◎雑誌『マルコポーロ』を廃刊に導いたADLの正体◎
第6章 ★ブナイ・ブリスの正体
●亜米利加侵略の野望
1989年の夏、米国・テキサス州議会の一部議員一団が、墓場荒らしや動物の生け贄を捧げる儀式を行う悪魔崇拝者達に厳罰を科する法案を提出した。
此の立法化の動きは、メキシコのマタモロスに本拠を置く麻薬取引人の一味がテキサス大学生マーク・キルロイを誘拐、殺害した事が切欠で起こった。マタモロスはテキサス州ブラウンズビルから国境を越えた所に所在する街である。
1989年5月にメキシコとアメリカの警察が、マタモロスの近くに在るコカインとマリファナの隠し場所と見られる農場を手入れした時、集団埋葬を行った墓地と悪魔礼拝の祭壇を発見した。キルロイを含む少なくとも15人が、拷問に掛けられた上其処で殺されていた。死体はばらばらにされて大鍋の中に入れられていた。其の麻薬取引人一味の首領であるキューバ系亜米利加人、アドルフォ・デ・ジーザス・コンスタンツォは、人間を生け贄として捧げ悪魔崇拝をすれば、悪魔の力が警察から自分達を守ってくれると一味の者達に説いていたのである。
この思いがけない出来事、其れに犯罪的な儀式が齎す気味悪い恐怖の念にテキサス中は大変な衝撃を受けた。悪魔礼拝と云うおどろおどろしい儀式を禁止し、悪魔礼拝者に長期拘留と多額の罰金を科そうと云う此の法案は、殆ど全員の支持を得た。テキサス州知事は此の法案を通過させる為に特別州議会を召集した。
しかしブナイ・ブリスのADLは、此の法案を「反ユダヤ主義」と決め付け、法案通過阻止の為の宣伝活動(キャンペーンを大々的に張った。先ずユダヤ人共同体の間で反対運動を起こそうと必死に為ったADLは、この新しい法案が通れば、ラビが男児に割礼を施すと起訴される恐れが出てくると主張した[割礼については、ミカエル大王様が、『天の奇蹟(中)』で、「悪魔ダビデの人を軽んじ、私達(天上)の計画を戯画化する企みです」という御言葉があります。そして、生け贄の儀式は、エル・ランティ様の御話では、大サタンの儀式である話で、又、其れに関連して、ミカエル大王様の御話で「アブラハムの愛し子イサク敵供の際の奇蹟(『創世記22章33』)就いての話は、美化してありますが、事実です。これは悪魔ダビデの試みで、エル・ランティ様が御救いになりました。幼児犠牲を普及させたのは悪魔ダビデの仕業です」との御話です!忍)。しかしダラスやヒューストンの有力なラビ達を始めテキサスのユダヤ人共同体の大半は、ADLの圧力に従う事を拒否し此の法案を支持した。
此はADLの遣り口の典型的な例である。
ADLと云うのは何であるのか其れを深く理解する上に於いても、又亜米利加の内側に於いて彼等が悪しき役割を理解する為にも、悪魔礼拝を行うオカルト主義者の権利を擁護しようとするADLの此の奇妙な行動を先ず見て観る事は役に立つ。
1989年4月13日 読売新聞の記事より
犯人、内臓を食べる?ーー”悪魔の儀式”犠牲14人に
[ロサンゼルス12日=山田(浩)特派員]
米テキサス州ブラウンズビル市に接するメキシコ側国境の町マタ
モロス市近郊で発見された”悪魔の儀式”による犠牲者は、其の後、
容疑者の自供から合計14人と分かり、12日も激しい雨の中、亜
米利加とメキシコ両国の警察が二人の捜索を続けた。
又、麻薬密輸人ら犯人一団は少なくとも計8人とみられ、首謀者
と云われる40歳代後半のキューバ系米国人、アドルフォ・デ・
ジーザズ・コンスタンゾ等逃亡中の残る4人の行方を追っている。
メキシコ側当局の話では、このコンスタンゾはブードゥー教徒のゴ
ッドファーザー的存在で、米国内に逃げ込んでいるとみられている。
一方、其の後の現場捜査から、犠牲者達は頭を撃たれたり、鎌や
鎚(ハンマー)で殺害されており、捜査員の一部は犠牲者の脳や心
臓、其の他の内臓を食べたボウルや大きな鍋を発見したと話してい
る。唯、メキシコ当局者は、此の人食いの情報に就いては「知らな
い」としながら、犠牲者の脳が生き血や植物のハーブ、鶏の脚、鹿
の頭、亀と一緒に鍋等で煮られていた事は認めている。
●亜細亜秘儀に由来するシオニズム
20世紀への世紀の変わり目に創設されて以来、ADLは国際的オカルト団体フリーメーソンの形だけの「ユダヤ」ロッジ(支部)の中心的存在であった。フリーメーソンに就いては、一部の歴史家は「ユダヤ人で無いユダヤ人達」と称している。ADLの母体であるブナイ・ブリスは、スコティッシュ・ライト・フリーメーソンのユダヤ人部門として、1843年亜米利加に創設された。其の際のフリーメーソンの首領は、当時の英国の首相であり阿片戦争の英国側最高責任者であったパーマストン卿であった。
パーマストンの外交団はオカルト主義の温床であった。第一次阿片戦争当時の英国の駐中国首席外交官はエドワード・バルワー・リットンであるが、彼も又オカルト主義者であり、ローマ帝国の異教信仰の復興を唱える『リエンツィ』や『ボンベイ最後の日』等多くの書物を著している。
ブナイ・ブリスが正式に設立される数世紀前から、欧州に於いては強大な権力を有する寡頭政治を目指す人々の集団がユダヤ人の神秘的な儀式に関する書『カバラ』を研究し、此れを彼等の秘密結社の中に取り入れていた。
薔薇十字団、エルサレムの聖ヨハネ騎士団、スコティッシュ・ライト・フリーメーソンと云った秘密結社は、ルネッサンス期から近代国家が出現した時代に掛けて起こって来た新しい動きに対抗し、欧州の封建時代の古い制度を守る為に創設された物である。封建制度を維持しようとする斯うした者達はカバラの儀式を取り入れた際、其れに携わっていたユダヤ人中特定の家族を選んで自分達の仲間に組み入れた。此の様な特定のユダヤ人の家系の者を意味する者として「宮廷ユダヤ人」(ホフユーデン)と云う言葉を作られた。斯うしたユダヤ人は、寡頭政治の下で首席宮廷顧問と云う特別の地位に就いた。だが、其の一方で彼等の同胞であるユダヤ人が迫害され、見せしめの犠牲者と為り、隔離されたゲットーの中で貧しい生活を強いられると云う事が屡起こった。
17世紀中頃にスコティッシャ・ライトの指導的フリーメーソンであったエライアス・アシュモールが、英国のオックスフォード大学を「秘密の知識」研究の中心機関に作り替える様命じられた事を切欠に、欧州の秘密結社はカバラ儀式の採用に一団と積極的に為った。アシュモールの伝記作家C・H・ジョスターに依れば、
「1652年2月、アシュモールは自分の其れ迄の研究にもう一つ
の主題を加えた。其の主題と云うのは、カバラの記号を使った魔術
用の印象を彫る儀式、及び彼の目に止まった、ユダヤ人こそが最高
とするユダヤ史料(タルモード!忍)に関する研究である」
と言う。
1645年、アシュモールは出来たばかりの英国のフリーメーソン支部に入り、直に此れをスコティッシュ・ライト結社に改組した。又其の一方で同じ頃、彼はカバラの神秘主義の流れを組むユダヤ教等の亜細亜の秘儀を研究する為にアシュモール博物館を設立した。シオニズムは、斯うした研究を母体に生れて来た考えである。
●亜米利加独立戦争の背後で
1763年、寡頭政治を目指す英国の一団は、宮廷ユダヤ人初の組織であるユダヤ評議会を設立した。其れは今日も尚存在している。此の評議会の構成員はカバラ主義のラビと有力なユダヤ人金融家達であった。金融家としては、モンテフィオール、セバッグ、そして後にはロスチャイルドと云った一族が名を連ねていた。此の評議会の構成員と為ったカバラ主義者には、アシュモール博物館やオックスフォードで直接訓練を受けた人々が多かった。
亜米利加独立革命即ち亜米利加植民地の反英闘争の頃には、英国の寡頭制支持者達は、後のADLの様な「汚い企み(トリック)」を受け持つ特別な組織としてカバラ主義者の情報網を利用していた。此等カバラ主義者の中には、ユダヤ人の血を全く承けていない人達も混じっていた。その様な人物の存在を示す一例として、次の様な事実を挙げる事が出来る。
1780年、スコティッシュ・ライト・フリーメーソンであり、英国
東印度会社を動かす「秘密委員会」の会長でもあったシェルボーン卿は、
当時首相であったノース卿率いる英国政府に対し政治闘争を仕掛けた。
シェルボーンは此のノース卿に対して北米に於ける惨澹たる敗北の責任
を負っていた。
英国議会がアイルランドのカトリック教徒に一定の自由を認める法律
を通過させた時、シェルボーンは彼の手先の一人ジョージ・ゴートン卿
を使ってプロテスタントを煽動し、議会で反カトリック暴動を起こさせ
た。ロンドンの浮浪者や地方から遣って来た農民からなる群衆が何日も
亙って暴徒と化し、放火と略奪を行った。暴動の参加者は東印度会社の
手先から買収されて居た上に、酒を振舞われていた。彼等は議会の中に
まで乱入し、上院議員達、中でもシェルボーンや「東印度会社」に反対
していた上院議員達は、2階の窓から放り出された。上院の公安委員会
議長であったシェルボーン卿は、此れに対して敢えて暴動法を発動した
り警官の出勤を要請したりする事もせず、混乱を2日間も放置した。
暴動が鎮圧された後、ゴートン卿はほんの暫くロンドン塔に監禁され
ただけだった。ノース内閣は恐慌(此の恐慌の原因を調べた方が良い。
若しかしたら、イルミナティと関係が有るかもしれない!忍)を来たし、
其の後暫くして内閣は辞職してしまった。新内閣に於いてシェルボーン
は植民地大臣となり、其の後亜米利加独立戦争を終結させるべくパリ条
約が話し合われた大切な時期に総理大臣に就任した。
ゴートン卿はロンドン塔から解放された後、カバラ主義ユダヤ教に改
宗し、名もイスラエル・ベン・アブラハムと云う名に改めてオランダに
再び其の姿を現した。別の人間に成り代わったゴートン卿は、ルイ16
世末期の佛蘭西(フランス)で活動し、仏蘭西人の魔術師やフリーメー
ソンの手先であったメスマーと共にマリー・アントワネットの中心的オ
カルト・アドバイザーと為った(此の考えは可笑しい。其れは、霊現象
其の物がオカルトして考えている事です。悪魔と善霊の区別は必要とす
るが、それは神の法「教育勅語」と「法華經」に基づいて判断すれば宜
しいのです。此の世に霊体が存在する以上、霊現象其の物は否定する事
は出来ないのです。仏蘭西革命に犠牲になられたマリー・アントワネッ
トは、オーストリアの兄皇帝レオポルト2世に、次の様に手紙を認めて
いる「そちらのフリーメーソン団体全てに十分に注意して下さい。既に
其の事を御承知と思いますが、こちらでは、総ての人々が、総ての国の
恐ろしい出来事が同じ目標に向かって進む事を望んでいるのです」と云
ってフリーメーソンに対して警告を発しているのです。若し此れが事実
であったならば、マリー・アントワネットはゴートン卿に騙されたかも
しれないのです!忍)。
●亜米利加に渡ったフリーメーソン
亜米利加独立革命に続いて、英国東印度会社と同様に英国政府情報部をも支配していた英国のスコティッシュ・ライトの指導者達は、大西洋の反対側亜米利加で新しく建設された共和国を転覆し、最終的に亜米利加を英国の手に取り戻す事を企てた。此の目的を果たす為、南カロライナ州チャールストンを始め幾つかの都市にスコティッシュ・ライト結社が創立された。当然の事ながら其の様な都市にはユダヤ商人の小さな社会も出来始めており、其の後間も無くユダヤ人共済会やユダヤ人孤児援護会も作られた。斯うした初期の活動で名の有る人物として、モーゼス・コーエン、モーゼス・リーバイ、アイザック・ダ・コスタ、モーゼス・ペイクソット等が挙げられる。彼等の多くはオランダ東印度会社の代理人として西印度諸島に定住したスファラディ・ユダヤ人の家系の出であった。
斯うした団体の中でも最初の者は、1784年に既にメンデス・ロペスの手でチャールストンに作られていた。南北戦争中英国が支援する亜米利加南部連合側の中心として活躍したジェダー・P・ベンジャミンも、1827年にチャールストンのユダヤ人孤児援護会に入っている。
しかし此等の名許の「ユダヤ人」組織は結成当初から、ウォルター・スコット卿やアイザック・ディズレーリ卿と云った大物メーソンの手でイングランドやスコットランドに作られたフリーメーソンの聖ヨハネ騎士団や、エルサレム・ホスピタル騎士団或はユダヤ人文藝協会と云った組織の単なる下部組織に過ぎなかった。ズレーリーの著書『英国に於けるユダヤ人の歴史』は、寡頭政治を企む集団の陰謀に与して亜米利加合衆国を攻撃する事が思想的に如何に正当な事であるかを英米諸国に居る宮廷ユダヤ人に向かって話したものである。
ユダヤ人共済会やユダヤ人文藝協会と云うものには神秘的な意味合いが込められているが、其れには実際的な目的も有った。中央欧州に於けるポグロム(ユダヤ人虐殺)を避けて亜米利加に遣って来た大量のユダヤ移民は、自由と繁栄を手に入れる事が出来ると云う希望を抱いていた。ユダヤ・フリーメーソンの集団は斯うした移民を篩に掛け、野心があり且つ堕落しそうな人々を選び出して自分達の仲間に引き入れ様とした。
斯う云う形で仲間に加わったユダヤ人が、20世紀の初めに為ると亜米利加に於ける組織犯罪の中核を形成する事に為る。****禁酒法時代を経る過程で亜米利加には大規模な組織犯罪の基盤が出来上がったが、この禁酒法自体が亜米利加共和国初期の時代から続いているスコティッシュ・ライトと宮廷ユダヤ人の共謀に依って成立したものだった。禁酒法時代にブロンフマン一族、レイン・フェルド・犯罪組織、パープル・悪漢やメイヤー・ランスキーと云ったユダヤ・悪漢が全国の潜りの酒場に酒を供給したが、斯う云ったユダヤ・悪漢にスコッチ・ウィスキーを流したのが、ヘイグ卿の様な英国の貴族達だったのである。
●ブナイ・ブリスの創設
1801年、ロンドンのスコティッシュ・ライトのグランド・マスター達は、昔から継承されて来たスコティッシュ・ライト・フリーメーソンの位階に於いて第33階級に位置し、ソロモン神殿の家騎士団の団長から成る最高会議である、エルサレムの王子の大会議に、支部設立許可状を与えると云う思い切った手段を取った。斯うして亜米利加に於ける最初のユダヤ人フリーメーソン支部は、南カロライナ州チャールストンに創設された。当然の事ながらこの都市は、其の後半世紀以上にも亙って合衆国に楯突く勢力の拠点となった。
このチャールストンにスコティッシュ・ライト南部地域を管轄する本部が置かれた。此の支部の最初の団員の中には、ダ・コスタ、コーエン、イスラエル・デ・リーベン、アイザック・ヘルド博士、モーゼス・モンテフィオーレ卿、其れにナサニエル・ロスチャイルドと云った人達の後援によってパレスチナ植民協会が設立された。其の亜米利加支部であるパレスチナ在住困窮ユダヤ人救済北米協会は、亜米利加の宮廷ユダヤ人から集めた資金を、パレスチナに「ユダヤ人の国」を建設しようとする初めての植民計画に注ぎ込んだ。
●リンカーン大統領の暗殺
シャフツベリ伯爵は当時、亜米利加の宮廷ユダヤ人の資金を利用しようとする英国の寡頭政治家達の巧妙な遣り口に就いて、さも満足そうに、次の様に記している。
「ユダヤ人は其の地に対し古の想い出と深い愛着の念を持ってい
る。…彼等は殆ど至る所に住んで居り、各々に勝手な規律の基で
暮らしており、政治には全く無関心で、忍従と自己否定にすっか
り慣れ切ってしまった人々が辛うじて手にし得る楽しみだけを喜
びとして生きている。…彼等は現に存在する政府には其れが如何
なる地にあっても絶対服従する訓練は出来ている」
スコティッシュ・ライトやロンドン側の宮廷ユダヤ人組織からすれば、亜米利加にブナイ・ブリス、別名契約の子孫の結社を設立する目的は、南部諸州を合衆国から脱退させ、間も無く仕掛ける北軍への全面攻撃に備えてユダヤ人フリーメーソンの基盤を拡げる事にあった。斯うして南北戦争が始まり、アブラハム・リンカーン大統領が暗殺される事に為った。ブナイ・ブリスが奴隷所有者の一派に属しリンカーン暗殺に関っていた事は、紛れもない歴史上の事実であるが、其の事は身内の者達にも知らされていなかった。
ブナイ・ブリスはフリーメーソンの集団だ等と云おうものなら、今日では反ユダヤ主義者の烙印を押されるのが落ちだ。しかし、設立当時に於いては、ブナイ・ブリスがスコティッシュ・ライトの組織を範として作られた物である事は公然の事実だった。
ブナイ・ブリスが設立されて間もない頃、其の公式機関紙「メイラー」の中で次の様な経緯が紹介されている。
「ブナイ・ブリスとスコティッシュ・ライトの間では頻繁に会合が
行われていたし、其の構成員の中には当時存在していたフリーメー
ソンや秘密相互扶助団体のオッド・フェローズと云った慈善団体に
も加盟していた人が何名かいた。其処で、彼等の間で『ユダヤ人の
思想』に基づいて此等と同じ様式や仕来りが数多くある。例えばシ
ナゴークは支部の集会場に該当し、昔は日に2回使用された。友人
を見付けたいと思うユダヤ人が行く場所と云えば其処しか無かった
し、又決められた動作や合言葉を使って自分の意志を相手に伝える
しかなかった。…其の動作とは両手に依る特殊な握手の仕方だった
し、決まった言葉と云うのはシャローム・アラヘンという呪文だっ
た。戸口の側柱に掛けられたメスザは互いの目的であったし、シェ
マ・イスラエル(開け、おおイスラエル)と云う語が彼等の合言葉
であった」
●ユダヤ人秘密結社の危険性
ユダヤ人秘密結社としてブナイ・ブリスが設立された事を快く思わないユダヤ人は多かった。ブナイ・ブリス設立の当初、亜米利加に居て事の成行きを目撃した欧州のユダヤ人、イスラエル・ジョセフ・ベンジャミンは、自分の体験を記した著書『亜米利加で3年間、1859〜62年』の中で、この結社に就いて次の様に述べている。
「此は秘密結社である。合言葉等を使ったりするあのフリーメーソ
ンと同じ秘密結社である。そして私には其れ迄無かった全く新しい
組織の様に見えた。…其れでも、全く作る必要の無いものの様に私
には思えた」
エドーワード・E・グラスドが著した半ば公式のブナイ・ブリス史『ブナイ・ブリスー契約の歴史』でさえ、初期の支部が排他的な程にユダヤ的特性を持っていた事を強調しているだけで、ブナイ・ブリスがフリーメーソンを母体にして出来たと云う事実を少しも隠そうとはしていない。
「今日でも時々語られる一つの伝説がある。其れは、ブナイ・ブ
リスが創設されたのは、1843年にユダヤ人がフリーメーソン
結社とオッド・フェローズの結社員から除外されたからだと云う
物である。此れは明らかに事実に反する。と云うのはブナイ・ブ
リスの創設者の中に、此等の組織に加入していた人が何名か居た
からである。ジョーンズやローゼンバーグ、ルノー等を始めブナ
イ・ブリス設立直後に加入した人々が書いた記録が断片的に残っ
ているが、其れを見ても此の点に就いては全く疑問の余地は無い。
…『神の助けに依って、亜米利加に住むイスラエルの子孫を一つ
に纏める手段』としてのユダヤ人組織であると云った様な事をジ
ョーンズは書き残している」
●二股掛けの戦術
ブナイ・ブリスは勢力拡大の為に大規模な人集めを行ったが、其の最初の試みはバルーク・ロスチャイルドの手に依るものだった。彼は、メイヤー・アムシェル・ロスチャイルドが興したロスチャイルド一族の人物だった。彼がそう云う活動を始めた理由は「構成員は同等の教育を受けてはおらず、知的能力に大きな差があった」点を心配したからだった。言い換えれば、欧州封建時代の貴族の秘密結社が採っていた加入者全員に同一の厳しい資格要件を課すると云う方法を、ブナイ・ブリスも採用した訳である。
ブナイ・ブリスが優秀な人々を求め出した裏には、この団体が中心になって亜米利加共和国に対して嘗って無かった程の反逆的な陰謀を巡らしていたと云う事情がある。此の陰謀に就いては、米国情報部職員であり発明者でもあったサミュエル・B・モースが1860年に著し、人口に膾炙した有名な情報報告書に記されている。「亜米利加合衆国解体を目論む今日の試みーー英国貴族の陰謀」と題する此の報告書だった。其の中で、モースは次の様に記している。
「亜米利加合衆国に対する英国の態度を見ると、亜米利加と云う国家
に対し敵対的な態度を採っている二つの党派がはっきりと存在する。
一つは南部側に附く綿花の利害関係者、もう一つは北部側に附く奴隷
制廃止を唱える人達である。そして英国は此の二つの政治集団の均衡
を巧妙に取りながら事を進めている。即ち斯うした党派を自己の政治
目的の為に米国内に於いて自分の持ち駒の様に使う訳で、常に双方が
いがみ合う形を取らせて置く為に、一方又は他方の側に、或は両方同
時に援助を与えると云う遣り方をしている」
特に二人の人間の存在が、モースが露した陰謀にブナイ・ブリスがどういう役割を果たしていたかを端的に示している。その二人の内の一人は南部連合の要職に或る人物であり、もう一人は北部民主党の大物であった。
最初の男の名はジュダー・P・ベンジャミン(1811〜84年)。「南部連合の闇の貴公子」、「ユダヤ人南部連合支持者」、「南部連合の頭脳」と云った様々な名で知られた人物である。南カロライナ州チャールストンでスファラディ・ユダヤ人の両親から生れたベンジャミンは、二年間エール大学で学んだ後、何故か此の名門大学を去り、其の後ルイジアナ州ニューオーリンズに再び姿を現した。エリ・N・エバンスに依る好意的な彼の伝記を依れば、ベンジャミンが突然エール大学を退学した理由は、彼が何人かの学生の持ち物を盗んだ事が不名誉な評判(スキャンダル)に為ったからだと云う。
1852年、ベンジャミンは亜米利加合衆国上院議員と為り、南北戦争が始まった時も其の地位に留まっていた。戦争開始と共に彼は初代司法長官として南部側に加わり、後には陸軍長官や国務長官と為った。其の後、彼は南部連合大統領ジェファーソン・デービスと共に、アブラハム・リンカーン大統領の暗殺を命令した嫌疑で公式に起訴されたが、バージニア州アポマトックスでロバート・E・リー将軍が北軍の前に降伏した時、カリブ海のビキニ島経由で英国へ逃亡した。そして英国は彼に対し、合衆国解体を狙う自分達の為に多大の功績があったと云う理由で弁護士として特別の地位と富を与えた。ベンジャミンはロンドンへ亡命した後も、亜米利加合衆国を倒す為、クー・クラックス・クラン(KKK)の見えざる帝国と云った秘密結社を作る為に引き続き奔走した。
ブナイ・ブリスの正式な団員では無かったにも関らず(或る記録に依ると彼はプロテスタントに改宗さえしたと云う)、ベンジャミンはスコティッシュ・ライト南部地区の重要人物であっただけでは無く、チャールストンを拠点にしたブナイ・ブリスの国家に対する背信行為の全てを操る黒幕でもあった。
●ベルモントの活動
もう一人の人物の名は、オーガスト・ベルモントであった。1837年5月14日、彼はニューヨークに遣って来た。彼は此処へ、ロスチャイルド家の利権に関する仕事を口実にキューバへ行く途中、立ち寄った物に過ぎなかった。所がベルモントがニューヨークに到着した丁度其の時、金融大恐慌が起こり、19世紀最大の不況が始まった(此の不況は、何の様に起きたかは調査し直した方が良いだろう!忍)。彼はロスチャイルド家が抱える授業員の為に緊急の事業を始める任務を急遽命ぜられた。ベルモントは其の儘ニューヨークに留まった。そして、1856年に民主党党首にまで上り詰めた後も、20年間其の地位に留まった。ジューダー・P・ベンジャミンとオーガスト・ベルモントは共に、ブナイ・ブリスやスコティッシュ・ライトの幹部達共組んで合衆国を崩壊させるべく様々な活動を行った。
此の活動はベルモントがブナイ・ブリスのチャールストン支部の幹部だったエドウィン・ディリオンに、「若き亜米利加の現状と果たすべき役割」と題する小冊子の作成を命じた時から本格的に始まったと云える。
ディリオン家は奴隷商人で、南部連合に於いて重要な役割を果たす様に為った。小冊子の作成に取り掛かった時期、エドウィン・ディリオンとオーガスト・ベルモントは、ロンドンに或るスコティッシュ・ライトの上部組織の支部が二人の人物を使って始めた合衆国の転覆工作を支援する為に働いていた。二人の人物とは、悪魔[オカルト、自分は「オカルト」と云う言葉は、嫌いです。何故なら此の世に霊体が存在する以上、霊現象が起きるのは当たり前の事なのです。「オカルト」と烙印を押している人は、基本的に唯物論者なのです。唯、其の現象が、善に基づいて起こしているのか、悪を誘う為に現象を起こしているのかを区別する必要が有り、悪霊は裁きの対象になる。基本的に基督教の「オカルト」の烙印は、神の法に基づいているのか判断し様が無いのです。「法」の話をして判断していないからです。「神の法」は、「愛」に基づいた十誡であり、方向性は「教育勅語」です。そして、今天帝は、沖縄王族の子孫千乃裕子の所に居るから、他の場所に其の言葉を発しているならば、其れは高次元の霊を語る詐欺であるから注意する必要が有る。唯、普通の霊体でも正しく行われば、其の人に取っては、守護霊だから、敬意を表す必要が有る!忍]を信じるエドワード・バルワー・リットンとベンジャミン・ディズレーリの二人だった。この活動には「欧州青年(ヤング・ヨーロッパ)運動」と云う名が冠せられたが、此の運動が後に共産党第一インターナショナルの活動に受継がれて行く事に為る。其れは亜米利加のみならず欧州の全ての国々の内部にも、英国の代理人の情報網を築き上げる事を目的とした物だった。
●亜米利加解体の目論見
亜米利加国内では、亜米利加青年(ヤング・アメリカ)運動が起こされ、其処に英国の手先の人間が多く集まった。ブナイ・ブリスのエドウィーン・ディリオン・ベルモント率いる民主党から遣わされたジョージ・サンダース、空想的理想主義者で此の運動の機関紙『ヤング・アメリカ』の編集者でもあるラルフ・ワルド・エマーソンと云った人達も其れに含まれていた。
亜米利加青年運動は、自由貿易を主張し、中欧に於ける露西亜(ロシア)とオーストリアの覇権に対抗する為英米が手を結ぶ必要性があると主張した。1853年6月、パーマストン卿とシャフツベリ伯爵が直接後ろ楯と為り、欧米双方で青年運動を進めている指導者達がロンドンに集まって一連の会議を開いた。其の目的は欧州大陸と北米一帯に英国の影響力を拡大する為の政府転覆計画を話合う事に有った。出席したのはオーガスト・ベルモント、ジョージ・サンダース、伊太利青年運動から来たマッツィーニ(「伊太利の建国の父」と「イルミナティ」の”権力政治部門”の最高権力者!忍)とガリバルディ、独逸青年運動から来たアーノルド・ルージ、露西亜青年運動から来たアレクサンドル・ホルツェン等々であった。
スコティッシュ・ライトが後援する亜米利加青年運動の中心人物の手でブナイ・ブリスの幹部の顔ぶれが目立つ秘密結社ゴールデン・サークル騎士団が組織された。この結社は亜米利加共和国解体を推し進めると云うはっきりとした目的の下に設立された物である。此の団体にはジューダー・P・ベンジャミン、オーガスト・ベルモント、南部地区スコティッシュ・ライト・フリーメーソンの騎士団長アルバート・バイク将軍(後に米国イルミナティの全権責任者で、世界大戦の計画者!忍)、後の南部連合大統領ジェファーソン・デービス、ジョージ・サンダース、其れに南カロライナ州チャールストンのブナイ・ブリスの創設者で後に会長になったベンジャミン・ペイクソットが加わっていた。
●連邦解体の陰謀
アブラハム・リンカーンがアメリカ合衆国の第16代大統領に選ばれた時、アメリカに送り込まれた英国の手先は行動を起こした。リンカーンが首都へ立ち寄った所を暗殺し、財務省とワシントンの鉄道駅を占領した上で軍事暴動を引き起こす、そして南部の連邦脱退を実現する為に戦争を開始すると云う内容の計画が、密かに且つ入念に話合われた。リンカーン暗殺の後には、ゴールデン・サークル騎士団の秘密団員であったジェームズ・ブレッケンリッジがアメリカ合衆国大統領に就任する事に為っていた。又彼は戦争が勃発した場合、戦闘がほぼ全て北軍の領域内で行われる様にする為の工作を担当する事にも為っていた。
この陰謀を企てた主な人物には、ジュダー・ベンジャミン、スコティッシュ・ライトのグランド・マスターであるロバート・トゥームズ、悪名高い悪魔ダビデユダヤ教信奉者でカバラの研究者でもあったアルバート・パイク将軍等が居た。ニューヨークとボルチモアで銀行業を営み、ブナイ・ブリスを財政的に支えていたセリグマン一族は、この陰謀工作の為に多額の資金を醵出していた。
結局この陰謀は陽の目を見る事無く終わったが、陰謀を企てた者達に手抜かりがあった訳ではない。暗殺が実行に移される前に、連邦脱退派の軍隊がテャールストン港のサンプター要塞に砲撃を仕掛けた事が切欠で戦争を始まってしまったからである(若しかしたら神の守護かもしれない!忍)。唯、大統領がボルチモアを通過した時、暗殺計画が実施に移されはしたものの、失敗に終わった。当時ボルチモアはブナイ・ブリスとスコッティッシュ・ライトの活動の拠点に為っていた。
●誰が奴隷売買をしたのか
1861年4月、連邦を守ろうとする合衆国軍が首都の守備増強の為にボルチモアを通過し様とした時、地元のブナイ・ブリス支部の指導者が率いる暴徒と打ち当たった。ブナイ・ブリスがゴールドデン・サークル騎士団に加担し、合衆国を壊滅させようとする英国の陰謀に協力している事等はないと考えていた人も、ブナイ・ブリスの率いる暴徒が、奴隷制反対を唱える新聞「シナイ」の出版社のラビー、デービッド・アインホーンの事務所を襲撃し印刷機を打ち壊した事件を目の当りにして、其の考えをすっかり改めてしまった。
ボルチモア暴動の後に逮捕された者の中には、ブナイ・ブリス支部で活動する著名なユダヤ人家庭の子弟ジョセフ・フリーデンワルドが居た。数年後、フリーデンワルド家の一員であるアーロン・フリーデンワルドの仕事上の仲間、モーゼス・ワイゼンフェルドが工場に南部連合の戦争用物資を隠していた事に因り逮捕された。奴隷制度を支持する連邦脱退主義者と急進的奴隷制廃止論者達は裏で密かに繋がっていた。ワイゼンフェルドの裁判に於いて、其の弁護を務めたのがボルチモア地区の急進的奴隷制廃止運動を率いるクエーカー教徒のジョンズ・ホプキンスであった事は、此の事実を裏書する物であった。
ブナイ・ブリスの支部の大半は北部に置かれていたが、その個々の構成員は何処に住んでいるかに関係無く南部連合の味方をした。連邦の動きが最高潮に達し、1861年には南北戦争が始まった。其の頃ニューヨーク市のラビ、モーリス・ラファルは広く世に知られる様に為った「聖書から見た奴隷制度」と題する説教を行った。それは黒人の人身売買にブナイ・ブリスが果たした役割を釈明する最低の内容の物だった。
ジューダー・ベンジャミンに繋がるオランダ人奴隷商人により設立されたボルチモア・ユダヤ人会も、矢張りブナイ・ブリスの傘下にあるシナゴーグの一つで、南部連合の側に立った。ブナイ・ブリスの指導者の中にはフリーデンワルドの様に極めて活動的な人々が居たが、此のシナゴーグも其れに負けず劣らずの活発な活動を行った。ラビのバーナード・イロメイは、ラファルの考えを支持する有名な説教を行ったが、其の中で次の様に彼は語った。
「自分達の願い等叶えられそうも無く、彼等を暴力と専制の足枷の
下に縛り附けて置こうとする様な政府の支配から抜け出ようとして
いる南部の同胞を、一体誰が非難する事が出来ようか。彼等の財産
権や合衆国が享受している特権を守る事が出来ないばかりか、守ろ
うともしない政府が支配する社会から脱退しようとする南部の同胞
を一体誰が非難する事が出来ようか」
そして彼は聴衆に向かって奴隷制度は「神が命じたもの」だと語って話を終えた。
●反連邦主義者の温床
ブナイ・ブリスが連邦を解体しようとする陰謀で中心的な役割を果たしていた事を、リンカーン大統領側に就いた主だった人達は良く知っていた。
其れ故に、1862年12月17日、ユーリセス・S・グラント将軍は次の様な内容の命令書第11号を公布した。
「ユダヤ人全員が、財務省が定めた通商に関する規則及び軍管区の
命令に悉く違反しており、其れ故この命令受理後24時間以内にユ
ダヤ人全ては軍管区から追放される事とする。各部隊の指揮官は、
ユダヤ人全員に通行証を所持させ退去させる事とし、如何なる者で
あってもこの通達の後に戻って来る者は逮捕され、司令部からの許
可が無い限り囚人として移送される時迄監禁される事とする…」
此処に云う軍管区とは、テネシー、ミズーリと其の他の南部及び中西部の各州から成るテネシー軍管区の事である。
ブナイ・ブリスの各支部が反連邦主義者の煽動活動の温床と為っていて、南部連合の工作員や代理人の根城で有る事が判明した事件が頻繁に発生した為、グラントは此の様に対処したのであった。此の命令が発せられた後でさえ、グラント将軍は特定のブナイ・ブリスの活動家の逮捕を余儀なくされた程である。逮捕された人間の中には、後にブナイ・ブリス会長と為った弁護士サイモン・ウルフも含まれていた。彼は、テネシー軍管区で逮捕された多数のユダヤ人の弁護士を務めた。
第7章 ★ ブナイ・ブリスの秘密部門ADL
●ブナイ・ブリスの亜米利加再侵攻
アブラハム・リンカーン大統領が暗殺され南北戦争が終わって直ぐ、契約の子孫の結社ブナイ・ブリスは。その拠って立とうとした南部連合が崩壊してはいたものの、アメリカで再び影響力を持ち始めた。
ブナイ・ブリスと手を結んだ「ユダヤ人南部連合主義者」の一人、ジュダー・P・ベンジャミンが、此のブナイ・ブリス台頭の過程で、大きくないにしても一つの役割を演じる事に為った。
ベンジャミンはカリブ海、カナダ経由でアメリカを脱出、1865年8月30日に英国へ到着した。その時彼は既に、1865年4月14日のリンカーン大統領暗殺の嫌疑で南部連合大統領ジェファーソン・デービスと共に起訴されていた。
ジョン・ウィルクス・ブースに依るリンカーン殺害の丁度10日後、連邦政府の司法長官スタントンは、此の暗殺計画は「カナダで計画され、リッチモンドで承認された」ものだった事を公にした。バージニア州リッチモンドは南部連合の首都であった。又英国の植民地であったカナダは、連邦脱退を唱える一派のスパイやテロリスト活動の本拠地であった。
何人かの証人が連邦捜査官に対して語った所に拠ると、1865年4月6日と9日に南部連合の筆頭スパイ、ジェイコブ・トンプソンのモントリオールの事務所で開かれたジョン・スラットとの会合に彼等も出席していた。報告書に依ればスラットは、南部連合大統領ジェファーソン・デービスと国務長官ジュダー・P・ベンジャミンの署名入りのリンカーン殺害命令書を持参したと云う。
ジェーファーソン・デービスは逃亡前に逮捕された。其処でロンドンへ無事脱出したベンジャミンが、南部連合の陰謀工作を担当する部署の中で最も重要な人物として活躍する事に為った。彼は又英国法曹界の中でも重きを為すに至った。
リンカーン暗殺から8ヶ月も立たない内に無事英国に潜入したベンジャミンは、スコティッシュ・ライトの騎士団長であるアルバート・パイクと謀って、ゴールデン・サークル騎士団フリーメーソンをKKKの見えざる帝国と新しい名の下に復活させようとした。南北戦争後、この見えざる帝国を作る計画に参加した者の中には、バーナード・バルークの曾祖父が居た。
ジュダー・P・ベンジャミンは、南部全土に亙るKKKの見えざる帝国の活動を支援する為、ロンドンから密かにアメリカ向けに送金を行っていた。KKKは20世紀初めに、ブナイ・ブリスのADLから同じ様な遣り方で密かに資金供給を受けて、再び頭を捧げて来る事に為る。だが、それ以前にKKKが意図したのは鉄道建設や農工業基盤整備を中心とした南北戦争後の南部復興計画を阻止する事だった。そうする事で、敗北を喫した南部諸州を合衆国に取り込む事を狙った訳である。
●連邦解体工作は続く
一方、北部ではブナイ・ブリスは戦争に依る損失の一部を取り戻そうとしていた。その一つの手段としてブナイ・ブリスは、其の創設当時からの支援者であったロスチャイルド家の代理人、オーガスト・ベルモントの政治力を利用した。ベルモントは1870年代中頃まで民主党党首を務めた。その影響力を行使して、彼はブナイ・ブリスのスパイを政界へ送り込んだ。
ベルモントはニューヨークに本拠を置いてはいたものの、南部連合の陰謀を薦める上で、此の事は何の邪魔にもならなかった。彼はニューオーリンズの民主党の党首で、ジュダー・P・ベンジャミンの政治的後ろ楯だったジョン・スリデルの姪と結婚していた。ブキャナン大統領時代、スリデルは全ての政治的任命権を委ねられて折、後にメキシコ大使に為った。南北戦争が勃発した時、スリデルは南部連合の外交団の中心的人物と為り、ルイ・ナポレオン王朝との特別交渉担当者としてパリへ赴いた。彼ともう一人の南部連合の隠密外交官が仏蘭西に赴く途上、公開上の英国船内で北部連邦の水兵に依って逮捕された時、ベルモントはリンカーン大統領に手紙を書いて自分も含めた分離主義者高官の釈放を要求した。ベルモントは彼等二人を不法逮捕した事が切欠で、英国が南部連合側に就いて参戦してくる恐れがあると説いた。
事実を振り返って見ると、先ず1852年、スリデルは義理の甥であるオーガスト・ベルモントを、大統領指名大会のニューヨーク州代議員にして民主党に引き入れた。指名大会では、彼等はジェームズ・ブキャナン指名の後押しをした。
民主党はベルモントの下で、連邦解体をその使命とする英国の後方攪乱部隊としての役割を果たす様に為った。英国とのこうした関係は、南北戦争が終わっても存続した。
ベルモントは、亜米利加青年運動やブナイ・ブリスの人間を工作員として、政府部内、政界、金融界の機密に関る部署に配置し、連邦解体の工作を更に進めようとした。
●ブナイ・ブリスが公的費用を醵出
ブナイ・ブリスの工作員の中でまず復権したのは、ユーリセス・グラント将軍の第11号命令に依り逮捕されたサイモン・ウルフだった。
1870年、ウルフとブナイ・ブリスは、連邦政府に巧みに圧力を掛けルーマニアに初めて合衆国領事館を開館させた。ルーマニアではユダヤ人社会に対する血生臭い虐殺(ポグラム)が行われていた。
ブナイ・ブリスの前会長ベンジャミン・F・ペイクソットは、時の大統領グラントから初代ルーマニア駐在亜米利加領事に任命された。この領事職の手当に充てる政府財源が無かった為、ブナイ・ブリスとの極めて異常な連携だったが、其の後両者の間で行われた多くの共同開発の先例と為った。そしてその殆どは国家の基本的利益に反する者であった。
迫害されているルーマニアのユダヤ人の為に手を施す必要が差し迫る迄、ブナイ・ブリスは専ら自分達の利益の為の救済活動を行っていた節がある。ルーマニアに遣わされた外交関係者に関するブナイ・ブリスの公式の報告書に依ると、ペイクソットうやウルフ、其の他の者達は、ルーマニア中にシオンの会(シオン・ソサエティ)なる組織を作った。このシオンの会は、フリーメーソンの秘密結社ブナイ・ブリスを原型とした者であり、結局の所、新しい支部として正式にブナイ・ブリスに組み込まれてしまった。亜米利加への移住の際、ブナイ・ブリスの団員だった者に優遇措置が取られる様に成った背景には、こうした秘密結社間の繋がりが存在したのである。
●ユダヤ移民の選抜
19世紀末近くになって、ブナイ・ブリスは東欧や南欧から大量に遣って来た移民の中から人材を確保する事に力を入れる様に為った。ブナイ・ブリスが適用した基本的な採用基準に従えば、その団員に成れるのは殆どが金持ちか其れとも野心があるかのどちらかで、更に堕落しており、将来大物に為り得るユダヤ人と云う事に為ってしまった。
ブナイ・ブリスに加盟して団員に為れば、団体生命保険に入る資格が与えられた。ユダヤ人互助会等他の団体が安い保険料率を導入して会員数を増やそうとしても、裕福なユダヤ人や野心的で出世を願う者が余計に団員に為りたがる様に、ブナイ・ブリスは醵出金の額を殊更高目に設定した。
ブナイ・ブリスは1890年代に、人材確保と移民受け入れ事業をバロン・ド・ヒルシュ基金と密接に協力して行った。此れが、その後長期に亙って様々な意味を持って来る。ブナイ・ブリスとバロン・ド・ヒルシュ基金は、露西亜難民待遇改善米国委員会を通して特定のユダヤ人移民家族を選び、ニューヨークやその他の亜米利加東海岸の都市部にあるユダヤ人で一杯のゲットーから、米国内のその他の地域や加奈陀(カナダ)等へ移住させた。ブロンフマン一族が加奈陀西部に定住する様に為ったのも、米国委員会の受入れ作業の結果だった。この一族は、其の後、ハドソン・ベイ・カンパニーの様な長年に亙ってスコティッシュ・ライトの隠れ蓑と為って来た会社が後ろ楯と為っている組織犯罪に急速に足を突っ込む事になった。
1900年には、ブナイ・ブリスはバロン・ド・ヒルシュ基金を事実上併合していた。ブナイ・ブリスの幹部だったヤコブ・シフ(著名なニューヨークの投資銀行家)とオスカー・シュトラウス(亜米利加の元トルコ大使)は、基金の理事も兼ねていた。
百万人以上のユダヤ人が住んでいたガリチア、ベッサラビア、及びルーマニアの東欧地域が飢饉に襲われ、新たな虐殺が始まった(此の虐殺は、誰が司令して誰が行わさせたのかを調べ直した方が良いかもしれない!忍)。その結果大量のユダヤ人が難を逃れて亜米利加に脱出した。
この時点ではブナイ・ブリスとバロン・ド・ヒルシュ基金は、既に難民救済事業を完全に取り仕切る迄に成っていた。と云うのは秘密支部を全国に持つブナイ・ブリスがユダヤ機関の中で唯一亜米利加と加奈陀全土に地方支部を有する団体であった為、この地方支部が北米に於けるユダヤ人移住者の受け入れ割り当て数を決める事が出来たからである。ブナイ・ブリスは、南北戦争中に犯した恥ずべき行為が主たる原因と為って20年間に亙って伸び悩んでいたが、此の移民受け入れ作業に依って再び団員数を拡大する事が出来る様に為った。
●節目と為ったセオドア・ルーズベルト
1901年迄に1万人のユダヤ人移民が、ニューヨークのローアー・イーストのゲットーから遥か彼方のコロラド州クリップル・クリークやニューメキシコ州シルバー・シティと云った所迄、全米5百の町や市へと再定住させられた。
又、世紀の変わり目に起こったもう一つの亜米利加の悲劇、即ち1901年、ウィリアム・マッキンレー大統領が暗殺され、セオドア・ルーズベルトが大統領と為ったのが切欠と為って、ブナイ・ブリスは隆盛を極める様に為った。
マッキンレーからルーズベルトへの政権移行は、亜米利加史に於ける最も劇的な転換、其れも合衆国の敵にとって喜ぶべき転換であった。
マッキンレーはリンカーンに忠実なオハイオ出身の共和党員であった。彼は1896年の選挙と1900年の再選の政治主張では、亜米利加本来の政治・経済システムを取り戻す政策を訴えた。裕福なニューヨーク貴族出身のルーズベルトは、その母方の祖父ジェームズ・ブロッチから極めて強い影響を受けていた。
此のブロッチは、ロンドンに本拠を置く南部連合の欧州に於ける情報全体を取り仕切る首謀者であった。彼はジュダー・P・ベンジャミンの親密な協力者で北部連邦の敵と考えられていた為、南北戦争後亜米利加に戻る事は許されなかった。彼と同じく永久追放の目に会ったもう一人の南部連合支持者が、オーガスト・ベルモントの叔父ジョン・スリデルであった。
殊陰謀に掛けては一廉の人物だったセオドア・ルーズベルトは、海軍次官だった1898年、ヘンリー・キャボット・ロッジ上院議員と共謀し、キューバの革命家達に密かに資金援助をして米西戦争を勃発させようとした。此のキューバの革命家達は亜米利加艦船「メイン号」を沈めたとされている。亜米利加の歴史家の中には、元ニューヨーク市警察長官であり急進的な隣保運動の後援者でもあったルーズベルトが、マッキンレー暗殺に関与していた可能性があると指摘する者も居る。
●何故自由国家にFBIか
1901年、ニューヨーク州バッファローで再選直後の大統領(マッキンレー氏)に致命的銃撃を加え殺害した人物は、ヘンリー・ストリート隣保館に住む露西亜人無政府主義者であった。
1900年の共和党指名大会ではマッキンレー自身が再選で指名される事は初めからはっきりしていたが、副大統領候補を誰にするかで紛糾した。激しい遣り取りの後、相手を不憫に思ったマッキンレーは、自分の大敵であるルーズベルト知事を副大統領候補とする事に同意した。この妥協がマッキンレー自身の上に、そして亜米利加合衆国の上に不運を招く結果に為った。
セオドア・ルーズベルトが大統領であった8年間に、合衆国が拠って立つ立憲制度の土台を破壊する事を目的として数多くの組織が設立された。その一つが連邦捜査局(FBI)で、此れは当時の議員達が「専制警察国家機関」だとして激しく非難したものであった。FBIは議会の夏季休会中に、セオドア・ルーズベルトが著名した行政命令により設立されたのであった。
其のFBIが公式に行った最初の活動は、FBI設置に反対する合衆国議会議員の事務所にFBIの工作員を送り込み、その議員を罪に陥れる罠を仕掛けさせて(この遣り方は悪でしょう。人に陥れる事は、罪の教唆罪に属している!忍)、初めて設置された合衆国国家警察機関に反対する議会勢力を叩き潰す事だった。
其の他にセオドア・ルーズベルト時代に誕生した機関としてADLを挙げる事が出来る。ADLが、ボルシェビキの絡む犯罪組織や亜米利加の利益を損ねる事を狙った外国の諜報組織と手を結ぼうとする一方で、FBI共緊密な関係を持とうとしたのは決して単なる偶然ではない。其れは今後予想される激しい査察や様々な場合に起こり得る刑事訴訟からADLを守る為に、FBIとの間に特別な関係を作って置こうとする事だった。
●ブナイ・ブリスから生れたADL
ADL自らが作成した公式のADL史の中で、ADLがブナイ・ブリスの1機関として作られた事実を、態と大した事で無いかの様に記述している点には注意する必要が有る。ADLの報告書に依ると、ADLはイリノイ州南部出身の一人の若手ユダヤ人弁護士の手で作られ、設立の5年後に為って初めてブナイ・ブリスに「公認」された事に為っている。
実際、ADLがイリノイ州ブルーミントン出身の若手弁護士シグムンド・リビングストンはシコゴに住んで居り、又有力なブナイ・ブリス弟6支部の支部長をしていた。
1908年、ニューヨークのラビ、ジョセフ・シルバーマンは、ブナイ・ブリスの執行部の会議の席上、「ユダヤ人の名誉を守る為」のブナイ・ブリスの新しい組織を作る事を提案した。ブナイ・ブリスとADLの沿革史に依ると、此の提案はシェークスピアの有名な戯曲『ベニスの商人』の全国興業が実施された事が、切欠で行われたと云う。
だが此の説明は本来転倒である。
●反ユダヤ主義を広めておいて組織拡大
ブナイ・ブリスとADLが此の劇を嫌っていると云うのは事実だが、其れは別にシェークスピアが反ユダヤ主義者だからと云う訳では無い。此の劇がシャイロックと云う人物の描き方を通じ、富と権力の為なら自らの同胞を冴え裏切るユダヤ人の中の宮廷ユダヤなる人々の本性を見抜き彼等をこっ酷く遣っつける内容に為ったいる事が、ブナイ・ブリスとADLには気に入らないのである。
シェークスピアがベニスをこの戯曲の舞台に選んだのは偶然では無い。と云うのは当時ベニスは寡頭政治勢力の中心地であり、それ以前から「総督」に成り代って最も非常な秘密犯罪を行わせる為に宮廷ユダヤ人(ホフユーデン)を使うと云う歴史的背景があったからである。
独逸の偉大な劇作家で亜米利加革命の支持者フリードリッヒ・シラーや亜米利加の作家で秘密情報員であったジェームズ・フェニモア・クーパーの様に、ベネチアの「総督」制と共和主義への憎悪の念を痛烈に告白した作家も他に居た。この「総督」制は、スコティッシュ・ライトやブナイ・ブリスと云った組織(フリーメーソン)を通して西欧や北米に拡がっていった。今日に至るまでルツァットやレカナッティと云った古くからベネチアに住む宮廷ユダヤ人一族が中心となり、世界中に於いてADLとその上部組織であるブナイ・ブリスを支えて来ている。
20世紀の変わり目に話を戻し、「ユダヤ防衛機関」を作った本当の理由に就いて考えて見よう。若し亜米利加でユダヤ人の名が冒涜されて来たと云うなら、其の冒涜者の筆頭はブナイ・ブリスの指導者達自身であった。ユダヤ人が非難される度に「反ユダヤ主義」と叫ぶ様な組織を作る事で、ADLの考案者達はユダヤ人に向けられた非難の内容を覆い隠し、正当な非難と正真正銘の反ユダヤ主義との区別を曖昧な物にしてしまおうとした。相する事でブナイ・ブリスとADLは、皮肉にも亜米利加中に反ユダヤ主義を拡めるのに大いなる働きをする結果に為ってしまった。だが、此こそ彼等が当初から意図していた事だった(此の言葉を注目して欲しい。これは、戦略的に行っている事を指摘している!忍)。
セオドア・ルーズベルト時代に於いて、ブナイ・ブリスは正当な批判されても仕方の無い様な事を数多く実行していた。ユダヤ人社会の内部から冴え屡非難された程であった。彼等にとって「ユダヤ人の名を守る」為の組織作りが急務と為ったのは、こうした汚い工作を遣っていたからに他ならない。
●ボルシェビキ革命への序曲
ではブナイ・ブリスは何の様な事に関ったのだろうか。
第一に、ブナイ・ブリスは、バロン・ド・ヒルシュ基金や其の他の秘密結社と共に、露西亜からのユダヤ人移民の中から選りすぐられた者を選別して採用した事で、露西亜帝政を転覆する陰謀の主役を演じる事に為った。詰り、ブナイ・ブリスは事実上ボルシェビキ革命を積極的に支援した。
1903年4月19日、ベッサラビア(ソ連のルーマニア国境地方、大部分がモルダビア共和国に属する)でキシニョフの大虐殺と呼ばれる惨事が起き、45人のユダヤ人が殺され数百人が負傷した。亜米利加と欧州全域の多くのユダヤ機関が、生存する負傷者を支援する為の資金集めをしようとしたのに対し、ブナイ・ブリスは財政的援助にははっきりと反対、その代りセオドア・ルーズベルト大統領と共に、大虐殺に対する個人的責任はツァー(露西亜皇帝)にあるとする世界的政治主張を行い、露西亜の体制の不安定化を図る為更に揺さぶりを図ろうとした。
1903年6月15日、ブナイ・ブリスのワシントン代表で元南部連合の顧問弁護士だったサイモン・ウルフは、結社の執行部とルーズベルト大統領、其れに国務長官ジョン・ヘイとの間の会合を設定した。この会合で話合われた内容はルーズベルト大統領自身の手で報道関係者に公表され、広く報道業界の関心を集める所と為った。大統領はブナイ・ブリスが用意した嘆願書をツァーに個人的に伝える事に同意した。其の嘆願書はキシニョフの大虐殺に抗議した者で、再び此の様な事件が起こらない様にする為、露西亜政府が殺害者達を速やかに処罰し、もっと思い切った政策を取る事を要求したものであった。
1903年7月14日、ルーズベッルトは再びブナイ・ブリスの最高幹部であるサイモン・ウルフ、オスカー・W・シュトラウス、其れにブナイ・ブリスの会長レオ・N・レビと云った人達とニューヨーク州オイスター・ベイにあった彼の私邸サガモア・ヒルで会った。ブナイ・ブリスが嘆願書に数千人の署名(大部分は非ユダヤ人のもの)を集めた後、ルーズベルトがツァーに其れを提出する事で彼等は合意した。
●アーマンド・ハマーなる人物
此の様な事は、他国の内政問題に対し非礼にも外向的干渉行為を加える物であった。と云うのは大虐殺から数ヶ月経っても、露西亜政府が直接事件に関与したと云う証拠は何も出て来なかったからである。ツァーは嘆願書の受取を拒否したが、その事を再び世界の報道業界が一斉に叩いた。
ブナイ・ブリスが帝政の弱体化を図っていた事が公に為った結果、1905年露西亜革命とボルシェビキ運動が起こった後程無くして、間も無く其れに対する巻き返しの動きが起こった。1917年にボルシェビキが権力を奪うと、ユダヤ人とボルシェビキは繋がっていたと指摘する声が大きく為った。
亜米利加国務省の1920年代初期の公式文書に「ユダヤ・ボルシェビキ」の中心人物として記録されている重要人物の一人はアーマンド・ハマーである・亜米利加共産党の創始者の息子ハマーはモスクワに数年間滞在し、Y・I・レーニンを含むボルシェビキの最高幹部と個人的に親密な交流が合った。彼は新しく出来た共産主義独裁政権に亜米利加が大規模な経済援助を行うべき事を説いて周った。ハマーはソ連滞在中、米情報部がソビエトの大物スパイと見なしていた露西亜人女性と結婚した。アーマンド・ハマーはADLと親密な関係にあり、今日に至るまでソビエトと「特別な関係」を築く事を最も熱心に唱える人物の一人である。
●表はブナイ・ブリス、裏はADL
20世紀初めの混乱と変化の中で、ブナイ・ブリス首脳は結社が長年に亙って保持して来た秘密主義を放棄し、もっと開かれた公的な組織に成るべきだと考えた。公式のブナイ・ブリス史にはそう云った記述は無いが、この結社の責任者は、其れ以降の秘密工作はADLのみが担当するとのはっきりした決定を行っている。
此の様に、ブナイ・ブリスの「ユダヤ防衛」部門は、成立当初から秘密結社の中の秘密組織と考えられていた。其れまではブナイ・ブリス全体で行っていた地下工作を此の部門だけで行う事に為った訳である。ブナイ・ブリスは亜米利加に住む広範囲なユダヤ人層から其の後も引き続き団員を採用する事によって、当初は誰の目にも明らかだったフリーメーソンの組織であると云う其の歴史を世間から隠して行った。そして其れ以降は、ADLが受持つ様に為った秘密工作を世間の目から隠す為に、社会的義務を立派に果たす組織としての体裁を整える様に為った。
しかしブナイ・ブリスの全米執行委員会とADLの全米委員会が全く同じ顔ぶれから為っているのを見れば、結社内部の優等生とADLの幹部が繋がっている事が分かる。
こうした変更は20世紀に入った1910年代の10年間に実施された。1910年のブナイ・ブリスの全国大会では、結社に「秘密主義の廃止」を求める議案が圧倒的多数で否決された。しかしその10年後、1920年の大会では、10年の大会の時と同じ代議員が多数出席したにも関らず秘密主義は正式に廃止された。同時にブナイ・ブリスは結社の「ユダヤ防衛」計画の活動を拡大する為、19万2千ドルを特別ADL基金として別途醵出する事を決定した。
結社に新しい秘密部門、即ちADLを作ると云う考えは、単にボルシェビキとの絡みから出て来たと云うだけの事では無かった。決定的要因とは云わないまでもADL創設のもう一つの重要な要素として、ブナイ・ブリスとバロン・ド・ヒルシュ基金の支援を受けていた東欧からのユダヤ人移民が牛耳る組織犯罪シンジケートの出現と云う事実があった。
●伊太利・マフィアとの連携
ADLの設立に関する公式の報告書は、ADLが末端に至るまでブナイ・ブリスによって統制されていると云う事には余り触れていないが、「ユダヤ・ギャング」の存在に伴って起こったスキャンダルに就いては殊更詳しく述べている。
早くも1901年には、ニューヨーク市警察は強大化する地下犯罪組織の活動、其れにその地下組織と国際無政府主義運動との繋がりを追っていた。
ニューヨーク市警察長官セオドア・ビンガムと彼の配下の首席情報担当官ジョセフ・ペトロシーノ警部補は、その事を知ってか知らずか、スコティッシュ・ライトが当時進めていた陰謀を追っていた。其の陰謀とは、亜米利加合衆国、其れに欧州大陸の国の中で亜米利加が行った様な共和制国家を作る実験を繰り返す可能性がある全ての国を弱体化する事であった。
共産党第一インターナショナル結成当時、スコティッシュ・ライトは欧州青年運動の中心的人物を多数引き抜き、共産主義者や無政府主義者に仕立てた。こうした事を行ったフリーメーソン活動家の中に、伊太利のジョゼッペ・マッツィーニが居た。
マッツィーニの伊太利青年運動は、1848年以降の欧州中に吹き荒れた革命の嵐が鎮まった後に於ける欧州青年運動の組織全体の立て直しの為に中心と為って働いた。マッツィーニの勢力は第一インターナショナルの結成大会では過半数を占めたが、歴史の教科書の中では彼の働きは英国で訓練を受けた独逸系ユダヤ人共産主義者、カール・マルクスの陰に隠れてしまっている。
マッツィーニの伊太利青年運動は、拡大する国際組織犯罪シンジケートの中心でもあった。此の犯罪組織(シンジケート)の中心でもあった。この犯罪シンジケートが、後にマフィアとして知られる事に為った。伊太利人の亜米利加への大量移民が始まると共に、マッツィーニ率いる伊太利青年運動は新世界に足掛かりを設けた。当然の事ながら、スコティッシュ・ライトが後ろ盾と為っているマッツィーニの運動が、既に出来上がっていたブナイ・ブリスの情報網や、大西洋を越えて亜米利加に移植された欧州青年運動の他の団体と共通の目的を持つと云った事が屡起こった。19世紀の終わりには、ユダヤ人や伊太利人、アイルランド人、其れに其の他の欧州移民を巻き込んだ一つの強力な犯罪シンジケートが、ニューヨークやニューオーリンズと云った都市に出来ていた。
ニューヨーク市警察長官ビンガムが叩き潰そうとしたのも、正しく此の様な組織であった。
●ユダヤ防衛の為に非ず
早くも1901年の初めには、ビンガム長官の右腕のジョセフ・ペトロシーノ警部補は、ニューヨークのローアー・イーストサイドにあるヘンリー・ストリート隣保館を本拠とする無政府主義者一味がウィリアム・マッキンレー大統領の暗殺を企んでいると、財務省秘密検察局に事前に警告していた。ヘンリー・ストリートの一味と関係が合った無政府主義者はエマ・ゴールドマンであった。1890年初め、ニューヨーク市警察長官在職当時、セオドア・ルーズベルトはフェビアン社会主義者が作ったヘンリー・ストリート隣保館の強力な支持者であった。財務省秘密検察局はペトロシーノの警告を無視した。その数ヶ月後マッキンレーは亡くなり、そしてセオドア・ルーズベルトが大統領と為ったのである。
ビンガムとペトロシーノは、ニューヨークに於ける無政府主義者に依る地下活動の徹底調査を進めて、其れなりの成功を得た。悪名高い悪漢(ギャング)、アル・カポネの叔父、ジョニー・トリオは、ニューヨーク市警察から絶えず圧力を掛けられ、その結果ニューヨークからシカゴへと追いやられてしまった。1908年初め、ビンガムは一冊の公的報告書を出し、その中でニューヨークで台頭して来たユダヤや伊太利、其れにアイルランドの犯罪シンジケートに就いて詳しく報告すると共に、それらシンジケートと国際無政府主義者との関係に就いてもその実態を明らかにした。此の報告書は今では入手出来ないので、シンジケートの一部としてブナイ・ブリスの名をビンガムがはっきりとした形で挙げていたかどうかは調べようがない(此の報告書を捜す必要が有る!忍)。しかしADLの沿革を書いた公式の文書に拠れば、ADLがブナイ・ブリスの単なる広報委員会としての活動を行っていた当時、先ず最初の攻撃目標に選んだのがビンガム長官だった。「ユダヤ人を中傷した」と云う理由で、彼は激しい非難に晒された。
1909年初めにペトロシーノ警部補は伊太利警察との連携捜査の為に伊太利へ引き渡した。3月にシンリーを訪れていたペトロシーノは、シシリー・マフィアの首領、ドン・ヴィトー・カスチオ・フェロに依り暗殺された。
一方亜米利加では、ビンガムを反ユダヤ主義者呼ばわりするブナイ・ブリスの率いる運動が繰り広げられ、彼はニューヨーク市警察長官の地位に追われた。その結果伊太利人及びユダヤ人双方の悪漢(ギャング)の活動は隆盛を極める事と為った。
犯罪と戦ったビンガムが追放され、ペトロシーノが暗殺された事実は、ADLがどういう存在であるか、その本質的なものを示唆している。つまりADLは結成当初から組織犯罪や其れを操るスコティッシュ・ライト(英国のフリーメーソン)の「防衛機関」と位置付けられていたのであり、「ユダヤ人」の犯罪組織だと決して考えられて無かったのである。
●組織犯罪を支えるADL
ADLが結成当初からスコティッシュ・ライト・フリーメーソン(英国)の上層部に依って支配されていた事は、その設立者であり初代専務理事(1913〜45年)を務めたシグムンド・リビングストンの経歴を見ると分かる。リビングストンは中西部の有力なブナイ・ブリス第6部支部の支部長だった時、既にシカゴの弁護士として名を為していた。彼の大手顧客の中にはウィリアム・ムーアが支配するシカゴ・アルトン鉄道が在った。1890年代以後、監督教会員であったムーア家はJ・P・モルガン銀行団体との共同事業に依り財を為した。ムーア家は、モルガンの財政的支援を受けてナショナル・ビスケット・カンパニー(ナビスコ)やU・S・スティール・コーポレーションを設立した。2世代の内にムーア一族はニューヨークのバンカーズ・トラスト・カンパニーを支配する様になり、インターナショナル・ビジネス・コーポレーション(IBM)の重役に名を連ねる様にも為った。
ムーア家の弁護士シグムンド・リビングストンは、1900年代初めの30年間、ADLの活動の支配権を握ったと云うだけでは無かった。ナビスコやムーア一族が所有する其の他の企業が中心に為って、常にADLを財政的に支えていたのである。1988年に至るまで、ムーアの子孫の一人で、ニューヨークの聖ヨハネ騎士団の様なフリーメーソン機関の活動の場所として、自分の教会を提供していた。
ウォール街やロンドンのシティの監督教会派フリーメーソン上層部の密かな支援を受け、又ADLの強力な保護を受けながら、20世紀の当初20年間に全国的なユダヤ犯罪シンジケートが出来上がって来た。1919年に禁酒法が出来てからと云うもの、彼等の事業は≠ノ全盛を極めるに至った。
●英国の支援と支配
アル・カポネ、チャールズ(ラッキー)・ルチアーノ、ジョニー・トリオと云った別名で呼ばれた有名な伊太利人の他に、禁酒法時代の組織犯罪はユダヤ・ギャングに依っても支配されていた。其の中で最も有名なのはメイヤー・ランスキーであった。ランスキー自身は、ロススタインという有名なニュヨークの繊維衣料商人の息子の支援を受けていた。アーノルド・ロススタインはニューヨークに登場した最初の犯罪首領であった。彼は1926年に暗殺されたが、其の時点でメイヤー・ランスキーは押しも押されもせぬシンジケート・首領の地位に就いた。ランスキーと彼の少年時代からの友人チャールズ・ルチアーノは殺人会社、即ち銃を使う名うての殺し屋集団を作り、其れによって北米の全ての都市に、密売酒と麻薬の流通根元を支配する全国的犯罪連合を作っていった。
ユダヤ人が不正な遣り方で銭を手にするのを取り締まろうとする動きがちょっとでもあれば、ADLは直ぐ様「反ユダヤ主義」と云う叫び声を挙げた。其れに依って、シンジケートは禁酒法時代の10年間に根を深く張り巡らし、何拾億jと云う不正資金を蓄えるに至った。メイヤー・ランスキーの他にも、大物ユダヤ悪漢が亜米利加と加奈陀に現れた。こうした悪漢の中でも特筆すべき存在が加奈陀に於けるサム・ブロンフマン率いるブロンフマン悪漢、クリーブランド、デトロイト、シカゴの五大湖周辺に根を張ったノーマン・パープルやモリス・ダリッツ、其れにマックス・フィッシャー率いるバーブル悪漢、ニュージャージーからボストンへの酒と麻薬の流通路を支配したジョセフ・レインフェルド・シンジケートと云った集団である。ランスキーと親しいジャミン(バックス)・シーゲルは、禁酒法時代にウィスキーの密売と麻薬で稼いだ資金を基にネバダに悪漢王国を築いた。組織犯罪全盛期に儲けた資金の其の他の部分は、ハリウッドの映画制作会社に注ぎ込まれた。
禁酒法時代にあっても、ユダヤ組織犯罪(シンジケート)は、英国に本拠を置くフリーメーソン一味との秘密の特別な関係があった御陰で繁栄した。加奈陀やカリブ海にある引渡地点までスコッチ・ウィスキーを自由に配送する事が出来る英国酒造評議会を支配していたのは、他ならぬウィストン・チャーチルその人であった。当時の警察の記録は、亜米利加の東海岸や五大湖の湖岸線を支配していた「ユダヤ海軍」について言及している。
そして1920年、アーノルド・ロススタインとメイヤー・ランスキーは、彼等の代理人ジェイコブ(ヤシャ)・カッツェンバーグを上海へ送り、中国製阿片の北米に於ける販売権を手に入れるべく交渉させた。カッツェンバーグが交渉した相手の英国の阿片王の中には、香港上海銀行とジャーディン・マゼソン・トレーディング・カンパニーのケズウィック卿が居た。ケズウィックは、スコティッシュ・ライトの団員だった。このスコティッシュ・ライトは、グランド・マスターのパーマストン卿の基、中国に於ける麻薬取引の権益を英国の手に入れるべく、19世紀後半に阿片戦争として知られる戦争を仕掛けた団体であった。
●財務長官モーゲンソー
ADLとブナイ・ブリスが支援するユダヤ犯罪組織(・シンジケート)は、禁酒法の御陰で強大な金融・政治権力の基盤を築く事が出来た。しかし、ユダヤ犯罪組織の名だたる人物の殆どは、北米全土の律儀な警察官の目には、やくざ、麻薬密売人、人殺し、強盗と云う事に為っていた。
1933年、ADLはこうした人間だとしか見られていなかったユダヤ悪漢達の復権を図るべく動き始めた。独逸でアドルフ・ヒトラーが政権の座につき、亜米利加国内でも親ヒトラー的な動きが台頭した事から、ADLと此れを支援するスコティッシュ・ライトは、こうしたギャングに復権の機会を与えようと行動し始めたのである。
ブナイ・ブリスは1933年の全国大会でADL支援を最優先扱いとする事とし、ADLの後援の基で反ナチ秘密情報収集活動に従事する部隊を創設する為に20万jを緊急醵出する事を決定した。
この動きは既に出来上がっていた英国の情報工作計画の拠点は、ニューヨークにある何社かの英国系投資会社の中に置かれていた。最初に拠点が設けられたのは、第一次世界大戦終結の事でウィリアム・ワイズマン卿が此れに当たった。英国の諜報活動は形式上はFBI及び米国財務省と連携して行われていた。其の米国財務省の秘密検察局と云うのは、大統領と政府高官を護衛する為に設立されたもので、亜米利加で最も古い民間情報取締機関であった。
フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領が任命した財務長官は、都合の良い事にブナイ・ブリス幹部であるヘンリー・モーゲンソー2世だった。彼の父ヘンリー・モーゲンソーはボルシェビキ革命当時のトルコ大使であり、その当時の秘密活動に最も活躍した人物である。
英国情報部の連絡役だったワイズマンが交替した時、ウィリアム・スティファソン卿は増大するナチの危険に対して英米の情報機関の協力体制を大幅に拡大しようとした。又モーゲンソーは、ADLを秘密スパイ活動の為に全面的に投入した。巧い具合に、ADLの情報部長モーリス・チェク(別名フランク・ピアス)が、亜米利加議会のマコーミック・ディックスタイン委員会の首席調査官だった。更にADLの主宰の諜報員であった弁護士ジョージ・ミンツァーは、1926年〜31年に掛けて、ニューヨーク南部地区の合衆国検察局の犯罪調査部長を務めていた。
●罰せられる事無き犯罪者達
ミンツァーは其の立場を活かし、メイヤー・ランスキーの殺人会社(マーダー・インク社)の情報網は米国財務省への情報提供者として密かに名前が挙げられており、其れ故訴追を受ける事が無い様に為っていたと云う。それが事実かどうかは立証されていないが、何れにしても彼が1929年以降一日として刑務所で過ごした事が無かったのは事実である。
ミンツァーの前任者でニューヨークの合衆国検察局の刑事部門を統括していたのは、ランスキーのもう一人の擁護者、モーゼズ・ポラコフであった。ポラコフは自分がユダヤ犯罪組織と繋がっている事を隠そうとしなかった。合衆国検察局を去って後、彼はランスキーとチャールズ・ルチアーノ両人の個人弁護士と為った。
1933年、ミンツァーはADLの為に働く秘密情報班を自分の法律事務所内に設けた。本当の者も単に推測に基づくものも含めて、米国に於ける親ナチ・情報部に関するファイルが、其処に保管された。こうしたファイルは海軍情報局(ONI)やFBI、国務省、其れにウィリアム・ステファンソン卿率いる英国特殊工作部(SOE)にも提供された。
第二次世界大戦終結の時点迄に、破壊活動に関与したとしてADLのファイルに記載された米国人の名前は、充分な証拠の無い者も含め3万2千人以上に及んだ。それら名指しされた人々の中には、進んでナチズムを支持した正真正銘の反逆者もいたが、その多くは唯ADL及びユダヤ犯罪組織と対立したと云うだけの人々であった。
●米ソ情報部への浸透
1940年7月、英国は既に欧州での戦争に巻き込まれて折、ルーズベルトは英国を守る事を決定していた。そう云う中で亜米利加と英国の情報部は、所謂「暗黒街工作(オペレーション・アンダーワールド)」を始めた。この「暗黒街工作」の目的は、シンリー上陸から開始する将来の欧州攻略に備え、シシリー・マフィアの中で此れはと云う人物を連合国側に取り込む事であった。
ADLが後押しをするムーア一族所有のナビスコ社の執行役員であるチャールズ・ラドクリフ・ハフェンデン海軍少佐は、海軍情報局Bー3調査部長に任命され、ニューヨークに於ける工作を命じられていた。ハフェンデンは直に、後にADL最高幹部となるニューヨークの地方検事補マーリ・ガーフェインの支持を取付けた。ガーフェインは、モーゼス・ボフコフとメイヤー・ランスキーを通じて、殺人会社のチャールズ・ルチアーノにシシリー侵攻計画への援助を約束させた。結果として、ランスキー、ルチアーノの両人は海軍情報局の情報提供員として働く事に為った。
ランスキーが、海軍情報局からシシリー・マフィアと接触し、侵攻計画に対する彼等の支援を確かなものにする様依頼された時、皮肉もランスキーは、1909年にニューヨーク市警察のペトロシーノ警部補を殺害したマフィアの首領、ドン・ヴィトー・カスチオ・フェロの息子の所に直接赴いた。
反ナチ運動は正義であったと云う事や、組織犯罪に関係する人物をナチ占領下の欧州への侵攻準備の為に使うのは戦争の為には仕方の無かった事だ、と云う事については異論はない(欧州侵攻の計画を立てた犯人は、≠ノブナイ・ブリス関係者が計画を立て、ソ連に唆し、そして独逸に攻めさせたと云った方が正しい。当時の独逸の経済状態は、壊滅な状態であった。人間の缶詰が出来る程悲惨だったと云われている、そして独逸にユダヤ民族を憎しみの心を持たせようとして計画を立てたのです。計画を立てた人こそ主犯なのです・ヒトラーは動かせれたと云うのが真相です!忍)。唯、防衛の為に設立された筈のADLや組織犯罪が、本来犯罪と戦うべきである連邦機関の承認と積極的援助を受け、隆盛を極める事が出来たと云うのは、何とも不幸な結末だった。
もう一つ戦争の結果として言えるのは、ADLのソ連情報部との繋がりが強まった異である。戦時下の米英ソ連の連合の下で、一般に知られている米国共産党の活動家達が亜米利加の情報工作員としての特別の地位を与えられ、戦略事務局(OSS)や戦時情報局(OWI)の奥深くに迄潜入していった。例えばADL職員サンフォード・グリフィスは、同時にADLー英国特殊工作部(SOE)ー海軍情報局(ONI)の中でも中心的な働きをしていたが、合衆国陸軍情報部の資料によるとボルチェビキの対米スパイ工作に関係する破壊分子とされている人物であった。
●米国への勢力拡大
終戦時、ADLは過去20年間で亜米利加の奥深く侵入を果たした実績をより一層活用する為、大掛かりな組織改革を行った。
ADL自らが口述に拠って作製した6巻からなる公式のADL史に依ると、1946年、ベンジャミン・R・エブスタインを始めとするADL職員が、ディック・ガッツスタット専務理事に組織拡大を図ると云う観点から組織の見直しを行う様提案した。その当時、ADLの常勤職員の数は50人にも満たなかった。エプスタイン、ルー・ノビンズ、マっクス・クロロフ、ハロルド・サックス、アーノルド・フォルスターと云った人が一つの研究を行っていたが、それは後にADL内で「審問」と云う名で知られる様になった物である。「審問」の直接の結果として、ADLは現在の部局からなる組織に再編された各部局は常勤専門職員を採用する様になり、その管理は当時既に社会復帰していた多くのユダヤ悪漢が支配する全米委員会という素人集団が行う事に為った。コロラド州デンバーのADL理事会の会長メルビン・シュレンジンジャー大佐の尽力に依り、ADLの地方事務所の数は1950年の12ヶ所から5年間で30ヶ所以上と云う様に倍以上になった。
ベンジャミン・エプスタイン自身は、1947年にADLの執行理事となり、1979年迄其の座にあったが、退任の後も新しく設立されたADL財団の副会長として半ばADL内に留まっていた。彼は1983年に没した。
第8章 ★ 上納か、「反ユダヤ」の烙印か
●最大の私設秘密警察
ブナイ「・ブリスの下部組織ADLは、今日亜米利加や西欧州、ラテン・亜米利加の全てのユダヤ人社会にその触手を伸ばしている。此の組織は多くの地方の弁護士会を支配する事に依って、又州及び連邦裁判所の判事の選任に影響力を行使する事に依って、亜米利加の司法機構の殆ど全てを密かに支配している。又ADLは大手銀行や金融機関の枢要な地位に工作員を送り込んでいる。更に米国上下両院の議員は、ADLの名誉副会長だ等と世間では取り沙汰されている。又、ADLは、数多くの亜米利加の警察幹部を、イスラエル政府及びユダヤ側議員(ロビー)の手先として抱き込む事に成功している。
ADLは又、20世紀に於ける最も強力なユダヤ悪漢、メイヤー・ランスキーが築き上げた組織犯罪帝国を受継いだ組織である。亜米利加の総人口約3億人の中でユダヤ人の数は僅か600万人でしかないにも関らず、若し本当の力を一つに纏めれば、驚くべき事にADLは亜米利加に於ける最大の、そして恐らく最強の私設秘密警察機関であると云う事になるだろう。人口比で見れば0.5%にしか過ぎないと云うのに。
ADLの活動は、亜米利加のユダヤ人社会を対象にした物に限る物では無い。前の所で詳しく述べた宮廷ユダヤ人(ホフユーデン)の伝統は今も生きている。ADLは強大な金融、政治勢力集団に仕え、リベラルな東部エスタブリッシュメントとは協調体制にあると云える。その為にユダヤ人社会やイスラエル国家の利益を犠牲にすると云った事が屡起こっている。
権力と影響力を追求する余り、歴史的に彼等はソビエト政府とその諜報組織であるKGBとは非常に密接な関係を維持して来ていると共に、常に意志の疎通を図っている。ADLの団員や支持者の多くが嘗って共産主義者又は社会主義者であった事が、此の協力関係の背景に為っている。当時の事ながらADLはイスラエルのモサドばかりか、米国中央情報局(CIA)や連邦捜査局(FBI)、其れに国の内外の諜報機関とも深く関り合っている。
亜米利加最古の社交団体の一つだと自称していながら、ADLは会員権を一般に開放していない。ADLの構成員と為るには、州、地方或は全国組織何れの場合でも、連盟首脳部の同意を必要としている。
ブナイ・ブリスが今日に至る迄公式のフリーメーソン支部(ロッジ)としての構成を守っているのに対し、ADLは実際には此れよりも遥かに秘密の組織であると云える。若しブナイ・ブリスがフリーメーソンの中のユダヤ人下部組織であるとすれば、ADLと其れに繋がるエルサレム財団は、ブナイ・ブリスの支部の中で最も秘密に包まれた組織と云う事になる。
1948年にイスラエルが建国された時、イスラエル政府は新しく作ったモサド(イスラエルの対外諜報機関)への密かな援助を期待した事もあってADLの活動の大幅拡大を申し入れた。其れをADLは1948年以来、組織を次の三つの段階に分けて活動している。
1、全米、地方或は地域委員として活動する一般団員
2、常勤専門スタッフとして雇用された職員
3、ADLとは表向き関係は無いがADLから給与を受けて働く秘密工作員
戦後のADLを構成するこの3つの範疇の中で、最も力を持っているのが委員を務める一般団員である。彼等が決定権を持っており、専門スタッフの為に活動方針を決定する。
●クラツニック、カンペルマン、ブロンフマン
彼等の殆ど全員が、極めて裕福であるか政治権力を持っている者達である。例えば、ADL全米委員会会長のフィリップ・クラツニックは、カーター政権当時の商務長官であった。更に全米委員会副会長のマックス・カンペルマンはカーターの民主党政権下で人権外交の大使を務め、レーガンの共和党政権下では軍縮交渉首席担当官の地位にあった。更に3人目としてADL全米委員会副会長の実業家、エドガー・ブロンフマンは亜米利加多国籍企業の中でも最大且つ最強の企業の一つであるヂュポン・コーポレーションの過半数を支配している大株主である。
ADLが全米委員会の会員に強力な政治・金融の大物達を揃えている事から、その専門スタッフは人に接触する場合でも、影響力を行使する場合でも、絶大な力を発揮する事が出来る。ADL全米委員の銀行や企業との繋がりの御陰で、ADLの資金調達活動はフォーチュン誌が調べた全米大手500社や大手商業銀行、更には全米全ての報道業界の取締役会の団員に迄行き及んでいる。
この様にADLは、銭で買う事も可能な政治警察力の提供と云う奉仕(サービス)を行うのと同時に、自分達に貢物を納めるか、其れとも「反ユダヤ主義」の烙印を押されたいのかと言って大手米国企業や銀行を強請っている。
例えば、1977年〜78年に掛けて、ADL副会長エドガー・プロンフマンは自分の会社であるシーグラム・コーポレーションのニューヨーク本社で、バートン・ジャスティン・フィンガー、ベン・エプスタインと云ったADL幹部と、亜米利加財界の政策決定機関であるビジネス円卓会議のリーダー達との間の秘密交渉を取り持った。
この会議に於いて、企業グループ側は結局の所、イスラエルに対するアラブ・ボイコットを暗黙の内に支持して来た行為を止める様にと云うADLの要求を受け入れざるを得なかった。この時、ビジネス円卓会議参加者を率いてその交渉に臨んだのはヂュポン・コーポレーション会長のアービンング・シャピロだったが、挙げ句の果てに、このシャピロは、ブロンフマンに依るヂュポン買収の際には、中心となってブロンフマンに便宜を図った。円卓会議の弁護士としてのこの困難な交渉に当たったのはC・ボイデン・グレイで、彼は現在ジョージ・ブッシュ大統領の主席法律顧問を務めている。
●ADL組織、其の表と裏
ADLの専門職員は、ニューヨーク市国連プラザ823番地に或る全国本部で仕事をしている。本部のある超高層オフィス・ビルは、マンハッタンのイースト・サイドの最も地価の高い所に建って折、国連本部とは通りを挟んで反対側にある。此のビルを所有しているのがADLの金融持株会社であるADL財団で、ビルの価値は2千万jを上回ると云う。この建物のテナントの中には、日米欧3極委員会(TC)の北米事務所がある。
専門職員は又、亜米利加全土に31の地方事務所を持っている。此等の事務所はニューヨーク、マイアミ、ロサンゼルス、サンフラシスコ、シカゴ、デトロイト、ボストン、フェニックスを始めとする全国主要都市の中心に置かれている。其の他にも、都市の大きさとは別に、強大なユダヤ人社会が在るものの一般的には余り重要で無い都市にもADLは事務所を持っている。フロリダ州のウェストパームビーチやニューヨーク州(ロングアイランド)のグレートネック、ニュージャージー州のリビングストンと云った都市が其れに当たる。これら3つの都市の郊外の地域には、非常に裕福なユダヤ人家族が集中して住んでいる。
海外に於いては、ADLは次の国と都市に事務所を持っている
・イスラエルのエルサレム
・仏蘭西のパリ
・伊太利のローマ
・加奈陀・オンタリオ州のダウンズビュー
ADLは英国に於いても、ユダヤ人問題研究所(IJA)を通して影響力を有している。IJAは元々ニューヨーク(後にロンドンに移転された)の世界ユダヤ人会議により設立された物である。最近、世界ユダヤ人会議の会長にADL最高幹部エドガー・ブロンフマンが選出された事に依って、ロンドンのユダヤ人問題研究所はADL及び世界ユダヤ人会議との共同で企画(プロジェクト)を組む事に為った。ユダヤ人研究問題研究所は現在ロンドンとADLのニューヨーク本部にその事務所を置いている。
1990年1月には、ソビエト大統領ミハイル・ゴルバチョフとエドガー・ブロンフマン及びADLに対する有力な資金提供者である穀物商デーン・アンドレアスとの間で一連の会談が行われ、会談後、年末迄にADLがモスクワ事務所を開設する事を計画していると発表された。モスクワ事務所を設ける目的は、表向きにはソビエト政府が国内の反ユダヤ運動を抑えるのを支援する為と云うものである。しかし、ADLとソビエトKGBとの長年に亙る共謀に詳しい亜米利加の上級情報職員に依れば、その本当の目的は米国内でのソ連の宣伝工作と諜報活動の為のパイプ役を果たす為のものだと云う事である。
ADL本部内の専門部署は次の5つの部に分かれる。
1、公民権
2、通信。ADLの出版物や映像資料等の制作を担当する部門
ADLや其れから派出した各種財団、其れに世間の目を誤魔化す為に
作られた表向きの組織は、映画製作の他にも多くの白書、会報、特別
報告書を刊行している。ADLは近年、ホロコーストや亜米利加の人
種差別主義集団、偏見等々を扱った中学、高校用社会科教科書シリー
ズを作り上げた。様々なADLの出版物の中には、月刊の「公報」、
不定期刊行物の「法執行公報」、公民権部の活動を紹介した「訴訟審
理要領」、更には「ラテンアメリカ公報」等と云った物が有る。
3、地域サービス
米国内31ヶ所にあるADL地方事務所を管轄する部
4、対外交流
世界の主な宗教全てとADLとの間の連絡を担当する部。この対外交
流部はバチカンとの関係もあってローマに事務所を置いている。
5、国際問題
此れはエルサレム・センターを含むADLの海外事務所を管轄してい
る。この部は又イスラエル政府、米国務省、CIA等と連携しながら
行動するADLの対外工作部でもある。
そう云う訳で、1990年2月、ソ連政府代表や露西亜のユダヤ人社会の指導者達と会談する為、ADLの一行をモスクワへ率いて云ったのは、この国際問題部担当理事のケネス・ヤコブソンであった。そしてADLがブッシュ政権と共同して反日運動を行うのを支持したのもこのヤコブソンである。「公民権」と云う偽りの名の下に、ADLは様々な表向きの顔を持って、自分達とは別行動を取っている振りをしている破壊分子の大規模な全米及び国際情報網を持っている。ADL発行の出版物を注意して読むと、米国内の暴力的右翼の過激派ばかりか左翼の過激派の背後にも、その密かな手が働いている事が屡分かる。表面上はこの両過激派は共にADLの不倶戴天の敵と云う事に為っている。
●演出無しでは起きない事
ADLは又アメリカの全国記者クラブに其の手先を送り込んでいる。何時でも直に記者を集めて、ADLが予め用意した記事を一面に書かせる事が出来る。
公民権部は米国内での諜報活動や秘密工作を担当する部署である。其の中には次の3つの課がある。
1、実情調査
2、法律
3、調査
これら3つの課の内二つは、CIAの情報工作部の構造に有る点では似ている。実情調査課が、国内や海外の秘密工作情報の収集と工作に備えての情報判断を行うのに対し、調査課は表に出ている情報収集と分析作業を行う。其れ故1988年にCIAの職員の一人がADLのワシントン事務所に招かれ、実情調査課と調査課の課員に対し背景説明を行ったと云うのも別に不思議な事ではない。
実情調査課は米国内の過激派の中にADLへの情報提供者、囮、潜入者をいつも送り込んでいる。過去30年間に起こった事件の記録を見ると、ADL実情調査課の工作員は殺人や暴動の煽動、爆破を始めとする重大な犯罪に係り合って来ている。
1960年代に起こった一つの事件では、ニューオーリンズのADL事務所が、ミシシッピーのメリディアンに住むADL職員の一人が暗殺されかかったかの様に演出するのに、白人の人種差別主義者KKKの会員を買収して其れを依頼している。地元の警察は其のADL職員の家の外で待ち伏せをし、銃撃戦の末、一人の女性が殺された。その女性はキャシー・アイワースと云う地元の学校教師であった。
1970年に起こったもう一つの事件では、ニュージャージーのトレントンのKKKに潜入していたADL諜報工作員が、全米有色人種地位向上協会(NAACP)なる黒人公民権団体の地方本部に爆弾を仕掛ける事を、地元のKKKの首領に依頼し、もう少しで成功する所だった。其れに当たったADLの工作員、ジェームズ・ローゼンバーグは、イスラエル国防軍(IDF)から準軍事的訓練を受けていた。
1980年半ば、もう一人のADLに雇われた工作員であるモルデカイ・レヴィが、ADLを始めとする団体からパレスチナ解放機構(PLO)或は第二次世界大戦時のナチ戦犯と関係があると言って非難されていた人達に対する一連の暗殺計画に関与していた。アレックス・オデーとツチェリム・スーブゾコフ殺害に使われた強力な高性能のパイプ爆弾を仕掛けた事に就いて、レヴィは直接の罪を問われはしなかったものの、FBIと警察はレヴィーがこの二人の暗殺に就いて中心的役割を果たしたと考えた。暗殺其れ自体は、少なくとも一人のADL最高幹部の協力なテコ入れにより創設されたユダヤ防衛連盟(JDL)と関係の有る訓練された暗殺者に依って実行された。
●労働者組織への潜入
ADLが人材を集めたり、政党や政治団体の間に幅広く工作員を配置したりするに当たっては其の実情調査部長アーウィン・スウォールが、社会主義インターナショナルや亜米利加の労働組合を支配している亜米利加労働総同盟産別会議(AFL−CIO)と密接な関係を持って居る事が、大いに役立っている。
スウォールは、英国のオックスフォード大学のラスキン労働カレッジで、労働者側に立って反政府運動を行う訓練を受けた。この労働組合は、米国共産党党首であったジェイ・ラブストンを始め、ユダヤ人共産主義者や元共産主義者であった人達が牛耳っている。ラブストンは1930年代後半にスターリンと仲違いをし、その後は矢張り以前の亜米利加の共産主義者の一人だったアービング・ブラウンと共にCIAの後ろ盾によって労働界の一人と為った。
オックスフォードでの訓練を受けた後、スウォールは米国社会党党首ノーマン・トーマスの個人秘書と為った。1950年代末、スウォールはユダヤ人指導者達に依る政治活動団体で、その狙いとする所は亜米利加の労働運動を親イスラエル勢力側に留めておく事だった。
彼等の活動は、イスラエル国家の為の工作と云う露骨な形を取る事も屡起こった。
●全米自動車労組も傘下に
1968年、スウォールはADLの実情調査部を引き受け、今日までその地位に留まっている。しかし、今日に至る迄彼は社会主義インターナショナルの現役団員でもある。
1975年、著名なPLO幹部イッサム・サルタウィが、社会主義インターナショナルの年次総会出席の為に訪れていたポルトガルのリスボンのホテルのロビーで暗殺された時、スウォールはその場に居合わせていた。彼は、社会主義インターナショナル総会で起こった出来事に関し、ADL全米委員会宛に詳細な秘密メモを送ったが、その中でサルタウィの殺害に依って、世界の社会主義者の支援を取り付け様としていたPLOが強烈な打撃を受ける事、又この事件はユダヤ人団体やイスラエルの勝利であると云った事を記していた。
スウォールは其の他にも社会主義団体と連絡を持っており、産業民主連盟(LID)の理事会や亜米利加合衆国社会民主党の党員でもあった。この産業民主連盟は全米自動車労組(UAW)やAFLーCIO傘下の其の他の労働組合から多額の資金援助を受けていた。
此の様にスウォールやADLは、他のユダヤ人団体が通常関係する事の無い様な所から資金を得ていた。
例えば、全米自動車労組は、情報収集や敵と見なす相手に対抗策を講ずる為に正体を伏せた表向きの組織を持っている。こうした組織にホームフロント及びグループ・リサーチ社と云う二つの組織があり、この二つはスウォール率いるADLの実情調査部と共同で業務を進めている。
この実情調査部が米国内や世界的なテロリズム、諜報工作、其れに他の犯罪に関係している事に就いては、此処で取り上げた事件を含め、後の章で詳しく述べる事にする。此処では、ADLの活発な活動の背景にはこうした能力や他の組織との相互関係が存在する事を指摘するに留めておく。
●組織変更と活動の拡大
ADLが現在の組織に成ったのは、第二次世界大戦直後に、後の全米委員会会長ベンジャミン・エプスタインの下で行われた念入りな検討の結果に因る物であった。ADLが作成した6巻から成る口述ADL史『一日にして成らず』に依ると、エプスタインはADL本部職員(スタッフ)から成る班(チーム)を指揮し、一年近くを掛けて全ての地方事務所を訪問させた。そしてADLに関係する部外者、ADLの職員全員に悉く面談(インタヴュー)をさせる事に依って、何の様にすればADLの活動を飛躍的に向上させる事が出来るかを調査した。
其の結果、基本的勧告として二つの点が指摘された。エプスタインは昭和23(1948)年に全米委員会理事と為ったが、其の後20年以上に亙って其の役職に留まり、其の勧告の実施状況を見守って来た。
勧告の第一点は、一般会員から為る全米委員会を大幅に拡大し、委員会の主要構成員に政策決定の責任を与えてADL全体の活動を管理させると云う物であった。此の意味する所は、政界、財界、労働界、産業界、報道関係(マスコミ)、軍・情報関係高官の中から最も優秀なユダヤ人を選抜し、そうした人物にADLの運営を直接任せると云うものである。
勧告の第二点は、人数に関わらずユダヤ人社会が存在する米国全土の主たる都市全てに地方支部を設置すると云う事である。ニューヨークに本拠を置く組織と云う観点だけから見る限りADLを効果的に動かす事は出来ないとエプスタインは説いた。
こうした組織変更を行った結果、ADLの活動は飛躍的に拡大した。1930年代の大恐慌時、ADLはアメリカ・ユダヤ委員会(AJC)との間で、共同して募金を集める為に合同ユダヤ募金を設ける事で合意した。此の合意は、昭和35(1960)年代初め迄続いた。其の頃になるとADLは、有力な人物を揃える事で米国のユダヤ人社会に或る程度の実力を行使出来る様に成っており、又何時でも自らの手で募金調達が可能程に迄なっていた。
●何故非課税法人なのか
ADLの資料に依ると、今日彼等は年平均2千5百万ドルの資金を集めている。しかし此の数字は多くの意味に於いて極めて欺瞞に満ちたものである。其の数字はADLの実際収入のほんの一部を表しているものにしか過ぎない。
何よりも第一に、ADLは合衆国税法第501条C3項の規定に基づく非課税法人であある。営利法人が毎年莫大な金額を連邦と州政府に税金として納めているに関わらず、ADLは一銭も税金を支払っていない。此の非課税法人としての地位を維持する為には、一切政治活動をしてはいけないし、其の他の法律の要件に厳格に従う義務もある。だがADLは常に此等の規定に違反している(此の著者は神の言葉を預かると云う意味を理解していない。神は軍隊最高責任者としての言葉であり、宇宙の政治的最高責任者の言葉である。此の規制は、神の言葉を伝える事を禁止し、悪魔の言葉を従う様に行動する事である。正しい神の下に集まる事が大切である!忍)。しかしニューヨーク市にある国税庁(IRS)のブルックリン事務所の免税事務担当官は、ADLが事にあろうに法律で禁じられている政治活動[神(エホバ、今現在はミカエル大王様)は、法廷の中で一番最高権威が或る人であり、法の中では、神の法(法華經)が一番最高権威がある。今人類は、神の法に対する責任を放棄している!忍]を行っているとの批判が数多く寄せられているにも関わらず、長年に亙ってADLを弁護して来た。
第二に、ADLは昭和53(1978)年以来、資金源を分散する為にADL財団と云う別組織を持っている。ADL財団は更にADLの活動資金用の裏金の資金偽装(洗浄)行為をも行っている。
第三に、ADLはニューヨーク市ブルックリンのIRSに登録してある全国組織以外にも、国内の殆ど全ての州に組織を有している。此等州単位のADL支部にも、各々理事や、受託者、職員が存在し、全国組織と並行して各々が別に資金調達活動を行っている。
ADL全米委員会の構成員や、ADLを支援している米国とカナダの銀行界、産業界の選民者(エリート)達の中には、自分で非課税財団や公益法人を作ってADLやADL財団と同じ様に免税措置を受けている者が多い。
例えば、ADL全米委員会エドガー・ブルンフマンの父親の名に因んで名付けられたサム・ブロンフマン財団は、ADLの為に何十万ドルもの資金を提供しているだけでなく、ADLと一緒に為って行うADL全米委員メルヴィン・スウィッグは、スウィッグ・ファミリー財団を所有している。此の財団は、アメリカン・ファミリー財団に多大の出資をしているが、此のアメリカン・ファミリー財団はADLと非常に密接な連携を保ちながら心操作(マインド・コントロール、洗脳)実験に関わっている唯物論的(進歩的)精神科医から構成されている(此のアメリカン・ファミリー財団に基づいている保険がアメリカン・ファミリー保険である!忍)。
●常設委員会の構成員達
ADLの現行の会則に依れば、ADLの運営は151名から成る現役会員と同数の名誉会員で構成される全米委員会が担当する事に為っている。名誉会員とは、前委員であって半ば引退してはいるが現役の様な役割を果たしている人か、或いは現在政府の役職に就いている為ADLの活動に正式には参画出来ない委員の人の何れかである。
ブナイ・ブリス・インターナショナル及びブナイ・ブリスの婦人部ハダサーの最高幹部は、自動的にADL全米委員会の構成員と成る。又彼等は、ADLの日常の政策決定を預かる全米委員から構成される全米執行委員会(NEC)の構成員にも自動的に就任する。ADLの一般会員の内で最も有力な人物を一人挙げるとすれば全米委員会会長であり、組織の上で2番目に有力な人物を挙げるとすれば、全米執行委員会会長である。
全米委員会の中には、ADLに雇用された専門職員から成る5つの部に該当する常設委員会と云う物がある。常設委員会の構成員は、ADLの職員から成る各部の長から、実績や目標等詳細を記した年次報告を年に二度受ける。実際には、常設委員会の幹部達は、彼等が担当する部の職員とは常時接触を保っている。常設委員会の構成員は、全米執行委員会の構成員と共にADLで活躍している人達の核をなしている。
誰が斯うした委員会の構成員に成っているのだろうか。
ADL自らが発行している「目的と計画」直近版に拠ると現在の全米委員会会長はカリフォルニア州ビバリーヒルズの弁護士バートン・S・レビンソンである。全米執行委員会会長はニューヨーク州ニューヨーク市のラビ、ロナルド・B・ソーベルである。ラビ・ソーベルは全米いや恐らく全世界で最も有力且つ裕福なユダヤ教のシナゴーグであるテンプル・エマヌエルのチーフ・ラビである。
●先端金融商品の売込み
ADL名誉会長の一人であるADLの元全米委員会会長だった人物が、ニューヨークの弁護士ケネス・ビアルキンである。ビアルキンは、今日の米国に於ける最も有力且つ恐らく最も腐敗した弁護士の一人である。ビアルキンは逃亡中の犯罪者、ローバート・ヴェスコの弁護に当たっていたが、彼自身が昭和45〜55年代(1970年代)初めにスイスに本拠を置くミューチュアル・ファンド(会社型オープンエンド投資信託)から1億ドルをヴェスコがまんまと盗み取った事件の首謀者として、昭和55(1980)年にニューヨークの民事訴訟に於いて有罪の判決を受けている。スイスと米国の警察は、此の1億ドルの多くは曾っての組織犯罪の首魁、メイヤー・ランスキーが犯罪に依って手にした利益だと考えている。
更にイラン・コントら事件の真っ最中に、サウジアラビアの石油長者アドナン・カショギの代理人として、ビアルキンはオリバー・ノースやリチャード・セコード及びCIAの間の、秘密の非合法な取引を悉く行った。
今日、ビアルキンは世界最大の弁護士事務所スカデン・アープスの片腕(上席パートナー)である。此の弁護士事務所が、「ジャンク・ボンド」や「レバレッジト・バイアウト」を考え出し、其れに依って米国の株式市場や貯蓄貸付機関(S&L)業界に深く係わり合っている。斯う云う方法を使って、大量融資を実施して相手に付け込む様な事を行った狙いと云うのは、主として麻薬取引で得た不正資金を、米国経済に還流させる事にあった。ビアルキンと彼のパートナー達が努力した結果、米国の金融資産と企業資産の大部分が、国際組織犯罪の手先の人々の手に落ちた(更に、日本経済もかなり侵食されている!忍)。
●隠れ蓑としての実態
ADL全米委員会の名誉副会長に名を連ねる人々を見ていると、ユダヤ悪漢(ギャング)と彼等の手先となって働いている政治家からなる犯罪者一覧表(リスト)を眺めている気分がする。其の中には次の様な人々がいる。
☆レオナード・アベス
フロリダ州マイアミ在住。シティ・ナショナルバンク・オブ・マイアミの会長。同銀行は、長年南米コカイン・カルテルと関係しており、米国情報関係者内の裏切り者とも繋がっている。同行の幹部職員であるアルバート・デュクエは、麻薬資金洗浄行為の罪で現在連邦刑務所に服役中である。
もう一人の幹部職員、ドナルド・ビーズリーはマイアミにある同行とオーストラリアに本店のあるヌーゲン・ハンド・バンクとの間を行き来している。ヌーゲン・ハンド・バンクと云う銀行は、元業務副本部長セオドア・G・シャックリーを始めとする腐敗したCIA職員達の手で作られたものである。同銀行は、ベトナム戦争が終結に向かいつつあった時期、資金移転の秘密経路(ルート)としてCIAの為に働く傍ら、国際的なマリファナやヘロイン密輸、其れに其処から得た利益の偽装(洗浄)行為に関係していた。
☆ルディー・ボシュビッツ上院議員
ミネソタ州選出の共和党議員。彼は所謂ADLの「ミネアポリス・マフィア」の一員である。此のマフィアなる名称は、ミネアポリスに本社を置く中西部の穀物カルテルの利益の為に働く政治家で、昔も今もADLの最高幹部として力を振っている人々の一派を指す。米国の中心部を成す地域の脱工業化を図ろうとする穀物カルテルの計画に歩調を合わせる形で、ボシュビッツは米上院の中で指導的立場にある人物の一人である。
☆エドガー・ブロンフマン
米国の北東部に於けるADLの資金調達の責任者であると共に、世界ユダヤ人会議の会長。彼は個人的な力で、此の国際的ユダヤ人組織とADLとの間に緊密な関係を築こうとしている。
ブロンフマンは、禁酒法時代のカナダで酒の密売を始めあらゆる犯罪に関係する頭目だった父親の実績を基に築き上げられた米加両国に跨る金融帝国の筆頭に立つ人物である。彼は又、共産主義の国々に対するADLの最も信頼出来る裏経路(ルート)としての役割も果たして来た。
平成元(1989)年、東独逸の共産政権崩壊のほんの2、3週間前、ブロンフマンは同国から最高市民栄誉賞を受けている。此れは今では退陣した共産主義者の親玉、エーリッヒ・ホーネッカーから個人的に贈られた賞である。ブロンフマンの東独逸共産政権との結び付きは、最初は宗教問題大臣クラウス・ギジを通じて培われたものであった。此のクラウス・ギジの息子グレゴールは現在ホーネッカーの後継者になっている(真の意味で、共産主義が崩壊していない事を云っている!忍)。
ブロンフマンは、陰の部分に於いても東独上層部と繋がっていた。ホーネッカーが倒れる迄、ブロンフマンは東独逸の秘密警察、国家保安部の長官であるマルクス・ウルフ将軍と関係があった。
ウルフは共産主義者の家庭に育った独逸系ユダヤ人で、第二次大戦中は家族と共にモスクワに居たが、戦後ソ連の工作員として独逸へ帰って来た。彼は32歳で国家保安部長官と為った。ベルリンの壁崩壊と東ベルリンの共産主義政権崩壊の後、5千人を越える熟練工作員やテロリストを抱えていると云われたウルフの組織は解体された。ウルフが抱えていた工作員の多くは今、イスラエル情報部や、解放された東欧全域に組織網を持つエドガー・ブロンフマン率いる世界ユダヤ人会議との連携の下で活動していると思われる。
ブロンフマンは、対陣した東独共産政権の首領、ホーネッカーと良好な関係にあった事から、ソ連のゴルバチョフ大統領とも親密な関係を持っている筈である。此の個人的結び付きの存在は、1989年1月に、ニューヨークにあるブロンフマンのペントハウスで行われた秘密の会合の席上、ロナルド・エヴァンスとロバート・ノヴァクなる二人の組織犯罪コラムニストの手によって明かにされた。
彼等は在露ユダヤ人のイスラエル移住の取引条件として米国の穀物を使う案が出された事を報道した。此の会合にはやはりADLの大物援助者(スポンサー)の一人である穀物王、デーン・アンドレアスも出席していた。此の取引はブロンフマンが全て取り仕切り完全に履行する事をソ連側に納得させようとするものだった。
☆マックス・カンベルマン
政治力あるワシントンの弁護士で、且つ政府の職員。ワシントンにある有力法律事務所、フリッド・フランク・シュライヴァー・ハリス・アンド・カンペルマンの片腕(上席パートナー)で、上院議員で副大統領にも為ったヒューバート・ハンフリーの元補佐官でもあった。カンペルマンは、ジョージ・ブッシュが大統領に為ったのを機に私人に戻るまで、カーター、レーガン両政権に於いて一連の最高の地位を歴任した。
☆フィリップ・クラツニック
ブナイ・ブリスの元国際部長で、カーター大統領時代の商務長官。ADL史『一日にしてならず』に依れば、クラツニックがカーター大統領の下で其の地位を得たのは、当時の民主党の全国委員長ロバート・シュトラウスがADL幹部の所に赴き、其の地位に相応しい「名望のあるユダヤ人ビジネスマン」の推挙を依頼した結果である。クラツニックの経歴を見ると非常に如何わしい銀行業務に幾つか関係していた事が分かる。彼の銀行事業の一つ、アメリカン・バンク・アンド・トラスト・カンパニーは、イスラエル・モサドの為に資金偽装(資金洗浄)行為を働いていた事が判明している。
☆ハワード・メッツェンバウム
オハイオ州選出の現職民主党上院議員。彼は同じオハイオ仲間のマーヴィン・ワーナーやカール・リンドナーと一緒に為って、中西部に於ける組織犯罪行為に関与して来た。ジミー・カーター時代のスイス大使であったワーナは、南米の麻薬王全員を巻き込んだ一連の資金偽装(洗浄)事件に関係して来た。ワーナー自身は、中西部に於けるADLの活動を協力に支援している。
以上に挙げた人達の他に、米国下院の現職議員、元議員各々一人も又¥、ADLの名誉副会長に名を連ねている。イリノイ州選出の民主党下院議員のシドニー・R・イェーツと、コネチカット州選出の元民主党下院議員アブラハム・リビコフである。
セオドア・H・シルバートも名誉副会長の地位にあり、過去10数年に亙ってADLの拡大に極めて特異な役割を果たして来た。シルバートはニューヨークに本店を置く銀行スターリング・ナショナル」・バンク・コーポレーションの頭取であり、最高経営責任者である。公表されている資料に依ると、此の銀行は元々メイヤー・ランスキーの率いるシンジケートに依って設立された。シルバートは、1930年代後半から此の銀行を経営して来た。昭和53(1978)年に一時的に金融情勢が悪化した時に、ADLは其の銀行機能の全てをスターリング・ナショナルに移した。此の事はADL財団の創設と時を同じくしている。組織犯罪研究の専門家達は、此等二つの事が同時に行われたのは、ADLの組織の資金を、メイヤー・ランスキーの手で何十年以上に築き上げられて来た国際的資金偽装(洗浄)組織の手に移し換える為のものだったと考えている。
複雑な国際金融取引に於いてADLに遣り方(ノウハウ)を提供しているのは、現在の全米執行委員会副会長のメイヤー・アイゼンバーグである。名声あるワシントンの弁護士であるアイゼンバーグは、証券取引の監督を任務とする連邦機関である証券取引委員会(SEC)の顧問を十年余り務めている。1970年代初め、全米有数の証券関係専門の弁護士に成る為に証券取引委員会を退職した時点では、アイゼンバーグはウィリアム・ケイシーの下で証券取引委員会主席法律顧問補佐の地位にあった。ケイシーは後にレーガン大統領の下でCIA長官と為った。
ADLの全米委員の名簿には、米国全州から選ばれた州や地元地域の弁護士、銀行家、政治家、新聞編集者や発行人等300人以上の名前がある。其の他にADL地方支部の州の理事、評議員及び委員として数百人の名前が並んでいる。
此等の人々は何れもADLから報酬を受けていないにも関わらず、一丸となって組織の屋台骨を支えている。彼等はADLの全国組織の職員(スタッフ)と米国全域にあって各々の地域の世論や政策に大きな影響力を持つ実力者で、且つ最も腐敗した人達との間を執り持つ立場にある。ADLに資金や各種の恩恵を提供する外部の大口献金者の名を見れば、斯うした人達の影響力が良く理解出来る。
●搾り取られる米国企業
殆ど毎日の様に、ADLが米国の企業から資金を搾り取る事を目的とした何等かの活動の後援者(スポンサー)と為っていると考えて間違いは無い。米国の企業から資金を搾取する能力たるや、ADLが大いに自慢する所の程の物である。『ADLの友』と題するADLが発行する特別会報は、専らADLに対する大口資金提供者を対象としたものである。ADLが毎年発行する資金集めの為の小冊子(パンフレット)の中では、「深い感謝を持って」と云う見出しの下に彼等を支援する後援者(パトロン)の企業名を列挙している。最近発行された小冊子の中には。献金を行った企業の著名な最高経営責任者270人の名前が挙げられている。
其処に挙げられた名士達の一覧表の中には、長きに亙ってADL活動の母体となって来たハリウッド映画産業の関係者の名前が多く見られる。此のADLとハリウッドの関係は、映画産業が禁酒法時代に組織犯罪で得られた資金により築かれたと云う事実を示すものである。そうした資金はハリウッドの大手映画会社や、初期の頃のラスペガスや賭博カジノに注ぎ込まれたのである。
しかしADLに入る資金の多くは、左の図が示すように、米国の産業界並びに銀行界からのものである。ADLの出版物は、ADLに対する資金提供者である企業及び投資の名を挙げているが、以下は其の一部である。
ADL指令部構造
★全米委員会
名誉会長/副会長
ケネス・ビアルキン
エドガー・ブロンフマン
フィリップ・クラツニック
ハワード・メッツェンバウム上院議員(民主党、オハイオ州)
ルディー・ボシュビッツ上院議員(共和党、ミネソタ州)
マックス・カンペルマン
シドニー・R・ヤイツ下院議員(民主党、イリノイ州)
委員名(メンバー)
メイヤー・アイゼンバーグ(全国理事会、SRC)
ミュラージャヌス(ヴァージニア州、リッチモンド)
アービング・シャピロ
バートン・ジョセフ(ミネアポリス穀物カルテル)
アーノルド・フォルスター
ジャスティン・フィンガー
セオドア・シルバート(ステアリング・ナショナル・バンク)
★ADL職員
アーウィン・スウォール
アーノルド・フォルスター
地方事務所31ヶ所
海外事務所4ヶ所
●ADLの献金者一覧表
ロバート・O・アンダーソン(アトランティック・リッチフィールド会社)
デーン・アンドレアス(アーチャー・ダニエルズ・ミッドランド会社)
トーマス・エイヤーズ(コモンウェルス・エジソン・コーポレーション)
ロバート・A・ベック(ブルーデンシャル・ライフ・インシュアランス会社、プルーデンシャール生命)
ロジャー・E・バーク(メリル・リンチ・アンド会社)
フランク・ボーマン(イースタン航空)
エドガー・ブロンフマン(シーグラムズコーポレーション)
チャールズ・L・ブラウン(アメリカン電信電話会社ーATT)
ジェームズ・E・バーク(ジョンソン・アンド・ジョンソン)
ウィラード・C・バッチャー(チェース・マンハッタン銀行)
オーエン・バトラー(P&G、プロクター・アンド・ギャンブル・コーポレーション)
フィリップ・コールドウェル(フォード自動車)
J・ジェフリー・キャンベル(バーガー・キング・コーポレーション)
アルバート・V・ケイシー(アメリカン航空)
アルバー・チャップマン(マイアミ・ヘラルド出版)
ピーター・コーエン(シェアソン・アメリカン・エキスプレス・インコーポレイテッド)リチャード・P・クーリー(ウェールズ・ファーゴ銀行)
レスター・クラウン(マテリアル・サービス・コーポレーション)
ジョセフ・クルマン3世(フィリップ・モリス・インコーポレイテッド)
マービン・デイビス(20世紀フォックス映画)
ルイス・ディーゲン(ベアトリス・フーズ・インコーポレイテッド
エドワード・アイホーン(シカゴ・ホワイト・ソックス)
コーイ・イークランド(エクイタブル生命)
シェルダン・ファントル(ピープルズ・ドラッグ・ストアーズ)
ジェイムズ・ファーガソン(ファースト・ナショナル・ステイト・バンク・オブ・ニュージャージー)
ジョン・フィラー(エトナ保険)
ジェームズ・フィンリー(J・P・スティーブンス会社)
ウィリアム・フィッシュマン(ARA・サービシーズ・インコーポレイテッド)
ヘンリー・フォード2世(フォード自動車)
デービッド・ギャレット(デルタ航空)
リチャード・ゲルプ(元米国国務省アメリカ情報局長官)
ハロルド・ジェニーン(ITT)
レオナード・ゴールデンソン(ABC)
アルバート・ゴードン(キダー・ビーボディー会社)
ハリー・J・グレイ(ユナイテッド・テクノロジーズ・コーポレーション)
ジョン・ガットフロインド(ソロモン・ブラザーズ)
ジョン・W・ヘイノン・ジュニア(バンカーズ・トラスト・カンパニー)
ランドルフ・A・ハースト(ハースト・コーポレーション)
サムエル・ヒギンボット(ロールス・ロイス・インコーポレイテッド)
アラン・J・ハーシュフィールド(20世紀フォックス映画)
オビタ・カルプ・ホビー(ヒューストン・ポスト・カンパニー)
ジェリー・ホーマー(バーガー・キング・コーポレーション)
アモリー・ホートン・ジュニアー(コーニング・グラス・ワークス)
ホレース・C・ジョーンズ(バーリントン・インダストリーズ)
スティーブン・B・ケイ(ゴールドマン・サックス株式会社)
ドナルド・R・ケオー(コカコーラ株式会社)
ロバート・カービー(ウェスティングハウス会社)
レイン・カークランド(米国労働総同盟産別会議)
ジョン・W・クルージ(メトロメディア・インコーポレイテッド)
デービッド・ロイド・クリーガー(GEICO会社)
ラルフ・ラザラス(フェデレーテッド百貨店)
サイ・レスリー(MGM/US・ホーム・エンタテインメント・グループ)
デービッド・S・ルイス(ゼネラル・ダイナミックス・コーポレーション)
ジョン・L・ローブ・ジュニア(シェアソン・ローズ・インコーポレイテッド)
ジェームズ・マクファーランド(ゼネラル・ミルズ・インコーポレイテッド)
コーネル・メイヤー(カイザー・アルミニウム・アンド・ケミカル・コーポレーション)J・ウィラード・マリオット(マリオット・コーポレーション)
ルベン・メトラー(TRWインコーポレイテッド)
ジョン・A・メイヤーズ(タイム・インコーポレイテッド)
ポール・L・ミラー(ファースト・ボストン・コーポレーション)
ドクター・ゴードン・E・ムーア(インテル・コーポレーション)
ドクター・フランクリン・マーフィー(ザ・タイムズ・ミラー・コーポレーション)
ジョン・D・オング(ザ・B・F・グッドリッチ・カンパニー)
ウィリアム・S・ペイリー(CBSインコーポレイテッド)
アンドラル・E・ピアソン(ペプシコ)
ハリス・パールスタイン(パプスト・ブリューイング・カンパニー)
レスター・ポーラック(ユナイテッド・ブランズ)
ビクター・ポスナー(シャロン・スティール・コーポレーション)
エイブラム・ブリッツカー(ハイアット・コーポレーション)
リーランド・S・プラッシア(バンカメリカ・コーポレーション)
ジョン・V・ローチ(タンディー・コーポレーション)
ジェイムズ・D・ロビンソン(アメックス)
デービッド・M・ローデリック(U.S.スティール・コーポレーション)
フランク・ローゼンフェルト(メトロ・ゴールドウィン・メイヤー・インコーポレイテッド)
スティーブン・J・ロス(ワーナー・コミュニケイションズ・インコーポレイテッド)
ロバート・シェイベル(ナビスコ・ブランズ)
セオドア・シルバート(スターリング・ナショナル・バンク・アンド・トラスト)
ウィリアム・スミスバーグ(ザ・クエーカー・オーツ・カンパニー)
ジョージ・スティンソン(ナショナル・スティール・コーポレーション)
アーサー・オークス・スーズバーガー(ニューヨーク・タイムズ)
S・P・トーマス(シアーズ・ローバック会社)
ジェイムズ・タウィー(オーリン・コーポレーション)
ロバート・V・バン・フォッソン(ミューチュアル・ベネフィット・ライフ・インシュアランス)
アイラ・ウォールドバウム(ワルドバウム・インコーポレイテッド)
ゴードン・T・ウォーレス(アービング・トラスト・カンパニー)
グレン・E・ワッツ(コミュニケーション・ワーカーズ・オブ・アメリカ)
サンフォード・ワイル(シェアソン・アメリカン・エクスプレス・インコーポレイテッド)
ジョン・E・ウェールチ(GE)
ジョン・E・ホワイトヘッド(ゴールドマン・サークス会社)