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インドシナ半島の共産主義による人間の犠牲

◆無視される「解放」の実態

 1975年、下院議員ベラ・アプツークは次のように証言した。カンボジアでの「最良の解決策は、クメール・ルージュが”敵との協力者”と考えているロン・ノルと彼の支持者達を逃がして保護することでしょう。もしこれがなされたら、『大量虐殺』など起こる事はないでしょう。私達が忘れてはならないのは、この戦争は同胞が相争う内戦であり、そもそもはある外国勢力ーー合衆国ですがーーが大いにそそのかしたものだと云う事です。ですから私達が責任を感じている人々を救い出しましょう。そしてその他の人々には、自分達の問題は自分達で平和に解決するようまかせましょう」。
 ああ、平和。カンボジア、南ヴェトナム、ラオスの人々は、共産主義の平和をもう何年も経験してきた。戦争が最終的にラオスで終結した時、『タイムズ』誌は「礼儀正しい革命」と題した記事で狂喜した。体制側のその高級紙は次のように報じていた。「真のラオス人のやり方でなされた共産主義パテト・ラオ一族による先週のクーデターは、面目を潰さない寛大さを幾らか考慮に入れても、行儀の良い事件であった。(中略)8月半ばから次第に国の支配権を掴んできた共産主義者達は、反堕落と自己統治という大きな主題を強調する事で、心酔者達の受けを旨く保つ事が出来た。彼らはラオス伝統の言葉を巧みに宣伝を用い、それでビエンチャンの外国の外交官の中には『歌と踊りの革命』と呼ぶ者がいるくらいである」。
 実際、70年代には何が起こったか。共産軍へのサイゴンの陥落はビエンチャン(ラオスの首都)の陥落に先立ち、ブノンペンの陥落の後に続いた。そして『ニューヨーク・タイムズ』の見出しは、「アメリカ人のいないインドシナ、大方の人にとってはより良い生活」と再度保証していた。『タイムズ』は熱心に、南ヴェトナムでは「共産主義の支配は規律正しい、道徳的なものになるだろう(全く意味が分からない。共産主義者ほど反宗教的立場に立っている。それ故に神を否定するから自然と反道徳に成る思想である!忍)」と予言している。『タイムズ』のシドニー・シャンバーグは次のように論評した。「インドシナでのアメリカの政策を批判する人々の中には、アメリカ人が去ってしまったら、その半島は事実上、楽園になるだろうとさえ予言する者もいた」。
 そう言うわけで、3千万以上の人間がドミノの様に共産主義の奈落の中へ突き倒された。そして赤や我が国のマス・メディアーー特にテレビのネットワークーーは長い沈黙をつくり出し、それを平和と呼んだのである。恐怖が突如訪れた。人々は姿を消すと二度と現れなかった。強制収容所は膨れ上がった。銃殺隊は何十万人も殺した。洗脳が盛んになった。故国から逃げ出せなかったインドシナ人にとって、選択肢は死か奴隷かのいずれかであった。ところが、自由世界は殆ど沈黙したままであった。

 ベラ・アプツークの保証に反して、大量殺戮がカンボジアに課された。それによって、1975年4月〜77年1月にかけて、概算で百二十万人の命が奪われ、その後も更に大虐殺が続いた。アーネスト・W・ルフェーブル博士は、その時ジョージタウン大学ケネディ研究所で倫理学と公共政策計画を指導していたが、カンボジアの「解放」後の20ヶ月間、ABC、CBS、NBCの夕方のニュース番組の反応を記述してきた。ルフェーブルは次の様に書き留めている。これらの三大ネットワークのニュース番組は、「相対人口の点ではヒットラーとスターリンの強制収容所の大虐殺を凌ぐ粛清に対し、1ヶ月に1分のニュースを流した。注意深い視聴者ーー一度にたった一つのチャンネルだけを見ることが出来るようなーーでさえ、アメリカ市民がニュースの殆どを頼っているそのメディアから、1ヶ月に20秒しか知らされなかった」。

 「同様に思わず驚いたのは、初期の話の大部分が懐疑的で弁護的でさえあるような調子だった事である。1975年5月8日の報道は典型的であった。即ちABC曰く、大量虐殺説は難民によって広く信じられているが、確証はない。CBS曰く、処刑については確認されていない。『ニューヨーク・タイムズ』の報道記者シドニー・シャンバーグは、アメリカ人は大量虐殺説から何か得るものがあるのではないかとほのめかしている。ABCとCBSは、クメール・ルージュ軍は規律がよくとれていると伝える」。

 共産主義の教義によれば、こういう状況下ではテロを用いる事が要求されるという議論の余地のない事実については一言も触れていない。これはボルシェヴィキ革命に先行する概念である。V・I・レーニンが1908年に書いたように、「フランス大革命に栄光を勝ち取らせたような、国を再び活気づける文字通り全国的なテロ」を開始する事が必要である。十年後の1918年、独裁者レーニンは、「我々はテロを使わなければ何も成し遂げられない」と断言した。この赤い指導者はこう命じた。「テロのエネルギーとテロの大衆性を促進しなければならない」。かくして今日までモスクワで尊敬されているロシアの秘密警察長官フェリックス・ジェルジンスキーは「我々は組織的テロを支持する」と言う。

 将に其の通りなのである。しかし、インドシナでのテロの性質と夥しさは西側では余りにも長い間秘密裏に扱われていた。チリにおける一握りの共産主義テロリストの逮捕は、憤慨を伴う告訴に値するほど途方もなく重要なニュースに考えられているのに対し、例えばラオス中の強制労働収容所については、最大の新聞でさえ、所詮隅の方にしかスペースを割かない。

 最も、それも割いたとしての話であるが、それにも関わらず、ラオスのほぼ全てが強制収容所に変えられたのは事実である。数十万人にも達する非共産主義のラオス人達は、労働収容所に入れられ、治療も受けられず、ゆっくりと餓死していった。脱走を試みる者には処刑が待っていたのである。
 1976年、パテト・ラオ一派は毛沢東流に「文化革命」を布告し、「再教育」される事に抵抗していた者全員を逮捕した。共産主義政府は特に宗教を標的にし、「反動主義者」と「堕落した」西洋の生活様式を根絶やしにしようとしていた。一方、ラオスは、鱗国タイに襲いかかる赤色テロリストにとっての訓練と「休養・娯楽」両面の為の区域としてずっと利用されている。丁度毒ガス戦による集団虐殺がラオス国境内のフモン(メオ)族の人々に対して利用されたように。

 共産主義者が奪取した結果、約10万人のラオス人が国を逃げ出し、そして共産主義者が国内で支配を厳しくするにつれ、7万人近くが直ちにタイで難民になった。1975年に遡っても、ビエンチャンにいた『ニューヨーク・タイムズ』の記者フォックス・バターフィールドが、「大勢のラオス人は今、自分の子供の前で素直な話をするのを恐れている」と述べている。計画的な飢饉と全般的な欠乏が、この「一層厳格に管理されたスパルタ社会」に強いられたとバターフィールドは書いている。「小麦粉やトマトからビールやアイスクリームにまで及ぶ品目は完全に姿を消してしまい、ガソリンは1ガロン10ドル相当まで跳ね上がった」。

 バターフィールド氏は次の様に報告している。「軍人、警官、官吏を含む以前の敵対者は全て、再教育セミナーを受ける為に遠方のキャンプへ追い出された。戻って来た者は一人もいない。再教育キャンペーンに公然と抗議した唯一の男は、家族全員ととに直ちに逮捕された」。1977年には、『タイムズ』は見せかけの審理の手続きさえ踏まない逮捕と投獄を報じ始め、「新エリート」に与えられた格別の特典にも関わらず、一般庶民の絶望的な飢餓について言及している。

 要するにそれは共産主義者にはいつもの事なのであるーーラオスでの彼らの指導者達はハノイに忠誠心を抱き、ホー・チ・ミンの子分であった。同志ホーは勿論、テロと拷問の主唱者である。彼は50年代に北ヴェトナムで共産主義体制を強化し、そこの既存の勢力を挫いた。同志ホーの下に仕えていたホアン・ヴァン・チは、『植民地主義から共産主義へ』の中で、偽りの自白や告発を引き出すのに使われた「典型的な拷問」の幾つかについて述べている。

「犠牲者は重い石が一杯入った籠を頭で支えながら、跪かされた。梁に投げかけられたロープに親指若しくは足首で吊された。此の体勢で殴られたり、又ロープを引いて激しく上下にがくがくと動かされる事もあった。親指は油を浸み込ませた布でくるまれ、次にそれに火を付けられた」。

 「これらの拷問は全国至るところで広く行われていたので、それらが念入りに考案され、党の指導部によって是認されていたと考えるのが妥当である。そういう手段は二年早く中国で既に用いられており、[赤色]中国の助言者によってヴェトナムに輸入されたという見解を持つ者もいた」

 忘れてはならないのが、この記述は何年もヴェト・ミンの積極的な会員だった男のものであったと云う事である。

 北ヴェトナムから50万人の人間が逃れるのを手助けしたアメリカ人宣教師トム・ドゥーリー博士は、著者『我らを悪から救い給え』の中で、7人の生徒に宗教を教えた事で赤に告発された一人の男について語った。

「その時、ヴェト・ミンの衛兵が二人、子供達の所へ行き、一人が両手で子供の頭をぎゅっと掴んだ。するともう一人が木の箸を各々の耳にねじ込んだ。彼は満身の力を込めて、それを突っ込んだ。子供達は絶叫し、もがき、この上なく苦しんだ。両手を後ろで縛られていたので、耳からその木を抜き取る事さえ出来なかった。箸を振り落とそうとして、頭を振り、七転八倒した。最後に頭を地面にこすりつけて箸を取り除くことが出来た」。

 その子供達は言うまでもなく、天の公平な神についての「嘘」を聞いたことを咎められていたのであった。ドゥーリー博士は又、キリスト教徒の教師が受けた扱いについて述べている。ドゥーリー博士は次の様に伝える。

「教師に関していえば、再び教える事は出来ないのに違いない。自分の生徒に行われた残虐行為を見せつけられ、彼自身もっと恐ろしい事を受け、耐えた。一人の兵士が彼の頭を押さえ、もう一人が粗末なペンチで舌をしっかりと挟み、外にぐっと引き出した。三人目の衛兵が教師の舌先を銃剣で切断した。男の口の中に血が噴き出し、地面にどくどくと流れた。叫び声をあげる事は出来なかった。血が喉の中へ流れ込んだ為だ。兵士達が彼を自由にすると、彼は激しく嘔吐しながら地面に倒れた。血の臭いが中庭中に立ちこめた」。

 1954年の「休戦」後、共産主義者達は南ヴェトナムに難民が殺到するのにブレーキをかけようとした為、残虐行為は一時幾分減少した。ホアン・ヴァン・チによれば、しかし一年ぐらいすると、共産党中央委員会は、各々の村で死刑判決を受けねばならない最低限の数が一人から五人に増やされたという命令(裁判をかけないで、目標が死刑の数を決めてしまうほど残酷な命令!忍)を出し、結局おそらく十万人が死ぬことになった。しかも、「特別人民法廷によって死刑判決を受け、公に射殺されたこれらの人々との他に、監獄や強制収容所で死んだ人々、自殺した人々がまだいた」。その上、「遥かに大勢の地主の家族ーーその大半が幼い子供達ーーが、鎖国政策の為に餓死した」。支配を強化する北ヴェトナムで、総計約50万人が死んだのである。

 しかし、ジュネーヴ協定を無視して、赤は同じテロを南ヴェトナムにも加える事を決めていたーーダ・ナン近くの小さな村の住民が発見されたように。次の報告は『リーダーズ・ダイジェスト』に載ったジョン・ハッペルによるものである。

 「全員が村長の家の前に集められた。彼らと村長の妊娠した妻と4人の子供達が強制されて見物する中で村長の舌が切断された。次いで性器が薄く切り取られ、血塗れの口の中に入れて縫い合わされた。彼が死ぬと、ヴェトコンは妻に取りかかり、彼女の子宮を切り開いた。それから9歳の子供は、竹槍を耳から耳まで突き通された。村長のもう二人の子供も同じように殺された。ヴェトコンは5歳の娘は傷つけなかったーー肉体的には。彼らは只、娘が死んだ母親の腕を掴んで泣き叫ぶにまかせていた」。

 ここにヘンリー・キッシンジャーに和解を強要された南ヴェトナム政府の残忍なパートナーがいる。著名なシンジケート・コラムニスト、ポール・スコットは次の様に報じていた。「現代史上、最も悪辣な大量虐殺が南ヴェトナムで現在起こりつつある。それが血みどろの経過を辿らない内に、何十万もの南ヴェトナム人は、侵略する北ヴェトナムの共産主義者とそのヴェトコン同志達の犠牲者になるものと思われている。大虐殺の恐ろしさは余りにも衝撃的なので、サイゴンの合衆国大使館から海底ケーブルで送られて来る報告を扱う国務省の職員達は、南ヴェトナムの最近奪取された地域の人間に対する共産主義者の扱い方についての話を読んで、気分が悪くなった程であった」。「解放軍」は、1975年4月30日、南ヴェトナムのサイゴンに到達した。彼らは素早くIBMのコンピューターを奪い、その最高機密のデータから、警官、スパイ、二重スパイ、その他サイゴンの軍事保安組織の会員のファイルに加えて、南ヴェトナム国軍の百万人以上の会員の氏名と記録を手にしたのである。その略奪は、北ヴェトナムの前線最高司令官ヴァン・ティエン・ドゥンによって確認された。一方、ポール・スコットは、1975年7月24日付の『マンチェスター・ユニオン・リーダー』で、これに対するワシントンの対応を次の様に詳述している。

 「国務長官ヘンリー・キッシンジャーは、合衆国の外交政策史上、最大の隠蔽工作を展開
している。彼は国中の聴衆に、南ヴェトナムで大量虐殺は行われていないと保証する。だが
国務長官の机に回される合衆国情報部のヴェトナムに関する報告書はこれとは全く異なっ
たものを暴露している」

 「CIAの最近の概算では、共産主義者が三月に南ヴェトナム奪取を開始してから直後に死んだか処刑された者の総数は20万以上に急増した。あるCIA文書はその数を25万以上と見積もっている。北ヴェトナムとヴェトコン軍による殺害は、第2次世界大戦中、ヒットラーによって行われ、大いに物議をかもした大虐殺のいずれにも匹敵するものである。ある場合には、四百人以上の無力な孤児とその子供達の世話をしていた少なくとも五人の修道女が、ダ・ナンの聖心カトリック孤児院とチャイナ・ビーチの孤児院で一挙に殺された・・・」

 「南ヴェトナムからの難民の報告によると、ヴェトコンの攻撃が最も激しかったのは、どんな形にせよアメリカ人と関係していた者、そして特に最近の難民と孤児の避難に手を貸したヴェトナム人に対してであった。これらの確証のある報告では、ダ・ナンにおいて共産主義者は、アメリカ人と生活していたヴェトナム人に対しとりわけ執念深かった。現在ワシントンに在住するある難民の医師はこう言っている。『彼らは警察署に押し入り、同居人の記録簿を奪った。そして出て行き、名簿の女性と子供達を皆殺しにして戻ってくると、警官の首を切り落とした』」

 「四月初旬にチャイナ・ビーチ沖で撮影された航空写真には、共産主義者によって処刑された三万人以上の遺体が写っていた。其の地区は主要処刑場の一つであるようだ」

 『ニューヨーク・タイムズ』のトム・ウィッカーが1970年5月に断言していた事が思い出される。即ち、1954年以降、北ヴェトナムに大規模な報復行為は決してなかっただけではなく、そのようなテロが南に加えられるだろうと予言する事は「歴史的悪鬼」を呼び出し、証拠に頼るというよりも「感情的な論争」を用いることになるというものである。ここに南での人間抹殺についての初期の記述ーートム・ウィッカーが「歴史的悪鬼」と呼んだものーーが幾つかある。それを我々は沈黙という分厚いカーテンを通して時折漏れてきたものから次のようなものを接ぎ合わせた。

 『AP』(1975年4月20日付) 前線後方の報告が引用しているのは「身の毛のよだつ虐殺の目撃者の話である。それにはユエ(ヴェトナム中部の港市)の城砦の外で行われたある政府検閲官の処刑や、ダ・ナンのチョン・コン市場で行われた穏健な政治指導者ニュグイェン・バ・サウ(60歳)の斬首式ーーその後彼の首は『最も高い場所に上げられ、そこに置かれた』ーーが含まれている。また役人の中には、ダ・ナンで石をぶつけられて死んだ者がいるとも報告されている」

 『ヒューマン・イヴィンツ』(1975年4月26日付) バン・スウォットを脱出したある仏僧の話では、そこの僧侶達は、人々はヴェトコンから身を隠すのを手伝った事で非難され、「戦闘が止んだ翌日、市場に連行された。その他に数千人の人々もそこに集められた。全員座る様に命じられた。地方の幹部団が、自分達に分かっている南ヴェトナムの使用人と警官を指しながら、群衆の中を歩き回った。その僧侶によると、約300人が一方の側に連れて行かれた。幹部団の統率者が人民の『敵』に長ったらしい非難演説を行った後、彼らは全員連れ出され、そして殺された」

 『ワシントン・ポスト』(1975年5月3日付) ジョゼフ・ヌグイェン・クオイ・ハイ尊子は、ヴェトコンから逃れて、現在グアムからニューヨークに向かう途中である。「去る12月下旬、彼とその教区民の多くが、タンリンという村の近くのジャングルと森で共産主義者の捕虜になった。彼の説明では、逃亡は、彼が翌朝銃殺隊による処刑に予定されていると知った後、計画された。捕虜になっている間、彼は百人以上の処刑を目撃し、15歳と16歳の少女の強姦について聞かされ、女性達がキャンプへの行進中、出産した後、休む間も与えられなかったのを見たと彼は昨日言った。その女性と新生児の多くは死んだと言い、『夥しい流血があった』と付け加えた」

 『トゥイン・サークル』(1975年7月27日付) 赤に捕らえられた者達はサイゴンの病院に送られる。そこで「大規模な血漿銀行の為に『献血』を行い、こうして共産主義者の医術に貢献することで以前の慣習の償いをする。しかし過度に採血されて数日の内に失血死に至らしめられる。次にその体は中国式の拷問(史上最大の残虐な拷問)を経て始末される。我々の情報提供者は、逃亡するまで血のない死体を積んだトラックを運転していた」

 テロは続いている。小さなポートでどうにか逃げ出せたヴェトナム人の集団がテキサスに到着した。そこで、共産主義者の下での生活は「地獄にいるよう」だ、「99%が脱出したがっている」と彼らが報告したとUPIは言う。これらの難民は救い上げられる前、15日間海に漂流していたーー51隻の船が彼らのSOS旗を無視した後に。共産主義者からの難民が既に殺到している国々の船に無視され、死を賭して脱出した大勢の者が外洋で死んで行った。
 38人の集団がヴェトナムからボートで脱出し、韓国に漂着した。その団体のメンバー、トラン・デュク・フォンは取材記者に、「赤は更にずっと狂暴になりつつあります。私達はもうそこで生きていけませんでした。気を付けて見ていれば、新聞の中面のどこかで彼の話を見つけたかもしれないーーおそらく死亡欄の傍らで。だが誰も夕方のネットワーク・ニュースではそれを発見しなかった。

 共産主義者の乗っ取りのもう一人の目撃者は、フランス系カナダ人の司祭で中国学者のアンドレ・ジェリナス神父であった。彼は、共産軍がサイゴン、現ホー・チ・ミン市を15ヶ月間に渡って占領した後にそこを追い出された。パリの『レクスプレス』にこの司祭は、情け容赦のない処刑、数千もの自殺、残酷な殴打、強制的地雷撤去作業の詳細、洗脳、「新経済地帯」の奴隷労働への前都市労働者の集団流刑を書いている。

 同様の話は『ワールドヴュー』誌にも掲載された。これは、南ヴェトナム政府を以前批判していたシオドア・ジャックニーによるもので、彼は「グーラークのような」強制労働収容所について述べている。この報告によれば、収容所で生き残っている捕虜達は、「栄養不良、脚気、赤痢、マラリア、強制労働のもたらす極度の疲労、義務的な地雷撤去作業、そして自殺による死に直面している」。以前捕虜であった人々が言うには、収容所にいた者は、長期間にわたって暗い所ですし詰めにされた生活状態によって引き起こされた手足の麻痺、失明、疥癬のような伝染病に苦しむのが通例である。「彼らは又、苛酷な生活状態と絶え間ない『自白』の強要(中国共産党との大東亜戦争の後捕虜になった人達も絶え間ない『自白』が行われた!忍)とが合わさって生み出す再教育強制収容所における精神錯乱の諸事例も目撃した」。

 ジャックニー氏は、下院国際組織小委員会でこの全てについて証言したーー共産主義者の強制収容所に一年近くいた後、タイへ脱出したヴェトナム農民ヌグイェン・ヴァン・コイのように。コイ氏は、そこでの生活は「悲惨な人生に終止符を打つことを考えた」ほどひどいものだと言う。投獄に関して(彼は強制収容所の他に二つの刑務所にも入れられていた)、コイ氏は、縦11フィート横22フィートの小部屋で手枷足枷をかけられていたと言った・・・他の88人の捕虜とともに。

 証言は又、以前チュー大統領の批判者で、南ヴェトナムの「解放」を歓迎し、傀儡のハノイ議会議員になっていたヌグイェン・コン・ホアンからも行われた。ホアン氏は1977年3月にヴェトナムを脱出したが、それを後にこう説明した。「最初の動機は1975年に国の再建に力を貸すことでした。でも共産主義者は、私が思っていたよりもひどいものだと云う事が分かりました」。又ホアン氏は「宗教、言論、運動の自由は全く許されません。要するに、共産党の命令に従う自由以外、自由というものは全くないのです。さもなければ投獄されるでしょう」と言う。

 去る1977年にホアンが概算したところ、おそらく十万人が南ヴェトナムで即座に惨殺された。その一方、20万人以上が「グーラーク」強制収容所で死ぬまで働かされ、後30万人が何らかの「自宅監禁」状態に置かれていた。それに加えて約百万人が、強制労働で死ぬまで働かされる恐怖の「新経済地帯」へ送られていた。ヴェトナムの赤は、カンボジアの同志以上にPRに注意を払っていたようだ、とホアン氏は言う。「クメール・ルージュがカンボジアで権力を奪取した時、それを達成すると直ちに反対者を殺害した。しかしヴェトナム共産党はもっと賢い。彼らは一覧表を作り、人々をその重要性に従って分類し、それぞれ異なった収容所に送り込んだ。殺される者は秘密裏に殺される」。

 虐殺と奴隷化が続いている間、ヴェトナムの赤は、我々の兵士がヴェトナム人の赤ん坊の肉を食べるといったような行為に喜びを感じていると真面目に報じ、「アメリカ人の残虐行為」を捕虜達に吹き込んだ。ジェリナス神父は次のように暴露している。「そういう説教の後、聴衆は自分達がなぜアメリカ人を憎むのかを説明する事になっている。ある晩、小柄な老婦人が立ち上がり、怒り狂って話し出した。『はい、私は彼らが憎い。しゃくにさわるし、卑劣です。その証拠に私達を共産主義者の手に委ねて去って行きました!』」。実際、我々(自由主義国)はそうしたのである。怯えたヴェトナム人が哀れにもヘリコブターの脚にしがみつくままにして。

 しかし、もしヴェトナムの共産主義者の下での状況が、かくも化け物(モンスター)じみているとすれば、事実そうなのだが、カンボジアのクメール。ルージュは完全に悪霊(デーモン)(実際は、デーモンよりもサタンと言った方がよい。悪魔的行動だから!忍)に取り憑かれていたのである。

 責任者達は申し開きをする事が沢山ある。コラムニストのフランク・スターが1975年3月の間、『シカゴ・トリビューン』に次の様に書いていたのを思い出す。「今やり残しているのは、我々を完全に混乱させ、立腹させる事だ。だから後だけは見ない事が大切である。カンボジアは安楽死以外の何ものでもない・・・」。同月、マイク・マンスフィールド上院議員は、若しカンボジア大統領ロン・ノルが国を退去させられる事になれば、「平和が到来するだろう」と約束した。モンタナ州選出のその民主党員は、「我々は低い階層の人々との協議に入ろう。そうすれば殺戮は起こらない」と言っていた。

 かくて我々の「自由主義者達」はロン・ノルをカンボジアから追放した。ところが大量殺戮という言葉は、1975年3月半ば以後、クメール共和国に加えられた民族皆殺し的・文化的破壊を表すには、余りにも穏やかすぎる。最初の20ヶ月でおよそ百二十万人のカンボジア人が虐殺された事を思い出して頂きたい。それについて『ニューヨーク・タイムズ』のトム・ウィッカーからの言葉は僅かしか得られなかった。彼は「ロン・ノルの下でのカンボジアとクメール・ルージュの手に落ちた国との間には、道義に適った選択は余りない」と再三主張していた。

 ブノン・ペンが乗っ取られた日、その首都の街角には「死体が散乱していた」と逃亡パイロット、ペチ・リム・クウォンは伝えている。数十万人が銃で威されて多くの病院から追い出された。彼らは大都市から追い払われた約4百万人と共に農村部に追いやられた。そこで彼らの少なくとも10%が数日以内に死んだ。それは例えば、丁度3千万以上のアメリカ人が強制的行進で死んだのと同じ比率であった。

 クメール・ルージュは、国に置き去りになったどんなカンボジアの指導者でも首をはねたと、ラジオを通じて誇っていた。おそらく十万人が即座に処刑され、別の二万人が脱走を試みて殺された。負傷者や死者は日晒しにされ、腐敗するままにされていた。病気と飢饉は至る所で人命を奪った。『ワシントン・スター』は次の様に報じている。計画的に制限された食事は、1977年でさえ、「広範な健康問題の一因である。医者の訓練を受けた者は誰でも階級の敵と見なされるので、マラリア、コレラ、赤痢は特に抑えにくい」。

 「アンカ・ロエウ」即ち「天の組織」の指導者達は、新しい共産主義体制の支配者になって新しい国の誕生ーーともう一つの国の死ーーを布告し、「2千年以上に及ぶカンボジアの歴史は実質的に終わった」と主張した。確かにそうだろう。

『フランスーソワール』でステファン・グルエフは次の様に報じている。「書物や古い記録は燃やされてしまった。塔、仏像、商店、博物館、通貨そのものも、全てが物理的に破壊された。外科医のような冷たい計算で、当局は新型の市民を作り上げるべく過去のあらゆる痕跡あるいは古い習慣の記憶を消し去ろうとしている」。

 その恐怖があまりにも大きかったので、ジーン・ラクチェアが書いた極左の『ニューヨーク・レヴュー・オブ・ブックス』の頁にさえ短期間入り込んだほどであった。彼はこう尋ねた。「かってどんな東洋の専制君主や中世の異端審問官が、たった1年間でその入口の1/4を消し去ったと自慢しただろうか」。実際、1976年初頭、共産主義者達は小学校6年レベルかそれ以上の教育を受けた者は全て処刑し始めた。政府の全職員を、軍人文民問わず、その家族と共に、血の負債の一部として虐殺する事を求める別の命令が行き渡った。しかもこの種の事全てが行われている最中、「天の(アンカ)」最高指導者の一人、イェン・サリはニューヨークの国連特別会議に出席し、「我々は町をきれいにした」と自慢した。信じ難い事であるが、国連の各国代表は、揃ってどっと拍手喝采した。そう、今読んだ通りだ。彼らはどっと拍手喝采したのである(だから、大量虐殺の共産主義の本部は国連であるという。国連は全ての人々が救う方向に真剣に考えている場所ではない。日本人はこれを目に覚めることが必要である!忍)。

 1977年の5月には、諜報の専門家達は、二百万人ものカンボジア人が「天の組織」(実際は、「悪魔の組織」!忍)の命令で殺されていたと信じた。二百万人。もしあなたがそれが理解し難い数字と思うなら、幾つか個々のものを考えて次に掛け合わせてみればよい。即ち、ラジオを聞いている所を見つけられた事で宣告された。ある教師は「不適」であるとして八歳〜十歳の生徒に絞首刑にされた。ある少年は、手を握り合ったという理由でガールフレンンドの見守る中、鍬で殴り殺された。あるところでは、共産軍は一人の母親にその生後間もない娘と三歳の娘の為の食べ物を与えようと約束するーー母親が自分では与える事は出来ない食べ物をである。その母親は子供の世話を兵士に任せる事に同意する。そこで兵士は娘達を大きな木に勢いよくぶつけて殺す。

 これがいつもながらの共産主義者のテロである。国連で拍手喝采を引き起こす種類のものである。

 こういう事件の幾つかは、ジョン・バロンとアンソニー・ポールの『穏やかな国の破滅』に記述されている。これは世界中からのインタヴューと報告に基づく重要かつ考えさせる書物である。そしてその全てがカンボジア強奪を目撃した何百人もの難民の話によって裏付けられている。ここで、バロンとポールが集めた共産主義者の行状の報告の幾つかを、多少なりとも任意に選んで考えてみよう。

 シェム・レアブでは逆上した軍隊が民間や軍の病院を荒らし、ベットの患者を惨殺し、医療設備を叩き壊し、手術台w0お破壊した。泥棒やナイフや弾丸で、およそ百人の患者を虐殺した。その中には出産後の体力回復中の女性達も含まれていた・・・。

 バタンバン州のプレア・ネト・プレアを守っていた政府軍の将校17人は、「新しい共産主義理論」の講座の為約90キロ東のアンコール・ワットへ送られると言われた。ところがその代わりに隣接するチュク村にある群役場の約3キロ西のある所に連行され、泥棒で撲殺された。チュク群長は彼らと共に殺された。

 [カンボジア空軍の80人以上のパイロットはタイから本国に送還されるよう求めていた]。トラックには後部ドアがあったものの、それは僅かしか開かず、一度に人間一人しか降りられなかった。パイロットが一人ずつ出てくると、兵士達は彼らを銃剣で刺殺するか棍棒で撲殺した。トラックの中では死ぬ番を待つパイロット達がパニックに陥り、半狂乱になって悲鳴を上げた。彼ら全員を殺すのに約二時間を要した。その後、アンカーロエフは国内向けラジオを通じて、「裏切者」は処刑されたと公表した。

 トゥメイという村でアンカーロエフは、変装した中尉の正体を見破った。5人の兵士が彼と教師の妻、二人の十代の息子、そして9歳と7歳の二人の娘を捕え、彼らを裸にした。兵士達は、まるで家畜を追い立てるように棒でその家族を打ち据えながら、村から連れ出した。村から1キロ程の所で、兵士達はAKー47自動ライフルで射撃を始め、皆殺しにした。

 [モンゴル・ボレイの約60人の人々ーー男、女、子供ーーは、父が「ロン・ノルの為に働いていた」為に「清められる」事になった]。軍隊に見られる秩序正しさで、共産主義者達は1度に一人ずつ役人を前に押しやり、銃剣の付いたAKー47ライフルで武装した二人の兵士の間に跪かせた。するとその兵士達は、一人が胸から、もう一人が背中から同時に犠牲者を突き刺した。一家族、又一家族と、共産主義者はあくまでも整然と行動し、その虐殺を推し進めた。全ての男が死んで横たわると、恐怖に襲われ、悲痛な思いに打ちのめされた妻と子供達は夫の死体の所まで引きずられていった。女性達も跪かされ、同時に銃剣で刺された。子供と赤ん坊は立ったまま刺され、最後に死んだ。

 「サライ・サバトゥは逃げようとした[とある仏僧は証言した]。彼は捕えられ、第一級の処刑を加えられた。それはゆっくりと何日もかけて死ぬことを意味していた。まずクメール・ルージュは鼻と耳をそぎ落とし、次に腕に深手を負わせた。この様にして、死ぬまで血を流し続けたまま両腕を背中で縛られ、木に繋がれた。ロープが長かったので、大佐は苦痛に悶えながら木の周りをはね回り、観客にはいい見せ物となった。二昼夜、大佐は助けは求めたが、誰も彼に近付く事を許されなかった。三日目に彼は死んだ」。

 ニューヨークで国連の各国代表がこういうことをした人間に喝采を送ったのを思い出すだろう。

 そして又、ニューヨークで、1977年8月31日、『ニューヨーク・タイムズ』は、更に今までに見た事もないような鼻持ちならない「書評」で応えたのである。これはポール・グライムズという著名の下に、ジョン・バロンとアンソニー・ポールは殆ど歴史的意義があるともいうべき著作を生み出した、と皮肉たっぷりに認める事で始まり、評者は「粉飾」の必要を感じたと急いで付け足している。彼ら執筆者達は世界が何をすると期待しているのか、と彼は問う。グライムズ氏よ、おそらく二人は世界が拍手喝采しないことを期待したのである。
 『ニューヨーク・タイムズ』の書評でグライムズは続ける。しかしその本は「道徳の力への不必要かつ無意味な訴えかけで、その価値を下げている。この本は表紙とカバーの色ーー赤ーーに潜む暗黙の宣伝によってその価値を下げている。この本は宣伝的な言葉によってその価値を下げているーー二つ例を挙げれば、『支配者』(188頁)と『大虐殺』(191頁)。この本は『穏やかな国の破壊』という書名でその価値を下げている。実際『穏やかな国』とは何なのか。そして、集団虐殺をなすことが必然的に、加害者が国全体を消し去りたいと思っていると云う事を意味するのか」。
 我が国の最も「権威ある」新聞の書評者が、何百万もの人間の死と拷問の証拠を調べる事が出来るにも関わらず、本の色や書名をなじることで応ずるとは、アメリカは一体、どうなってしまったのか!
 その翌日、9月1日にその新聞が「粉飾」せずに次のように報じていた事も思い出して頂きたい。「大量に地雷が埋められ、水雷が仕掛けられた無人地帯が、カンボジア領内20マイルから30マイルまで作られており、休み無く大量の命を奪っている。国境地方の村から[タイに向かって]出発した20乃至30人の一行のうち、うまく国境線を越えられるのはほんの2、3人しかいない。それ以上に女性や子供が連れて行かれる事は滅多にない」。
 そして、東南アジアで行われている事について、エスタブリッシュメント(多国籍金融業)の意見という「世界の舞台」で、苦情が持ち上がる事さえ滅多にない。今日の国際的ないざこざは、カンボジアのような所では、どちらの赤(残虐な共産主義者!忍)が支配するようになるかーーヴェトナムの共産主義者かそれともカンボジアの共産主義者かーーをめぐる戦いという形で現れる。

 全くもってそれは第2次世界大戦以来、最もひどい血みどろの戦いであり、十年で四百万人以上の死者を生んだ衝突を引き起こした。それにも関わらず1983年8月〜84年3月の間、カンボジアでの戦争について、合衆国の三大テレビネットワークは合わせて1分以下の放送時間しか割かなかった。その間、難民や死者のぞっとさせる犠牲者數は、「平和」と裏切りの代償の一部として日毎に増えているのである。