 それにも関わらず、1949(昭和24)年に復活させた東
京ロッジは、スコティッシュライト・テンプルとして、日本
人だけのスコッチ・メーソンを形成したにも関わらず、新し
い礎石を造ろうとはしなかった。サンフラシスコ講和条約に、
は活躍した東京ロッジが、なぜ活躍しなくなったのか、ここ
にヤコブ・モーゼス長老の失敗の罪がある」

 ここに登場する「ディストリクト・グランド・チャプター・オブ・ジャパン
とは、戦前あった「トウキョウ・ロッジ」や「オテントサマ・ロッジ」等、21を数えるロッジの中央機関。各ロッジの上級幹部で組織され、東京、横浜、神戸のロッジで集会を持っていたとされる。
 即ちこの中央機関の下、それぞれのロッジが”礎石”とは、只ならぬ人物であることは、これに続く一文で明らかだ。

 「ヤコブ・モーゼス長老は1943(昭和18)年10月から194
 4(昭和19)年9月までの間、ニューヨークで日本の解放を
 指導する要員300名の専門メーソンを教育している。この時に
 は日本人の解放指導者が選び出されている。首席候補者には幣
 原喜十郎以下十数名、進歩系の片山哲以下の十数名が上げられ
 ていたが、保守系の吉田茂がロンドン駐在時代にスコッチ・メ
 ーソンになっていたという理由で、これを特別に育成する事を
 取り決め、他の保守系の育成と片山哲以下の進歩系の育成を取
 り決めていなかった。そして、解放要務員に仕立てられた分科
 専門メーソン300名は軍籍に編入され、軍政顧問として日本
 の各分野に配置されたが、日本人指導者育成にみられる解放戦
 略に、メーソンの保守性が強くなり、それらの事の為に、日本
 の自由主義と社会主義は均衡発展せず、中東半端なものになっ
 ている」(「人間と世界の改造者」より

 ここに登場する「ヤコブ・モーゼス長老」とは、この本の主人公である日本人メーソンでその活動成果を他の長老達から総括される形を取っている。
 この本が書かれたのが佐藤内閣時代の1966(昭和41)年。丁度全共闘による学生運動が再び盛り上がる前で、日本は左右対立の正しく中東半端な状況にあった時代である。
 この点に関し、1993(平成5)年2月3日付読売新聞に興味深い記事が掲載された。同紙社会部出身のベテラン記者で、公安情報等に強い高木規矩郎氏の署名記事で、当時の企画物『現代史再訪』でフリーメーソンを取り上げたものだった。
 丁度前年にイギリスのフリーメーソンがグランド・ロッジ設立275年記念大会を初めてマスコミに公開。話題になった事に加え、当時、入院中の高木氏が病院で日本グランド・ロッジのグランド・マスター、リチャード・A・クライプ氏(宇宙開発事業団勤務)と隣り合わせ、メーソンについての話を聞く機会をもったのが、記事を書くきっかけになったようだ。
 その中で同氏は、

 「ひょっとしたらマッカーサー元帥の下で作られた日本国憲法
 にもフリーメーソンの理念が生きているのかも知れない」

 といったクライプ氏の話を紹介しつつ、メーソンと日本の近・現代史を記述している。

 「(日米)開戦後、フリーメーソンに関係している事だけで、
 投獄された日本人が少なくなかった。警察当局が疑惑視して
 いたとされるスパイ行為は本当になかったのか。関係者の一
 人は、『米国のスパイもいた』とはっきり指摘する」
と書いている。
 つまりメーソンの外国人、及び彼等と接点をもつ日本人の中にスパイがいたという。